ショートケーキは甘くない

hamapito

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ショートケーキは甘くない

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 私はイチゴが好きではない。食べられないほどではないけれど、美味しいと思ったことはない。
「なんでわざわざここで食べるの?」
「呼んでも出てこなかったじゃない」
 結婚して家を出たはずの姉はそう言うと、視線だけで「食べないの?」と訊いてきた。反論を諦めた私は取り分けられたお皿に載っているチーズケーキへとフォークを下ろす。ふわりと広がるチーズの香りと歯で潰す必要のない柔らかさを口に入れ、目の前で生クリームつきのイチゴを頬張る姉に眉を寄せる。
「美味しいの?」
「美味しいよ。あかりの分も冷蔵庫にあるからね」
「え、なんで?」
「ショートケーキもチーズケーキも四つずつ買ってきたから」
 意味がわからないと首を傾げる私に姉はケーキを切る手を止めることなく言った。
「ひとの顔色を窺いながら選ぶのってしんどいじゃない。これぞ平和的解決」
「私ショートケーキ食べないよ。甘いものの中に酸っぱいものを入れる理由がわからないもん」
 ショートケーキのイチゴなんて好きではないどころか、嫌いだった。生クリームとスポンジの甘さで強調されたイチゴの酸味がケーキの美味しさを消してしまう。赤い見た目が可愛いという理由だけで入れたのではないだろうかと疑いたくなるくらい最悪の組み合わせだと思う。
「そこがいいのに」
 パクリとフォークの先が姉の口に消え、ケーキの上の白い生クリームには赤い染みが残された。やっぱりイチゴなんてない方がいい。
「この美味しさがわからないなんて。子供だねえ」
「そんなことないもん」
「じゃあ失恋くらいで引きこもらないでよね。母さんに電話で呼ばれて何事かと思ったわよ」
「……」
 私だって自分がこんなふうになるなんて思ってなかった。タイミングが良いのか悪いのか大学は春休みに入ってしまい、アルバイト先のお店も改装中でお休みになった。両親が仕事に行ってしまえば家の中には私ひとりだけで、気づけば簡単に引きこもれてしまった。
「なんで別れたの?」
「……」
「まあいいや。顔じゅうに『後悔してます』って書いてあるし」
「え」
「私から言うことはふたつだけ。母さんたちに心配かけないようにご飯は一緒に食べなさい」
「……はい」
「自分が悪かったって思うことがあるならちゃんと謝りなさい」
「それは……母さんたちに?」
「それくらい自分で考えな。子供じゃないんでしょう?」
 空になったお皿を重ねると「リビングにいるね」と姉はあっさり部屋を出て行った。
「甘いだけでいいのに」
 甘いだけでいい。甘いだけでよかった。甘さだけを求めていた頃のほうがずっとずっと幸せだった。
 ――片想いをしているときが一番楽しくて、両想いになれた瞬間が一番幸せだった。
 姿を見かけただけで、少し話せただけで嬉しくて。今日は会えるかなと考えるだけで心が弾んだ。彼も同じ気持ちだと知ったときは信じられないくらい嬉しくて、涙が勝手に溢れた。
「食べたら変わるかもよ?」
 私が嫌いだと言ったショートケーキを彼は買って帰ってきた。
「本当にダメだったら俺が食べるし、口直しのチーズケーキもあるから」
 その日は付き合って一年の記念日で。私は彼の部屋で慣れない料理に挑戦していて。今日だけはケンカしたくなくて。渋々頷いた。
 いったいいつぶりに口にしただろうか。「ショートケーキは好きじゃない」と言えるようになってからは誰も私に買ってこなくなったし、自分から選ぶこともなかった。甘いクリームが溶けると同時にイチゴを噛み潰す。じゅわりと広がる果汁とともに酸味が口の中に溢れ出した。
「……む」
 噛みきれなかった塊ごと喉に流し込み、手にしたコップを傾ける。口に残った酸味が麦茶に押し流されていくまでごくごくと飲み続けた。
「やっぱ無理」
 はーっと吐き出した息の中で言えば、隣で見守り続けた彼がふっと表情を緩ませた。
「ふ、ふは、やっぱ無理か」
 くしゃりと顔じゅうで笑った彼がその大きな手で私の頭を撫でた。
「よし、頑張ったご褒美にチーズケーキをあげよう」
 なんでこんなに笑われているのかわからなかったし、最初からチーズケーキをくれればよかったのにと思わなくはなかったけど。その声はとても心地よくて「まあいっか」と思えた。
 ――そういう瞬間を大切にできていたなら、結果は違ったのだろうか。
「別れよう」
 言われた言葉は悲しくてたまらなかったのに、少しだけホッとした。もう頑張らなくていいのだと思ったら肩の力が抜けた。これできっとよかった。お互いのために。だから、頷いた。
 ――だけど、一度知ってしまった幸せを忘れるのは簡単じゃなかった。
 転びそうになったときに支えてくれる手がない。寒いと言っても抱きしめてくれる体がそばにない。並んで受けていた授業も、指定席のように決めていた映画館の座席も、もう……ない。ないのに、忘れられない。知らなければよかった。知らないままだったらよかった。差し出される優しさも、一緒にいる温かさも、心がきゅっとなる愛おしさも知ってしまったから。だから――こんなにもまだ苦しい。
 テーブルの上に置いていたスマートフォンが震えだし、視線の先に表示された名前に息が止まった。
「……」
 出るべきか迷う。今さら何を話せばいいのかわからないし、何を言われるのかもわからない。それでも手を伸ばしたのは、姉の言葉が頭に残っていたからだろう。謝ったほうがいいとまでは思えなかったけど、この電話をとらなかったらもっと後悔する気がした。
「……もしもし?」
「あかり?」
 あの日のままの彼の声が私の名前を呼んだ。それだけで胸の奥が痛くなる。イチゴなんてないはずの体の中に酸味が広がっていく。
「うん」
「……」
 自分からかけてきたくせに彼は黙り込んだ。
「っ……」
 一瞬開きかけた口を私は閉じる。後悔しているとしたら、これもそのひとつだと思い出したから。本当に伝えたいことがあるときこそ彼は間を取るのだ。その彼のクセを付き合う前の私は知っていたのに、付き合ってからの私は忘れてしまった。あの頃の私は彼が口を閉じる間に自分の言葉を押しつけてばかりいた。
「会いたい」
 ――え?
 聞こえた言葉が信じられず、すぐには声が出なかった。
「勝手なこと言ってごめん。でも……ずっと考えてた。何がいけなかったのかって。ずっと後悔してたんだ」
「わ、別れようって言ったのは、そっちじゃん」
 口にしたそばから苦味が強くなる。言いたかったのはこんな言葉じゃないのにと後悔が溢れ出す。
「うん、ごめん」
 きっと苦しかったのは私だけじゃない。彼だって苦しかったのだろう。お互い好きなのに。好きだから大切にできなくて。顔色を窺ってばかりで、うまく息が吸えなくなった。幸せでいっぱいだったはずの胸の中は不安と苦しさでいっぱいになっていて、もうどうにもならなかった。だから、手を離した。
 だけど――。
「だけど、ずっとあかりのことが好きだった。だから、やり直したい」
 
 コートのポケットにスマートフォンを突っ込んで、玄関へと急ぐ。
「いってらっしゃい」
 いつの間にか姉が廊下に出てきていた。
「いってきます」
 言葉を返しながらドアを押し開ける。隙間から流れ込んだ風は思ったよりも冷たくはない。
「あ、お姉ちゃん」
 足を踏み出しながら顔だけを振り返らせる。
「ショートケーキ、私の分食べないでね」
「残しとくから安心していってきな」
「うん」
 ――甘さだけを求めるのではなくて。
 酸味も苦味も受け入れたうえで、前へ進もう。


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