LOVE PHANTOM-罪深き天使の夢-

希彗まゆ

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翠陸

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「戻ってきませんね、水琴様は」

珍しく、秦銀が自ら話しかけてきた。
バルコニーの手すりに器用にバランスを取りつつ腰をかけ、紅凪が日向ぼっこをしているときだ。

「心配かい、秦銀?」

秦銀の持ってきたティーカップを受け取り、紅凪は紅茶の香りをかいだ。

「そうだねえ、もう一ヶ月だものね」
「……紅凪様は、もっと水琴様を大事にしていらしているのかと思っておりましたが」
「行先は知っているもの、ぼくは」

紅凪はオレンジを原料にした茶菓子を頬張り、顔をしかめる。
酸味がきつかったのだろうか、ぺっと吐き出した。
秦銀の差し出すペーパータオルで口元を拭う。

「白い塔に行ったんだ、そうすぐには出てこられないさ」
「あそこに入った者は、二度と出てこられないと聞き及んでおりますが、平気なのですか」
「今日はよくしゃべるね、きみは」

紅凪の視線に、しかし秦銀は臆するふうでもない。本当に水琴を案じているのだ。
紅凪は微笑み、短いため息をついた。

「別に出てこられないわけじゃないんだ、ただね……あそこにはちょっとからくりがあるのさ。ぼくはあまりあそこに近づきたくないし、水琴を迎えに行きたいのはやまやまなんだけどさ」

ぴく、と紅凪の眉が動いた。
鋭いまなざしを白い塔のほうへ向ける。
遠くに見える背の高い建物は、静かにたたずんでいる。

「ふん……?」

紅凪はティーカップを秦銀の手に戻し、手すりの上に立った。

「どうかなさいましたか」
「ぼくもしばらく留守にする。一ヶ月が経つまでには戻るよ」

片足で手すりを蹴って、紅凪は宙へ浮き上がった。白い塔へ進路を向ける。

「ぼくに喧嘩を売るつもりなのかい、翠陸(すくい)……──!」

誰に向けたものか、強く吐き捨てた。



水琴は落ち着いていた。
こんな場面に慣れているわけでもないのだろうに、心臓は高鳴ることもなく、口の中が渇くこともない。驚くほどに、安心しきっている。
冷たいシーツの上に水琴を横たえてから、青年はしばらく彼女を見下ろして微動だにしなかった。

水琴はじれったくなって目を何度も開閉させた。
経験豊富な女であれば自分から相手の背中に手を回したり、何か合図を起こすのだろうが、そういうことを思いつきはしても恥ずかしくてとてもできなかった。

「──皮肉な、ものだな……」

ふと、小さく青年はつぶやいた。
水琴は眉をひそめて聞き返す。

「え?」
「お前がチカラを欲するようになるとは……それでは俺は……俺の祖父は……一体なんのために……」

台詞に疑問を感じる前に、壁一列に並んでいた窓がいくつか、音を立てて外から破かれた。
水琴は驚いて身体を起こす。
青年は表情も変えず、窓を割って入ってきた紅凪を振り返った。

「待っていた、紅凪。しかし家出少年の帰宅にしては、手荒い挨拶だな」

身体についた硝子の破片を忌々しそうに払い落しながら、紅凪は不機嫌に鼻を鳴らした。

「ぼくだってこんなところに戻ってきたくはなかったよ。帰ろう、水琴。迎えにきたよ」
「紅凪……? どうしてここに!」

紅凪は水琴の言葉には答えず、つかつかと歩み寄って彼女の手首をつかむ。

「待って……あたし、」
「帰るんだよ、水琴!」

振りほどこうともがく水琴に、紅凪は珍しく声を荒げた。
今までに彼は、水琴を怒鳴りつけたことはなかったのだ。
驚く水琴に、紅凪は青年を指し示した。

「こいつは神なんかじゃない、ただの落ちぶれた科学者さ!」

水琴は青年を見つめた。青年は黙ってその瞳を見返している。

「うそよ……だってあたしの言葉を否定しなかったわ」

青年は否定しなかった。神だと信じて言った水琴の言葉を、何一つ。
それどこか彼は、取引すらしようとした。

青年が神ではなかったというのなら。
ならば水琴がチカラを欲しがって投げ出した身体を、神のかわりに横取りしようとしたのはなぜなのだ。
そんな嘘は、すぐにばれてしまうのに。

「水琴、一番目の踊り場まで降りて待っておいで。彼と話がしたい」

紅凪に背中を押され、まだ整理のつかないまま操られたように水琴は階段に向かった。

「一番目の踊り場、それ以上は降りるんじゃないよ。『時に迷って』しまうからね」

水琴が階下へ降りていくのを確認すると、紅凪は足を踏み出した。
青年へ近づきながら、ゆっくりと口を開く。

「よくもこのぼくに喧嘩を売ったね、翠陸。それも最低のやり方でだ!」

目の前まできて立ち止まった紅凪に、翠陸は言った。

「前にも言った。『使命を思い出せ』、紅凪。でなければ、いつまで経っても水琴は救われない」
「なんのことだか分からないよ」

その言葉に嘘はないようだ。少年の金の瞳には、青年への怒りの色しかない。

「ぼくは水琴と一緒にすごしたいだけなんだ。水琴と一緒にいられれば他がどうなったって関係ない。それを邪魔しようとする、あんたが大嫌いだ、翠陸……!」

言葉を吐き捨ててきびすを返し、階段の下降口から水琴を呼ぶ。
のろのろと上がってきた彼女を抱き上げ、先ほど割った窓から外へ飛び出した。
青年は、窓からぱらぱらと落ちる硝子の粉を目を細めて見つめた。

<──翠陸……あとはお前にすべてを託す……>

青年──翠陸の脳裏に、彼の祖父が遺した言葉が蘇る。
苦しそうにかすかに眉根にしわを寄せた彼の耳に、けだるそうな声が聞こえてきた。

「喧嘩を売るためとはいえ、お前さんがお嬢ちゃんにああいうことをするとは……いささか意外だよ、俺」

奥のほうに、誰かがいるようだ。翠陸は顔を上げる。

「覗いている暇があったら、早く身体を治せ、藤雅(とうが)。お前が動けないおかげで、窓の修理を俺がやらなければならない」
「はいはい、はいよ」

だるそうに、それでもおどけた口調で返事をして、声は途絶えた。
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