17 / 23
プラリネ 2
しおりを挟む
◇
一睡もできないと思っていたのだけれど、アヤからメールがきたおかげで少し安心できたのか、明け方ごろにわたしはソファで眠ってしまっていたらしい。
起きたときには太陽はすっかり昇ってしまっていて、カーテンを透かしてリビングに明るく降り注いでいた。
葛志は朝食も食べないで会社に行ったのだろうか。
早めにマンションを出て、どこかで食べてから会社に行ったとも考えられる。
冷蔵庫の中身はなにも減っていなかったし、葛志がなにかを食べて行った痕跡はなにもなかった。
チクリと、また痛みが胸を突き刺す。
こんな罪悪感、いつまで持てば楽になれるのだろう。
アヤと出逢わなければ、わたしはまだいい奥さんでいられただろうか。
葛志との愛をやり直すこともできただろうか。
ううん、そんなの言い訳だ。
アヤのせいにして、浮気をしているという現実から目を背けようとしているだけ。
夫である葛志が落ち込んでいるというのに、わたしはいまも確実に、アヤのことを、アヤのことだけを愛してしまっているのだ。
今回の件で傷ついているのは葛志のほうのはずなのに、わたしは自分のことだけしか考えていない。
自分の傷をアヤが癒してくれる、そのことしか考えていない。
わたしは、いつからこんなに卑怯者になってしまったんだろう──。
午後3時までは、そんなことをぐだぐだと考えながら、ぼんやりと過ごした。
いままでのこと、これからのこと。
どうしたらいいのかまったく思いつかなくて、目の前が真っ暗だ。
わたしはこのまま葛志に束縛されたまま、一生を終えていくのか……そう考えたら、たまらなくなった。
もしそうなったら、アヤとはどうなってしまうのだろう。
アヤは……誰かと結婚したり、するのだろうか。
するとしたら、男性と? それとも、女性と?
アヤの性別がどっちだとしても、なんなく、アヤならどっちとも結婚できる気がするから不思議だ。
暖房をかけたまま寝てしまったから、肌がガサガサに渇いてしまっている。
顔だけ洗って、適当に化粧水と乳液をつけて、アヤを待つ。
こんなに落ち込んでいると、化粧をする気もなくなるんだな、と自嘲気味に思った。
せっかくアヤに会えるんだからと、なんとか色つきリップだけはつけることにする。
午後3時ぴったりにチャイムが鳴り、扉を開けるとアヤが立っていた。
久し振りに見るアヤは、驚くほどにきらきらと輝いて見える。
本当に、わたしと違う世界の人なのだと……実感してしまう。
玄関に入ると、アヤは黙ってわたしを抱きしめてくれた。
強く、でも優しく。
時折ぽんぽんと、子供をあやすかのように背中を撫でてくれる。
それだけでわたしの涙腺が崩壊するのには、充分だった。
ばかみたいに、わたしは声を上げて泣いた。
傷ついているのは、葛志なのに。落ち込む資格なんて、わたしにはないのに。傷つく資格だって、ないのに。
それでも弱いわたしは傷ついてしまって、こうして泣くことしか、アヤに甘えて泣くことしか、傷を癒すすべを持たないのだ。
アヤはわたしが泣き止むまで、辛抱強くそのままでいてくれた。
どれくらい時間が経っただろう。
やがてようやくわたしの涙も乾くころ、わたしはアヤの持っている男女兼用バッグから、いい香りが漂ってきていることに気がついた。
「……チョコ……?」
数日ぶりに会うのに、初めて発した言葉がこれなんて、いろんな意味でわたしらしい。
アヤは少しだけ身体を離して微笑んで、わたしの頭を撫でた。
「あたり。一緒に食べようと思って、買ってきた」
「……お店は? 休憩時間、何時まで?」
「一時間あるから、大丈夫」
そしてアヤは行儀よく「お邪魔します」とブーツを脱いだ。
アヤのブーツ……女にしては大きいサイズだけれど、これだけでは男か女かは判断できない。
そんなことを考える自分に、相変わらずわたしはなんだかんだでアヤのことが知りたくてたまらないんだな、と気づいて、また泣きたくなる。
アヤはダイニングテーブルの上にチョコの箱を置いて、開いた。
中に入っていたのは、ゆうべわたしがチョコレートのサイトで見たばかりの……プラリネ。
どうして、わざわざこのチョコを……?
そんな思いで見上げるわたしに、アヤは微笑んでみせる。
「これがいまの皐月さんの状況なら。哀しくてつらい状況なら。食べて、なくしちゃおうと思って」
そんな発想、思いつきもしなかった。
「気休めにしかならないかもしれないけど、ボクにできることはこれくらいしかなくて」
「……そんなこと、ない……」
アヤの気持ちが嬉しくてたまらなくなって、また涙があふれる。
アヤと一緒に食べるプラリネは、憎らしいことに、とてもとても美味しかった。
いまのつらく苦しい状況をこうしてわたしは食べて飲み込んで、やがてそれはわたしの力となる。
生きる、力になる。
食べることは生きることなんだよ、と、プラリネを食べながらのわたしの頭を撫でるアヤ。
そんなアヤの隣に立っていると、まるで陽だまりの中にいるようにあたたかい。
心も身体もすっかりあたたまって、わたしはアヤのおかげで心の再生ができたのだと実感した。
一睡もできないと思っていたのだけれど、アヤからメールがきたおかげで少し安心できたのか、明け方ごろにわたしはソファで眠ってしまっていたらしい。
起きたときには太陽はすっかり昇ってしまっていて、カーテンを透かしてリビングに明るく降り注いでいた。
葛志は朝食も食べないで会社に行ったのだろうか。
早めにマンションを出て、どこかで食べてから会社に行ったとも考えられる。
冷蔵庫の中身はなにも減っていなかったし、葛志がなにかを食べて行った痕跡はなにもなかった。
チクリと、また痛みが胸を突き刺す。
こんな罪悪感、いつまで持てば楽になれるのだろう。
アヤと出逢わなければ、わたしはまだいい奥さんでいられただろうか。
葛志との愛をやり直すこともできただろうか。
ううん、そんなの言い訳だ。
アヤのせいにして、浮気をしているという現実から目を背けようとしているだけ。
夫である葛志が落ち込んでいるというのに、わたしはいまも確実に、アヤのことを、アヤのことだけを愛してしまっているのだ。
今回の件で傷ついているのは葛志のほうのはずなのに、わたしは自分のことだけしか考えていない。
自分の傷をアヤが癒してくれる、そのことしか考えていない。
わたしは、いつからこんなに卑怯者になってしまったんだろう──。
午後3時までは、そんなことをぐだぐだと考えながら、ぼんやりと過ごした。
いままでのこと、これからのこと。
どうしたらいいのかまったく思いつかなくて、目の前が真っ暗だ。
わたしはこのまま葛志に束縛されたまま、一生を終えていくのか……そう考えたら、たまらなくなった。
もしそうなったら、アヤとはどうなってしまうのだろう。
アヤは……誰かと結婚したり、するのだろうか。
するとしたら、男性と? それとも、女性と?
アヤの性別がどっちだとしても、なんなく、アヤならどっちとも結婚できる気がするから不思議だ。
暖房をかけたまま寝てしまったから、肌がガサガサに渇いてしまっている。
顔だけ洗って、適当に化粧水と乳液をつけて、アヤを待つ。
こんなに落ち込んでいると、化粧をする気もなくなるんだな、と自嘲気味に思った。
せっかくアヤに会えるんだからと、なんとか色つきリップだけはつけることにする。
午後3時ぴったりにチャイムが鳴り、扉を開けるとアヤが立っていた。
久し振りに見るアヤは、驚くほどにきらきらと輝いて見える。
本当に、わたしと違う世界の人なのだと……実感してしまう。
玄関に入ると、アヤは黙ってわたしを抱きしめてくれた。
強く、でも優しく。
時折ぽんぽんと、子供をあやすかのように背中を撫でてくれる。
それだけでわたしの涙腺が崩壊するのには、充分だった。
ばかみたいに、わたしは声を上げて泣いた。
傷ついているのは、葛志なのに。落ち込む資格なんて、わたしにはないのに。傷つく資格だって、ないのに。
それでも弱いわたしは傷ついてしまって、こうして泣くことしか、アヤに甘えて泣くことしか、傷を癒すすべを持たないのだ。
アヤはわたしが泣き止むまで、辛抱強くそのままでいてくれた。
どれくらい時間が経っただろう。
やがてようやくわたしの涙も乾くころ、わたしはアヤの持っている男女兼用バッグから、いい香りが漂ってきていることに気がついた。
「……チョコ……?」
数日ぶりに会うのに、初めて発した言葉がこれなんて、いろんな意味でわたしらしい。
アヤは少しだけ身体を離して微笑んで、わたしの頭を撫でた。
「あたり。一緒に食べようと思って、買ってきた」
「……お店は? 休憩時間、何時まで?」
「一時間あるから、大丈夫」
そしてアヤは行儀よく「お邪魔します」とブーツを脱いだ。
アヤのブーツ……女にしては大きいサイズだけれど、これだけでは男か女かは判断できない。
そんなことを考える自分に、相変わらずわたしはなんだかんだでアヤのことが知りたくてたまらないんだな、と気づいて、また泣きたくなる。
アヤはダイニングテーブルの上にチョコの箱を置いて、開いた。
中に入っていたのは、ゆうべわたしがチョコレートのサイトで見たばかりの……プラリネ。
どうして、わざわざこのチョコを……?
そんな思いで見上げるわたしに、アヤは微笑んでみせる。
「これがいまの皐月さんの状況なら。哀しくてつらい状況なら。食べて、なくしちゃおうと思って」
そんな発想、思いつきもしなかった。
「気休めにしかならないかもしれないけど、ボクにできることはこれくらいしかなくて」
「……そんなこと、ない……」
アヤの気持ちが嬉しくてたまらなくなって、また涙があふれる。
アヤと一緒に食べるプラリネは、憎らしいことに、とてもとても美味しかった。
いまのつらく苦しい状況をこうしてわたしは食べて飲み込んで、やがてそれはわたしの力となる。
生きる、力になる。
食べることは生きることなんだよ、と、プラリネを食べながらのわたしの頭を撫でるアヤ。
そんなアヤの隣に立っていると、まるで陽だまりの中にいるようにあたたかい。
心も身体もすっかりあたたまって、わたしはアヤのおかげで心の再生ができたのだと実感した。
0
お気に入りに追加
9
あなたにおすすめの小説
エリート警察官の溺愛は甘く切ない
日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。
両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉
粗暴で優しい幼馴染彼氏はおっとり系彼女を好きすぎる
春音優月
恋愛
おっとりふわふわ大学生の一色のどかは、中学生の時から付き合っている幼馴染彼氏の黒瀬逸希と同棲中。態度や口は荒っぽい逸希だけど、のどかへの愛は大きすぎるほど。
幸せいっぱいなはずなのに、逸希から一度も「好き」と言われてないことに気がついてしまって……?
幼馴染大学生の糖度高めなショートストーリー。
2024.03.06
イラスト:雪緒さま
一夜限りのお相手は
栗原さとみ
恋愛
私は大学3年の倉持ひより。サークルにも属さず、いたって地味にキャンパスライフを送っている。大学の図書館で一人読書をしたり、好きな写真のスタジオでバイトをして過ごす毎日だ。ある日、アニメサークルに入っている友達の亜美に頼みごとを懇願されて、私はそれを引き受けてしまう。その事がきっかけで思いがけない人と思わぬ展開に……。『その人』は、私が尊敬する写真家で憧れの人だった。R5.1月
不埒な一級建築士と一夜を過ごしたら、溺愛が待っていました
入海月子
恋愛
有本瑞希
仕事に燃える設計士 27歳
×
黒瀬諒
飄々として軽い一級建築士 35歳
女たらしと嫌厭していた黒瀬と一緒に働くことになった瑞希。
彼の言動は軽いけど、腕は確かで、真摯な仕事ぶりに惹かれていく。
ある日、同僚のミスが発覚して――。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる