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2.学生時代-1
しおりを挟む蛍光灯の白さと、酒とアルコールのすすけた匂い。
学生街のチェーン居酒屋の片隅で、大学一年生の渡瀬は周囲の話を聞いている振りをしながら、適当な相槌を繰り返していた。
入学した大学はそこそこの偏差値で、とは言えあくまでそこそこ、だったからか、いかにも遊んでますという学生が少なくなかった。キャンパスを歩けば、そこかしこから新歓と称した飲み会の誘いがかかった。
当時の渡瀬は、はっきりと言って健全な精神状態ではなかった。より軽薄で、刹那的なものに惹かれていた。何かを深く追い求めることから、ひたすら目を背けたかったのだ。
だから、薄っぺらい会話だけで済む、こうした飲み会の場に居心地の良さを感じていた。
その日は、趣味サークルという、まさにざっくりとした内容の新歓に三十人ほどの男女が参加していた。
(……適当すぎるだろ)
形だけは笑顔を保ちながら、改めてその有様をつっこむ。そして、自分自身もその一員だと思うと、どこか癒された。
「隣りいい?向こう騒がしくて」
ふと、頭上から男の声がした。振り向くと、長身の人物がグラスを片手に立っていた。
騒がしさから逃げたという言葉に違和感を覚えるほど、パッと見派手な印象を受ける人物だった。地毛と分かるような自然な茶髪と、整った鼻筋がそうさせているのかもしれない。
「良いですよ」
「俺も一年。文学部の芦原」
その風貌からてっきり上級生かと思い、返した言葉をあっさり否定されて、渡瀬は眉をひそめた。
(何だよ、敬語使って損した)
「敬語、損したなって顔してる」
「……」
最悪だった。薄っぺらい関係だけを求めて来た場で、心の声を読まれるなんて。まるで期待とは正反対の出来事だった。
苛立ちを当て付けるかのように、タバコに火をつけた。その様子を見て、彼、芦原は首を傾げた。
「あれ、浪人生?」
「現役だけど……何、真面目くんなの」
今度は嫌悪感を込めて口に出した。未成年が堂々と酒を飲むような場に来て、今更何を言うんだろうか。煙を吐き出しながら、横目で彼を睨んだ。
「別にそういうわけじゃない」
しかし、芦原は怯むことなくそう返してから、手元のグラスをあおった。飲み込まれていくビールを見て、言葉に偽りはないらしいことを知った。
そんな渡瀬の視線に気付いたのだろう。彼はグラスを傾けて言った。
「ちなみにねコレ、ジンジャーエール」
「嘘つけ」
呆れて、それから笑った。
不意をつかれたその小さな笑いは、もしかしたら高校三年のあの日以降、初めて心から出たものだったかもしれない。
渡瀬は、高校まで陸上競技に取り組んでいた。
中でも専門は中距離で、駆け引きとスピード感を兼ね備えるスリルが魅力だと感じていた。
元々凝り性な所があった自分とは、競技の相性が良かったのかもしれない。いつしかインターハイ出場が狙える位置まで辿り着いていた。
別に、将来陸上で仕事をする気はなかった。それでも、何かを突き詰める心地よさを、最後まで味わいたかった。
それなのに、インターハイ予選決勝、スタート直前に渡瀬を過呼吸の発作が襲った。
幼い頃から喘息気味な体質で、それが治ったかと思えば、気管支の異常は形を変えて付き纏ってきた。だから、気をつけてはいた。
しかし、どうにもならなかった。
青空の下聞いた、空しいスタートの合図。渡瀬は苦しい呼吸の中、自身が受けるはずだった歓声を聞いた。
悪夢だった。最後の最後に、自分の手で終わらせることが出来なかったのだ。
それからは、何もかもがどうでも良くなった。受験も、それまでの功績に配慮して学校側が用意した推薦にさっさと決めた。
短かった黒髪はだいぶ伸びたし、ピアスも開けた。反乱を起こした気管支に復讐するかのように、大人に隠れてタバコも吸い始めた。
そのような渡瀬にとって、芦原による不意打ちは、何とも奇妙な感情を抱くものだった。まるで、目を背けていた世界から、呼び戻されたかのような。
「名前教えてよ」
「渡瀬」
恐らく、酔いだけによるものではない浮遊感の中答えた。
「下は?俺はケンゴ」
「……ミキ」
一瞬、躊躇いながら続ける。女性らしいと揶揄されることもなくはないその名に、引ける思いがあったのだ。だから、入学してからは誰にも、その名を伝えていなかった。
ふうん、と頷いた芦原がビールを一口飲んだ。
「にがい」
わざとらしくしかめられた顔に、渡瀬はもう一度笑った。
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