天使の紡ぐ雪の唄

希彗まゆ

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異質と異変

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「夏樹ちゃん」

うっとりするほど優しい声で、谷本くんはわたしの名を呼んだ。
壁から身を起こし、ポケットに入れていた手を出してゆっくり歩み寄ってくる。

わたしは腿の上で、ぎゅっと拳を握った。
ストーブの熱のせいか、手のひらにじっとりと汗を感じる。

ああ──。
はりさけそうになる恐怖に耐えながら、わたしは助けを乞うた。

須崎! ここにきて! 早くきて!

護ってくれるって言ったのに。
きっと彼は今頃、いなくなったわたしを探して青くなっているだろう。

「夏樹ちゃん──暑いの?」

谷本くんは、すぐ傍まで来ていた。
さっきのように、ひざに触れてしまうくらいに。
冷たい指が頬に触れる。

「顔が赤い」

なんでもない言葉を、まるで愛を囁くように言う。
がたんとわたしが立ち上がるのと、谷本くんが抱き寄せるのと、ほとんど同時だった。

「嘘つき、ヘンなことしないって言ったじゃないっ……!」
「しないよ。なんにもしない」

谷本くんの腕は、わたしの体にすっかり絡みついたように
いくらもがいても振りほどけない。

「だったら離して──」

夢中で谷本くんの肩を叩いたわたしは、ふいに動きを止めた。
瞳は、彼の肌に吸いつけられたよう。

“それ”を探して穴が開くほど見つめたわたしは
悲鳴のように尋ねた。

たった今、気づいたことを。

「どうして、傷跡がないの!?」

谷本くんに捨てられたと言って、ナイフを振りかざした女生徒。
そのナイフで肩から胸に傷を作ったのは、谷本くん自身だ。
あれから一週間も経っていないのに──かすり傷さえまだ跡が残って然るべき日数なのに。

わたしは触れてみる。
谷本くんの真っ白な肌を、肩から胸にかけて。
指に残る感触に、傷跡はまったく感じられない。

「わけを知りたい?」

うっかり顔を上げたわたしは、谷本くんの視線とまともにぶつかってしまった。
いけない!

「そらさないで」

素早く谷本くんが釘を刺す。

「目をそらしたら、するよ」

──きみが、恐がっていることを。

それでわたしの逃げ道は、完全に断たれた。
けれど。

……けれど、瞳をこそ、わたしはそらすべきだった。
あれだけわたしの本能が悲鳴を上げていたのに。
「目を合わせては駄目だ」と忠告していたのに。

谷本くんの情熱は彼の瞳から溢れ、わたしの中にすっかり入り込んだ。
真剣で、どこか哀しげで──途方もなく、熱かった。

「きみが好きだ」

かすれたような谷本くんの声と共に
その熱はわたしの中でますます膨れ上がった。

「愛してる」

そして、その言葉と共にばちんと弾け、わたしの心に浸透した。

──その瞬間から。
わたしの中から、恐怖と不安が嘘のように流れ落ちた。

かわりにやってきたのは、愛しさと恥ずかしさだった。 
分かった──わたしが彼を恐がっていたわけ。
わたしは目を閉じる。

恐怖と不安は、「彼が異質である」ことを感じ取った本能と
「彼を愛してしまう」ことへの予感が成したものだったのだ。

本来ならば、一目惚れですんだのだろう。
けれどわたしの敏感すぎる感覚が、防御のために彼を拒否しようとしていた。

この時──谷本くんの瞳を真正面から見つめた今
彼の情熱を受け入れてしまった今
わたしはそのかわりに、身の安全を手放してしまったのだ。 

谷本くんの唇が、唇に触れた。

わたしが抗わないのを感じてか、腕の力がいったんゆるみ
前よりもっと強く抱きしめた。

唇を放すと、谷本くんは尋ねる。

「ぼくが恐くない?」

わたしは初めてのキスに戸惑いながら、小さく応える。

「まだ、……少し」
「少しのほかに、何を感じるか教えて」

そんなこと、こたえられるわけがなかった。
恥ずかしくて、とても言えない。
顔を傾けて再び口づけようとした谷本くんは、思い直したようにわたしを解放した。

「誰か来たみたいだ。もっと追求したかったけど、続きはまた明日」

甘い微笑みを見せて、シャツを着る。
そのとたんに管理人室の扉が開き、中年の教師が顔を出した。

水泳部の顧問だ。
ふたりを見て、不思議そうな顔をする。

「谷本悠輝か。お前は帰宅部だろう? こんなところで何をしてるんだ」 
「ちょっと泳ぎたくなったんです。勝手に入ってすみません」
「制服でか? そっちの女生徒は」
「先生は教育熱心ですね」

わたしへ向けられる視線を遮るように、上着をはおった谷本くんは立つ。
上背のある谷本くんに辟易した顧問は、コホンと咳払いをした。

「まあ……学生のうちは恋愛もまた勉強だからな。だが谷本、勉強のしすぎで中毒にならないように気をつけろよ」

顧問はひょいと手をのばして机の上のノートを取り上げる。
それに用があったらしい。

「戸締まりは、しとけよ」

それだけ言うと、出ていく。
谷本くんは椅子の背から上着を取ってわたしの肩に羽織らせると、二人分の鞄を持ち上げる。

「これ以上いると、夏樹ちゃんに迷惑がかかりそうだ。もう遅いし、送っていくよ」

制服はまだ生乾きだったが、気になるほどではない。
わたしが上着を着てしまうと、一緒に室内プールを出た。
職員室に鍵を置きにいった谷本くんが戻ってくると、門に向かう。

そこに人影があるのを見て、わたしは立ちすくんだ。
足音に顔を上げたその生徒は、聖治だった。

今の今までわたしを探し回って、少しだけ休憩していたのだろう。
秀麗なその顔に汗が流れ、息を乱して肩を上下させていた。

「夏樹っ!」

目が合ったとたん抱きしめられたわたしは、罪悪感でいっぱいになった。

「どこに行ってたんだ! 携帯にも何度も連絡したんだぞ!」

「ごめん、須崎。マナーモードのままで、動け……なかったのも、あって……でもわたし、もう大丈夫だから」

「何がっ!?」

わたしの肩をつかんで体を放し、まっすぐに見据えて聖治は怒ったように聞く。

「何が大丈夫なんだ!?」
「こういうことさ、聖治」

穏やかな谷本くんの声が割って入り、すぐ脇の桜の枝がピシリと鳴った。
裸の枝は見えない力で折られたように、くたりと地に落ちる。

「力が戻り始めた……夏樹ちゃんが、ぼくを少しだけ受け入れてくれたから」

驚いて自分を見つめる聖治の目を、わたしは震えながら見上げる。

「どういう……こと?」

小さな声をつむぐ。

「力って……なんのこと?」
「やめろ──夏樹」

聖治はわたしの体を、痛いほど抱きしめる。

「こいつだけはやめろ! 悠輝は普通の人間と違うんだ!」

わたしの肩が、びくりと震える。
おびえるように谷本くんを見ると、氷のような冷たい瞳がそこにある。
けれどそれは、聖治に向けられていた。

「そう──聖治の言うとおりだ。ぼくは普通の人間じゃない」
「他の人間を探せ、悠輝。夏樹だけは……」

聖治の声は、かすれている。

「夏樹だけは駄目だ。お前にやれない」
「言っただろ」

返す声は静かで、ぞくりとするほど冷たかった。

「ぼくも夏樹ちゃんじゃないと駄目なんだ」

はりつめた沈黙が三人の間を支配する。
それは、校舎から出てきたふたりの女生徒の賑やかな声によって破られた。

女生徒達はわたし達に気づき
聖治にしっかりと抱かれたわたしを見つけて、ふいにひそひそと小声になる。

「夏樹ちゃんを送っていってくれる?」

谷本くんは、わたしの鞄を置く。
その瞳はもう、普段の穏やかさを取り戻していた。

「でも覚えていてくれ。ぼくに残された時間は少ない。……ああ、お前はもう知っていたね。期限は」

そこに、わずかな哀しみが混じる。

「12月15日」

きびすを返す谷本くんの背に、聖治は何か言いかけた。
しかし言葉にならず、それは喉の奥でとどまった。
わたしには分からない。

12月15日──
その日に、何があるというのだろう。
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