蠍の舌─アル・ギーラ─

希彗まゆ

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 ◆

 室内の時間が止まってしまったようだった。

「どういうこと……?」

 結珂は何が何だかわからなくなり、それでも今「閏」がした告白によって凍りつくような真実が明らかにされたことを頭のどこかで悟っていた。

「なんで……? どういうことか分からないよ」

 でも感情はついていかない。嘘だという思いがいっぱいで、そう言わずにいられなかった。抱きしめられたまま、「閏」の顔を見上げる。気のせいか彼は、さっきより青冷めているみたいだった。

  ─── いや、彼は「閏」ではない。結珂達が知っている「閏」ではない。

「達弥、なのか」

 続き部屋から出てきた坂本は、バルコニーの前で足を立ち止めてそう聞いた。

「お前はおれ達が知っている達弥なのか」
「そしてあなたが中学一年の冬まで知っていた『本物のウルウ』」

 思わぬ第三者の声に、三人は振り向いた。部屋の入り口にいつのまにか、早瀬彩乃が立っていた。着替えもせず、制服姿で。
 長い髪はまとめられもせず、ぼさぼさになっていた。

「家に帰ったら達弥、あなたまでいなかった。ふたり一緒にいなくなるなんて初めてでしょ? 何かあったと思って昨夜飛行機に乗ったの。 ─── 雪がやむまで、街のホテルにカンヅメでここまでこれなかったけど」

 口調はとても静かだった。
 達弥は彩乃としばらく目を合わせていたが、ようやく口を開いた。

「……どうして知ってるんだ、おれがウルウだったことを。おれとタツミのほかは知らないはずだった」
「あたしは誰からも聞いてないわ、自分で気付いたの」
「嘘だ!」

 達弥は叫ぶ。結珂を抱きしめる腕、そしてナイフを持つ手に力がこもる。

「そうか ─── タツミが喋ったんだな、やっぱりあいつはおれに勝つためにかわりに罪をかぶったんだ! おれに聖香を殺された報復をするために!」
「違うわ」
「違わない!  ─── 彩乃は知らないんだ、あいつと入れ替わったあとおれがどれだけ苦しかったか。タツミがおれを見下して嘲笑しているところを想像すると、夜も眠れなかった……!」

 夜。
  ─── そうだ、彼は思い出す。

「入れ替わったあの日から、おれの夜はいつも赤い雪が降っていた。聖香が死んだときのように、雪の数が増えるにつれおれの理性もどんどん覆われていくんだ。
 でも鏡を見ればそれも消えた。夜、ひとりになってウルウの姿に戻る、そして鏡を見る。するとそこにあいつを見ることができるんだ。おれの姿になっておれを嘲笑うあいつの姿を。
 おれは昔のように『蠍の舌』を思い出して、あいつを想像で殺せることに安心する。それでようやく眠りに就けていた。
  ─── 分かるか、あいつはおれにそんな苦しい思いをさせたくて入れ替わったのさ! でなきゃ殺人の罪なんて誰がかぶりたがる!」

 達弥の叫びが部屋にびりびり震えた。坂本は深い衝撃を受けたように、じっと唇を噛みしめて聞いていた。
 しばらく沈黙が続いたあと、彩乃が口を開いた。

「あたし、聖香が死んでしばらくの間、あなた達の様子が妙なことに気付いた。最初はあなたに聞こうと思ったの、でもあなたはいつもあたしを避けていたから閏に ─── ううん、タツミに聞いたわ。どうして入れ替わっているのか、いつからなのかって。
 タツミはずっとはぐらかしていた。長い間教えてくれなかったわ。でもあたしが自分の気持ちを話すと、『絶対誰にも言わないように』って何度も念を押してやっと本当のことを話してくれたの。あたし、もし人に喋ったらいくら義姉でも容赦はできないとまで言われたわ」

 その時のことを思い出したように、彩乃はわずかに苦笑する。

「仲が悪いのにどうして罪をかぶったりしたのって、あたしは聞いた。だってタツミは聖香が好きだったでしょ? 事故とはいえ聖香を突き落としてしまったウルウのことを、どうしてそんなにまでかばえるのって」
『おれにもはじめは分からなかった』

 タツミはそう言ったらしい。

『ただ ─── あの時、聖香を突き落としたウルウを神崎さんが見ていたのを知ったとき、頭の中にあったのはウルウを助けなきゃいけないということだけだった」

  ─── そしてとても悔やんだのだと。

 どうして自分とウルウと聖香と三人で、よく話し合わなかったのだろうと。
 どうして嫉妬に目がくらんで、たったひとりの弟をいっときでも憎んでしまったのだろうと。

「タツミは仲直りがしたくて、何度もあなたに近付こうとした。でもあなたは家に帰ってもずっと部屋に閉じこもって鍵をかけてしまってた。高校も同じところを受験したのに、学校で会ってもあなたはタツミを目のかたきにしてた。
 タツミが中学のとき一時期賀久といたのも、あなたのことが苦しかったからなのよ」

「 ─── 」

 達弥は何か言いかけたが、すぐに歯を食いしばった。体がかたまってしまったように動けないでいた結珂は、自分の首のすぐ下に回された彼の腕が小刻みに震えていることに気付いた。
 数メートル先にいる坂本と視線が合う。自戒するようにぎゅっと唇を引き結んでいた坂本は、それを合図にしたように、何かを断ち切るようにかぶりを振り、そっと足を踏み出す。

「だったらなぜあんな劇をやろうとした」

 達弥の顔は、明らかに血の気を失っていた。こんなに寒いのに、こめかみから汗すら流れている。

「おれが書いた『蠍の舌』を、逆に利用して今もおれを憎んでいる証にした、そうとしか取れない!」
「確かにあなたが書いたままの結末ならそのとおりね。女の子を取り合ったすえ双子の弟が兄を殺して勝利する、それで終わりだもの」

 彩乃の黒目がちの瞳は、口調と同じように穏やかだった。ただ慈しみしか感じられないそれは、これ以上ない真実味があった。

「でも、どうしてあなたはタツミが書き換えた『蠍の舌』を最後まで読まなかったの?」

 コト、

 坂本の足が落ちていた本のはしに触れる。しかし達弥は気付かないように、彩乃の話に耳を傾けていた。
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