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1.夜を歩く

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 職場の最寄りから三駅、さらに乗り換えて六駅。たった数駅離れただけで、ターミナル駅特有の騒がしさとは全く違う姿をしているその場所。
 訪れる人間といえば、地域住民と、都心と比較すればいくらかの安宿を求めた出張客ぐらいだ。
 駅を通過する快速列車の走行音を背に、渡瀬はおよそ二週間ぶりの町の景色に足を踏み入れた。
 煌びやかさはどこにもない。それで良かった。そういえば腹が減っていたな、と通り過ぎる飲食店の並びから漂う中華料理の匂いに思い出させられる。
 目的地であるホテルの数軒手前のコンビニに入り、カップ麺二つと適当な飲み物をいくつか掴み、レジに向かった。
 念のためコンドームも一箱カゴに入れたが、自分のような二十代半ばの男性が買い求めたところで、バーコードを通す若い女性店員は何の反応も示さない。彼女にとってはこれが日常なのだろう。
 ほんの少しだけ非日常に向かおうとしている自分にとっては、そんな彼女が眩しくも、逆にくすんでも見えた。

 フロントに声をかけ、渡されたカードキーに記されたナンバーの部屋に向かう。絵に描いたようなビジネスホテルの廊下を進んで扉を開けると、そこにもまた、いかにも、といったツインルームが広がっている。
 扉の音に反応して、手前のベッドに腰掛けながらテレビを観ていたらしい男、芦原がこちらに視線を向ける。

「何だ、早かったな。俺も今着いたとこ」
「ああ。先シャワー使っていいぞ」

 入り口に脱いだ靴を揃えながら言う。別に、会話を最低限に抑えようなんて取り決めはない。
 ただ、言葉は便利である一方で、毒のように様々なものを崩していく危険性も孕んでいると感じていた。思考も、もしかしたら肉体も。
 そして渡瀬は、今の自分をこれ以上崩されたくなかった。だから我ながら素っ気ない態度をとってしまっている自覚はある。少なくとも、あの頃よりは。

***

 芦原に再び抱かれるようになって、半年と少しが経っていた。
 大学時代、彼と別れた後に付き合い始めた女性とは今も続いている。しかし、大学院に進んだ彼女と中々時間が合わない状況になっていた。そしてそれは、彼も同類のようだった。
 そうした境遇の中、飲み会で偶然再会し、魔が差してしまった――だけならば、一時の過ちで済まされたかもしれない。
 ただ、その後もこうして待ち合わせては同じことを繰り返している。理由を考える気は、今は起きない。お互いの利害の一致として片付けてしまうのが、最も簡単で気が楽だった。
 ふと、ベッドから腰を上げた彼が、わずかに口の端を上げながら言った。

「シャワー一緒に入る?時短ってことで」

 思わず眉間に皺が寄る。

「アホ、そんなん彼女とやれ」
「ツレないこと言うなよ」

 どこか演技がかった拗ねた声に構わず、スーツの上着を脱ごうとすると、少し色素の薄い短髪が視界に近付いてくる。互いの唇が五センチほどまでのところで、顔を背けた。
 わざとらしく聞こえるようにため息をついて、目線だけ芦原の方向に戻す。キスを避けられたこととは明らかに違う理由でしかめられた表情が、そこにあった。

「マジで、タバコはやめろよな」

 職場を出る前の一服の残り香が、彼の鼻腔に届いたのだろう。
 高校時代のちょっとした挫折がきっかけになって、渡瀬は喫煙に手を出した。そしてその習慣は大学に入っても続いていて、そんな自分を一番諌めていたのが、交際していた当時の芦原だった。
 しかし、再会してからは一切話題にされたことはなかった。二週間前に会った時ですら、事後にタバコに火をつける自分を、ただ無言で眺めていたような記憶がある。

「……久々に聞くな、それ」

 思わぬ不意打ちに、つい言葉が漏れてしまう。

「そうだっけ」

 昔は四六時中、と言いかけて飲み込んだ喉が、小さく引き攣る。
 これまで、まるで禁忌のように、交際当時に関わる事柄についてはお互いに語らなかった。日常の思い出はもちろん、別れる直前に自分が芦原を殴り飛ばしたことも。その後、学内でお互いにゲイだという噂が立って気まずい思いをしたことも。

「……やっぱり、シャワー、先使うわ」

 絞り出すように言い、彼に背を向ける。このまま部屋の扉を再び開けて、帰ってしまった方がいいと頭ではわかっていた。
 今の関係を成り立たせている均衡の糸が、明らかに震えている。
 それなのにできなかった。浴室に入り、服を脱ぐよりも先に、シャワーコックを捻る。立ち上り始めた湯気が、視界を曇らせていく。
 しばらくその様子を眺めながら、やがて無意識に舌打ちをする。
 だから言葉は毒なんだ。
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