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第10話

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 店は大通りを一本入ったところにあって、すぐに見つかった。
 ただ、営業はしていなかった。
 シャッターの下りている店の前で車を止めた運転手は、改めて多聞の方に振り返る。

「今日は定休日じゃないから、夜になれば開くよ」
「サンキュー。釣りいらねェよ、とっといて」

 料金より多めの札を渡し、多聞は車を降りる。
 運転手は軽く手を振って、走り去った。
 シャッターのところに書かれている営業時間を見た後に、自分の時計を見る。

「まだ結構、時間あるなぁ」

 こんな場所で、何時間も無為に過ごすのは莫迦莫迦しい。
 かといって、時間をつぶすアテもない。
 この辺りは頻繁に通る道筋ではあるが、リムジンの後部シートに座って通り過ぎるだけの場所なのだから。

「…もうちっと、待たせとけば良かった」

 走り去り、もう影も形も見えなくなってしまったタクシーの事を思い返し、多聞は舌打ちする。
 未練がましくしばらくそちらを見つめていたら、向こうから歩いてくる人物が見えた。

「え、ウソっ」

 思わず声に出していた。

「おおいっ! オマエッ」

 身長が190センチもある大男が、大きな声を上げながら自分に向かって駆け寄ってきた事で、シノ氏はいぶかしげな顔をして立ち止まった。

「俺だ、俺。覚えてねェ?」
「…ああ、あの時の」

 多聞を認識したシノ氏は、微かに不快な表情を見せて、また歩き出す。
 並んで一緒に歩き出した多聞の耳に軽い舌打ちが聴こえ、それから愛想のない声が投げられた。

「なんか用?」
「いや、オマエにさ、どうしてももう1回会いたくて」
「なんで?」
「話がしたくて」
「悪ィけど!」

 店の裏手でポケットから鍵を出し、ドアノブに手を掛けたシノ氏が初めて多聞に振り返る。

「これから仕込みをしなきゃなんねェんだ。話をしてるヒマなんかねェの、帰ってくれよ」

 開きかけた扉を両手で押さえ、多聞は目の前のシノ氏の顔をジッと覗き込んだ。

「ねえ、オマエの貞操って、1回3万で売ってもらえるの?」
「なんだって!?」

 多聞の問いかけに、シノ氏の眦がつり上がった。
 ところがジロリと睨み付けてきた鋭い視線が、自分でも信じられない程の欲望を多聞の体内に芽生えさせてくれたのだ。
 この瞳! 繰り返し夢に見た天使の眼差しは、この瞳に間違いないと確信する。
 感動と期待に盛り上がる多聞に対し、夢の天使は抑揚を押さえた無感動な声で言った。

「…それってつまり、事情が解ってたクセに、あの時はバックレた返事をしてた…ってコトか?」
「だとしたら、どうする?」

 長身でこわもての多聞を前にしても、シノ氏は全く怯んだ様子がない。
 それどころか、彼は明らかに怒っている。
 でも多聞は、自分を睨み付けている瞳に反抗的な色が浮かべば浮かぶ程、その魅力を強く感じた。
 だから思わず、相手を挑発するような言葉を口に出してしまったのだが…。

「そうか…」

 フッと一瞬俯いたシノ氏は、次の瞬間怒りに燃えた瞳で多聞を見上げてきたかと思うと、そのほっそりとした身体からは想像もつかないような破壊力で、多聞の腹に向かって拳を突き入れてきたのだ。

「…っ!」

 エビのように身を屈めただけで、声も出せない。
 そんな多聞に咳込む隙も与えず、シノ氏はいきなり襟首を掴むと、よろめく多聞の身体を無理に引き立たせた。
 本気で身の危険を感じ、多聞は慌てふためいた。

「ちょ、ちょちょちょいまちっ!」
「待てるかよ! 酔っぱらって覚えてねェなら情状酌量の余地もあったが、確信犯には手加減なんかしねェぞ!」
「ウソです! 覚えてなかったですっ! あれからずっと考えて、そーじゃないかと思ったから確かめに来ただけですっ!」

 本当の事を言うと、多聞は喧嘩にめっぽう弱い。
 その押し出しの強い外見で、他人は多聞を「怖いモノなし」と決めつけているが、実際の多聞は「とっても気の小さい男」なのだ。
 本気ですくみ上がっていた多聞は、自分の襟首からシノ氏が手を離してくれた事さえ、すぐには気がつかなかった。

「…ったく、いつまで首すくめてんだよ」
「えっ? ええっ?」

 声を掛けられ、多聞はようやく目を開き、辺りを見回す。

「その様子じゃ、ウソじゃなさそうだな」

 肩を竦め、シノ氏はクルリと多聞に背を向けた。

「あ、おいっ」
「忙しいって言ったろ。さっさと帰れよ」
「ちょ、ちょっと待ってくれって」

 そのまま鼻先で閉じられてしまいそうな扉を、多聞は慌てて押さえた。

「ウルセェな。まだ、なんかあるのかよ?」
「だから、用件はさっきも言ったろ」
「あぁ?」

 扉を掴んで放さない多聞に、シノ氏も諦めたようにこちらに向き直った。

「俺、オマエに本気で惚れちゃったみたいなんだ。オマエと別れてからこっち、女の子相手にその、出来なくなっちまって…。オマエの事ばっか、毎晩のように夢に見てさ。だからどうしたらいいかって考えて、金を払えば、その、…また抱かせて貰えるかも…って思って…」

 殊勝な態度を装いつつ、シノ氏の様子をそっと伺う。

「かもって言われてもなぁ」

 どうやら多聞の作戦は間違っていなかったらしく、健気さをアピールする多聞に対するシノ氏の様子からは、刺々しさや嫌悪の表情が薄れていた。

「頼むっ! 俺、このままじゃインポになっちまうかもしんねェッ! もっかいさせてくれよ、な? な!」

 出来るだけ哀れっぽい声を出して、シノ氏の手を握る。
 しかし、完璧な演出だったはずの多聞の手を、シノ氏は素気なく振り払った。

「あ…れ?」

 行き場のなくなった手と相手の顔を交互に見比べる多聞に呆れたように、シノ氏は肩を竦めた。

「アンタ、ウソつくの下手な」
「えっ…?」
「よーするにアンタは、俺の仕事を邪魔しに来たんだろ」
「いや、別にそーゆーつもりは…」
「つもりじゃなくても、結果的にそーなってるだろ。もし本当にそうじゃないって言うんなら、仕事が終わるまで邪魔しないでくれよ。そーじゃなくてもアンタには、この間だってバイト代パァにされちまってるんだから!」

 そう言ったシノ氏は、今度こそ多聞に邪魔をする隙も与えず、素早く扉の中に入っていってしまった。
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