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ガトーオペラ 2
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夏美は満足そうな、どこか悪戯っぽい笑みを浮かべてわたしとアヤとを順繰りに見ると、あいた椅子に置いていたコートとバッグを取り上げる。
「じゃあわたしは退散するわね。アヤ、皐月を泣かしたら承知しないわよ」
「夏美っ……!」
追いすがろうとするわたしを振り向くことなく、夏美は颯爽とマンションを出て行ってしまった。
目の前でパタンと閉まった玄関の扉を呆然と見つめ続けていたわたしは、「皐月さん」と呼ばれてびくりと肩を震わせる。
振り向けば、リビングの入り口にアヤが立っていた。
「せっかく夏美さんが気をきかせてくれたんだし、おやつだけでも食べようか」
「あ……は、はい」
はいって、わたしはなにを呑気な返事をしているのだろう。
そう思いつつも、しっかりと玄関の鍵を閉める。こんな場面に万が一、葛志が帰ってきたりなんかしたら、それこそ修羅場だ。
といっても葛志も鍵を持っているんだった、と気づいて、自分が相当動揺しているのがわかる。
この時間に葛志が帰ってくることはないけれど、もしそのときは、アヤは女なのだと言い張ろう。
このときほど、アヤの中性的な容貌に感謝したことはない。
それにしても夏美も、なにを考えているのだろう。
わたしのためと言っていたけれど、状況を楽しんでいるとしか思えない。
リビングに入ると、ダイニングテーブルの上にアヤがケーキの箱から中身を取り出そうとしていた。
……まさか自分の家の中にアヤを入れるときがくるなんて……。
見慣れた自分の家と、きれいすぎるアヤとがどうしてもマッチしなくて、不思議な感じがする。
「お皿、出してもらえる?」
アヤに声をかけられて、またしても身体が震える。緊張して、嬉しすぎて……震えて、しまう。
それをごまかすように食器棚に行き、二人分のお皿をテーブルの上に出した。
アヤはその上に、ケーキ箱の中身を乗せた。
アヤが持ってきたそれは、ガトーオペラ。
前にアヤが、わたしにお詫びとして奢ってくれたケーキだった。
「おやつの種類は任せるって夏美さんに言われてね」
「どうして、それがガトーオペラなんですか?」
アヤはわたしのほうを振り向き、ちょっと困ったように微笑む。
「お詫び、かな」
「わたしへの?」
「そうなるね」
「なにに対しての、お詫びですか?」
するとアヤは少し考え込むように天井を見上げて、小さく息を吐き出した。
「……自分でもわからない」
アヤのこんな困った顔を見るのは初めてで、それがなんだか嬉しくて、わたしは微笑んでいた。
「それじゃあ、意味ないじゃないですか」
「やっぱりそうかな?」
「大体、どうしてお詫びだとガトーオペラになるんですか?」
「それには特に意味はないかな。たまたま、この前皐月さんに出したお詫びに選んだのがガトーオペラだったから」
ようやく普通に話し出したわたしに、アヤはほっとしたように天井からわたしへと視線を戻す。
アヤが、わたしを見つめてくれていることが嬉しい。
最後に会ったときは、最低の人だなんて思ったのに。本当に、アヤは最低の人なのかもしれないのに。
わたしって、ゲンキンだ。
「ケーキ、二つありますね」
「夏美さんと皐月さんのぶんだよ。まさか夏美さんが帰っちゃうとは思わなかった」
「ですよね。夏美ったら、強引すぎ」
少し怒ったような口調で言いながらココアを入れるわたしの後ろで、アヤが吹き出した。
クスクス笑いながら、わたしのすぐ背後に立つ。
「この前も思ったけど、皐月さんて怒ると恐いよね。普段はびくびくしてて、臆病で真面目な犬みたいなのに」
「それって、喧嘩売ってます?」
「どうだろう」
お詫びと言ってガトーオペラを持ってきたクセに、アヤはそんなことを言う。
本当に、正体のわからない人。不思議な人。でも、……いまわたしが、好きな人……。
アヤはわたしの身体にぴったりとくっつくようにして、ココアを入れるわたしの手元を見下ろしてくる。
「ボクのぶんも、入れてくれるの?」
「こうなったからには、仕方ないですし。夏美のぶんのガトーオペラは、アヤさんが食べたらいいですよ」
胸の高鳴りを知られたくなくて、早口になってしまう。
ココアの入った二つのマグカップを持ち上げようとしたその手を、アヤの手が上からそっと包み込む。わたしよりも、ずいぶん大きな手。
だけどごつごつしているわけではなくて……器用そうな手、というのが一番近い表現だと思う。
「いまって、休憩時間なんですか?」
「うん。一時間、もらってきたよ」
「ここには、歩きで?」
「車」
言いながらアヤは、マグカップの取っ手を握ったわたしの指を引きはがしてしまう。
そのままわたしの手を取って口元に持って行き、わたしの指にそっとくちづけた。
どくんと心臓がひときわ大きく跳ね上がるのがわかる。
「皐月さん。最近眠れてないの?」
その言葉に、自分がひどい顔をしていたのだと思い出す。
なんて顔を、アヤに見られてしまったのだろう。
「ストレスからくる、不眠症で……お薬ももらってるけど、飲んでもずっと、眠れてなくて」
必死に取り繕おうとするわたしを笑うわけでもなく、アヤはもう片方の手を使ってわたしの身体を振り向かせた。
アヤに顔を見られるのが嫌で、わたしは顔をうつむかせる。
「人がいると、眠れないほう?」
アヤのささやきが、頭の上から降ってくる。
「どっちだろう……でも、アヤさんと会ってるときは眠れてたんです」
緊張のあまり、よけいなことをしゃべってしまった、と気づいたけれど、もう遅い。
クスッとアヤが笑った気配がして、そろそろと顔を上げてみると、アヤは楽しそうというよりは嬉しそうな顔をして、わたしを見下ろしていた。
「可愛いね、皐月さん」
文句を言おうとしたわたしの唇に、アヤの指が触れる。
それだけでもう、身体の隅から隅へと熱が行き渡ってしまう。
「じゃあ、ボクがいるうちに寝ちゃおうか」
「え……?」
「寝室、どこ?」
アヤはわたしから身体を離すと、リビングを突っ切って「ここかな」と寝室の扉を開ける。
振り返り、
「入ってもいい?」
わたしがコクリとうなずくと、「お邪魔します」と寝室へと姿を消す。
その仕草にはためらいもなにも感じられない。
わたしのほうがずっとずっと緊張している。
さっきから、ずっと。
アヤの後から続いて寝室に入ると、アヤは「横になって」とまるで自分の部屋のようにダブルベッドを指さした。
「でも、ケーキが……」
「あとで食べたらいいよ。眠れるうちに少しでも眠ったほうが、身体にもいいでしょ?」
簡単に言い含められて、わたしはベッドの上に横たわる。
すぐ脇に、アヤが腰かけてわたしの身体に布団をかぶせた。
いつも葛志と抱き合って寝ているベッドに、いまはアヤとふたりきりでいる。
こんなの、絶対におかしいことだ。許されないこと。
なのに、アヤに髪に触れられ、その長い指で梳かれると、たちまち心地良くなってしまうから不思議だ。
アヤはそのテノールのきれいな声で、小さく歌を歌い始めた。きよしこの夜を。
歌声だけでは、男かも女かもわからない。男のように聞こえるけれど、女の人もこんな低い声出せる人いると思うし。
ううん、アヤは見た目だってどっちかわからない。
本当に、不思議な人……。
わたしの頭を優しく撫でながら、髪を梳きながら、きよしこの夜を歌うアヤ。
目を閉じていたわたしの身体から次第に緊張がとけていき、かわりにこれ以上ないくらいの安堵感に包まれる。
アヤに頭を撫でられるのって、なんて心地いいんだろう。
誰かに子守唄を唄ってもらうのなんて、子供の頃以来だ。
いつのまにかわたしの意識は、深い眠りに落ちていた。
「じゃあわたしは退散するわね。アヤ、皐月を泣かしたら承知しないわよ」
「夏美っ……!」
追いすがろうとするわたしを振り向くことなく、夏美は颯爽とマンションを出て行ってしまった。
目の前でパタンと閉まった玄関の扉を呆然と見つめ続けていたわたしは、「皐月さん」と呼ばれてびくりと肩を震わせる。
振り向けば、リビングの入り口にアヤが立っていた。
「せっかく夏美さんが気をきかせてくれたんだし、おやつだけでも食べようか」
「あ……は、はい」
はいって、わたしはなにを呑気な返事をしているのだろう。
そう思いつつも、しっかりと玄関の鍵を閉める。こんな場面に万が一、葛志が帰ってきたりなんかしたら、それこそ修羅場だ。
といっても葛志も鍵を持っているんだった、と気づいて、自分が相当動揺しているのがわかる。
この時間に葛志が帰ってくることはないけれど、もしそのときは、アヤは女なのだと言い張ろう。
このときほど、アヤの中性的な容貌に感謝したことはない。
それにしても夏美も、なにを考えているのだろう。
わたしのためと言っていたけれど、状況を楽しんでいるとしか思えない。
リビングに入ると、ダイニングテーブルの上にアヤがケーキの箱から中身を取り出そうとしていた。
……まさか自分の家の中にアヤを入れるときがくるなんて……。
見慣れた自分の家と、きれいすぎるアヤとがどうしてもマッチしなくて、不思議な感じがする。
「お皿、出してもらえる?」
アヤに声をかけられて、またしても身体が震える。緊張して、嬉しすぎて……震えて、しまう。
それをごまかすように食器棚に行き、二人分のお皿をテーブルの上に出した。
アヤはその上に、ケーキ箱の中身を乗せた。
アヤが持ってきたそれは、ガトーオペラ。
前にアヤが、わたしにお詫びとして奢ってくれたケーキだった。
「おやつの種類は任せるって夏美さんに言われてね」
「どうして、それがガトーオペラなんですか?」
アヤはわたしのほうを振り向き、ちょっと困ったように微笑む。
「お詫び、かな」
「わたしへの?」
「そうなるね」
「なにに対しての、お詫びですか?」
するとアヤは少し考え込むように天井を見上げて、小さく息を吐き出した。
「……自分でもわからない」
アヤのこんな困った顔を見るのは初めてで、それがなんだか嬉しくて、わたしは微笑んでいた。
「それじゃあ、意味ないじゃないですか」
「やっぱりそうかな?」
「大体、どうしてお詫びだとガトーオペラになるんですか?」
「それには特に意味はないかな。たまたま、この前皐月さんに出したお詫びに選んだのがガトーオペラだったから」
ようやく普通に話し出したわたしに、アヤはほっとしたように天井からわたしへと視線を戻す。
アヤが、わたしを見つめてくれていることが嬉しい。
最後に会ったときは、最低の人だなんて思ったのに。本当に、アヤは最低の人なのかもしれないのに。
わたしって、ゲンキンだ。
「ケーキ、二つありますね」
「夏美さんと皐月さんのぶんだよ。まさか夏美さんが帰っちゃうとは思わなかった」
「ですよね。夏美ったら、強引すぎ」
少し怒ったような口調で言いながらココアを入れるわたしの後ろで、アヤが吹き出した。
クスクス笑いながら、わたしのすぐ背後に立つ。
「この前も思ったけど、皐月さんて怒ると恐いよね。普段はびくびくしてて、臆病で真面目な犬みたいなのに」
「それって、喧嘩売ってます?」
「どうだろう」
お詫びと言ってガトーオペラを持ってきたクセに、アヤはそんなことを言う。
本当に、正体のわからない人。不思議な人。でも、……いまわたしが、好きな人……。
アヤはわたしの身体にぴったりとくっつくようにして、ココアを入れるわたしの手元を見下ろしてくる。
「ボクのぶんも、入れてくれるの?」
「こうなったからには、仕方ないですし。夏美のぶんのガトーオペラは、アヤさんが食べたらいいですよ」
胸の高鳴りを知られたくなくて、早口になってしまう。
ココアの入った二つのマグカップを持ち上げようとしたその手を、アヤの手が上からそっと包み込む。わたしよりも、ずいぶん大きな手。
だけどごつごつしているわけではなくて……器用そうな手、というのが一番近い表現だと思う。
「いまって、休憩時間なんですか?」
「うん。一時間、もらってきたよ」
「ここには、歩きで?」
「車」
言いながらアヤは、マグカップの取っ手を握ったわたしの指を引きはがしてしまう。
そのままわたしの手を取って口元に持って行き、わたしの指にそっとくちづけた。
どくんと心臓がひときわ大きく跳ね上がるのがわかる。
「皐月さん。最近眠れてないの?」
その言葉に、自分がひどい顔をしていたのだと思い出す。
なんて顔を、アヤに見られてしまったのだろう。
「ストレスからくる、不眠症で……お薬ももらってるけど、飲んでもずっと、眠れてなくて」
必死に取り繕おうとするわたしを笑うわけでもなく、アヤはもう片方の手を使ってわたしの身体を振り向かせた。
アヤに顔を見られるのが嫌で、わたしは顔をうつむかせる。
「人がいると、眠れないほう?」
アヤのささやきが、頭の上から降ってくる。
「どっちだろう……でも、アヤさんと会ってるときは眠れてたんです」
緊張のあまり、よけいなことをしゃべってしまった、と気づいたけれど、もう遅い。
クスッとアヤが笑った気配がして、そろそろと顔を上げてみると、アヤは楽しそうというよりは嬉しそうな顔をして、わたしを見下ろしていた。
「可愛いね、皐月さん」
文句を言おうとしたわたしの唇に、アヤの指が触れる。
それだけでもう、身体の隅から隅へと熱が行き渡ってしまう。
「じゃあ、ボクがいるうちに寝ちゃおうか」
「え……?」
「寝室、どこ?」
アヤはわたしから身体を離すと、リビングを突っ切って「ここかな」と寝室の扉を開ける。
振り返り、
「入ってもいい?」
わたしがコクリとうなずくと、「お邪魔します」と寝室へと姿を消す。
その仕草にはためらいもなにも感じられない。
わたしのほうがずっとずっと緊張している。
さっきから、ずっと。
アヤの後から続いて寝室に入ると、アヤは「横になって」とまるで自分の部屋のようにダブルベッドを指さした。
「でも、ケーキが……」
「あとで食べたらいいよ。眠れるうちに少しでも眠ったほうが、身体にもいいでしょ?」
簡単に言い含められて、わたしはベッドの上に横たわる。
すぐ脇に、アヤが腰かけてわたしの身体に布団をかぶせた。
いつも葛志と抱き合って寝ているベッドに、いまはアヤとふたりきりでいる。
こんなの、絶対におかしいことだ。許されないこと。
なのに、アヤに髪に触れられ、その長い指で梳かれると、たちまち心地良くなってしまうから不思議だ。
アヤはそのテノールのきれいな声で、小さく歌を歌い始めた。きよしこの夜を。
歌声だけでは、男かも女かもわからない。男のように聞こえるけれど、女の人もこんな低い声出せる人いると思うし。
ううん、アヤは見た目だってどっちかわからない。
本当に、不思議な人……。
わたしの頭を優しく撫でながら、髪を梳きながら、きよしこの夜を歌うアヤ。
目を閉じていたわたしの身体から次第に緊張がとけていき、かわりにこれ以上ないくらいの安堵感に包まれる。
アヤに頭を撫でられるのって、なんて心地いいんだろう。
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