セクスレス

希彗まゆ

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ホットチョコレート

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それからわたしと葛志が正式な離婚をするまで、たった数日のあいだだった。
アヤとわたし、葛志とランとで話し合って、葛志とわたしが住んでいたマンションは解約することにした。
葛志はランのところに、そしてわたしはアヤの部屋に住むことになったのだ。

わたしが離婚届を市役所に提出しにいったその日、葛志は一足早く、自分の荷物だけを持って本当の意味でマンションを出て行った。
残った冷蔵庫やテレビといったものは、後にリサイクルショップに頼んで引き取ってもらうことにした。

「皐月さん、入籍だけ先に済ませよう。もう一刻でも早く、皐月さんと家族になりたい」

ランに襲われた一件があるからか、アヤはわたしよりも性急だった。
けれどわたしもアヤと早く一緒になりたいというのが本音だったから、素直にうなずいた。

結婚式をするかどうかはまた後ほど考えることにして、入籍する日はバレンタインと決めた。
ただし、女性は婚姻歴がある場合、6ヶ月は他の人と婚姻届を出すことができないため、来年のバレンタインだ。

「もっと早くでもいいのに」

アヤはそう言ったけれど、

「どうせなら、人を幸せにするチョコレートに関係する日がいいでしょ?」

わたしはそう思ったのだ。
もっとも、バレンタインにチョコレートが関係するのは日本だけと知っていたけれど、それこそ気持ちの問題だった。

「じゃあ、ボクも来年のその日、入籍する前にみんなにボクの性別と本名を言うことにするよ」

そうアヤが決めたのも、アヤなりのけじめだったのだろう。
離婚するにあたってお義母さんにも一言言わなければ、とわたしは考えていたのだけれど、それは葛志が必要ないと言い切った。

「またごたごたするのは、目に見えてるから」

お義母さんの性格は、葛志もよく知っているようだった。
だからわたしは自分の親にだけ、離婚と結婚の報告をした。
元から寡黙だった父は「そうか」と一言言っただけだけれど、母は「安心したわ」と予想外のことを言った。

「だって葛志くんと結婚して数年してから、どんどん皐月の声や表情が暗くなっていってたもの。それにあちらのお母さん、わたしも苦手だったのよ」

母がそんなふうに感じていただなんて、初めて知った。
きっとわたしや葛志に、母なりに気遣ってくれていたのだろう。
もしかしたら父も、遠からずそう感じてくれていたのかもしれない。
アヤはきちんとわたしの家に、挨拶にきてくれて、

「皐月さんは、ボクが必ず幸せにします」

と両親に頭を下げてくれた。
アヤはわたしの両親にとって、突然出現したようなものなのに、父も母も快く承諾してくれた。
それだけ父も母もわたしを信頼してくれているのだ、とわかって、目頭が熱くなる。

アヤはその日カフェの仕事を休んできてくれたのだけど、夕食をご馳走になるまでのあいだに、父と母の心をしっかりつかんでしまったようだった。
さすが父も母もわたしの親と言うべきか、それとも、さすがアヤ、と言うべきか。恐らく、そのどっちもだろう。

すっかり夜になってしまい、夜道をアヤの家に向けてふたりで手を繋いで歩いて帰る。来たときは「もしかしたらうちのお父さん、お酒を飲ませるかもしれないから」とのわたしの言葉で、車ではなくバスだったのだ。
案の定アヤは少しだけお酒を飲まされ、帰りのバスがなかったわけではないけれど、なんとなく歩きたい気分だからとアヤは言った。

実家からアヤの家までは、そこそこ遠いけれど、歩いて帰れないほどではない。
それにわたしはアヤとだったら、どこまででも歩いていける。

「きれいな満月だね」

いや、満月にしては少し欠けてるかな、とつぶやくアヤの視線にいざなわれて顔を上げると、確かに晴れた夜空にぽっかりと、銀色の月が輝いていた。

「幸せに、するからね」

アヤがそう言って、つないだ手をきゅっと強く握りしめる。
指を絡めていて、いわゆる恋人つなぎだったからそうされると少し痛い。
けれどその痛みすら、いまのわたしには嬉しかった。
アヤからもらえるものなら、なんでも嬉しい。

「わたしも、アヤのこと幸せにする」

手を握り返しながらそう言うと、アヤは月を見上げながら嬉しそうに微笑んだ。

「そんなこと言われたの、初めてかもしれない」

意外に思えたけれど、アヤの過去を思い返せば納得もいく。
ふいに胸に熱いものが込み上げてきて、わたしは繋いだ手をぶんぶん振り回した。

「絶対、幸せにする。約束だからね」

「──ボクも、約束する」

月下に微笑むアヤは、はっとするほど美しい。
夢の世界から抜け出してきた、夢の住人のようにも思える。
夢みたい、だなんて言ったら本当に夢のまま終わってしまう気がして、少しだけ恐くて、わたしは黙ってアヤと並んで歩き続けた。



アヤの部屋でアヤと一緒に生活することは、本当に夢のように幸せだった。
睡眠障害だったことすら嘘のようによく眠れるし、なによりも朝目覚めれば、世界で一番愛しい人がそこにいる。

次の年の2月14日まで、あっという間に過ぎた。
そのあいだにお互いの誕生日を祝い、マスターの誕生日を祝い、春にはお花見に行き、夏にはアヤと一緒に花火を見た。
秋には紅葉狩りに行き、クリスマスにはふたりきりでデートをした。
わたしがアヤのところに住んでいるのは、諸事情のためと公(おおやけ)には言ってあったし、デート現場を知り合いに目撃されても、

「仲良しなんですね」

と言われる程度だった。
誰もアヤがわたしのことを愛してくれているのだと、気づかなかった。アヤが誰かのものになるだなんて、誰も想像していない証拠だった。

そうしてやってきた、アヤとわたしの二度目の2月14日。バレンタイン。
まずアヤが自分の素性を明かしてから市役所に婚姻届を出しにいく。アヤとは、そう話してあった。
婚姻届は既に書くべき欄はすべて埋められていて、あとは市役所に提出するだけにしてある。
アヤは朝のうちにまず店員に話してから、常連客にも自分の素性を話すと言っていた。
婚姻届を提出するのは、必然的に、カフェが閉店したあとの夜になる。

「今日は、私もホールに出るよ」

マスターの申し出を、アヤは断らなかった。ただ、「ありがとう」とうなずいた。
アヤも、マスターがいてくれたほうが心強いと思っているのかもしれない。
いままで隠していた真実を世間に明らかにすることは、アヤにとって、相当の勇気がいることだとわたしにも分かる。

アヤは朝食を食べてホットココアを飲むと、わたしをそばに呼んだ。
なにかと思って見上げると、抱きしめられてキスをされる。

「……アヤ……また、充電?」

「うん。これ以上の活力剤は、ないからね」

相変わらずアヤは、恥ずかしげもなく微笑みながらそんなことを言う。
わたしはまだ慣れなくて、顔が熱くなってしまう。
そんなわたしの頭を撫でて、

「行ってきます」

アヤは、マスターと一緒に一階へと降りて行った。
わたしのほうがそわそわと、落ち着かない。
アヤが素性を話したら、このカフェを離れるお客さんもいるかもしれない。特に男性客は、そうかもしれない。
そんな不安をわたしは口にしたことがあったけれど、その都度アヤとマスターに、諭された。

「離れていくなら、それでもいい。ボクの性別だけが目的で『ショコラ』に通ってたって証拠だからね」

「アヤの言うとおりだよ。皐月さん、私はアヤを看板にして商売をしようだなんて思ってはいない。だから、なにも心配しなくてもいいんだよ」

けれどいざその日がきてしまうと、やっぱりわたしは心配になってしまう。
こんなわたしがアヤという素敵な人を独り占めしていいのだろうか、と。
いや、いまになってアヤとの結婚にたたらを踏むわけではないけれど、お店のお客さんまで離れることになるかもしれないと考えると、ハラハラとして内心穏やかではない。

気晴らしに、アヤに渡すチョコレートでも作ろう。
去年は生チョコを作ってプレゼントした。
初めて作った生チョコは、味と食感はよかったけれど、見た目が最悪だった。売っている生チョコのようにきちんと四角く作ることの難しさを思い知った一件だった。
けれどそんな生チョコを、アヤは全部食べてくれた。

「最高に美味しいよ。それより美味しいのは、皐月さんの唇だけど」

そんなふうに、悪戯っぽく微笑みながら。
今年はどんなチョコレート菓子をプレゼントしようか、まだ考えていない。
アヤに聞いてみたら、また生チョコがいいと言ってくれたけれど、去年と同じチョコだなんてなんだか芸がない。

生チョコと、あとなにか別のチョコレート菓子と、二種類用意しようと思いつく。
生チョコは性質上賞味期限が短いから、もうひとつのほうは長く食べられるようなものがいい。
とりあえず生チョコを先に作ろうとして、蜂蜜が切れていることに気がついた。
わたしの作る生チョコはマスターの直伝で、蜂蜜が必要なのだ。
蜂蜜を買うついでに、市販のチョコレート菓子を参考にしてこよう。もう一種類のチョコをなににするか、いいアイディアも浮かぶかもしれない。
そう考えて、お店に降りるほうの階段ではなく、お店の裏口へと続く玄関から外へ出る。

まずスーパーで蜂蜜を買ってから、チョコレート専門店へと向かう。その途中で、バッグの中でケータイが振動を与えていることに気がついた。
取り出してみると、電話をかけてきているのはマスターだ。
ホールに出ているはずのマスターが、どうしたのだろう。
不思議に思いながら、電話に出る。

「もしもし、マスター? どうかしたんですか?」

『ああ皐月さん、やっとつながった!』

声はマスターらしくなく、かなり焦っているようだった。

『さっきから電話をかけていたんだよ。ああ、いまそんなことを言ってる場合じゃない……アヤが、彩月が、刺されて大変なんだ!』

「え……!?」

アヤが、刺された? いったい、どういうことなのだろう。

「ま……待って、いますぐに戻りますから」

『いや、すぐに救急車を呼んだんだ。だからいまは、病院にいる。アヤは治療中だ。皐月さんも、すぐに来てくれ!』

言わずもがな、わたしはマスターと電話をつなげたまま大通りへと走った。タクシーを呼び止めるあいだにマスターに病院の名前と、事情を聞く。
店を開ける前、従業員全員が集まっているところへ、アヤが自分の素性を明かした。

「一緒に暮らしてる中村(なかむら)皐月さんと、今日婚姻届を出すつもりです」

そう告白したところ、塚原さんがふいに厨房にいったかと思うとすぐに駆け戻ってきて、手にしていた包丁でアヤを刺したのだという。

「アヤさんはずっと女だって信じてたのに! 誰かのものになるくらいなら、殺してやる!」

騒然となった従業員たちに取り押さえられながら、塚原さんは壮絶な表情で、そう叫んでいたという。
塚原さんが同性を好きだなんて、アヤのことを好きだなんて、思ってもいなかった。
それどころか、アヤのことを刺してしまうだなんて──。

「なんだか事故があったみたいで、渋滞してますよ」

病院に向かうタクシーがなかなか前に進まなくなったと思ったら、わざわざ車を降りて前のほうに見に行ってきてくれた運転手が、戻ってきてそう告げた。
こんなときに、なんというめぐり合わせなのだろう。

「ここでいいです、走って行きますから」

運転手にもどかしく代金を支払い、わたしはタクシーを降りて走り出した。ここからなら、アヤが運ばれた病院まで走ったほうが早い。
アヤ。どうか、死んだりなんてしないで。無事でいて。
幸せにするって、幸せにしてくれるって、約束したよね。
アヤは約束は絶対に破らない。いままでずっと、そうだった。
ふたりでした一生の約束を破ることになるなんて、そんなことはないはずだよね?

ああ、神様。いまだけあなたの存在を信じるなんて、愚かなことかもしれない。けれど人間は、少なくともわたしは、アヤのことになるととんでもなく愚かな女になってしまうのだ。
神様、どうかアヤのことを助けてください。連れて行かないでください。

アヤ、……アヤ──!

走りながら、わたしは必死に、心の中でアヤの名前を叫び祈った。



横たわるアヤの胸に顔をうずめながら、わたしは涙が流れるのを止めることができなかった。
目を覚ましたばかりのアヤは、そんなわたしの頭を大きな手でそっと撫でてくれる。
そう、アヤは助かったのだ。というよりは、そもそもがたいした怪我にはならなかったらしい。
冷静になったマスターから話を聞いた医者の説明によると、

「患者さんは刺された瞬間に、とっさに包丁を手でつかんで止めたそうです。それで深い傷には至らなかったんだと思います。意識を失っているのは、後頭部を強打しているからです。検査の結果そちらのほうも問題ないですし、すぐに目は覚めますよ」

アヤは勢いよく自分の身体に飛び込んできた形の塚原さんを受け止めきれなくて、はずみで体勢を崩し、テーブルの角で頭を打ったのだという。
刺されたお腹の傷の治療はすぐに終わったものの、アヤの意識はなかなか覚めなくて、救急病棟の端っこのベッドに横たわるアヤに、わたしはすがりついていた。
そしてお昼近くになり、さっきようやくアヤの目が覚めて、安堵のあまりわたしは泣き出してしまったのだ。

「こんなことくらいで救急車を呼ぶなんて、おおげさだよ、マスター」

微笑みすら浮かべながら、アヤはわたしの隣に座るマスターに言う。
マスターは珍しく、恐い顔つきをしていた。

「こんなことくらいじゃ、ないだろう。あの現場を見ていたら、誰だっておなじことをしたよ。医者も、念のため一日入院していけと言っていたし」

「入院だなんて、冗談じゃない。皐月さん、肩を貸して」

少しだけ涙が引いてきたわたしにつかまりながら、アヤは身体を起こしてベッドから降りる。
そしてわたしに、言ったのだった。

「家に、帰ろう。さすがに仕事はできないから、かわりに早めに婚姻届を出しにいこう」

「無茶を言うな、アヤ!」

わたしが口を開くよりも早く、マスターが叱り飛ばす。

「刺されたばかりでなにを言ってるんだ!」

「今日のこの日を、ボクはずっと待ってたんだ。誰がなにを言おうと、誰になにをされようと、気持ちは変わらない」

アヤも真剣なまなざしで、マスターを見つめ返す。
しばらくのあいだアヤと睨み合っていたマスターは、やがて根負けしたようにため息をついて肩を落とした。

「……根性が据わりすぎだろう、アヤ。好きにしなさい」

「ありがとう」

アヤはまた微笑んで、そう言った。
けれど、すぐに婚姻届を出すことはできなかった。
アヤとマスターと一緒にタクシーで家に戻ると、警察が来ていたのだ。
従業員のひとりが、呼んだらしい。
塚原さんは既に通報を受けてすぐに連れて行かれたあとらしく、いなかった。目撃者も多数いたことから、彼女はこのまま警察のお世話になることだろうということで、わたしは少しだけほっとした。
他の従業員の皆は全面的にアヤの味方のようで、アヤが無事だとわかると一様にほっとした表情を見せた。

アヤとマスター、そしてわたしも一応事情聴取を受けて、自由になったのは夜。
従業員たちもそれぞれアヤとマスターにねぎらいの言葉をかけて、それぞれ家に帰り、残ったわたしたちは二階でマスターが作った夜ご飯を食べた。
いつもは夜ご飯もわたしが作るのだけれど、いまになって手が震えてきてしまって、料理ができなかったのだ。
マスターが夜ご飯を作ってくれているあいだ、アヤにずっと手を握っていてもらい、

「大丈夫」

と声をかけ続けてもらうと、ようやく震えはおさまった。
アヤはわたしの震えがおさまって夜ご飯を食べ終わると、待ちかねたようにタクシーを呼んだ。
わたしは車の運転ができないし、アヤは痛み止めがきいているとはいえ怪我人だからだ。
マスターが、自分が運転をしてもいいと言ったけれど、アヤは、

「婚姻届を出すときはふたりきりって、決めてたんだ」

とやわらかい笑顔で断った。
婚姻届を持って市役所に行き、夜間窓口に行って、アヤと一緒に婚姻届を提出する。
夜間窓口の人が婚姻届に不備がないかどうか確認をし、微笑んでくれた。

「おめでとうございます」

「ありがとうございます」

そう返すアヤは本当に嬉しそうで、わたしも慌てて係の人に頭を下げた。
市役所を出たところで、アヤにやわらかく抱き寄せられる。

「ひどい一日だったね」

こんなとき、なにを言ったらいいのかわからなくてそう言うと、アヤはちいさくうなずく。

「でも、塚原さんのことはボクが受け止めなくちゃいけないことだから」

ああアヤは本当に、なんて懐の大きな人なのだろう。
きっと彼はこんなことになるかもしれないのを、どこかで薄々感じていたのかもしれない。
それに、とアヤは風になびくわたしの髪を撫でつける。

「それに……最後に最高の幸せをもらった」

「最後だなんて、言わないで」

「ごめん。一日の、最後に」

あんなことがあったあとだから、ちいさなことにも過敏になってしまうわたしに、アヤは優しく微笑む。
それでようやくわたしも実感が沸いてきて、また涙があふれてきてしまった。

「皐月さん、泣かないで」

「……アヤ、……ほんとうに、ここにいるんだね。生きて、ここにいるんだね」

「ちゃんと、ここにいるよ。生きて皐月さんのそばにいて、皐月さんの夫になった」

「……うん」

わたしの髪を撫でていたアヤの手が、わたしの頬を包み込む。

「……バレンタインなのに、アヤにチョコ、渡せなかった」

「そのかわり、皐月さんをもらったよ」

そうなのだ。
わたしは本当の意味で、アヤのものになれたのだ。

「ボクがずっと望んでいたものだ」

「……アヤ、」

続く言葉は、アヤの唇に吸い取られる。
二度、三度とついばまれて、わたしはまた涙を流す。

「わたしと出逢ってくれて、ありがとう」

「それは、こっちの台詞だよ」

見上げると、アヤの瞳はいつか真実を告白したときのように潤んでいた。
彼は微笑みながら、声をかすらせた。

「ボクがずっと欲しかったものをくれて、……ありがとう」

わたしたちはまた、どちからともなくキスを交わす。
この年のバレンタインのことを、一生忘れることはないだろう。



あのバレンタインから一年が経ち、わたしは今年も生チョコを作っている。
今年も生チョコがいい、とアヤが言い張るものだから、去年渡せなかったぶん失敗はしないようにと気合が入っている。
他にもチョコをと考えたけれど、アヤは、

「じゃあ、そのかわり皐月さんをちょうだい」

と笑顔で言い放った。
新婚一年目だからか、アヤはまだ恥ずかしげもなくこんなことを言う。
だけど、それはかなわないかもしれない。午前中に、行ってきたところがあるのだ。
そのせいでわたしの機嫌は、うなぎのぼりなのである。
マスターには申し訳ないけれど、一番最初に報告するのはアヤにと決めているので、お昼ご飯のときも夜ご飯のときも、そのことは話題に出さずにいた。

一年前警察沙汰になったこともあり、アヤの素性が常連客に知れ渡るのは早かった。
やはりというか、離れていったお客もいた。
けれど、多くのお客はわたしとアヤのことを祝福してくれた。
本当の意味で、アヤはたくさんの人に愛されていたのだ。

夜ご飯を終えると、いつものようにマスターがチョコレート菓子を用意してくれる。
今日はザッハトルテだった。
飲み物はいつもどおり、ホットココア。

「マスターが作ったザッハトルテ、あのとき以来かも」

喜んでわたしが言うと、マスターは微笑む。

「私も皐月さんからチョコをもらったからね。それに、今日は記念日になりそうだから」

わたしははっとして、マスターを見る。ウインクを返された。
もしかしてもしかしなくても、マスターにはばれてしまっているのだろう。
敏いアヤにすら気づかれていないのに、マスターには本当に恐れ入る。

「記念日? なんの?」

ひとりきょとんとするアヤが可笑しくて、つい笑ってしまう。

「いいからいいから。アヤ、せっかくのザッハトルテ、いただこう」

「皐月さんもマスターも、なに隠してるの?」

アヤはそう言ったけれど、それ以上は追及せずに、マスターのザッハトルテをいつものようにぺろりと平らげた。そのあとでわたしの作った生チョコも全部、ひとつひとつ味わって食べてくれる。相変わらずアヤは、食べっぷりがいい。
マスターがしみじみと、ホットココアを飲みながら言った。

「いまさらながら、このココアもチョコレートなのだよね。別名をホットチョコレートというくらいだから。ザッハトルテはチョコレートの王様と言われているけれど、私の中でのチョコレートの王様は、このホットチョコレート……ホットココアだな」

「……ボクにとっても、そうだよ」

むかしを思い出したのか、アヤも目を細めてホットココアを飲む。
いつかのアヤを癒してくれた、マスターのホットココア。
わたしもマスターに感謝しながら、ゆっくりとあたたかなチョコレートの飲み物を味わった。
マスターにおやすみの挨拶をしてから、アヤと一緒に部屋に戻る。
さっそくわたしを抱き寄せて、アヤはキスを落としてきた。

「ん……アヤ、ちょっと……」

「約束だよ。皐月さんをもらうって」

「そうだけど、……だめなの」

「だめじゃない」

アヤは優しく強引に、器用な指でわたしの身体をなぞっていく。
思わず流されそうになって、わたしは慌ててアヤの手をつかんだ。

「ほんとに、だめなの」

「どうして?」

聞きながらもアヤは、わたしのうなじを吸い上げる。
甘い声がわたしの口から飛び出して、このままじゃまずい、と焦った。

「赤ちゃんが、できたの!」

焦りすぎて、思わず大きな声が出てしまった。
だけどそのおかげか、アヤの動きが止まった。
恐る恐る見上げると、彼は大きく目を見開いてわたしを凝視している。

「……え……?」

「だから、赤ちゃんが……できたから……しばらくこういうことは、できないの」

アヤの顔がくしゃっと歪んだ。まるで泣き出しそうな彼のそんな顔を見るのは初めてで、驚いてしまう。

「アヤ……」

「ありがとう」

わたしをぎゅっと抱きしめながら、アヤは涙声で言った。

「信じられないくらい、嬉しい。ありがとう。ありがとう、皐月さん」

そろそろとアヤの背中に手を回すと、ますます強く抱きしめられる。

「苦しいよ、アヤ」

「ごめん、嬉しすぎて」

顔を上げたアヤは、こちらまで嬉しくなるくらい満面の笑顔だった。
こんなに手放しのアヤの笑顔を見るのも、初めてだ。

「アヤ、まるで宝物を見つけた子供みたいな顔になってるよ」

たまらず笑ってしまいながら言うと、アヤはその笑顔のまま惜しげもなく返してきた。

「そのとおりだから、仕方ないよ。皐月さんはボクの宝物だし、皐月さんとの子供も宝物だから」

そして、ため息をつきながら言うのだ。

「なんだか、幸せすぎて夢みたいだ」

「こんなものじゃ、ないよ」

わたしは手を伸ばしてアヤの髪を梳きながら、微笑む。

「まだまだ、アヤはもっと幸せにならなくちゃ」

「──皐月さんもね」

アヤはわたしの額に、キスをする。

「もっともっと、幸せにしてあげる。これ以上いらないっていうくらい」

「わたしも、もっともっとアヤのこと幸せにする」

「じゃあボクは、その倍くらい」

「じゃあわたしは、その倍の倍」

ヘンな張り合いをしてしまって、わたしとアヤはそろって笑い出す。
アヤとふたりでベッドに入り、まだ見ぬわたしたちの宝物について話をする。
男の子だろうか、女の子だろうかとわたしが推測すれば、どんな名前がいい?とアヤも負けじと提案する。
わたしたちの赤ちゃんだから、きっとホットココアが大好物になるだろうね、と。
そんなのまだまだ早すぎるのに、とわたしたちはまた笑い合う。

「皐月さん、──愛してる」

アヤはそうして、わたしに優しくキスをしてくれる。
わたしたちはこれからも、そうして一段一段、幸せの階段をふたりで積み上げていくのだろう。
アヤと一緒なら、きっとできる。

わたしの隣にいることで、わたしが世界で一番愛する人が幸せを感じてくれることほど、幸せなことはない。
アヤの腕に抱かれながら、わたしはいま──とてもとても、幸せだ。

《完》
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