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その手の優しさ
しおりを挟む【苺Side】
あんな目にもあったにもかかわらず、というか。
あんな目にあったから、だろうか。
わたしは結局一度も目を覚ますことなく、朝を迎えた。
昨夜のことを思い出すと、否応もなしに顔が火照る。ここは何事もなかったような顔をして、禾牙魅さんと顔を合わせるのが一番いいのかもしれない。
あの状況だと禾牙魅さんだって仕方なしにああいうことをしたんだし、変に意識するとかえって迷惑かもしれないし。
「っはよ……」
リビングに降りて行くと、霞が笑顔で出迎えた。
「おはよ~、トースト今出来たとこ。食うでしょ?」
「……いらない」
「なんで? 一生懸命作ったんだぜ~食べてくれよ」
この男は、どんな神経をしているんだろう。わたしは、思い切り睨みつける。
「昨夜よくもあんなことしてくれたわねっ。おかげでわたし……!」
「禾牙魅の愛撫、良かったろ?」
見透かされている……!
霞に言われて、わたしは言葉を続けられなくなって顔が熱くなった。ソファに座っていた禾牙魅さんが、じろりと霞を睨む。
「二度と苺に【媚風】など使うな。余計な世話だ」
え……余計な世話って……?
意味が分からないわたしをよそに、架鞍くんが読んでいた雑誌から顔を上げる。
「へえ……じゃあ最後までしたの?」
禾牙魅さんは、まだ睨み顔のままだ。
「そんな卑怯な真似を誰がする。指だけで……いやそんなことはどうでもいい」
くすくすと、霞が笑う。
「昨夜のあの禾牙魅の剣幕、凄かったな~、俺殴られるかと思った」
「禾牙魅さん……怒ってくれたんだ……」
「って感動しながら何玄関に向かってるのかな? 苺ちゃん」
「たまには外の空気吸いたいから。じゃあね」
本当は、やっぱり禾牙魅さんといるのが恥ずかしくて、一緒の空間にいられなかった。禾牙魅さんと霞の静止の言葉
も聞かず、わたしは家を飛び出した。
◇
【鬼精王Side】
「……禾牙魅、霞」
常に冷静な架鞍のその警戒を含んだ声で、残りの二人も“それ”に気づいた。一瞬後、家全体に電流のようなものが走る。
目には見えない、しかし強大な力だ。
「クソッ、【鬼精鬼】が苺ちゃんの外出に手ぇ貸しやがった!」
吐き捨てるように霞が席を立つ。
「やはりどこかで様子を探っていたのか。油断したな」
禾牙魅が言い、
「とにかくこの束縛を解かないことにはあのバカ女も助けに行けないよ」
架鞍が冷静に雑誌を閉じて立ち上がった。
◇
【苺Side】
家が街のすぐ近くにあったこともあり、そのまま街の入り口まで走ってきて、わたしはようやく立ち止まった。
「はあ、はあ、禾牙魅さんとまともに顔合わせられないよ……」
でも……外に出てきてよかった。たまには外の空気、吸いたいし。
──勢いのまま出てきたから、普段着なのがちょっと不満だけど。
出かかる涙を、右手で拭う。そこで気づいた。
あの人ずいぶん妙な格好してる……。
行き交う人混みの中、遠くに20代後半くらいの美しい男の人が立っていて、わたしを見つめていたのだ。
その髪の毛は白、瞳は濃い血のような赤。
それだけでも充分妙なのに、服はギリシャ神話に出てくる神が身につけているような、けれどどこかどす黒さを感じさせるもの。
どうしてわたしを見つめているんだろう?
そう思ったとき、その男が片手を挙げた。
途端、身体全体を何かが引っ掻いたような痛みが襲う。
「なに。これ……」
たまらずにコンクリートの地面に膝をつく。
なのに不思議と通行人は誰も気づかないようだ。
「まさか、あれが【鬼精鬼】……?」
思い当たるのは、それしかない。
言葉にした途端に恐怖が背中を昇ってきて、わたしは思わず叫んでいた。
「禾牙魅さん!」
あの三人の中で、多分わたしは今一番禾牙魅さんを信頼していたんだと思う。だから、その名を叫んでしまったんだ。
「【鬼精鬼】! 畜生、【鬼精虫】を暴れさせて逃げたか……!」
その声に振り仰ぐと、禾牙魅さんが横に立っている。
「禾牙魅さん……来て、くれたんだ……」
「立てるか?」
言われてよろよろと立ち上がると、禾牙魅さんはわたしをしっかりと抱きとめてくれた。
「そうだ、俺にしっかりつかまっていろ。今【鬼精虫】をおとなしくさせて、苦しみから解放してやる」
わたしが禾牙魅さんの脇腹の辺りに手を回してしがみつくのを確認すると、禾牙魅さんはわたしの左胸の下、心臓の上あたりに片手を置き、もう片方の手でしっかり支えた。
「んっ」
再びあの痛みが襲ってきて、わたしは顔をしかめる。禾牙魅さんが、口を開いた。
「すまなかった。お前を一人にしたら【鬼精鬼】に狙われるのが分かっていたのに、俺はまだ甘い」
その間にも、禾牙魅さんの手は優しくさするように動く。労わるような、優しい動き。次第に苦しみが取れていく。
悪いのは、勝手に飛び出したわたしなのに……。
「禾牙魅さん……ありがとう。もう、楽になったよ。気持ちよかった」
するとなぜか、禾牙魅さんはため息をつく。
「……そういうことを男の前で臆面もなく言うものじゃない」
「ありがとうって言っちゃいけないの?」
「気持ちよかった、のほうだ。勘違いする愚かな男もいるだろう」
禾牙魅さんは、本当に真面目なんだ……。
「うん……ありがとう」
禾牙魅さんが、わたしの手を取る。
「手を繋いでいれば歩いて帰れるだろう? それから、次からは外に出たいと思ったら、俺たちの中の誰かと一緒に出かけて欲しい。約束だ」
「うん」
禾牙魅さんと繋いだ手から彼の優しさが伝わってくるようで、わたしはどうしてか、ほのかに嬉しかった。
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