LOVE PHANTOM-罪深き天使の夢-

希彗まゆ

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願いごとひとつだけ-LOVE PHANTOM番外編(半分本編)-

きみを忘れない(緑炎・紫嵐編)

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紫嵐(しらん)は泣いたことがない。ただの一度もだ。
泣くほどに物事に執着したこともないし、泣くほどに人に惹かれたこともない。

ただひとつの例外はあったが、もしその「例外」がこの世から消えてなくなろうが、泣くことは決してないだろう。
いかにして涙を流すのか、彼女は知らなかったのだから。
その例外の名を、緑炎(ろくえ)という。

──もとい。
例外はふたつ。

緑炎とそして、彼女の姉、彩地(あやち)である。



その気になれば、外界に去っていった姉の様子を終始知ることはできた。
白い塔には過去を見ることができる装置があったからだ。

けれど紫嵐はその装置で姉の姿を見ることはなかった。
特に理由はない。必要がなかったからだ。

懐かしむということがなければ、姿を見たいとも思わないだろう。
至極当然のことだ。

たとえ「例外」ではあっても、彼女のその公式は変わらないようだった。

ただし、姉が死んだことを知ることはできた。

姉の息子、萌天(ほだか)はまだ妻とこの白い塔に滞在して雑用をしていて
毎日のように装置を動かし、外界にいる母達の暮らしを「ちょっと前の過去」として見ていたからだ。

彼ははじめ、緑炎に報告するのをためらっていた。
彼は父親に憧れていたが、その父親にまるきり相手にされないことを知っていたからだ。
天才科学者が望むのは凡人並に頭の良い科学者ではなく、最低でも自分と同等くらいの頭脳を持つ後継ぎだった。

「お父さん」

それでも、子供のころに見た母の笑顔が背中を押した。

「お母さんが──亡くなりました」

しきりにレポートの束をあさっていた緑炎の手が一瞬止まったのは、萌天にとって救いだった。
父の気を少しでもこちらにとどめ置こうと、次の言葉を急ぐ。

「見たのは今朝方早くです。もう外界では葬式も終わっていることでしょう。ぼくは」

少しためらった。

「──ぼくは妻と共に外界へ戻ります」

返答はない。
見ると、既に緑炎はレポートの文章を目で追い始めていた。
萌天は部屋の扉を開ける。

「翠陸はおいていきます。……さようなら、お父さん」
「彩地は」

思いがけなく、声がかかる。
瞳はまだレポートに注がれたままだ。

「彩地は、なぜ死んだ」

父のほうから何かを尋ねてきたのは初めてのことだ。
萌天の水色の瞳に涙が浮かんだ。

「……妹を産んだ頃から、肺を病んでいました」

返答はないと分かっていた。
一礼して、萌天は部屋を出た。



そのことを緑炎が紫嵐に告げたのは、まだ萌天が準備をしている最中だ。

「墓参りに行くのなら、一緒に行けばいい」

ほかにもっといいようがあるだろうが、緑炎にはこれがせいぜいのところだ。
紫嵐はしばし考えていたが、「いえ」とかぶりを振った。

「以前から言おうと思っていましたが、緑炎。わたしたちはもう毬黄たちとは縁を切るべきです」

はたしてそこには藤雅もいたのだが、その台詞にソファに沈んでいた身を起こした。

「なに言い出すんだい、しいちゃん」
「彼らは萌天をわたしたちに提供し、結果的に完璧に条件を満たす『翠陸』を残してくれました。彼らの役目は終了した。彼らはもう外界の住人です。これ以上の関わりは彼らにとって災いにしかなりません」

世間の目を考えるならば、そのとおりである。
なにしろ毬黄にしてみれば、緑炎たちと会わなくなって20数年が経過しているのだ。
安住の地を得ているに違いない。
彩地がこの世を去り、毬黄だけが残されたといっても、彼の居場所は既に外界にあるのだ。

「……俺も、同じことを考えていた」

やがて発した緑炎の声は、心なしか低かった。

「だが紫嵐。ひとつだけ頼まれてくれないか」
「なんでしょう」
「俺の代わりに、彩地に花を供えてきてくれ」

それが精一杯の、彼の思いやりだったのだろう。
彩地と毬黄に対しても、紫嵐に対しても。
紫嵐は小さくうなずいた。

「ご希望は」
「紫苑(しおん)を」

返答は早かった。
だいぶ前から用意していたに違いない。
ずっと前から……おそらくは毬黄たちがこの白い塔を去っていったときから。

「二度と会わない覚悟だったってわけかい、はじめから」

紫嵐が出ていくと、藤雅がナイフを取り出していじり始めた。
緑炎は答えず、レポートに集中する。

緑炎にとって、毬黄は唯一心を許した親友だった。
つらくないはずがなかった。
けれど今もその横顔は相変わらず鋼鉄の仮面をかぶっており、何の感情も読み取ることができない。

紫嵐が白い塔を出発したのは萌天より二日遅れてのことだ。
住所は萌天に聞いていたので、一緒に出る必要はなかった。

街の最北端の住宅地。
ここではその場所は「田舎」らしい。

大きな川が途中横たわっていて、その最北端には船で渡らなければならないと聞いた。
そうでなければ車で3時間かけて大回りするか、だ。

街で花を買った紫嵐は、迷わず船を選んだ。
無駄な時間は割きたくない。
30分ほどで岸に着いた。
船を降りると、紫嵐は通りがかった若い娘をつかまえて声をかけた。

「毬黄の家をご存知ですか。手作りのパン屋を開いているはずです」

若い娘は紫嵐を見ると、ぽっと頬を染めた。

──ところでこの時、紫嵐は男装をしていた。

いや、ただの男装ではない。
一時的に本当に男性体格になってしまう、一種のホルモン剤を注射してきたのだ。

背も横幅もいくぶん大きくなるが、丸一日だけでそんな大変身をするのだ、筋肉の痛みはそれはそれは耐えがたいはずだが、さすがに紫嵐である。みごと克服していた。

元々紫嵐の顔は美しく人目をひくのだが、男性的に変化した今もそれは変わらなかった。
……一応サングラスをかけてはいたのだが、今、こうして若い娘ひとりが哀れな犠牲者となった。

「あ、あの……毬黄さんの家なら、丘を越えたところです。手作りのパン屋さん、そこにしかないし、看板が出てるからすぐ分かるわ」
「そうですか」
「あ、あたし案内しましょうか」
「けっこうです。ありがとう」

短く礼を言い、黒いスーツに黒ネクタイの紫嵐はすたすたと去っていく。
あちこちから熱い視線を感じたが、内心舌打ちをした。
毬黄に出会ってしまったときと、万が一のことを考えてこんなことをしたが──これでは逆効果だったかもしれない。
かえって人目を引いてしまう。

パン屋の看板が立つ家を見つけると、その前で紫嵐はしばし立っていた。
色とりどりの庭の花。
丹念に耕された菜園。
扉にかかる小さな青い鈴。
きちんとペンキの塗られた白い家。

ひと目で幸せに満ちた家だと分かる、これが彩地の……姉の暮らした家。

「しーぃら!」

反射的に声のほうを振り向くと、白い犬が走ってきたその後ろから、萌天が追いかけてくる。
更にその後ろにもうひとり。

──目を疑った。

「ああっすみません、こらシイラ!」

紫嵐の足にじゃれつく白い大きな犬を、萌天が宥めようとする。
しかし紫嵐の注意は、萌天の連れの若い男に向けられていた。

こげ茶色の髪の毛。真っ黒な瞳。スタイルのいい長身。見慣れた──端整な顔。
明らかに毬黄そのもの。

しかし、そんなはずはない。
彼はとうに60近い。
こんなに若いはずがない。

「!」

うっかりした紫嵐は、白い犬に押し倒されてしまった。
尻もちをつき、土埃でスーツがたちまち汚れる。

「うわあ、シイラっ! 男になつくなんて、お前そんな生まれて初めてのことしてくれるなよ!」

途方に暮れた萌天は振り向き、若い男に声をかけた。

「父さん! シイラを頼むよ、男の人を押し倒してるんだ」

すると、立ち止まってどこか遠くを見つめていた男は持っていた杖を動かして、身体をこちらに向けた。
しかし焦点が合っていない。
目が不自由なのだ。

「シイラ。歓迎はそこまでにしろ」

男の低い一声で、犬はとたんに紫嵐から離れ、男の足元に座る。
土埃を払いながら立ち上がる紫嵐に、萌天が頭を下げた。

「スーツ、弁償させてください。そのままじゃ歩けないでしょう。どうか」
「……では、お言葉に甘えます」

紫嵐の返答に、萌天はほっとして家に招き入れた。
若い男は入ってこない。

「大事な場所にご出席なのでしょう。急いで洗いに出してきます」

着替えを持ってきた萌天は、紫嵐の黒い服装を見てそう言った。
どうやらこのサングラスの男が紫嵐だとは微塵も思わないようだ。
それはそうだろう、声まで変わり、髪も短く切ってきたのだから。
これでサングラスを外せば、少しは「あれ、ちょっと似ているな」くらいには思うかもしれない。

「あの人はこの家の人ではないのですか?」

スーツを脱ぎながら、紫嵐。

「ええ、ぼくの父です」

苦いものを噛むような口調で、萌天は応ずる。

「毬黄って、この街じゃちょっと有名な人です」
「有名?」
「ええ。パン屋を開いた頃から」

ああそうか、と紫嵐は少しだけ肩の力を抜く。

萌天がスーツをどこかに持っていっている間に着替えを済ませる。
少し小さかったが、いい香りがした。

どこかで嗅いだような匂いだ。
しばし考えて、彩地の香りだと気づいた。



「父がなぜあんなに若いのか、不思議でしょう」

戻ってきた萌天は、コーヒーをテーブルに置きながら言った。

「父はエンジニアを少しやっていて、腕をかわれて世界政府のもとへ……『母なる都』へ連れていかれたんです」
「『母なる都』。なんでもかんでも科学者とみれば強制連行し、腕の立つ者は何があっても帰さない。不安に駆られた権力保持者の愚行だ」

つい地を出してしまった紫嵐は、目を丸くする萌天の視線を受けてコホンと咳払い。

「……失礼。それで?」

「え、ええ。
そう、あなたの言うとおりです。父は科学者としてとても腕が立ったんです。だから母が倒れたと連絡を受けても戻してもらえなかった。
父は母をとても愛していました。だから命を懸けたんです」

毬黄は一か八かの賭けをした。
収容所よりも厳重な監視と警備装置を掻い潜り、脱走を試みたのだ。

「警備装置のひとつに引っ掛かり、父は撃たれました。満身創痍でここに戻ってきたとき、父は瀕死寸前でした。そんな状態でしたから、世界政府はもう使い物にならないとみて父をあきらめました」

東のほうからやってきていた医者を、友人の誰かが呼んできてくれた。
医者は、まだ実験段階の薬があるが、飲むかどうかと毬黄に聞いた。

それを飲めば確実に傷は治る。
しかしそれは一時的なもので、あとには副作用が待っているという。

迷わずに毬黄は薬を飲んだ。

「その薬は、全身の機能を最高潮にまで活発にさせるものでした」

それで紫嵐は合点がいった。

「身体の機能を活発、向上させることにより、傷の回復も驚異的に早くなるというわけですね。そしてその向上作用は驚異的なもので、身体そのものも若返ってしまったわけだ」
「あなたの言い方……なんだか知り合いによく似ています」

苦笑した萌天はそう言った。

「父は、母の最期をみとることさえできれば、そのあとがどうなってもよかったんです。そしてその願いは果たされました」

若返ってしまった毬黄を見て、彩地は最期に何を言い遺したのか。
そして毬黄はなんと答えたのか。

「ぼくがその場にいたら、父を止めていたかもしれません。たまたまこの地を離れていたもので……」
「副作用とは、目が不自由になることですね?」
「──そればかりでなく、身体の機能全体が少しずつ低下してきています。今はさほど害にはなっていませんが、やがては……」
「くだらないおしゃべりはやめろ。お客様相手に」

低い声が割って入った。
杖で足元を確かめながら、犬を連れた毬黄が入ってくる。
紫嵐が立ち上がると、歩みを止めてしばし相手の雰囲気を探った。

「……紫苑ですか。どなたかに差し上げるのですか?」
「鼻の機能は人並み以上のようですね。すばらしい」

紫嵐の切り返しに、毬黄はちらりと笑みを見せた。
哀しいでも淋しいでもなく、人より早く悟りを覚えた者の笑みだった。

「ここへは長く滞在しますか? どちらへお泊まりで?」
「いえ、スーツが戻ったら、すぐに発ちます」
「スーツならあと小一時間ほどで仕上がるでしょう。ゆっくりなさっていってください」

そう言うと、毬黄は奥のほうへ姿を消した。

「先日母を亡くしたばかりで」

萌天が補足する。

「墓参りを終えると、すぐに部屋へ閉じこもってしまうんですよ」

若い姿を、誰もが羨むことだろう。
だが毬黄には何の意味もない。
愛した人は、この世のどこを探してももういない。



最期くらい、「紫嵐」と自分を名乗ってもよかったのだろう。
「緑炎もみんな元気ですよ」と、それくらい言って別れてもよかったのだろう。

しかしそれではあとが残る。
毬黄の中で終わったはずの昔の縁が、宙ぶらりんのままずるずると引きずってしまう。

この期に及んで戸惑わせるようなことは、できなかった。



毬黄の家の裏手に、小さな森がある。
実はそこも毬黄の土地で、一本一本、木をすべて植えたのも彼だと萌天が得意そうに話していた。

その森の中央に、花に囲まれ綺麗に磨かれた墓がある。
愛されて死んだ、彩地の墓だ。

仕上がったスーツを着てその前に立った紫嵐は、サングラスを取って紫苑の花束を供えた。
先刻数本ほど毬黄の家へあげてきたのではじめほどの量はないが、元の量が多かったので包み紙の中はにぎやかだ。
他にも花束は数多くあったが、紫嵐の紫苑よりも地味でおとなしい花は他にない。

「……麦茶に砂糖を入れるのも、紅茶に角砂糖を入れるのも、ココアに蜂蜜を入れるのも」

無言で墓を見下ろしていた紫嵐は、突然唇を開いた。

「わたしは気に入りませんでした。もっとも、子供の頃の話ですが」

そこまで言って、はて、自分はいったい何を言おうとしていたのかと紫嵐はひとりうつむいた。

10年に一度ほど、こんなことがある。
珍しく頭の中が整理できなくなる。

自分以外にただひとりそれを知る姉はそんなとき、「やっぱり人間だったのね。感心だわ」と、ケーキを焼く。
誕生日の時よりも大きくてとびきりおいしいケーキだ。

「あなたは妙な人だ。わたしはケーキは好きではないと、毎年言っていたのにこりもせず」

こりもせず、「誕生日にはケーキでしょ、大昔からの決まりなのよ」と、何が何でも食べさせた。

「強引でしたよ。……血のつながりがなければ、わたしはあなたになど見向きもしなかったでしょう」

紫嵐の独白は、そこで終わる。
遠くから、婦人たちの話し声が聞こえてきたのだ。
おそらく彩地の友人たちが墓参りに来たのだろう。
サングラスをかけ、妙な噂が立たぬよう別のほうから回って小さな森を出た。

その足で船着き場に向かう。
小さな船だが、生意気にも汽笛がついていた。
ポォーッと可愛らしい音を立てて、紫嵐を乗せた船は動き始めた。

「彼の人は既に亡し。されど友は友、死して変わらず」

低い声が、唐突に耳を打った。まるで独り言のように。

デッキに出ていた紫嵐は振り返った。
数人の見送りの中に、杖を持った毬黄の姿。

──その時、確かに視線が合った。

かつての仲間の、唇が再び動く。はっきりと。

「俺も忘れない」

思わず手すりにしがみついた。
もぎ捨てたサングラスが川の中に落ちていく。

声が出なかった。
なぜか喉がはりついたように、灼けて痛かった。

小さくなる毬黄の姿が滲んだのは、水しぶきのせいかもしれない。



「やあ、しいちゃん早かったねえ」

紫嵐の姿を見て、藤雅が相変わらず間の抜けた声を出した。
そりゃ藤雅にしてみれば早いだろう。
白い塔にいた彼からしてみれば、紫嵐は一時間も経たぬうちに戻ってきたのだから。

それよりも身体が痛かった。
そろそろ薬の効果が切れ始めて、男の身体から女の身体へと戻り始めているのだ。

「薬、もっと飲んでいけばよかったのになあ」
「その間延びした声を出すな。万年老人」

紫嵐は普段この「万年老人」藤雅を無視して過ごしていたが、否応なしに対応せざるを得ないとき、あからさまに侮蔑した態度をとった。
要するに、紫嵐が唯一はっきりと「人間に対して人間的に対する」瞬間が、このときだ。

「抱き上げてもらって、そんなこと言うかなあ」
「さっさと歩け。時間がもったいない」
「そんな悪態ついても声調子も表情も変わらないんだから尊敬するよな、……ああ緑炎! 待った待った、しいちゃんが戻ったぜ!」

研究室から出ようとする緑炎を呼びとめる。
紫嵐は藤雅の腕からおりると、痛みなどまったく感じないという顔で緑炎に告げた。

「頼まれごとを終えてきました」
「ご苦労だった。今日は休んでいい」

もうすっかり女の身体に戻った紫嵐、だぶだぶになったスーツの袖を正し、つけ加える。

「毬黄ですが」

きびすを返しかけていた緑炎、動きを止める。
視線は廊下の向こうに向けられたままだ。

「変わっていませんでした。相変わらずのロマンチストで」
「そうか」
「伝言があります」

緑炎の青い瞳がこちらを向いた。

「彼の人は既に亡し。されど友は友、死して変わらず。そして」

その瞳をしっかりととらえて、紫嵐は言った。

「俺も忘れない、と」
「──そうか」

返答は短かった。
それきり何も言わず、緑炎は廊下の端に姿を消した。



ベッドに沈み込んで、紫嵐は目をつむる。
呆れたような藤雅のため息も、聞こえないふり。

「あのねえ、無視するのはいいけどさ、無理するのはよしてよなあ。結局運ぶのは俺ってことで……」

言葉を区切り、ふと藤雅は優しい笑みを見せた。

「……しいちゃんはいい子だなあ」
「わたしは地獄へ行く。たったひとりの少女のために世界中の人間を今も死に追いやっている」
「それでもいい子さ、な」
「なにか誤解しているようだな」

雫のついたまつげを、紫嵐は拭う。

「これは水しぶきだ。まだついていたんだ」
「ああ、そうだともなあ。俺が見た中で、いちばん綺麗な水しぶきだなあ」

どこまでもおめでたい男だ。

紫嵐は腕で顔を隠す。

──血のつながりがなければ、彩地になど目を向けなかった。確かなことだ。

けれど、あの時祈ってしまったのだ。
あの時、姉の墓の前で、「たとえ緑炎の計画が失敗したとしても、この場所だけは最後までのこっていますように」と。

……誰に対してか、自分でも分からなかったけれど。



「『彼の人は既に亡し。されど友は友、死して変わらず』」

懐かしいその言葉を、彼はつぶやいてみる。
かつてそのフレーズは、昔まだ学生だった頃、毬黄と共に師に習った文学集にあったもの。
毬黄と出逢い、彼と親友になったきっかけになったものでもあった。

小さなベッドの中で、ようやく「赤ん坊」の領域を離れた孫が、すやすやと眠っている。
緑炎はすぐそばの椅子に腰をおろした。
珍しくその手にレポートはない。

学生の頃、毬黄はその文学作品にずいぶん傾倒したものだ。
当時彼は毎日のように、文学作品の内容を緑炎に聞かせた。
うきうきと、目を輝かせて。

『桜蛇(さじゃ)は親友に紫苑の花を手向けた。緑炎、紫苑の花言葉を知っているか?』

「“きみを忘れない”」

ぽつりと、涙のように一粒の言葉をつぶやいた。
世を隔ててなお、その約束はかわされる。

《完》

【追記】

『彼の人は既に亡し。されど友は友、死して変わらず』。

作家爾色(にしき)の著書『桜蛇の火』による有名な一節。
桜蛇と緋憂(ひゆ)は裏切りからの出逢いをし、傷つけあってのち互いを親友と認める。
やがて緋憂は儚くなり、桜蛇は万人の前で棺の中の親友に紫苑の花を贈る。
その時に言った言葉がそれである。

「きみはもう死んでしまったけれど、友であることは変わらない」というのが大まかな訳。



紫嵐──風葉月(かざはづき)陸(くが)に老衰のため死去。享年73歳。緑炎の命により藤雅が外界へ埋葬。場所は不明。

緑炎──気管支を患い、鬼士月(きしづき)花葉(かよう)にそれが元で死去。享年80歳。藤雅と翠陸により埋葬。遺言により墓はなし。
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