19 / 23
ザッハトルテ 2
しおりを挟む
◆
ボクがまだ物心つく前に両親は離婚して、ボクは母とずっと二人暮らしだった。
学校に行けば友達もたくさんいたし、中一になってから彼女と身体の関係ももったりしたから、孤独とは縁遠かったかもしれない。
それでも家に帰れば淋しさがいつもつきまとったし、だからボクは人のぬくもりが好きだった。特に肌と肌で感じられる、自分の彼女とのぬくもりが好きだった。
人の体温ってすごくあたたかくて、心まであたたまるような気がしたから。
母はずっと独り身だったけど、それまで恋人をとっかえひっかえでね。
でもボクが高校に上がった年に、とある男と再婚した。
ボクと母はそれまで特別仲がいいってわけじゃなかったけど、仲が悪くもなかったし、母がこれで幸せになれるなら、ボクもまあいいかなって程度だった。
だけどそれを後悔したのは、母が再婚してからすぐのことだった。
母は再婚してからも夜の仕事をやめなかったんだけど、だから夜はいつもその男とボクはふたりきりで……ある晩、男がボクの部屋にきたんだ。
最初は世間話だったり母の話だったりしたんだけど、そのあいだに男はボクのそばに身体をすり寄せてきて……いきなり、押し倒された。
なにするんだ、って言ったら、男は嗤った。
「男か女かわからないような、そんなきれいな顔をしてる君が悪いんだよ」
そう言って、男は力ずくでボクを抱いた。
抵抗したけど、まだそのときのボクは子供だったから、男の力には勝てなかった。
そのときに分かったんだ。ボクの容姿は女のようにも見えるんだって。その男に、その身体でもって教えこまれた。
ボクは翌日から、彼女の家に泊まり込んだ。またあんなことがあったらと思っただけで、胃液が逆流したから。
だけどボクは世間的に、まだ本当に子供で。世の中をひとりで渡っていくだけの力なんて、全然なくて。
ボクのことを心配してくれた彼女の両親が、ボクの母に連絡を入れた。
母に心配をかけたくなくて、でも本当のことなんて言えなくて、ボクは家に戻った。
その日は休日で、男も家にいて──夜になったら家を出て友達のところにでも行こう、そう考えてたけど、その日に限って夕方、母が出かけたのを見計らって、男はまたボクを襲った。
その最中に、母が家に戻ってきたんだ。忘れ物でもしたんだろうね。
母はリビングで男に組み敷かれてるボクを見て、驚いて──次には鬼の形相をして、ボクに言ったよ。
「あんた、わたしの男に色目を使ったの!?」
って。
それからはもう、どろどろのぐちゃぐちゃ。
母は男と別れたけど、当然のようにボクのことも家から追い出した。
「あんたがわたしの人生をめちゃくちゃにしたのよ!」
そう泣き喚いて、手がつけられなかった。
ボクだってもう、母と一緒にいたくなかった。なによりも誰よりも自分の存在が、母を不幸にしたんだって実感してしまったんだ。
彼女とも、別れた。誰かと恋をするのが、恐くなってしまったから。同時に、恋愛そのものを馬鹿げたものだって思うようになった。そう思うことでボクはきっと、心の均衡を取ろうとしたんだと思う。
母に捨てられたあとは高校を卒業するまで孤児院で過ごしたけど、なんの因果かそこでもボクは女からだけじゃなく男からも告白されるようになって。
そのたびに、いっとき父親だった男にされたことがフラッシュバックして、心が壊れてしまったんだろうな。同時に、心を閉じてしまったんだと思う。誰からも、誰の心も受け入れようとしなくなったんだと思う。
そのときからだよ、ボクに告白してきた人間とキスをしてお金を取るようになったのは。
もちろん、男女問わずね。
これは純愛なんだって息巻いてる男も女も、
「ボクのキスが欲しくないの?」
って餌をまいてやれば、誰もが食いついた。
そのたびにボクは確信したんだ。
ああ、所詮愛なんてこの世には存在しないんだって。
心からボクが人を愛することなんて、この先ないだろうって。
その孤児院は海の近くにあったから、独りになりたくなるとボクはいつも海に通ってた。
夏場なんかは人がいて嫌だったから、夜とかね。だからどっちかっていったら冬の海のほうが好きだったかな。
海を見てると少しだけ、ボクの心も癒されて、少しでもボクのしていることも赦されるような気になったから。
高校を卒業したら、ボクは孤児院が仲介してくれたカフェで働くようになった。なんでも、そこのマスターが養子を貰いたくてよく孤児院にきてボクのことを見ていて、ぜひ自分のカフェで働いてほしいって孤児院のほうにかけあってくれたらしい。
もうわかるよね、そのカフェは「ショコラ」で、そのマスターっていうのがさっき会ったマスターだよ。
当時のボクはそんな話を聞いても、マスターに会っても、「どうせボクの容姿で決めたんだろ」って思ってた。
でもマスターは特別ボクになにかを強要するわけじゃなかった。
調子に乗ったボクは、お店の客相手にキスでお金を取るようになった。
あるときそれがマスターにばれて、ボクはひとりマスターの部屋に呼ばれた。
マスターはなにも言わないでしばらく黙っていた。
それがボクには、無言で責められてるように感じた。だからつい、言ってしまったんだ。
「マスターも、ボクのキスが欲しい? ボクがキスをしたら、赦してくれる?」
マスターはふいに部屋を出て行って、しばらく戻ってこなかった。
そんな反応を見せられたのは初めてだったから、ボクは少し戸惑って……マスターが戻ってきたときには、ちょっとほっとした。
マスターは持ってきたホットココアをボクに渡してくれて、頭を撫でてくれた。
「私はチョコレートが大好きでね。このホットココアも大好きなんだ。これを飲んだら君のささくれた心も心の傷も、少しくらいは癒されるかもしれないよ。それに、赦すか赦さないかは私が決めることじゃない。いつか君がもっと大きくなって大人になったら、君自身が判断するべきことだ。君がいつかまた人を愛することができるようになって、心の枷を外せるようになったらそのときは、君自身を赦せるときがくるだろうね」
そんなことを言われたのもされたのも初めてだった。
なんだかむずがゆくて、嬉しいような切ないような感じで、ちょっとだけホットココアを飲んでみた。
そのときのホットココアの美味しいことといったら──。
知らないうちにボクは涙を流していて、マスターに聞いていたんだ。
「マスターは、どうしてボクを拾ってくれたの?」
そしたらマスターは微笑んで、言ってくれた。
「君が一番、救いを求めているように見えたから」
ボクですら気づいていなかったそのことに、マスターだけが気づいてくれていたんだ。
「マスターはボクを養子にしないの?」
泣きながらそう聞いたら、マスターは「しないよ」って答えた。
「だって君は、まだお母さんのことが好きだろう? いつか、君はきっとお母さんを幸せにできると私は信じているから」
ボクと母とのことは、孤児院のほうから聞いてでもいたんだろう。
マスターは、ボクですら気づいてない、ボクが一番ほしかった言葉をくれたんだ。
泣きじゃくりながらボクは、ホットココアを飲み干した。
──もうそのころには性別を隠すようになってたし、ボクも急にはキスでお客を取るのをやめることなんてできなかったから、ずるずるいままできちゃったけど……。
つまりボクが性別を隠すようになったのも、キスでお客を取るようになったのも、全部過去の傷からきていたことなんだ。
性別を隠すことでボクは、自分の心を防衛していたんだと思う。恋愛なんてなんだ、って唾を吐きたくなるいう気持ちもあったしね。いま思えば、恋愛への冒涜だったのかもしれない。
だけど過去の傷からだからって、それを正当化するつもりはない。そんなことで、ボクが皐月さんに与えた不安やなにかマイナスのものを償えるなんて、思ってない。
あとは、皐月さんが判断してくれるのをボクは受け入れるよ──。
ボクがまだ物心つく前に両親は離婚して、ボクは母とずっと二人暮らしだった。
学校に行けば友達もたくさんいたし、中一になってから彼女と身体の関係ももったりしたから、孤独とは縁遠かったかもしれない。
それでも家に帰れば淋しさがいつもつきまとったし、だからボクは人のぬくもりが好きだった。特に肌と肌で感じられる、自分の彼女とのぬくもりが好きだった。
人の体温ってすごくあたたかくて、心まであたたまるような気がしたから。
母はずっと独り身だったけど、それまで恋人をとっかえひっかえでね。
でもボクが高校に上がった年に、とある男と再婚した。
ボクと母はそれまで特別仲がいいってわけじゃなかったけど、仲が悪くもなかったし、母がこれで幸せになれるなら、ボクもまあいいかなって程度だった。
だけどそれを後悔したのは、母が再婚してからすぐのことだった。
母は再婚してからも夜の仕事をやめなかったんだけど、だから夜はいつもその男とボクはふたりきりで……ある晩、男がボクの部屋にきたんだ。
最初は世間話だったり母の話だったりしたんだけど、そのあいだに男はボクのそばに身体をすり寄せてきて……いきなり、押し倒された。
なにするんだ、って言ったら、男は嗤った。
「男か女かわからないような、そんなきれいな顔をしてる君が悪いんだよ」
そう言って、男は力ずくでボクを抱いた。
抵抗したけど、まだそのときのボクは子供だったから、男の力には勝てなかった。
そのときに分かったんだ。ボクの容姿は女のようにも見えるんだって。その男に、その身体でもって教えこまれた。
ボクは翌日から、彼女の家に泊まり込んだ。またあんなことがあったらと思っただけで、胃液が逆流したから。
だけどボクは世間的に、まだ本当に子供で。世の中をひとりで渡っていくだけの力なんて、全然なくて。
ボクのことを心配してくれた彼女の両親が、ボクの母に連絡を入れた。
母に心配をかけたくなくて、でも本当のことなんて言えなくて、ボクは家に戻った。
その日は休日で、男も家にいて──夜になったら家を出て友達のところにでも行こう、そう考えてたけど、その日に限って夕方、母が出かけたのを見計らって、男はまたボクを襲った。
その最中に、母が家に戻ってきたんだ。忘れ物でもしたんだろうね。
母はリビングで男に組み敷かれてるボクを見て、驚いて──次には鬼の形相をして、ボクに言ったよ。
「あんた、わたしの男に色目を使ったの!?」
って。
それからはもう、どろどろのぐちゃぐちゃ。
母は男と別れたけど、当然のようにボクのことも家から追い出した。
「あんたがわたしの人生をめちゃくちゃにしたのよ!」
そう泣き喚いて、手がつけられなかった。
ボクだってもう、母と一緒にいたくなかった。なによりも誰よりも自分の存在が、母を不幸にしたんだって実感してしまったんだ。
彼女とも、別れた。誰かと恋をするのが、恐くなってしまったから。同時に、恋愛そのものを馬鹿げたものだって思うようになった。そう思うことでボクはきっと、心の均衡を取ろうとしたんだと思う。
母に捨てられたあとは高校を卒業するまで孤児院で過ごしたけど、なんの因果かそこでもボクは女からだけじゃなく男からも告白されるようになって。
そのたびに、いっとき父親だった男にされたことがフラッシュバックして、心が壊れてしまったんだろうな。同時に、心を閉じてしまったんだと思う。誰からも、誰の心も受け入れようとしなくなったんだと思う。
そのときからだよ、ボクに告白してきた人間とキスをしてお金を取るようになったのは。
もちろん、男女問わずね。
これは純愛なんだって息巻いてる男も女も、
「ボクのキスが欲しくないの?」
って餌をまいてやれば、誰もが食いついた。
そのたびにボクは確信したんだ。
ああ、所詮愛なんてこの世には存在しないんだって。
心からボクが人を愛することなんて、この先ないだろうって。
その孤児院は海の近くにあったから、独りになりたくなるとボクはいつも海に通ってた。
夏場なんかは人がいて嫌だったから、夜とかね。だからどっちかっていったら冬の海のほうが好きだったかな。
海を見てると少しだけ、ボクの心も癒されて、少しでもボクのしていることも赦されるような気になったから。
高校を卒業したら、ボクは孤児院が仲介してくれたカフェで働くようになった。なんでも、そこのマスターが養子を貰いたくてよく孤児院にきてボクのことを見ていて、ぜひ自分のカフェで働いてほしいって孤児院のほうにかけあってくれたらしい。
もうわかるよね、そのカフェは「ショコラ」で、そのマスターっていうのがさっき会ったマスターだよ。
当時のボクはそんな話を聞いても、マスターに会っても、「どうせボクの容姿で決めたんだろ」って思ってた。
でもマスターは特別ボクになにかを強要するわけじゃなかった。
調子に乗ったボクは、お店の客相手にキスでお金を取るようになった。
あるときそれがマスターにばれて、ボクはひとりマスターの部屋に呼ばれた。
マスターはなにも言わないでしばらく黙っていた。
それがボクには、無言で責められてるように感じた。だからつい、言ってしまったんだ。
「マスターも、ボクのキスが欲しい? ボクがキスをしたら、赦してくれる?」
マスターはふいに部屋を出て行って、しばらく戻ってこなかった。
そんな反応を見せられたのは初めてだったから、ボクは少し戸惑って……マスターが戻ってきたときには、ちょっとほっとした。
マスターは持ってきたホットココアをボクに渡してくれて、頭を撫でてくれた。
「私はチョコレートが大好きでね。このホットココアも大好きなんだ。これを飲んだら君のささくれた心も心の傷も、少しくらいは癒されるかもしれないよ。それに、赦すか赦さないかは私が決めることじゃない。いつか君がもっと大きくなって大人になったら、君自身が判断するべきことだ。君がいつかまた人を愛することができるようになって、心の枷を外せるようになったらそのときは、君自身を赦せるときがくるだろうね」
そんなことを言われたのもされたのも初めてだった。
なんだかむずがゆくて、嬉しいような切ないような感じで、ちょっとだけホットココアを飲んでみた。
そのときのホットココアの美味しいことといったら──。
知らないうちにボクは涙を流していて、マスターに聞いていたんだ。
「マスターは、どうしてボクを拾ってくれたの?」
そしたらマスターは微笑んで、言ってくれた。
「君が一番、救いを求めているように見えたから」
ボクですら気づいていなかったそのことに、マスターだけが気づいてくれていたんだ。
「マスターはボクを養子にしないの?」
泣きながらそう聞いたら、マスターは「しないよ」って答えた。
「だって君は、まだお母さんのことが好きだろう? いつか、君はきっとお母さんを幸せにできると私は信じているから」
ボクと母とのことは、孤児院のほうから聞いてでもいたんだろう。
マスターは、ボクですら気づいてない、ボクが一番ほしかった言葉をくれたんだ。
泣きじゃくりながらボクは、ホットココアを飲み干した。
──もうそのころには性別を隠すようになってたし、ボクも急にはキスでお客を取るのをやめることなんてできなかったから、ずるずるいままできちゃったけど……。
つまりボクが性別を隠すようになったのも、キスでお客を取るようになったのも、全部過去の傷からきていたことなんだ。
性別を隠すことでボクは、自分の心を防衛していたんだと思う。恋愛なんてなんだ、って唾を吐きたくなるいう気持ちもあったしね。いま思えば、恋愛への冒涜だったのかもしれない。
だけど過去の傷からだからって、それを正当化するつもりはない。そんなことで、ボクが皐月さんに与えた不安やなにかマイナスのものを償えるなんて、思ってない。
あとは、皐月さんが判断してくれるのをボクは受け入れるよ──。
0
お気に入りに追加
9
あなたにおすすめの小説



社長室の蜜月
ゆる
恋愛
内容紹介:
若き社長・西園寺蓮の秘書に抜擢された相沢結衣は、突然の異動に戸惑いながらも、彼の完璧主義に応えるため懸命に働く日々を送る。冷徹で近寄りがたい蓮のもとで奮闘する中、結衣は彼の意外な一面や、秘められた孤独を知り、次第に特別な絆を築いていく。
一方で、同期の嫉妬や社内の噂、さらには会社を揺るがす陰謀に巻き込まれる結衣。それでも、蓮との信頼関係を深めながら、二人は困難を乗り越えようとする。
仕事のパートナーから始まる二人の関係は、やがて揺るぎない愛情へと発展していく――。オフィスラブならではの緊張感と温かさ、そして心揺さぶるロマンティックな展開が詰まった、大人の純愛ストーリー。

思い出さなければ良かったのに
田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。
大事なことを忘れたまま。
*本編完結済。不定期で番外編を更新中です。
エリート警察官の溺愛は甘く切ない
日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。
両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉

溺婚
明日葉
恋愛
香月絢佳、37歳、独身。晩婚化が進んでいるとはいえ、さすがにもう、無理かなぁ、と残念には思うが焦る気にもならず。まあ、恋愛体質じゃないし、と。
以前階段落ちから助けてくれたイケメンに、馴染みの店で再会するものの、この状況では向こうの印象がよろしいはずもないしと期待もしなかったのだが。
イケメン、天羽疾矢はどうやら絢佳に惹かれてしまったようで。
「歳も歳だし、とりあえず試してみたら?こわいの?」と、挑発されればつい、売り言葉に買い言葉。
何がどうしてこうなった?
平凡に生きたい、でもま、老後に1人は嫌だなぁ、くらいに構えた恋愛偏差値最底辺の絢佳と、こう見えて仕事人間のイケメン疾矢。振り回しているのは果たしてどっちで、振り回されてるのは、果たしてどっち?
元カノと復縁する方法
なとみ
恋愛
「別れよっか」
同棲して1年ちょっとの榛名旭(はるな あさひ)に、ある日別れを告げられた無自覚男の瀬戸口颯(せとぐち そう)。
会社の同僚でもある二人の付き合いは、突然終わりを迎える。
自分の気持ちを振り返りながら、復縁に向けて頑張るお話。
表紙はまるぶち銀河様からの頂き物です。素敵です!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる