イザナと氷の壁

秋長 豊

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稽古<前>

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 翌朝。ニイサンを見送りに出た帰り、トウヤンは廊下でばったりルットと会いました。彼女はサメヤラニと同じトウヤンの同期生で、会うのは実に2年ぶりでした。ルットも剣士協会の刀を腰に差し、同じ協会服を着ています。ご自慢の長い髪はてっぺんでひとまとめにしており、それは昔から変わらない……はずなのですが――
「よう! 久しぶ……」
 と言いかけたトウヤンを見るなり、彼女は怒ったニワトリのように全力疾走して胸倉をつかんできました。
 パシリと頰をたたかれました。
「――なに」
 もう一度たたかれました。
「サメヤラニの分」
「もうもらった!」
 トウヤンは頰をさすり、かわいそうな声で自分をあわれみました。
「丸2年も音信不通! 死んだかと思った! 連絡無精にもほどがある」
「ごめん」
 トウヤンは平謝りでなく、ちゃんと謝りました。
「心配したんだから」
 やっとすっきりしたのか、ルットはトウヤンをギュッと抱き締めました。
「ニイサンから聞いた……面倒な強盗に襲われたって。体は大丈夫なの?」 
「右手が使い物にならない」
「ちょっと!」ルットは息をのみました。「病院へは行ったの?」
「あぁ。でも、望み薄だ」
 ルットは途端に威勢のよさをなくしました。
「気にするなよ」
「気にする」
 むきになってルットはしかめ面になりました。
「俺、コウ領には戻らないで、器の指導者になることにした。ルットもサメヤラニと同じで器の指導者なんだってな。聞いてびっくりしたよ」
「あなたはいつも無茶をするんだから」
「心配してくれてありがとう。だけど、もう決めたことなんだ」
 2人は一緒に歩き始めました。
「まさか、同期3人が指導者になるとはな。サメヤラニ、ルット――俺」トウヤンは笑いました。「いつも3人一緒だった。おかげでつらい鍛錬も乗り越えられたし」
「私としても、剣士1位のあなたが同期生だってだけで、鼻が高い。まぁ、それはさておき、あの3人も仲良くしてくれるといいんだけど」
「イザナたちのことか」
 トウヤンは真面目な顔になりました。
「イザナにサン、レキ。3人は選ばれた子どもよ。これで、長年人類の悪夢だった氷河期を終わらせることができる。特にあなたが連れてきたイザナが鍵となるわ」
 そのころ、イザナは広々とした部屋の片隅で目を覚ましました。臨時の部屋として与えられた客間なので、生活用品はなにも置かれていません。トウヤンが迎えに来てくれるのだろうとのんびり待っていると、なにやら騒がしい声がドアの向こうから聞こえてきました。
「確かこの辺なんですけど」
「さっきから同じ所を行ったり来たり」
「あった! たぶん、この部屋で間違いありませんよ」
 ドアがコンコンとたたかれました。イザナはどきりとして立ち上がり、恐る恐る近づいていきました。耳を立てると、昨日会ったサンの声と、初めて聞く男の子の声がしました。
「イザナ? 私です。サンです。昨日会ったのを覚えてますか?」
 イザナはヒマワリのような笑顔を思い出し、ドアを勢いよく開けました。
「あぁ、よかった! イザナの部屋でしたよ!」
 喜ぶサンの隣には、くすんだ灰色の髪に、知的な目をした同い年くらいの男の子が立っていました。イザナはまた、昨日サンと会った時と同じく、懐かしい気持ちにさせられました。
「あなたにレキを紹介したかったんです。彼は私たちと同じ器、風の器です」
 レキは瞬きもせずにイザナをじっと見つめると、小首をかしげました。彼は口元だけニコリといわせると手を差し出しました。
「俺の名前、長すぎて面倒なんだ。だからレキって呼んでくれ」
 イザナが手を握り返した時、フワッと柔らかい風が通り抜けました。とても不思議な感覚です。
「本当だ」レキは笑いました。「初めてって感じしないな」
「でしょう?」
 サンは腕を組んで言いました。
「ずっと前に、どこかで会ったことがあるような」
 レキはチクタクと考え込みました。
「でも、思い出せない」
「そうなんですよね。こういう感覚のこと、なんて言うんでしたっけ?」
「既視感」
「そうそう! それです!」
「初めて俺がサンと会った時も同じだった。だろ?」
「そうですね」
 唐突にレキは指をパチンと鳴らしました。
「俺たちは既視感の兄弟なんだ」
「はい?」
 イザナも目が点になりました。
「俺たちは――兄弟。そう、兄弟なんだよ」
「無理がありますよ」
「お互い両親が分からないし、他に身内もいないんだ。ずっと探し求めていた兄弟なんだよ。これが一番しっくりくる! じゃなきゃ、こんな不思議な感覚を2回も体験するわけない」
 初めて会った人にいきなり兄弟と言われるなんて、信じられない思いでした。同時にうれしくもありました。イザナは思い出していたのです。暗い地下室で、灯籠の明かりだけを頼りに、本の世界で見てきた家族やきょうだいのことを。姉と妹の姉妹、兄と弟の兄弟、きょうだいにはたくさんの種類があることを。物語に出てくるたくさんのきょうだいたちは、話し合い、知恵を絞り、自分たちの力を合わせて問題を解決していきます。それは、1人だけではできないことです。何度、思い焦がれたことでしょう。そんなものは、自分と縁遠いことで、本の中でだけ体験できれば十分だと思っていたのです。それが今――
「俺たちは兄弟だ」
 と言ってくれる人がいます。それは、本で見るより数倍美しく、全身で感じられる喜びでした。
「きょ、兄弟?」
 一番びっくりしたのはサンでした。
「あぁ」
 レキはケロッとして言いました。
「サンに言われた時は半信半疑だった。だけど、イザナを見て感じた。俺たちは見えないなにかでつながってる」

 トウヤンとルットが廊下を歩いて部屋を訪れると、走り回る子どもたちに手を焼くサメヤラニの姿が見えました。
「こら! 枕は投げるものじゃない」
 サメヤラニは疲れた声で言いました。しかし、彼の忠告もむなしくイザナとサンは枕投げに夢中でした。
「あの子は?」
「私が担当している風の器、レキ」
 どこかうんざりした彼女の言葉からは、手を焼いているような気配が感じられました。少し意外だったのが、あのサンという男の子が思いのほかやんちゃそうだということです。雪道で初めて見た時は育ちがよさそうで、清楚な雰囲気をしていましたから、枕投げで遊ぶなんてことは考えられなかったわけです。
 トウヤンはぐったりしたサメヤラニに手を振りました。ニコニコ笑うトウヤンと隣のルットを見つけたサメヤラニは肩をすくめました。一方、トウヤンを見たイザナは顔面に枕を食らってから駆け寄ってきました。
「もう仲良くなったのか」
 トウヤンはよいしょとイザナを肩車しました。
「直談判はうまくいったのか」
「あぁ、いったよ」
「右手は使えないだろ」
「刀を握れるのは右手だけじゃない。なぁ、ほんとは俺とまた仕事ができてうれしいんだろ? サメヤラニ、強がらなくてもいいんだぞ!」
 サメヤラニはつられて笑いました。
「イザナ。これからはサンとレキとともに行動しなさい。あなたもここで剣士としての鍛錬や、勉強をする。いい? 私やサメヤラニ、トウヤンは剣を教えたりする。お昼になったら呼びに戻るわ。トウヤン、私とサメヤラニとあなたで話があるの。来てもらえる?」
「分かった」
 トウヤンは肩からイザナを下ろして2人と部屋を出て行きました。
 さて、部屋にはまた子どもたちだけです。イザナがいつまでもトウヤンのいなくなった空間をぼーっと見ていると、急にサンが顔をのぞかせました。
「さっきの人、トウヤンって、サメヤラニとルットの仲良しなんですね。まるで昔から知っているような感じです」
「仲良しもなにも同級生だろ」レキは答えました。
「どうしてそんなこと知ってるんですか?」
「ルットが言ってた」
「なるほど、ふぅん。ルットはおしゃべり屋さんですからね。道理でサメヤラニは私になんにも教えてくれないはずです。あの人って本当に、真面目で! 口数が少ない! もう何年も一緒にいるのに、大事なことはなーんにも言わないんですから」
「なんでも協会で一番優秀な剣士なんだってさ。1位。ほら、成績板の一番上にあった名前思い出してみろよ。前に、トウヤンって誰だって、話したじゃないか」
 カチコチと数秒たちました。
「……あぁ、あの人!」
「しっ! しーっ! そんな大声だすな。イザナがびっくりしてる」 
 確かにサンの声は大きく耳障りでした。イザナはキンキンしゃべるサンの隣で耳がブンブンいっていましたし、それを聞きなれているはずのレキでさえ、耳をふさいでいます。
 サンはレキをにらみました。ヘビににらまれたカエルみたいになってレキはしぼみます。
「トウヤン」
 イザナはつぶやきました。
「ここにきてからそれしか言ってない」
 レキはそう言って分厚い辞書をパラパラめくりました。
「隣に来いよ」
 イザナはレキの隣に座りました。
「あ行のページを開いてみよう。いろんな言葉が載っているだろ? 例えば……愛、会う、明日。試しにどれでもいいから言ってみな」
 イザナはぎっちり文字が並ぶページを見て口を小さく開けました。なにか言うぞ、そうやって2人は期待して待っていたのですが、イザナは声が出ませんでした。口を開いても音が出てこないのです。
「好きな言葉を言う練習から始めてみるといいよ。君だって、トウヤンのことが大好きだから名前を呼んでいるんだろう?」
 イザナはコクリとうなずきました。
「ほら! やっぱりちゃんと理解してる!」
 レキは興奮して言いました。
「じゃあ、私のことを呼んでみてください!」
「俺のことは? ほら、レキって言ってみろ! レキ!」
 2人は押し問答になりましたが、結局レキの方が折れました。
「サ、ン」
 自分の名前をかみ砕いてサンはゆっくりと言いました。 
 しかし、口が開きはしても声は出ませんでした。
「時間がかかりそうですね」
 サンは抑揚のない声で言いました。
「それじゃあ……」レキはまた辞書を開きました。「あった! この言葉を言ってみなよ、イザナ。と、も、だ、ち――友達。俺と君は、友達」 
 結局、イザナの言葉はトウヤン止まりでした。サンとレキはそれ以上の言葉を引き出そうとしましたが、どうにもうまくいかないのです。それはどこか、話したいけど遠慮しているような、力のなさを感じました。
 そんな調子で迎えたお昼、サンとレキはトウヤンたちと会う前に、楼閣にある食堂へイザナを案内しました。そこは、層を丸々一つ占領するほど広く、いくつものテーブルに椅子がありました。台所からはおいしそうな匂いがプンプンします。剣士学校の生徒たちが作っている列の中に3人は並びました。
「普段はここでご飯を食べるんです」
 サンは言いました。
 列が進むたびに、いい匂いが3人を包み込みました。鼻をヒクヒクすれば、蒸したジャガイモに、焦げ目のついた肉、温かいスープの絵が頭に浮かびます。イザナは先に並ぶ2人のまねをしてお盆を取り、料理が並ぶ台の前まで来ました。そこにはてんこもりのジャガイモに肉、魚、根菜類に玉子のスープ、野菜の酢漬、4種の煮豆……色どり豊かな料理がずらっと横一列に並んでいました。
 イザナは食べたい分だけ大皿に盛りつけました。席に着いて、さぁいただこうとした時でした。席に座ろうとしたサンに誰かがぶつかったのです。そのせいで、彼のスープが床にぶちまけられました。
「気を付けて歩きな」
 見ると、同い年くらいの男の子がポケットに手を突っ込んで立っていました。生意気そうな目に、少し出た前歯、それにそばかすがありました。
「そっちがぶつかってきたんじゃないか」
 レキが物怖じせずに言いました。ところが男の子の視線は、レキでもサンでもなく、イザナに注がれていたのです。
「そいつが新しい器?」
「イザナになんの用ですか? 私は今、とても機嫌が悪いんです。あなたを雷に打たせて髪をチリチリにしてあげたいくらい」
 男の子は一瞬だけひるむとすぐに強気な目に戻りました。
「そんなことをしたらお前は牢屋に入れられるぞ!」
「正当防衛です。あなたの頭よりスープを台無しにされた方が高くつきますから」 
 2人はカッと火を噴く勢いで言い合いました。その時、彼の目の奥がチカチカと光った気がしました。よく見ないと分からない、本当にささいな変化なのですが、雷が瞬いたように見えました。サンの手からはパチパチ静電気のような音がはじけていました。
「雷男!」ひどく興奮した様子で男の子は言いました。「風男の次は火男ときたか。お前どもは人間じゃない。俺たちに災いをもたらす化け物だ。とっとと協会から出て行けばいい」
 サンは押し黙りましたが、それは言葉で負けた気になったからではありません。あまりに心ない言葉だったので、怒りよりも悲しみの方が大きくなったためです。勝ち誇ったように顎をしゃくる男の子の顔が、なおさらカチンときたのか、いよいよレキも黙ってはいませんでした。
「謝れ」
 そんな気はさらさらないのか、男の子は鼻で笑いました。
「レキ。なにを言っても無駄です。彼には響かないんですから」
 そう言ってサンは男の子の前にずんと寄りました。
「そこ、どいてくれます?」
 男の子は勝ち誇った顔でどきました。そんな彼を見て一言――
「本当にかわいそうな人ですね」とサンは言いました。
「かわいそうなのはどっちかな? あぁ、親のいないお前たちには酷な話だったか!」
 わざと聞こえるように大声で言うと、男の子の肩を誰かの手が引きました。イザナにとっては初めて見る顔でしたが、サンとレキは厄介者を見る目で見返しました。ヘビのような目に、キュッと結ばれた神経質そうな小さい口、芸術家風のやや奇抜な髪型をした若い男でした。
「サヒロ、なにをしている」
 男の子は笑みを消しました。
「関わるなと言ったはずだ。そんなに仲良しごっこがしたいか」
「いいえ」
 サヒロは急に勢いをなくしました。鋭い視線がサンに移り、男は彼の手をがっしりつかみました。そしてゆっくり、ねっとり、ヘビが獲物を捉えるようにサンの耳元に近寄りました。
「よく覚えておけ。私の弟子になにかしたらただでは済まさんからな」
 強く握る男の手を、別の大きな手が握りました。
「なにしてる」
 トウヤンは左手でつかんだ手をパッとはじき返し、怖気づいたサンの前に立ちました。嫌な虫でも目にしたように、男は目を細めました。
「私の気のせいでなければ、君は私の大嫌いなトウヤンではないか。ふん、昼間から口にもしたくない言葉を言うはめになった」
「相変わらず嫌味っぽいな、あんたは」トウヤンは眉をひそめました。「ショウセイ」
「行くぞ、サヒロ。長話は不要だ」
 そう言ってショウセイと呼ばれた男とサヒロは立ち去りました。
 食堂を出た後もサンは無口のまま、誰とも目を合わせようとしませんでした。3人はトウヤンに連れられて協会の中を歩き、広々とした道場にやってきました。
「なにを言われたのかは知らないが、どうせろくでもないことだろうよ」
 トウヤンはうつむいて歩いていたサンに言いました。腰を折って彼の目線に合わせると、首をかしげながら「気にするな」と言いました。
 とはいえ、サンはまだ自信なく肩を落としていました。
「サヒロが言ったんだ」レキが小さく言いました。「僕らは人間じゃないって」
 トウヤンは小さくため息を漏らしました。
「俺はそう思わない」
 サンは顔を上げ、自分の小さな手を見つめました。
「でも……人と違います」
「特別なんだ」
 トウヤンは愛と勇気に満ちた声で言いました。
「だって、すごいことじゃないか。俺やサメヤラニ、ルットにはできないことができる。サン、レキ、イザナも。そういうのを天分だとか、持って生まれた才能って言うんだ。ひがみやら妬みを向けてくるやつは必ずいる。でも、そう思われるってことは、それだけすごいもん持ってるって証拠だろ? 人は言葉で簡単に駄目になる生き物だ。でも、言葉で救われることもあるんだ。なぁ……知ってるか?」
 サンとレキはトウヤンの瞳に吸い込まれていました。
「それができるのは人間だけなんだ」
 そこでニッと笑い、トウヤンはサメヤラニとルットが待つ場所に戻って行きました。サンは薄っすらと浮かぶ涙を拭いて笑顔を取り戻しました。
「私たちも行きましょう、レキ。イザナ」
 午後から始まったのは刀の稽古でした。イザナにとっては初めてのことでしたが、幸い周りは皆刀の扱いに慣れた剣士ばかりです。教えてもらう相手には苦労しませんでした。
「さぁ、イザナ。まずは刀を抜いてみな」
 トウヤンの合図でイザナは刀を抜きました。この不思議な刀は、初めて引き抜いた日の夜と同じように、刃の芯からにぶく輝く赤色の光がこぼれていました。ですが、もちろん刀なんてろくに握ったこともありませんから、ちっとも様になりません。
「刀を抜くときは、こうするんだ」
 トウヤンは左手の親指でつばを押し出し、鞘から刀を抜いて見せました。
「この短時間で鍛錬したのか?」
 しげしげと見つめながらサメヤラニが口を挟みました。
「俺を誰だと思ってる」
「さすがだな」
 サメヤラニは素直に言いました。
 イザナは小さな親指を突き出して刀のつば部分を押し出しました。当然トウヤンには及びませんが、2センチくらい鞘から刀が飛び出ました。
「そうだ、うまいぞ!」
 トウヤンは褒めちぎりました。
「のみこみが早い」とサメヤラニ。
「当たり前だ。俺の弟子なんだから」 
 トウヤンはいちいち胸を張りました。
「それじゃあ、今のを慣れるまで何回か練習してみよう」
 そんな調子でイザナは抜刀の練習だけを何度も何度も繰り返しました。
「じゃあ、私たちも始めましょう」
 サンはチャッと抜刀して刀を抜き取りました。彼の刃はイザナと違い、黄金色に輝いていました。一方、レキの刀は白っぽく柔らかな光をしています。サンはサメヤラニと、レキはルットと打ち合いを始めました。体格の違う者同士でしたが、レキもサンも身に付いた美しい動作で受けと攻めを繰り返していました。
「ちっとも改善されていないぞ、もっと相手の懐に入り込め」
 サメヤラニは刀を振りながらサンに忠告しました。
 カン、カン、と刃がぶつかり合う音が道場に響きます。イザナはトウヤンが見守るなか抜刀の練習を続けました。2時間ほどたったところで打ち合いをやめたサンたちが壁際で休憩を取り始めました。ぶっ続けで2時間も打ち合いをしたものですから、特にサンとレキは噴き出す汗を拭うのに大忙しでした。
「ずっと抜刀の練習を?」
 サンの言葉でイザナはやっと親指を止めました。何回もつばに押し当てたせいか先の方が赤く腫れていました。
「よく飽きもせずおんなじ練習をやってられる」とレキ。
「すごい集中力」ルットが言いました。
 ルットたちの言う通り、イザナにとって同じことを永遠に繰り返すのは苦でありませんでした。むしろ心地がいいくらいで、彼にとっては2時間も4時間も大して変わらなかったのです。後半はいったん刀を置いて、体の柔軟体操や筋肉をつくるための運動がメインでした。レキとサンは体格が同じくらいなので、いつもペアを組んでいましたが、今回はイザナが加わったので順番に体を押さえる役目だとか、逆に体を動かす役目をしました。
 誰かと何かを一緒にやる、ということがイザナには楽しくてたまりませんでした。なによりあの狭い地下室の外に、こんなにキラキラした子どもたちがいたなんて、まだどこか夢心地だったからです。
 しかし、サンとレキにとって無表情のイザナはなにを考えているのか分からない存在でした。相変わらず一言もしゃべりませんし、にこりともしないからです。これでは当然、イザナが内心どんなことを思っていても、うまく伝わるはずがありません。
 道場での稽古は想像以上にどっと疲れる内容でした。いくら精神的に大丈夫でも、体は正直です。親指は腫れるし、体はビリビリ痛いし、こんな感覚は初めてでした。
「そういやイザナ、自分の部屋はもらったんだろ?」
 レキが鍵を宙に投げながら尋ねました。
「なんか今、下級剣士の部屋に空きがないらしいですよ」
「なら俺んとこ来いよ!」
「あっ、私の部屋半分使います?」
 イザナが迷っているとレキが肩をすくめました。
「こいつんとこは駄目だ。足の踏み場もない」
 言葉の意味が分かったのはサンの部屋をのぞいた時でした。
「ちょっと散らかってますけど……」
「少しって意味を辞書引いてみろ」
 レキは本や服で埋もれた部屋を見て言いました。
 そんなわけで、イザナはレキの部屋に引っ越しました。自由に歩ける床があるのは素晴らしいことでした。
 イザナはいそいそと布団を部屋の角に敷き始めました。
「イザナ、君はいつもそんな隅っこで寝てるの? 隙間風が入って寒い。あぁ、でも君は寒くないんだったね」
 イザナは布団の中に入って毛布をかぶりました。しばらく2人とも黙っていると、レキは部屋が妙に暖かいことに気付きました。さっきまで冷え冷えとしていた鼻先が妙に温かく感じられたのです。
「まさか君が暖めた?」
 レキは体を起こして尋ねました。イザナはゴロリと寝転がって遠くからレキの顔をぼんやりと見つめました。間違いありません。イザナが部屋に来た時から寒さが少し和らいだのです。
「すごいな、君は」レキは言いました。「俺は風を生み出せるけど、あんまり使わないんだ。だって人は風が苦手だろ? こんなに寒いのに風なんて吹かしたら迷惑だろうしさ」
 イザナはじっと耳を澄ましていました。
「そうだ。すごいもの見せてやる。ついてきな」
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