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結婚の裏話
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ミナミコーポレーションの南社長、そして難波さんとお店の前で別れると
わたしたちはまた、あの黒塗りの車で会社へと戻った。
車内では、また椛さんがわたしに手を出そうとしてきたけれど
「いまはきっちり勤務時間内です。いちゃつくのは許しません」
静夜の鋭い眼光に、椛さんは肩をすくめてあきらめたみたい。
でも、手はしっかりつないでいたけれどそのくらいは、と静夜はあきらめたらしい。
あきらめた、というか、どこまでもマイペースな椛さんに対して呆れているのかもしれないけれど。
もちろんミナミコーポレーションとの取引は、うまくいって
結果を報告すると、重役の皆さんは「さすが社長、どんな取引でもお手のものですね」とご機嫌だった。
定時になっても、今日は仕事が山積みで帰れないらしく午後7時ごろ、内線で
『りんごちゃん。先に帰っていてくれて、いいよ。夏斗を迎えによこすから』
と言ってくれたのだけど……
上司が、それも自分の旦那さまががんばっているのに、わたしひとりだけ帰るわけにはいかない。
「静夜もまだ仕事するみたいですし、わたしも仕事が残ってますし、わたしも残ります」
『もう外は真っ暗だし、帰りなさい』
穏やかに優しく響く、椛さんの声が耳に心地いい。
「まだ、大丈夫です」
『だめ。帰りなさい。残った仕事は家に持ち帰って、土日で片付けてもらうって寝屋川くんからも聞いてるよ?』
わたしの仕事のことを、静夜はちゃんと椛さんに話を通してくれていたらしい。
ちらりと静夜を見ると、いつものクールな表情でカタカタとパソコンを打っている。
「でも、」
『ぼくもすぐに帰るから。気兼ねしないで』
ね? と優しく念を押されて、とうとう折れた。
水口夏斗を待っているあいだ帰る準備をしていると、ふと、それまで黙々と仕事をこなしていた静夜が、声をかけてきた。
「そういえば、おまえと社長の結婚のこと、おまえのご両親は知ってるのか?」
「んー……どうだろう」
それはわたしも昨日ちらりと考えないでもなかったけれど、へたに「静夜以外の人と結婚した」だなんて報告したら、「離婚しろ」って言われるかもしれない、と、二の足を踏んでいたのだ。
「どうだろうって、おまえ……大切な話だろう」
「わかってるよ。そのうち、話す……と、思う」
「話さないまま社長の子を妊娠しただなんて騒ぎになったら、もっと大変なことになると思うけどな」
さらりと言う、静夜。
そっ……それは、あり得ない話……とはいままでの椛さんの言動からして、言い切れない。
「なんなら、俺が報告してやろうか」
「いいっ! それは絶対にやめて!」
静夜の口から「りん子は別の男と結婚しました」だなんて聞いた日には、うちの両親はそれこそわたしの居場所を静夜からでも聞き出して、ソッコーで離婚させちゃうかもしれない。
そして、今度こそ静夜と再婚させられるかも……。
ああ、神様。
考えただけで、ぞっとします!
コーヒーにミルクをたっぷり入れて少しずつ飲みながら待っていると、例のごとく首から紐で下げていたケータイに着信があった。
わたしが服の中からケータイを取り出すのを静夜が怪訝そうに見ているけれど、これは習慣でしてきちゃったんだから仕方がない。
スーツ一式と一緒に渡された、よそゆきのバッグに入れておけばよかった。
軽く後悔しつつ、ディスプレイを見ると──水口夏斗からメールが入っていた。
『いま会社に到着しました、りん子さま』
なんだ、メールだったら水口夏斗、わたしのことちゃんと本名で呼べるんだ。
ケータイを閉じようとしていたわたしは、「ん?」とあることに気がつく。
いままで気づかなかったけれど、いつのまにか未読メールの表示が点滅している。
あれ、これいつからきてたメールだろう。
開いてみると、お母さんからだった。
『りん子、やったわね! 結婚おめでとう! 玉の輿おめでとう! これでうちの借金も全部返せたし、次は孫の顔を見せてね!』
最後は、ハートマークでしめくくられている。
確かにわたしの携帯電話のメアドだけは、お母さんにだけはしらせていたけれど……だからお母さんからケータイにメールがくる、という現象はぜんぜん不思議では、ないのだけれど。
電話番号は、いろいろとうるさくなることを見越して教えていない。
だからメールだけがきた、んだろうけど……問題は、別のところにある。
ひとつ深呼吸をして気持ちを落ち着かせてから、メールの着信日を確認してみる。
お母さんからのメールは、おとといの夜のうちに届いたらしい。
おとといの夜って……わたし、まだ椛さんと結婚してなかった、よね……?
なにがなんだかわけがわからないまま、コーヒーカップを洗って片付けるわたしの背後から、がちゃっといきなり扉が開いて声がかけられた。
「りんご、じゃねぇりん子! 遅い! いつまで待たせんだ!」
そこに現れたのは、水口夏斗。
そして水口夏斗は静夜と目が合うと、「あ、どーも」と軽く頭を下げる。
このふたり、どうやら面識があるらしい。
いままでにも水口夏斗、会社にきたことがあるのかもしれない。
と、いうか。
「そんなに待たせました?」
「メールやっただろ?」
「だってメールがきたのって、いまさっきですよ?」
「メール送ってもすぐにこねぇから、待ちきれなくて顔見知りの社員に案内してもらってここまで迎えにきたんだよ。ったく、りんごは待ち合わせの時間も守れねぇのかよ」
「いや、だからあなたからメールがきたのって、ついいまさっきですってば」
どんだけせっかちなんだ、水口夏斗、あんたって奴は!
そのまま口論になりそうなところへ、
「ひとつ、いいか」
静夜が眼鏡を中指で押し上げる。
「水口くん。りん子は元々の身分はどうであれ、いまは社長の奥さまなんだろう? だったら、その言葉遣いは感心しないな」
「え、でもりんご相手だとタメ口のほうが話しやすいし。第一、椛さまからはそんな注意受けてないぜ?」
「社長のことだから、様子を見ているんだろう。社長はどうやらりん子のことが大事らしいから、注意されるのも時間の問題だと思うが」
ぐっとつまる、水口夏斗。
しぶしぶのように、わたしに向かって背筋をピンと張る。
「失礼いたしました、りん子さま。お迎えにあがりましたので、帰りましょう」
なんだか、水口夏斗にそんなふうにしゃちほこばられると、調子が狂うなあ。
「ありがとう」
曖昧に微笑みを返しつつ書類の束を持って一応「お先に」と静夜に声をかけ、秘書室をあとにする。
わたしの大荷物に気づいた水口夏斗が、わたしの両腕からそれを軽々と抱え上げた。
「持ち帰りの仕事ですか?」
「あ……はい」
「椛さまも、よく仕事持ち帰ってるからなぁ」
「あ」
はたと、わたしは足を止めた。
「ん?」
水口夏斗が、振り返る。
「社長に、挨拶だけでもさせてください。なんにも言わないで先に帰るんじゃ、夫婦としてあんまりですから」
それに、聞きたいこともちょっとだけあるし。
わたしと水口夏斗は、秘書室からすぐ近くの社長室、その扉の前に立った。
コンコン、とノックをすると「どうぞ」と椛さんの、いつもの穏やかな声。
「失礼します。……社長、水口さんが迎えに来てくださったので、お言葉に甘えて先に帰らせていただきますね」
「うん、──あ、りんごちゃん」
「はい」
「ちょっと」
手招きをする、椛さん。
まさかまた太ももの上に座らされたりしないだろうな、と警戒しながら近づくと、今度は椛さんのほうが立ち上がってわたしの腰をつかみ、ぐいと自分のほうへ引き寄せたかと思うと、唇にキスをした。
軽く、触れるだけのキス。
なのに相変わらず、はちみつみたいに甘いキス。
「おやすみの、キス。ぼくが帰るころにはりんごちゃん、眠ってるかもしれないからね」
「そんなに、遅くなりそうなんですか?」
「昨日定時で上がらせてもらったぶんと、おととい早めに退社したぶん。それに、ハネムーンのぶん前倒しで仕事しなくちゃいけないから」
そこで水口夏斗が、からかうように口を挟んだ。
「おとといは急きょ鎌倉まで飛んで、大変でしたからね」
「鎌倉?」
わたしは、聞きとがめる。
鎌倉って……わたしの実家がある場所だ。
なかなかに嫌な予感を覚えつつ、聞いてみることにする。
「あの、社長。わたしの母からおととい、こんなメールが届いてたみたいなんですけど」
「ん? どれ?」
わたしがお母さんからのメールを開いて見せると、椛さんは楽しそうに笑った。
「ははっ。実際に会ったときも思ったけど、りんごちゃんのお母さんて心に正直な人だよね。お父さんは厳格そうな人だったけど、威勢の良さはお父さんにも負けてないよね。やっぱり孫の顔は早く見せてあげないとねぇ」
「じっ……実際に会った?」
「うん。おととい、結婚の承諾をしてもらいに、鎌倉のりんごちゃんの実家にお邪魔したんだよ」
そんなの、初耳ですよっ!?
「りんごちゃんはもう成人してるけど、やっぱり親御さんの了解はもらいたかったしね」
「肝心のわたし本人の了承は、とりませんでしたよね?」
「この際、りんごちゃんの意志なんて関係ないからね」
さらりと、椛さんは言う。
「か、関係ないって……」
「調べてわかったんだけど、りんごちゃん。りんごちゃんが寝屋川静夜と結婚しろってご両親に言われていたのは、実家が多額の借金を抱えていたからそのカタに、ってことだったんだよね? 寝屋川くんの父親は、わりと大きな会社の社長だし。だったらその借金をなくしてしまえる財力のある男であれば、別にりんごちゃんの結婚相手は寝屋川くんでなくともいいわけだ」
「自分の妻にぜひ、って話を椛さまがお出しになったら、あのルミエール・ファクトリーの社長と結婚してもらえるならって、大喜びしてたぜ、りんごのご両親」
もちろん両親ともども、わたしと椛さんの結婚を了承したそうだ。
「実家に寄らせてもらったついでに、実家に残っていたりんごちゃんの下着や服のサイズも見せてもらったんだ。そろえるのに必要だったからね。ちょうどよかったよ」
わたしは、くらりと軽いめまいを覚えた。
そうか、それでお母さんからのあのメールか。
椛さんにそろえてもらった服やブラのサイズがぴったりだった理由も、これで判明した。
だけど、謎はまだまだあるぞ。
「調べたって……昨日社長はわたしと、静夜のこと話しましたよね? 寝屋川静夜と結婚するつもりだったの?ってわたしに聞きましたよね? なんで知らないふりしてたんですか?」
「りんごちゃんが寝屋川くんのこと、どう思ってるのか一応知りたかったから。好奇心かな」
「それでもしわたしが静夜と結婚したかったって言ってたら、どうするつもりだったんですか?」
「まったく問題なく、りんごちゃんと新婚生活を送る予定だったけど?」
にこにこと、変わらぬ笑顔で椛さん。
こ、この人の感覚って……ぜんぜん、わからない。
ほんとにマイペース。
俺様とはまた違うタイプな気がするけれど、間違いない。絶対この人、Sだ。ドSだ。
薄々感じてたけど、いまはっきりと確信した。
「どうして社長は、そこまでわたしと結婚したいって思ってくれたんですか?」
それが一番の、疑問。
なのに椛さんは、笑顔を崩すことなく答える。
「はじめに言ったでしょ? りんごちゃんはぼくの恩人だからって」
「そんな理由で結婚なんてする人、」
「ここにいるけど?」
──世の一般常識は、あなたには通用しないんですね、椛さん。
ああ、でもやっぱり椛さんはわたしに対して恋愛感情なんか、これっぽっちも持ってくれていないんだ。
はっきりとそれがわかって、胸がぎゅうっとしめつけられる。
「……書類の上でだけの結婚なら、別にキスしたりする必要もないんじゃないですか」
「そんなの、つまらないじゃないか。せっかく結婚したんだから、どうせなら愛を育みたい」
「人の心って、そんなに簡単に恋に落ちるものじゃないと思います」
──うそだ。
人の心は、確かに動かないときは徹底して動かないけれど
落ちるときには、いともたやすく落ちる。
現にいま、わたしは椛さんに惹かれている。
結婚までしておいて
さんざん思わせぶりなことをしておいて
わたしひとりだけ恋に落ちるだなんて、……そんなの、ひどい。
唇を噛んでうつむくと、椛さんの長い指が伸びてきて、クッと顎を持ち上げられた。
ドキリとした。
椛さんがいままでにないくらい、真剣な顔をしていたから。
「ぼくは必ず手に入れるよ。りん子、きみの心も──身体も。ぼくだけのものにしてみせる」
ドクン、ドクンと心臓が早鐘のように鳴る。
いま、わたしのこと名前、で……。
そんな、こと……そんなこと言われたら、まるで告白みたいなそんなこと言われたら
ほんとうに、本気で好きになっちゃうよ──。
椛さんは、どうしたらいいのかわからずに顔も身体もどうしてか火照ったまま、立ち尽くしているわたしをもう一度抱き寄せ、唇にそっとキスをくれる。
顔を離すと、もう椛さんはいつもの穏やかな、笑顔。
「今度こそ、おやすみのキス。ぼくは適当に外食するから、夕食食べてていいからね。りんごちゃんもあんまり無理しないで、早めに寝るんだよ」
はい、となんとか声を絞り出そうとしたけれど、かなりかすれたものになってしまった。
わたしたちはまた、あの黒塗りの車で会社へと戻った。
車内では、また椛さんがわたしに手を出そうとしてきたけれど
「いまはきっちり勤務時間内です。いちゃつくのは許しません」
静夜の鋭い眼光に、椛さんは肩をすくめてあきらめたみたい。
でも、手はしっかりつないでいたけれどそのくらいは、と静夜はあきらめたらしい。
あきらめた、というか、どこまでもマイペースな椛さんに対して呆れているのかもしれないけれど。
もちろんミナミコーポレーションとの取引は、うまくいって
結果を報告すると、重役の皆さんは「さすが社長、どんな取引でもお手のものですね」とご機嫌だった。
定時になっても、今日は仕事が山積みで帰れないらしく午後7時ごろ、内線で
『りんごちゃん。先に帰っていてくれて、いいよ。夏斗を迎えによこすから』
と言ってくれたのだけど……
上司が、それも自分の旦那さまががんばっているのに、わたしひとりだけ帰るわけにはいかない。
「静夜もまだ仕事するみたいですし、わたしも仕事が残ってますし、わたしも残ります」
『もう外は真っ暗だし、帰りなさい』
穏やかに優しく響く、椛さんの声が耳に心地いい。
「まだ、大丈夫です」
『だめ。帰りなさい。残った仕事は家に持ち帰って、土日で片付けてもらうって寝屋川くんからも聞いてるよ?』
わたしの仕事のことを、静夜はちゃんと椛さんに話を通してくれていたらしい。
ちらりと静夜を見ると、いつものクールな表情でカタカタとパソコンを打っている。
「でも、」
『ぼくもすぐに帰るから。気兼ねしないで』
ね? と優しく念を押されて、とうとう折れた。
水口夏斗を待っているあいだ帰る準備をしていると、ふと、それまで黙々と仕事をこなしていた静夜が、声をかけてきた。
「そういえば、おまえと社長の結婚のこと、おまえのご両親は知ってるのか?」
「んー……どうだろう」
それはわたしも昨日ちらりと考えないでもなかったけれど、へたに「静夜以外の人と結婚した」だなんて報告したら、「離婚しろ」って言われるかもしれない、と、二の足を踏んでいたのだ。
「どうだろうって、おまえ……大切な話だろう」
「わかってるよ。そのうち、話す……と、思う」
「話さないまま社長の子を妊娠しただなんて騒ぎになったら、もっと大変なことになると思うけどな」
さらりと言う、静夜。
そっ……それは、あり得ない話……とはいままでの椛さんの言動からして、言い切れない。
「なんなら、俺が報告してやろうか」
「いいっ! それは絶対にやめて!」
静夜の口から「りん子は別の男と結婚しました」だなんて聞いた日には、うちの両親はそれこそわたしの居場所を静夜からでも聞き出して、ソッコーで離婚させちゃうかもしれない。
そして、今度こそ静夜と再婚させられるかも……。
ああ、神様。
考えただけで、ぞっとします!
コーヒーにミルクをたっぷり入れて少しずつ飲みながら待っていると、例のごとく首から紐で下げていたケータイに着信があった。
わたしが服の中からケータイを取り出すのを静夜が怪訝そうに見ているけれど、これは習慣でしてきちゃったんだから仕方がない。
スーツ一式と一緒に渡された、よそゆきのバッグに入れておけばよかった。
軽く後悔しつつ、ディスプレイを見ると──水口夏斗からメールが入っていた。
『いま会社に到着しました、りん子さま』
なんだ、メールだったら水口夏斗、わたしのことちゃんと本名で呼べるんだ。
ケータイを閉じようとしていたわたしは、「ん?」とあることに気がつく。
いままで気づかなかったけれど、いつのまにか未読メールの表示が点滅している。
あれ、これいつからきてたメールだろう。
開いてみると、お母さんからだった。
『りん子、やったわね! 結婚おめでとう! 玉の輿おめでとう! これでうちの借金も全部返せたし、次は孫の顔を見せてね!』
最後は、ハートマークでしめくくられている。
確かにわたしの携帯電話のメアドだけは、お母さんにだけはしらせていたけれど……だからお母さんからケータイにメールがくる、という現象はぜんぜん不思議では、ないのだけれど。
電話番号は、いろいろとうるさくなることを見越して教えていない。
だからメールだけがきた、んだろうけど……問題は、別のところにある。
ひとつ深呼吸をして気持ちを落ち着かせてから、メールの着信日を確認してみる。
お母さんからのメールは、おとといの夜のうちに届いたらしい。
おとといの夜って……わたし、まだ椛さんと結婚してなかった、よね……?
なにがなんだかわけがわからないまま、コーヒーカップを洗って片付けるわたしの背後から、がちゃっといきなり扉が開いて声がかけられた。
「りんご、じゃねぇりん子! 遅い! いつまで待たせんだ!」
そこに現れたのは、水口夏斗。
そして水口夏斗は静夜と目が合うと、「あ、どーも」と軽く頭を下げる。
このふたり、どうやら面識があるらしい。
いままでにも水口夏斗、会社にきたことがあるのかもしれない。
と、いうか。
「そんなに待たせました?」
「メールやっただろ?」
「だってメールがきたのって、いまさっきですよ?」
「メール送ってもすぐにこねぇから、待ちきれなくて顔見知りの社員に案内してもらってここまで迎えにきたんだよ。ったく、りんごは待ち合わせの時間も守れねぇのかよ」
「いや、だからあなたからメールがきたのって、ついいまさっきですってば」
どんだけせっかちなんだ、水口夏斗、あんたって奴は!
そのまま口論になりそうなところへ、
「ひとつ、いいか」
静夜が眼鏡を中指で押し上げる。
「水口くん。りん子は元々の身分はどうであれ、いまは社長の奥さまなんだろう? だったら、その言葉遣いは感心しないな」
「え、でもりんご相手だとタメ口のほうが話しやすいし。第一、椛さまからはそんな注意受けてないぜ?」
「社長のことだから、様子を見ているんだろう。社長はどうやらりん子のことが大事らしいから、注意されるのも時間の問題だと思うが」
ぐっとつまる、水口夏斗。
しぶしぶのように、わたしに向かって背筋をピンと張る。
「失礼いたしました、りん子さま。お迎えにあがりましたので、帰りましょう」
なんだか、水口夏斗にそんなふうにしゃちほこばられると、調子が狂うなあ。
「ありがとう」
曖昧に微笑みを返しつつ書類の束を持って一応「お先に」と静夜に声をかけ、秘書室をあとにする。
わたしの大荷物に気づいた水口夏斗が、わたしの両腕からそれを軽々と抱え上げた。
「持ち帰りの仕事ですか?」
「あ……はい」
「椛さまも、よく仕事持ち帰ってるからなぁ」
「あ」
はたと、わたしは足を止めた。
「ん?」
水口夏斗が、振り返る。
「社長に、挨拶だけでもさせてください。なんにも言わないで先に帰るんじゃ、夫婦としてあんまりですから」
それに、聞きたいこともちょっとだけあるし。
わたしと水口夏斗は、秘書室からすぐ近くの社長室、その扉の前に立った。
コンコン、とノックをすると「どうぞ」と椛さんの、いつもの穏やかな声。
「失礼します。……社長、水口さんが迎えに来てくださったので、お言葉に甘えて先に帰らせていただきますね」
「うん、──あ、りんごちゃん」
「はい」
「ちょっと」
手招きをする、椛さん。
まさかまた太ももの上に座らされたりしないだろうな、と警戒しながら近づくと、今度は椛さんのほうが立ち上がってわたしの腰をつかみ、ぐいと自分のほうへ引き寄せたかと思うと、唇にキスをした。
軽く、触れるだけのキス。
なのに相変わらず、はちみつみたいに甘いキス。
「おやすみの、キス。ぼくが帰るころにはりんごちゃん、眠ってるかもしれないからね」
「そんなに、遅くなりそうなんですか?」
「昨日定時で上がらせてもらったぶんと、おととい早めに退社したぶん。それに、ハネムーンのぶん前倒しで仕事しなくちゃいけないから」
そこで水口夏斗が、からかうように口を挟んだ。
「おとといは急きょ鎌倉まで飛んで、大変でしたからね」
「鎌倉?」
わたしは、聞きとがめる。
鎌倉って……わたしの実家がある場所だ。
なかなかに嫌な予感を覚えつつ、聞いてみることにする。
「あの、社長。わたしの母からおととい、こんなメールが届いてたみたいなんですけど」
「ん? どれ?」
わたしがお母さんからのメールを開いて見せると、椛さんは楽しそうに笑った。
「ははっ。実際に会ったときも思ったけど、りんごちゃんのお母さんて心に正直な人だよね。お父さんは厳格そうな人だったけど、威勢の良さはお父さんにも負けてないよね。やっぱり孫の顔は早く見せてあげないとねぇ」
「じっ……実際に会った?」
「うん。おととい、結婚の承諾をしてもらいに、鎌倉のりんごちゃんの実家にお邪魔したんだよ」
そんなの、初耳ですよっ!?
「りんごちゃんはもう成人してるけど、やっぱり親御さんの了解はもらいたかったしね」
「肝心のわたし本人の了承は、とりませんでしたよね?」
「この際、りんごちゃんの意志なんて関係ないからね」
さらりと、椛さんは言う。
「か、関係ないって……」
「調べてわかったんだけど、りんごちゃん。りんごちゃんが寝屋川静夜と結婚しろってご両親に言われていたのは、実家が多額の借金を抱えていたからそのカタに、ってことだったんだよね? 寝屋川くんの父親は、わりと大きな会社の社長だし。だったらその借金をなくしてしまえる財力のある男であれば、別にりんごちゃんの結婚相手は寝屋川くんでなくともいいわけだ」
「自分の妻にぜひ、って話を椛さまがお出しになったら、あのルミエール・ファクトリーの社長と結婚してもらえるならって、大喜びしてたぜ、りんごのご両親」
もちろん両親ともども、わたしと椛さんの結婚を了承したそうだ。
「実家に寄らせてもらったついでに、実家に残っていたりんごちゃんの下着や服のサイズも見せてもらったんだ。そろえるのに必要だったからね。ちょうどよかったよ」
わたしは、くらりと軽いめまいを覚えた。
そうか、それでお母さんからのあのメールか。
椛さんにそろえてもらった服やブラのサイズがぴったりだった理由も、これで判明した。
だけど、謎はまだまだあるぞ。
「調べたって……昨日社長はわたしと、静夜のこと話しましたよね? 寝屋川静夜と結婚するつもりだったの?ってわたしに聞きましたよね? なんで知らないふりしてたんですか?」
「りんごちゃんが寝屋川くんのこと、どう思ってるのか一応知りたかったから。好奇心かな」
「それでもしわたしが静夜と結婚したかったって言ってたら、どうするつもりだったんですか?」
「まったく問題なく、りんごちゃんと新婚生活を送る予定だったけど?」
にこにこと、変わらぬ笑顔で椛さん。
こ、この人の感覚って……ぜんぜん、わからない。
ほんとにマイペース。
俺様とはまた違うタイプな気がするけれど、間違いない。絶対この人、Sだ。ドSだ。
薄々感じてたけど、いまはっきりと確信した。
「どうして社長は、そこまでわたしと結婚したいって思ってくれたんですか?」
それが一番の、疑問。
なのに椛さんは、笑顔を崩すことなく答える。
「はじめに言ったでしょ? りんごちゃんはぼくの恩人だからって」
「そんな理由で結婚なんてする人、」
「ここにいるけど?」
──世の一般常識は、あなたには通用しないんですね、椛さん。
ああ、でもやっぱり椛さんはわたしに対して恋愛感情なんか、これっぽっちも持ってくれていないんだ。
はっきりとそれがわかって、胸がぎゅうっとしめつけられる。
「……書類の上でだけの結婚なら、別にキスしたりする必要もないんじゃないですか」
「そんなの、つまらないじゃないか。せっかく結婚したんだから、どうせなら愛を育みたい」
「人の心って、そんなに簡単に恋に落ちるものじゃないと思います」
──うそだ。
人の心は、確かに動かないときは徹底して動かないけれど
落ちるときには、いともたやすく落ちる。
現にいま、わたしは椛さんに惹かれている。
結婚までしておいて
さんざん思わせぶりなことをしておいて
わたしひとりだけ恋に落ちるだなんて、……そんなの、ひどい。
唇を噛んでうつむくと、椛さんの長い指が伸びてきて、クッと顎を持ち上げられた。
ドキリとした。
椛さんがいままでにないくらい、真剣な顔をしていたから。
「ぼくは必ず手に入れるよ。りん子、きみの心も──身体も。ぼくだけのものにしてみせる」
ドクン、ドクンと心臓が早鐘のように鳴る。
いま、わたしのこと名前、で……。
そんな、こと……そんなこと言われたら、まるで告白みたいなそんなこと言われたら
ほんとうに、本気で好きになっちゃうよ──。
椛さんは、どうしたらいいのかわからずに顔も身体もどうしてか火照ったまま、立ち尽くしているわたしをもう一度抱き寄せ、唇にそっとキスをくれる。
顔を離すと、もう椛さんはいつもの穏やかな、笑顔。
「今度こそ、おやすみのキス。ぼくは適当に外食するから、夕食食べてていいからね。りんごちゃんもあんまり無理しないで、早めに寝るんだよ」
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