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8、猫神社
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「流太さん」
母は彼の前で正座した。
「あなたがどうしても空雄を連れて行きたい気持ちは、分かりました。でも、これだけは約束してください。もう、自分を傷つけることはしないと。そして、空雄を守ると」
流太は目を合わせずに黙っていた。
「自分を傷つけることは、決して簡単なことではありません」
母は自分の言葉を全て肯定してくれると思っていた。だから、今の言葉には落胆さえした。一方で、母の言葉が胸にズキリと響いていた。自分を傷つけることは、決して簡単なことではない。痛覚は普通の人間と変わらないのに、迷いもなく指を切った。
しかも、身の保身のためではなく、意思の強さを示すために。それが自分にできるかと聞かれれば、空雄は躊躇する。なぜなら、自分が大事だからだ。どちらが正しいと言うのではなく、母は冷静に、中立的な立場で語った。自分には、そういうところがない。空雄は分かっていた。
「不安がないと言えば、うそになります。でも――信頼を預けます。空雄を助けてください」
流太は母と目を合わせ、うなずいた。
「行きなさい。空雄」
母の突き放す言葉に空雄は怖気づいた。
「でも」
「私たちでは、あなたを人間に戻してあげられないの」
空雄は口を閉ざした。ここで家族にすがっていては、きっと迷惑を掛け続けるだけ。元の姿には戻れない。年を取らない自分だけが、時代に取り残され、家族の誰とも同じ時間を生きていけない。これまで一緒だと感じてきたはずの全てがここで止まり、壁に隔たれたみたいだった。
小春がそばでギュッと腕をつかんで離そうとしなかった。不安そうな顔を見るだけで胸は張り裂けそうだった。駄目なんだ、ここにずっといては。空雄は思いを振り切り、小春の頭をなでると立ち上がった。
「分かった」
空雄は言った。
「行く」
空雄は父、母、小春に視線を配り、最後は流太に注いだ。彼はソファから起き上がるとベランダまで歩いた。
「流太さん」
母は呼び止め、小さな白い布を差し出した。流太は布をめくると驚いた目をした。母の手にある布に包まれていたのは、流太の切り落とされた親指だった。いつの間にか、母は屋根の上に落ちていた彼の親指を拾っていたのだ。空雄もまったく気付かなかった。思ってもいなかったのか、流太はしばらく黙っていた。
「捨ててしまえばいいものを」
流太は言いつつ受け取ると懐にしまった。
「1日たてば、この指も血もなきものになるでしょう。ですが、これはあなたの大切な体の一部」
流太は背を向け空雄を担いだ。
「あっ、ちょっと! なに……」
「ここから先は、飛ぶ」
流太は最後に振り返って一礼すると、びゅん! と勢いよくベランダから飛んだ。
「お兄ちゃん!」
はだしで庭に駆け出した小春の姿が小さくなり、その後ろに立つ父と母を見た。空雄は苦しい胸を手で押さえ、家が見えなくなる前に叫んだ。
「必ず帰る!」
流太は空雄を担いだまま夜の町を駆けていた。屋根から屋根へ、音も立てず移動していく。跳躍するたびに、空雄は肝がひゅっとなる気持ち悪さを覚えた。しかし、このジェットコースターみたいな恐怖は突如終わりを迎えた。
森の前にある古い道路の前で流太は空雄を下ろした。なんだかまだ体がふわりとしている。空雄はうずくまって動けなかった。周囲に家はなく、延々と草地が広がっており、森の前には立派な朱色の鳥居が立っていた。奥には竹林に続く石段が月明かりに照らされており、石段には「友の石段」という名前があった。春の生温かい風が吹き、竹林がざわざわ音を立てる。長年住んでいる町の外れに、こんな忘れ去られたように神社があったとは。
彼の後について鳥居をくぐると、いきなり目の前を1匹のさび猫が通り過ぎた。自分が猫戦士になった今、ひょっとして今の猫も人間なのでは? という疑念さえ浮かぶ。どうやらこの森には他にも猫がすんでいるらしく、見掛けただけでも7匹はいた。
「ここは猫神社。猫ぐらいいる」
竹林の中は驚くほど静かで、石段を上がる2人の足音だけが響いた。ようやく視界が開けた。空雄は息をのんだ。なぜって? 異様な光景が広がっていたからだ。
横一列、整然と並んだ猫の石像。つぶれた猫や、しっぽや片耳、片足がない猫。そのどれも、さっきまで動いていたんじゃないかと思うくらいリアルで、毛並みの細部まで細かく精巧だった。
「まさかこの石像って」
前を歩いていた流太が足を止めた。
「ここにある猫の石像は全て、本物の猫だ」
なんて残酷なんだ。石男という化け物によって、生きていた猫が石に変えられた。石男というのがどんな姿をしているのかは分からないが、猫を石に変えるなんて本当にひどいことをする。
「この猫たち、どれも体の一部がなかったり、けがをしていますけど。どうしてなんですか?」
「年老いた猫や、体の弱い猫を狙うんだ」
正気とは思えなくて、空雄は許せない気持ちになった。
「こっちだ。ついてきて」
境内には小さな本殿があって、両脇に大きな白猫と黒猫の石像が立っていた。流太は社務所を通り過ぎ大きな屋敷を案内した。表の看板には大きく「猫屋敷」と書かれている。中は思いのほかきれいで、広い和室が廊下越しに続いており、空雄は突き当たりにある部屋に案内された。
「ここ、好きに使っていいよ」
広い和室には余計な荷物も、誰かが生活していた形跡もなかった。
「俺はあんたの隣の部屋。布団ならふすまにあるから使って。何かあれば言いな。それじゃあ、おやすみ」
母は彼の前で正座した。
「あなたがどうしても空雄を連れて行きたい気持ちは、分かりました。でも、これだけは約束してください。もう、自分を傷つけることはしないと。そして、空雄を守ると」
流太は目を合わせずに黙っていた。
「自分を傷つけることは、決して簡単なことではありません」
母は自分の言葉を全て肯定してくれると思っていた。だから、今の言葉には落胆さえした。一方で、母の言葉が胸にズキリと響いていた。自分を傷つけることは、決して簡単なことではない。痛覚は普通の人間と変わらないのに、迷いもなく指を切った。
しかも、身の保身のためではなく、意思の強さを示すために。それが自分にできるかと聞かれれば、空雄は躊躇する。なぜなら、自分が大事だからだ。どちらが正しいと言うのではなく、母は冷静に、中立的な立場で語った。自分には、そういうところがない。空雄は分かっていた。
「不安がないと言えば、うそになります。でも――信頼を預けます。空雄を助けてください」
流太は母と目を合わせ、うなずいた。
「行きなさい。空雄」
母の突き放す言葉に空雄は怖気づいた。
「でも」
「私たちでは、あなたを人間に戻してあげられないの」
空雄は口を閉ざした。ここで家族にすがっていては、きっと迷惑を掛け続けるだけ。元の姿には戻れない。年を取らない自分だけが、時代に取り残され、家族の誰とも同じ時間を生きていけない。これまで一緒だと感じてきたはずの全てがここで止まり、壁に隔たれたみたいだった。
小春がそばでギュッと腕をつかんで離そうとしなかった。不安そうな顔を見るだけで胸は張り裂けそうだった。駄目なんだ、ここにずっといては。空雄は思いを振り切り、小春の頭をなでると立ち上がった。
「分かった」
空雄は言った。
「行く」
空雄は父、母、小春に視線を配り、最後は流太に注いだ。彼はソファから起き上がるとベランダまで歩いた。
「流太さん」
母は呼び止め、小さな白い布を差し出した。流太は布をめくると驚いた目をした。母の手にある布に包まれていたのは、流太の切り落とされた親指だった。いつの間にか、母は屋根の上に落ちていた彼の親指を拾っていたのだ。空雄もまったく気付かなかった。思ってもいなかったのか、流太はしばらく黙っていた。
「捨ててしまえばいいものを」
流太は言いつつ受け取ると懐にしまった。
「1日たてば、この指も血もなきものになるでしょう。ですが、これはあなたの大切な体の一部」
流太は背を向け空雄を担いだ。
「あっ、ちょっと! なに……」
「ここから先は、飛ぶ」
流太は最後に振り返って一礼すると、びゅん! と勢いよくベランダから飛んだ。
「お兄ちゃん!」
はだしで庭に駆け出した小春の姿が小さくなり、その後ろに立つ父と母を見た。空雄は苦しい胸を手で押さえ、家が見えなくなる前に叫んだ。
「必ず帰る!」
流太は空雄を担いだまま夜の町を駆けていた。屋根から屋根へ、音も立てず移動していく。跳躍するたびに、空雄は肝がひゅっとなる気持ち悪さを覚えた。しかし、このジェットコースターみたいな恐怖は突如終わりを迎えた。
森の前にある古い道路の前で流太は空雄を下ろした。なんだかまだ体がふわりとしている。空雄はうずくまって動けなかった。周囲に家はなく、延々と草地が広がっており、森の前には立派な朱色の鳥居が立っていた。奥には竹林に続く石段が月明かりに照らされており、石段には「友の石段」という名前があった。春の生温かい風が吹き、竹林がざわざわ音を立てる。長年住んでいる町の外れに、こんな忘れ去られたように神社があったとは。
彼の後について鳥居をくぐると、いきなり目の前を1匹のさび猫が通り過ぎた。自分が猫戦士になった今、ひょっとして今の猫も人間なのでは? という疑念さえ浮かぶ。どうやらこの森には他にも猫がすんでいるらしく、見掛けただけでも7匹はいた。
「ここは猫神社。猫ぐらいいる」
竹林の中は驚くほど静かで、石段を上がる2人の足音だけが響いた。ようやく視界が開けた。空雄は息をのんだ。なぜって? 異様な光景が広がっていたからだ。
横一列、整然と並んだ猫の石像。つぶれた猫や、しっぽや片耳、片足がない猫。そのどれも、さっきまで動いていたんじゃないかと思うくらいリアルで、毛並みの細部まで細かく精巧だった。
「まさかこの石像って」
前を歩いていた流太が足を止めた。
「ここにある猫の石像は全て、本物の猫だ」
なんて残酷なんだ。石男という化け物によって、生きていた猫が石に変えられた。石男というのがどんな姿をしているのかは分からないが、猫を石に変えるなんて本当にひどいことをする。
「この猫たち、どれも体の一部がなかったり、けがをしていますけど。どうしてなんですか?」
「年老いた猫や、体の弱い猫を狙うんだ」
正気とは思えなくて、空雄は許せない気持ちになった。
「こっちだ。ついてきて」
境内には小さな本殿があって、両脇に大きな白猫と黒猫の石像が立っていた。流太は社務所を通り過ぎ大きな屋敷を案内した。表の看板には大きく「猫屋敷」と書かれている。中は思いのほかきれいで、広い和室が廊下越しに続いており、空雄は突き当たりにある部屋に案内された。
「ここ、好きに使っていいよ」
広い和室には余計な荷物も、誰かが生活していた形跡もなかった。
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