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第32話

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 退院の日は、柊一サンが仕事を休んで迎えに来てくれた。
 病院の出口にはハイヤーが待たされていて、柊一サンに促されるまま俺はその車に乗り込む。
 もちろん、退院の手続きも、入院の諸費用も、全て柊一サンが一手に引き受けてくれてしまった。
 そしてハイヤーが俺達を降ろしたのは、柊一サンのマンションの前だった。
 俺が何かを問う隙もなく、柊一サンはさっさと荷物を降ろし、エレベーターに乗る。
 そしてそのまま、何の迷いもなく自室の前に立ち、玄関の扉を開いて、柊一サンは俺に中に入るように促してくる。

「あの、柊一サン…?」
「どうした? 早くしろ」

 この状態で、柊一サンに今更なにかを訊ねる事も出来ず、俺はそのまま中に入った。
 部屋に着くと柊一サンは、自室へ着替えに行ってしまった。
 そしてラフな服装でリビングに戻ってくると、呆れたような顔をする。

「なにをそんなところで突っ立っているんだ?」

 ソファに腰を降ろし、柊一サンは俺に座るように促してきた。

「ああ、そうだ。これを返しておこう」

 おずおずと隣に座ると、柊一サンは俺にあの時この部屋に忘れていった時計やら携帯やらを手渡してくれた。

「本当の事を言うとな、ハルカがこれを取りに来てくれたらな…と、思っていた」
「なら、連絡をくれれば良かったのに」

 言ってしまってから、酷く身勝手な事を言ってるな…と思って、思わず柊一サンの顔色を窺ってしまったが。
 柊一サンはそんな事を気にする風もなく、困ったような顔で首を左右に振ってみせる。

「実は、連絡をしようと思ったんだ。だけど、考えてみたら俺は、ハルカの携帯の番号しか知らない。西新宿に住んでいるって話は聞いていたけど、ちゃんと住所を知っている訳じゃなかったから。でも、唯一の連絡手段はこの部屋にあるから……」
「そうだね、ゴメンナサイ。今度は、ちゃんと住所を教えます」
「あ……、もしハルカが嫌じゃなかったら、ここに帰ってきてくれないか……?」

 一瞬、意味が判らなかった。
 だけど、それが同居の申し出だと気付いて、俺が顔を上げると。
 柊一サンは、俺から視線を外し、顔を背けてしまう。
 しかし柊一サンの白いうなじと、耳朶がパアッと赤く染まっている様子に、俺は思わずどぎまぎしてしまった。
 だってそれって、まるっきりプロポーズみたいじゃないか!
 俺は両腕を伸ばし、柊一サンの身体を引き寄せてギュウッと抱きしめた。
 柊一サンは抗う様子もなく、俺の腕に収まってくれている。
 艶めかしい身体から立ち上る甘い香りを胸一杯に吸い込んで、俺は喜びを噛みしめた。
 そりゃあ、柊一サンの気持ちは、たぶんまだあの電柱男に惹かれているだろう。
 俺の存在は、そんな柊一サンの救いようのない傷心を欺瞞する為でしかないのかもしれない。
 だけど………。
 本当にただ、それを欺瞞するだけなら、それこそ金で済ませる事がいくらでも出来る。
 散々それを商売にしてきた俺は、そんな事はよっく判っている。
 でも柊一サンは、病院に俺を運び、わざわざ謝罪までしてくれた。
 それはつまり、少々意味は違うかもしれないけれど、柊一サンが俺の事を「オンリーワン」と言ってくれたって事なんだ。
 思わず感極まって、俺は柊一サンを抱く腕の力を抜き、柊一サンをこちらに向かせると、その薄い口唇を感動にうち震えながらそうっと吸った。
 柊一サンが、俺の口づけにおずおずと応えてくれる事が、無性に嬉しくて。
 だからそのまま、シャツの下に手を潜り込ませようとした瞬間。
 いきなり、顔面をグッと掴まれて、甘いくちづけは中断された。

「ちょ……、なんで…っ!」
「いくら退院を許可された…と言っても、激しい運動はまだダメだ!」
「だってぇ!」
「それに、俺は今日休んだ分も含めて、明日の朝、早朝ミーティングに出なきゃいけないんだ。今夜は、おとなしく寝ろ」

 でも、きっぱりとそう言いながらも、柊一サンはまるで新しく買ってもらったペットの子犬を叱るみたいに「めっ!」と言って、俺の頭を「いいこいいこ」なんて撫でるのだ。
 すっかり毒気を抜かれて、俺は諦めの溜息を吐いたのだった。
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