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相手はまさかの…
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待たせるのも申し訳ないし、元からそんなにメイクに時間をかけるほうではなかったから、準備はすぐに済んだ。
この日のために買ったスーツを着ると、いかにも新社会人ですといった感じになる。
スーツは代えのものと二着しかないから、大切にしなくちゃ。
「まだか? もう待てないぞ」
洗面所の外で待ってくれている新田さんの声がする。
「あ、はい! いまいきます」
慌てて返事をして、バッグを持って洗面所を出る。
一緒にマンションの部屋を出たところで、バッタリと隣から出てきた男の人と目が合った。
茶髪のその人もけっこうなイケメンだけれど、新田さんよりチャラい印象だ。
なんて考えていると、新田さんが多分業務用と思われる微笑を浮かべてその人に挨拶をした。
「おはようございます。成宮(なるみや)さん、確か同じオフィスビルですよね?」
するとその人もにっこりと微笑んで、軽く会釈をする。
「そうですそうです。よく会いますよねー。そちらは彼女さん?」
「いえ、妻です。ほら璃乃、ご挨拶して」
「えっ……あ、はい!」
早くも偽妻の真価を問われる時が!
わたしは慌てて姿勢を正して、隣の人に挨拶した。
「新田璃乃です。よろしくお願いします」
「へえ、新田さん結婚したんだ。うん、よろしくね、璃乃ちゃん」
隣の人は気さくにそう言うと、腕時計を見る。
「じゃあ、俺はこれで。新田さん、またね」
「はい」
隣の人が去っていくと、ふう、と思わずため息が出た。
嘘をつくのって、慣れていない。
「俺たちも行くぞ」
「は、はい」
あの笑顔はどこへ行ったのやら、もう素の顔に戻った新田さんに急かされるようにしてエレベーターを降りる。
新田さんはそのまま、わたしを駐車場に連れていった。
「あの、バス停は……」
「面倒だから、俺が送る。妻を送っていく旦那のほうが、周囲にも仲がいいと思われるだろうし」
それもそうかもしれない。
「ありがとうございます」
お言葉に甘えて、助手席に座る。
エンジンをかけながら、新田さんが尋ねてきた。
「なんて名前の会社だ?」
「ええと、確か……printemps(プランタン)です。ete(エテ)っていうオフィスビルの五階の。わかります?」
すると、新田さんはまじまじとわたしの顔を見つめた。
「……プランタン……? エテ……?」
「はい」
「……マジか」
そして新田さんは、困ったように額に手を当てる。
「俺も同じ会社だ」
「……え?」
「プランタンで課長をしている」
え……ええ……!?
「じょ、上司だったんですか!?」
「そういうおまえはうちの新入社員だったのか」
はあ、と新田さんはため息をつく。
こんな偶然ってあるものだろうか。
「あの、職場でも夫婦のふりってしなくちゃまずいですか?」
「当たり前だ。職場のみんなにも、もう『結婚した』って報告はしちまってるし」
「で、でもわたし、履歴書とか苗字違いますよ」
「仕方ない。みんなには、おまえは職場では旧姓のままでいるってことにしよう」
「理由を聞かれたら……?」
「気持ちの問題で、とでも一身上の都合で、とでも言えばいい。行くぞ」
いきなり、とんでもなくレベルの高い嘘をつかなくちゃいけなくなってしまった。
プランタンはオフィスビルの一階にあるジュエリーショップ「アトリエ printemps」の事務所のようなもので、わたしはそこの事務職についたのだ。
小さな会社ではあるけれど、そこそこの人数の会社員みんなに初っ端から嘘を吐くなんて、なんだか気が重い。
いや、でも契約してしまったのだから仕方がない。
あれから更に思い出したのだけれど、簡単にではあるけれど契約書なるものも新田さんと一緒に書いたような記憶もある。
一度した約束は、絶対守ります!と酔っ払って豪語した記憶も……ある。
他に行くあてもないし、なにより新田さんは大好きな上原先輩に似ているし……
うん、女に二言はない。
頑張って嘘をつこうじゃないか。
◇
会社につくまでのあいだ、新田さんは無言だった。
そういえば結局聞かないままだったけれど、どうして結婚してるフリなんてする必要があるのだろう。
それに、その相手がどうしてわたしだったのだろう。
まあ、知り合いじゃなければ誰でもよかったのかもしれないけれど。
新田さんてモテそうだから、結婚するフリをしたい女の人なんて引く手あまただと思うのになあ。
「なにぼーっとしてるんだ。着いたぞ」
「わ、はい!」
新田さんの顔を見つめたまま、ぼーっとしてしまっていた。
慌ててとっくに停まっていた車から降りて、新田さんの後を追ってオフィスビルに入る。
一階はジュエリーショップで正面からは入れないから、裏口から。
面接のときにも思ったけれど、とてもきれいでお洒落なビルだ。
あちこちに観葉植物が置いてあったり、絵画が飾られてあったりする。
エレベーターの前では、既に各フロアの会社に出社してきた社員たちでいっぱいだった。
見覚えのあるおじさんがいるな、と思ったら、面接のときにいた部長さんだ、と思い出す。
新田さんも部長に気づいた様子で、声をかけた。
「おはようございます、部長」
「ああ、新田くん。おはよう」
いかにも人のよさそうな、悪く言えば気弱そうな部長は、新田さんに挨拶を返し、隣のわたしへと視線を移す。
「おや、君は新入社員の……」
「あっ……お、おはようございます! 会社では旧姓のままですが、よろしくお願いします!」
慌てて挨拶すると、部長は小首をかしげる。
「旧姓……? 君、結婚してたのかね?」
「部長。彼女は俺の妻です」
新田さんが助け舟を出してくれ、部長は目を丸くした。
「新田くんの噂の奥さんか。すると君は新田くんの後を追ってこの会社に決めたのかね?」
「あ、は、はあ、まあ……」
「いいねえ、ロマンチックだねえ」
動機が不純だと思われなかったことに安堵する。
エレベーターに乗って五階に行き、プランタンで全員がそろったところでまた自己紹介をする。
わたしが自分の名前を言ったところで、部長が横から「彼女は新田くんの奥さんなんだそうだ」と注釈を入れたものだから、主に女性社員たちのあいだから歓声とも悲鳴ともつかない声が上がった。
ああやっぱり新田さん、ここでもモテていたんだろうな。
「あのう、でもあなたの苗字は澤田(さわだ)でしょう? 旧姓なんですか?」
そう尋ねてきたのは、もうひとりの新入社員である、眼鏡の男性社員だった。
「はい、旧姓です。ちょっと事情があって会社では旧姓のままですが、よろしくお願いします」
ひやひやしながら新田さんとの打ち合わせ通りに言ったけれど、皆はそう深くは考えなかったようで、それ以上の質問は出てこなかった。
この日のために買ったスーツを着ると、いかにも新社会人ですといった感じになる。
スーツは代えのものと二着しかないから、大切にしなくちゃ。
「まだか? もう待てないぞ」
洗面所の外で待ってくれている新田さんの声がする。
「あ、はい! いまいきます」
慌てて返事をして、バッグを持って洗面所を出る。
一緒にマンションの部屋を出たところで、バッタリと隣から出てきた男の人と目が合った。
茶髪のその人もけっこうなイケメンだけれど、新田さんよりチャラい印象だ。
なんて考えていると、新田さんが多分業務用と思われる微笑を浮かべてその人に挨拶をした。
「おはようございます。成宮(なるみや)さん、確か同じオフィスビルですよね?」
するとその人もにっこりと微笑んで、軽く会釈をする。
「そうですそうです。よく会いますよねー。そちらは彼女さん?」
「いえ、妻です。ほら璃乃、ご挨拶して」
「えっ……あ、はい!」
早くも偽妻の真価を問われる時が!
わたしは慌てて姿勢を正して、隣の人に挨拶した。
「新田璃乃です。よろしくお願いします」
「へえ、新田さん結婚したんだ。うん、よろしくね、璃乃ちゃん」
隣の人は気さくにそう言うと、腕時計を見る。
「じゃあ、俺はこれで。新田さん、またね」
「はい」
隣の人が去っていくと、ふう、と思わずため息が出た。
嘘をつくのって、慣れていない。
「俺たちも行くぞ」
「は、はい」
あの笑顔はどこへ行ったのやら、もう素の顔に戻った新田さんに急かされるようにしてエレベーターを降りる。
新田さんはそのまま、わたしを駐車場に連れていった。
「あの、バス停は……」
「面倒だから、俺が送る。妻を送っていく旦那のほうが、周囲にも仲がいいと思われるだろうし」
それもそうかもしれない。
「ありがとうございます」
お言葉に甘えて、助手席に座る。
エンジンをかけながら、新田さんが尋ねてきた。
「なんて名前の会社だ?」
「ええと、確か……printemps(プランタン)です。ete(エテ)っていうオフィスビルの五階の。わかります?」
すると、新田さんはまじまじとわたしの顔を見つめた。
「……プランタン……? エテ……?」
「はい」
「……マジか」
そして新田さんは、困ったように額に手を当てる。
「俺も同じ会社だ」
「……え?」
「プランタンで課長をしている」
え……ええ……!?
「じょ、上司だったんですか!?」
「そういうおまえはうちの新入社員だったのか」
はあ、と新田さんはため息をつく。
こんな偶然ってあるものだろうか。
「あの、職場でも夫婦のふりってしなくちゃまずいですか?」
「当たり前だ。職場のみんなにも、もう『結婚した』って報告はしちまってるし」
「で、でもわたし、履歴書とか苗字違いますよ」
「仕方ない。みんなには、おまえは職場では旧姓のままでいるってことにしよう」
「理由を聞かれたら……?」
「気持ちの問題で、とでも一身上の都合で、とでも言えばいい。行くぞ」
いきなり、とんでもなくレベルの高い嘘をつかなくちゃいけなくなってしまった。
プランタンはオフィスビルの一階にあるジュエリーショップ「アトリエ printemps」の事務所のようなもので、わたしはそこの事務職についたのだ。
小さな会社ではあるけれど、そこそこの人数の会社員みんなに初っ端から嘘を吐くなんて、なんだか気が重い。
いや、でも契約してしまったのだから仕方がない。
あれから更に思い出したのだけれど、簡単にではあるけれど契約書なるものも新田さんと一緒に書いたような記憶もある。
一度した約束は、絶対守ります!と酔っ払って豪語した記憶も……ある。
他に行くあてもないし、なにより新田さんは大好きな上原先輩に似ているし……
うん、女に二言はない。
頑張って嘘をつこうじゃないか。
◇
会社につくまでのあいだ、新田さんは無言だった。
そういえば結局聞かないままだったけれど、どうして結婚してるフリなんてする必要があるのだろう。
それに、その相手がどうしてわたしだったのだろう。
まあ、知り合いじゃなければ誰でもよかったのかもしれないけれど。
新田さんてモテそうだから、結婚するフリをしたい女の人なんて引く手あまただと思うのになあ。
「なにぼーっとしてるんだ。着いたぞ」
「わ、はい!」
新田さんの顔を見つめたまま、ぼーっとしてしまっていた。
慌ててとっくに停まっていた車から降りて、新田さんの後を追ってオフィスビルに入る。
一階はジュエリーショップで正面からは入れないから、裏口から。
面接のときにも思ったけれど、とてもきれいでお洒落なビルだ。
あちこちに観葉植物が置いてあったり、絵画が飾られてあったりする。
エレベーターの前では、既に各フロアの会社に出社してきた社員たちでいっぱいだった。
見覚えのあるおじさんがいるな、と思ったら、面接のときにいた部長さんだ、と思い出す。
新田さんも部長に気づいた様子で、声をかけた。
「おはようございます、部長」
「ああ、新田くん。おはよう」
いかにも人のよさそうな、悪く言えば気弱そうな部長は、新田さんに挨拶を返し、隣のわたしへと視線を移す。
「おや、君は新入社員の……」
「あっ……お、おはようございます! 会社では旧姓のままですが、よろしくお願いします!」
慌てて挨拶すると、部長は小首をかしげる。
「旧姓……? 君、結婚してたのかね?」
「部長。彼女は俺の妻です」
新田さんが助け舟を出してくれ、部長は目を丸くした。
「新田くんの噂の奥さんか。すると君は新田くんの後を追ってこの会社に決めたのかね?」
「あ、は、はあ、まあ……」
「いいねえ、ロマンチックだねえ」
動機が不純だと思われなかったことに安堵する。
エレベーターに乗って五階に行き、プランタンで全員がそろったところでまた自己紹介をする。
わたしが自分の名前を言ったところで、部長が横から「彼女は新田くんの奥さんなんだそうだ」と注釈を入れたものだから、主に女性社員たちのあいだから歓声とも悲鳴ともつかない声が上がった。
ああやっぱり新田さん、ここでもモテていたんだろうな。
「あのう、でもあなたの苗字は澤田(さわだ)でしょう? 旧姓なんですか?」
そう尋ねてきたのは、もうひとりの新入社員である、眼鏡の男性社員だった。
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