イルン幻想譚

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ep.1:剣闘士の男

10:森の黄昏(3)

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 奇妙な頭痛や動悸は、自分の本能が本当の名は口に出すべきでは無いと、教えていたような気がする。
 しかしそんな本能の警告は、ファルサーの顔を見た瞬間にどうでもいいと思ってしまった。

「ディザート」
「可愛い名前だ」

 穏やかに微笑み掛けられて、ひどくこそばゆくなり、アークは目線を逸らす。

「先程、君が言ったことに賛同する」
「なんのコトでしょう?」
「君の見識が無いと言う発言だ」
「褒めたのに」
「残念だが、それを褒め言葉と受け取るのは不可能だ」

 ファルサーとの会話で感じている奇妙な居心地の悪さと、固い樹木に寄りかかっている座り心地の悪さが相まって、アークは幾度か身体を動かした。

「寒いんですか?」
「いや、別に…」

 ファルサーは自分の荷物の中から、質素だが柔らかな毛布を取り出した。

「これを」

 広げて肩に掛けると、アークは黙って毛布に包まれた。
 つと顔を上げると、間近にアークの顔がある。
 アークの姿は、色素の薄さやその佇まいの美しさを除けば、自分となんら変わりのないものに見える。
 だが例えば、この窪地での野営のための準備の手際や、決して狭いとは言えぬ湖面を瞬時に凍りつかせた魔力ガルドルなど、折々にアークが見せる特出した能力は、アークが言葉通りの存在であることがあきらかだ。
 人間リオンから見たら、永遠とも不滅とも思えるような時間を生きている。
 百年生きることすら難しい人間リオンからすれば、それは羨ましいと思えるような能力だろう。
 しかしその永遠にも等しい時間を "独りで" 生きているとなれば、話は全く違う。
 もっと無機質で感情の無い存在ならば、ただ意のままに生きていればそれでいいだろう。
 はっきりと感情を持ち孤独を感じる生き物が、必ず独りで取り残されることばかりを繰り返して生きていくなんて、恐怖と思わずにいられない。
 色の薄い瞳は視線が合っても逸れることなく、静かにファルサーを見ている。
 まるで一種の催眠術のように、緩慢に瞬きを繰り返すアークの瞳から、ファルサーも視線を外せなくなっていた。
 白く美しい端正な顔からは、年齢を推し量ることが出来ない。
 命令口調で指示を出す時は、経験と歳を経た自信に裏付けされた、まるで軍の司令官のような顔になる。
 でもこんな無防備なまま見つめ合ってしまうと、むしろその性別が判らない童顔故に、少女のような儚さしか感じなくなる。
 青い瞳はずっと、ゆらゆらと揺れながらファルサーを見つめている。
 焚き火の炎が白い顔の淡い唇を照らし、ファルサーはその色に引き寄せられ、そっと唇を重ね合わせていた。

 ほんの一瞬。
 これと言った空気の動きも感じなかったはずなのに。
 気付いた時には、辺りは様子が一変していた。
 自分が、どこに居るのかも判らない。
 景色が消え、上下の感覚も曖昧で、時間すら止まっているみたいだ。
 しかも自分の周りから景色が全て消え去っていると解るのに、自分の視線はアークに当てられたまま、動かすことが出来ない。
 更に、目の前に居るアークを見ているはずなのに、それがアークだと解っていながら、姿は判然としていなかった。
 自分達は、まるで裸で抱き合っているようで、それでいて先刻と同じ場所に同じ姿勢で居るようで…。
 アークが手を伸ばして、ファルサーの肩の焼印に触れたような気がしたが、それも現実かどうか分からない。
 けれど視線を外せないアークの瞳に、微かな笑みが浮かんだように見えた時、ファルサーは得も言われぬ満ち足りた気持ちになった。
 "其処" には、ファルサーの望む全ての自由があった。
 初めてトーナメントで優勝した日よりも、闘技場コロッセオで王がじかに褒め言葉を掛けてくれた時よりも、闘士のランクが上がったことを母が祝ってくれた時よりも…。
 そんな凡庸な喜びや晴れがましさなど、全て吹き飛ぶ充足感だ。
 今までだれにも認められることのなかった、ファルサーのアイデンティティが尊重され、ファルサーの矜持が重んじられ、ありのままのファルサーの存在が肯定されている。
 夢と現の間で、ファルサーはかつて味わったことのない歓喜と満足に満たされていた。
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