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しおりを挟む「おやすみ、大ちゃん」
昨日と同じように、お互いの部屋の前で振り返る。
ひかりが自分の身長と変わらないシロイルカのぬいぐるみを抱えている。
シロイルカの愛くるしい笑顔とひかりの柔らかな笑顔が重なる。
「おう、おやすみ」
俺が自分の部屋のドアを開けると、ひかりも同じくドアを開けた。
ひかりが部屋に入ろうとする、そのほんの一瞬前に俺はもう一度振り返る。
「今日は怖くないの?」
俺の声にひかりが振り返る。
ひかりが小さく笑ってみせた。
「うん、大丈夫。今日はこの子がいるしね」
「そっか」
「うん、おやすみなさい」
ひかりと大きなシロイルカは仲良く部屋の中へと消えた。
ドアの閉まる乾いた音が廊下に響く。
俺はどこかホッとしていて、それでいて胸を突くような寂しさにも支配されていて、その閉じられたドアから目を離せなくなる。
——そして、思い出す。
この言い表せない、胸の苦しさを俺は知っていると。
あの時も、こんなふうにひかりを見送った。
あの時も、ひかりは小さく笑っていた。
あの時も、俺は何も言えなかった。
あの時、ひかりは何を思っていたのだろう?
俺は開けていた自分の部屋のドアを静かに閉じると、ひかりのいる部屋のドアの前に立った。
「ひかり?」
「……」
ドアの前で呼びかけるが、ひかりからの返事はない。
俺はドアを軽くノックする。
「ひかり?」
「……っ、」
声にはなっていなかった。
だけど、その震えるような息が、俺には届いた。
「ひかり?開けるよ」
俺がドアを開けるのと、ひかりが俺の胸に飛び込んできたのは、同時だった。
「ひかり?」
「大ちゃ……っ……」
ひかりは俺にしがみつくようにして泣いていた。
肩を震わせて、必死に声を抑えるようにして泣くひかりは、とても小さくて、とてもか弱くて、今にも壊れそうだった。
しゃくりあげる度に揺れる背中にそっと触れる。
「大丈夫だよ。ここにいるから」
俺はゆっくりと触れていた背中を撫でる。
「うん……っ、うん……」
ひかりが俺の胸に顔を埋めたまま、小さく何度も頷いてみせた。
俺はひかりをそっと、壊れないようにそっと、抱きしめた。
俺は、またひかりを一人にしてしまうところだった。
——あの時のように。
◇
ふっくらとした木蓮の蕾が冷たい風に揺れていた。
青みがかった薄いグレーの空の下。
俺とひかりは中等部を卒業した。
四月から俺は受験した公立高校へ、ひかりは付属の高校へ進学が決まっていた。
俺は受験勉強でしばらく学校に行っていなかったので、ひかりに会うのは久しぶりだった。
まだ春に染まりきれていない冷たい風がグラウンドの砂を舞い上げる。
担任や友達との挨拶を済ませ、名残惜しそうに門へと向かう人々の中、ひかりはまだ硬く閉ざしたままの桜の蕾を見上げていた。
俺はバスケ部のコーチと挨拶している母さんから離れ、ひかりの元へとゆっくり近づいた。
このまま何も言わずにいくのは、いけない気がして。
だけど、俺からひかりに言えることなんて見つからなかった。
俺はひかりから二メートルほど離れた距離で立ち止まり、風に揺れる桜の枝を見上げた。
「……大ちゃん」
何も言わない俺にひかりが振り返った。
ひかりのセーラー服の襟が風に翻る。
「合格、おめでとう」
「ありがと」
ひかりと話すのは、あの雪の日以来だった。
何か言わなくては、と思うのに……何も言葉が出てこなかった。
「……」
「じゃあ、行くね」
ひかりが再び俺に背を向け、門の前で待つ両親のところへと歩き出す。
「あ、あのさ」
俺の声にひかりは振り返らずに足を止めた。
「あ、いや、元気で……」
「大ちゃんもね」
ひかりが小首を傾げるように少しだけ振り返った。
ひかりは小さく笑って見せると、再び背を向け、今度は駆け出した。
ひかりの肩で揺れる髪が、翻る襟が、風を含んだスカートが、次第に小さくなっていく。
俺は、言えなかった。
ひかりに言いたかった言葉は、ひかりの姿が門の外に消えてから出てきた。
それは、もう俺が言ってはいけない言葉だった。
本当に伝えたかったのは、「ごめん」でも「ありがとう」でもない。
言いたかったのは——
◇
「好きだ」
気づくと、こぼれ落ちていた。
気持ちが、言葉が、自然と溢れた。
ひかりがゆっくりと顔を上げる。
目が真っ赤だった。
涙の跡でぐしゃぐしゃの顔をさらにくしゃっとさせて、ひかりが笑った。
「……うん」
笑ったかと思えば、また涙が溢れ出す。
ひかりは泣きながら笑った。
俺はそんなひかりの顔に自分の顔を近づける。
ひかりの唇は少しだけしょっぱかった。
「大ちゃん、これ、覚えてる?」
そう言ってひかりはクローゼットからシロイルカのぬいぐるみを取り出した。
今日買ったものとは明らかに違う。
大きさもふた回りくらい小さいし、何より全身が日に焼けていて、真っ白ではなくなっている。
「昔、まだ小さい時にさ、水族館に一緒に行ったよね」
俺の頭の中で昨日観たテレビの中の風景が流れる。
「百合さんとうちの母さんとひかりと俺と、四人で行った時だよな?」
「そう。大ちゃん、水族館に着いても車のおもちゃばっかりいじっててさ、」
「あー、」
確かに、昨日観た俺は母さんたちの声にも反応せず手に持った車のおもちゃに夢中だった。
「いや、でも、それは最初だけで……ちゃんと水族館を楽しんだ、よな?」
俺の中の記憶は曖昧だが、昨日観た映像はちゃんと覚えている。
イルカショーの時、俺もひかりも食い入るように夢中になってイルカを見つめていた。
「……ふ、」
ひかりが小さく笑う。
「そうだよ。途中から大ちゃん、夢中になっちゃって」
「?」
俺はなぜひかりが笑い出したのか、わからない。
「持っていた車のおもちゃ、失くしちゃったんだよ」
そして、ひかりはまるで大切な宝物を取り出すかのように、柔らかく笑いながら教えてくれた。
俺が車のおもちゃを失くして大泣きしたこと。
そんな俺にひかりは買ってもらったばかりのシロイルカのぬいぐるみを渡したこと。
「智子さんがどうなだめてもダメでさ、私が泣く泣くシロイルカを渡してあげたら、けろっとしちゃって」
ひかりが軽く頬を膨らませて俺を上目遣いで見上げてくる。
「そんなこと言われても……あれ?ちょっと待って」
俺は記憶の箱をひっくり返しながら、言葉を探す。
「うん?」
隣に座るひかりが首を軽く傾げる。
膝の上に乗った小さなシロイルカも俺を見つめている。
「シロイルカのぬいぐるみ……ここにあるのって、俺がひかりにあげたやつだよな?」
俺の記憶では、ひかりが俺の家に遊びに来た時に、シロイルカのぬいぐるみを抱いて離さなかったから、俺はひかりにそのぬいぐるみを譲ってあげたことになっている。
「ひかりがずっと離さなくてさ、お昼寝の時も抱きしめたままで。そんなに好きならって、俺が……」
「大ちゃんはそう思っていたかもしれないけど、私は自分のものを返してもらっただけだよ」
「そういうことだったのかぁ」
記憶は曖昧で、不確かで、同じように体験したはずの俺とひかりでさえ、ちょっとずつずれていて、同じようには出来てはいない。そんな当たり前のことを改めて感じる。
だけど、それでも、俺が鮮明に覚えていることもある。
ひかりがぬいぐるみを抱きしめたまま寝てしまったあの時。
いつもは少しだけお姉さんぶろうとするひかりが見せた、いつもとは違う何も飾らない無防備なそのままの顔。安心しきった柔らかな寝顔。
そして、自分の中に初めて芽生えた温かな感情。
思わず小さなひかりの背中に手を伸ばしていた。
自分も小さくて弱いのに、なぜだが、はっきりと思った。
俺が「ひかりを守る」のだと。
「何?」
ひかりが俺の視線に気づき、俺の瞳を覗き込む。
「なんでもない」
俺はひかりの視線から逃げるように顔を背ける。
「えー、何?何?すごい視線を感じたのに」
納得のいかないひかりが俺の腕を引っ張る。
「なんでもないって」
俺はそんなひかりから逃げようと体ごとひねる。
それでもひかりは俺の腕を離さない。
「……」
「……」
並んでベッドに腰掛けながら、体ごと背けたままの俺と、俺の腕を掴んで離さないひかり。
しばらくこう着状態が続いた。
なんでこんなことになっているのか、自分でもよくわからなくなった頃、ひかりが動く気配がした。
ふわりと腕を掴んでいたひかりの力が緩む。
ひかりの膝から小さなシロイルカが床に転がった。
「ひかり、落ち……」
俺は最後まで言えなかった。
ひかりの唇が俺の言葉を塞いでいた。
俺の肩を掴むひかりの小さな手が少しだけ震えている。
それでも——強く押し当てられたひかりの唇が、流れてくる冷たい熱が、俺の体を、心を、奪っていく。それは、包み込むように柔らかく。貫くように激しく。
戻れない。
これ以上は、戻れなくなってしまう。
俺は奪われかけた体を必死で取り戻すように、ひかりの細い両肩を掴んだ。
「……ひかり?」
離れた唇から俺の小さな声が漏れた。
ひかりの瞳が不安げに揺れる。
「まだ、ダメ……かな……?」
小さく絞り出すようなひかりの声。
ひかりがまっすぐに俺を見つめたまま小さく唇を噛んだ。
不安と寂しさ、愛しさと恥ずかしさ、複雑に絡み合った感情が露わになる。
こんなひかりの表情を見るのは初めてだった。
俺は目の前に立つひかりを見上げたまま、視線を逸らせない。
「……」
言葉がうまく出てこなかった。
俺の心臓が、体が、大きく鳴り始める。
まるで身体全体が鼓動しているかのように。
俺はそっとひかりの顔に右手を伸ばす。
俺の手に収まるほど小さなひかりの顔。
白く柔らかな頬が少しだけ紅い。
その頬に指先が触れる。
ひかりがくすぐったそうに小さく笑う。
「大ちゃんの手、あったかいね」
不安が解けたような、安心したような、ひかりの声が耳に響いた。
このひかりを俺は守れるだろうか?
俺がひかりを傷つけることにはならないだろうか?
俺はひかりを大切にできるのだろうか?
そんな俺の不安を見透かすように、ひかりの両手が俺の頬に触れる。
冷たいひかりの手。
小さなその手がしっかりと俺の顔を包み込む。
心地よい柔らかな冷たさが俺に流れ込んでくる。
ひかりがまた小さく笑った。
——あの時とは、あの雪の日とは、違うだろうか?
俺はひかりの頬に触れていた右手をゆっくりと動かす。
ひかりの小さな耳に触れ、柔らかな髪を揺らし、手をそのまま後ろへと滑り込ませる。
そして、その手を引き寄せると同時に首を伸ばした。
ぶつかるように触れ合った唇が柔らかく跳ねた。
そして、想いが、溢れた。
「好きだよ。ひかり」
何度も触れ合う唇からこぼれ落ちる言葉。
「うん、好き。大ちゃん」
——少なくとも、今の俺の体の中に、凍えるような寒さはなかった。あるのは、次第に高まっていく確かな体温と、ひかりへの愛しさだった。
ひかりの冷たい手が俺の首筋に触れる。
俺は左手をひかりの細い腰に回す。
ひかりの頭と腰を両手で支えたまま、俺はいつかのひかりのように力を抜いた。
背中からベッドに倒れこむ俺に抱きかかえられるようにして、ひかりは俺に体を委ねていた。
ベッドが二人の重みに揺れる。
触れ合う胸から感じる鼓動はどちらのものなのだろう?
大きく。
速く。
重なり合う鼓動が体を包み込む。
俺の視界に天井で部屋を照らし続ける蛍光灯が入りこむ。
俺がその眩しさに少し目を細めると、俺に抱きかかえられたままのひかりが俺の耳元で囁いた。
「……消して」
ひかりの吐息が俺の首筋にかかる。
俺はヘッドボードに置かれたリモコンに手を伸ばす……が、なかなかうまく掴めない。
リモコンに何度か指が触れては掴み損ねることを俺が繰り返していると、抱きしめていたひかりの体が小さく揺れた。
ひかりの小さな吐息が俺の首筋をくすぐる。
ひかりが小さく笑ったのだ。
「……なんだよ」
「ううん」
小さく首を振ったひかりがそっと体を起こし、腕を伸ばす。
そして、伸ばしていた俺の指を包み込むようにリモコンを掴んだ。
ピッ。
蛍光灯の光がほんの少し弱まる。
ピッ。
ぼやっとしたオレンジ色の光に部屋が薄暗くなる。
もう一度リモコンのボタンを押そうとしたひかりの指を俺の手が掴む。
「え?」
驚いたひかりが俺の顔を見下ろす。
「ひかり、あのさ、」
俺はひかりの顔からゆっくりと視線を動かす。
腕を伸ばしたひかりの体が目の前にあった。
顔に触れそうな距離で呼吸するひかりの体。
もう一度リモコンのボタンを押したら、この体は暗闇に消えてしまうのだろう。
たとえ一瞬でも、ひかりが俺の視界から消えてしまうのが嫌だった。
いや、もっと単純に言えば、俺は……
「……見たい」
俺はひかりの顔をまっすぐに見上げる。
「ひかりの、全部、見てみたい」
ひかりが戸惑うように瞳を揺らす。
「……ダメ、かな?」
俺の小さな声にひかりは恥ずかしそうに視線を逸らす。
そして、リモコンのボタンに伸ばしていたひかりの指が俺の指に重なり、お互いの指が求め合うように絡まる。
ひかりは俺の視線から逃げるように俺の耳元に顔を埋めると、そっと囁いた。
「……いいよ」
熱を帯びたひかりの声が俺の耳を撫でる。
俺は繋いでいない方の手でひかりをぎゅっと抱き寄せると、ひかりの体を抱きこむようにして体を反転させ、ゆっくりと体を起こした。
今度は俺がひかりを見下ろしていた。
ひかりがまっすぐに俺の顔を見上げている。
俺の両手がひかりの耳の横のシーツにしわを作る。
両腕を伸ばしたまま、俺は自分を見上げているひかりを静かに見つめ返す。
心臓の音が大きくなる。
踏み出すと決めたのに。
ひかりが応えてくれているのに。
俺の体はなかなか動かない。
指の先まで心臓の音が響くように、震えそうになる。
全身が鼓動していた。
ひかりの全部を見たい。
ひかりの全部に触れたい。
ひかりの全部を……感じたい。
ちゃんと、自覚している。
だけど、俺の体はその気持ちをうまく扱いきれずにまだ戸惑っていた。
「大ちゃん」
ひかりが俺の名前を呼ぶ。
「大丈夫だよ」
ひかりが恥ずかしそうに小さく笑う。
「見て、いいよ」
ひかりの声に俺の鼓動は一段と大きくなる。
見たい。
そう自分から言った。
俺はゆっくりとひかりの着ているパジャマのボタンへと手を持っていく。
けれど、指先が触れた瞬間、俺は手を引っ込めてしまった。
すると、今度はひかりがそっと手を伸ばし、俺の左胸に触れた。
俺は静かに俺を見上げているひかりの顔から視線を離せずにいた。
ひかりの小さな手をTシャツ越しに感じる。
ドクンッ……ドクンッ……
一段と俺の鼓動が大きくなる。
ひかりが小さく笑った。
「大ちゃん、ドキドキしてる」
「ひかりはしてないのかよ?」
「確かめてみたら?」
ひかりがからかうように上目遣いで俺を見上げる。
俺は引っ込めていた手をゆっくりと下ろす。
指が触れ、ひかりの着ている薄いピンク色のパジャマに小さくしわが出来る。
ドクンッ……ドクンッ……
俺はそっとひかりの胸に沿わせるように手の平を置いた。
柔らかな膨らみが夏用の薄いパジャマの布越しにはっきりと伝わってくる。
トクンッ……トクンッ……
ひかりの鼓動が、呼吸が、体温が、俺の手の平から伝わってくる。
もっと、強く、ひかりを感じたい。
もっと、強く、触れてもいいのだろうか。
そんな思いが芽生えたのと、ひかりが俺のTシャツをキュッと掴んだのは、ほぼ同時だった。
俺はひかりの顔を確かめる。
「……見て、いいよ。大ちゃん」
ひかりは俺の目をまっすぐ見つめ、掴んでいた俺のTシャツを放すと、ゆっくりと両手を自分の胸元に持っていく。
ドクンッ。
今までよりも大きな音が俺の体の中で響いた。
ひかりの細い指が震えるようにパジャマのボタンにかかる。
ボタンがそっと外れる。
隙間からひかりの白い素肌が覗く。
ひかりの指がもう一つ下のボタンに触れようとした時、俺の手がその指を掴んだ。
ひかりがビクッと肩を震わせ、俺を見つめる。
「……ひかり」
声が震えた。
こんなにも美しいものってあるのだろうか。
こんなにも幸せなことってあるのだろうか。
こんなにも愛おしく感じることってあるのだろうか。
俺は泣きそうだった。
俺の心が、体が、ひかりを愛おしく想う気持ちで溢れていた。
ひかりは静かに小さく笑うと、そっと目を閉じ、体の力を抜いた。
俺が掴んでいた手を離すと、ひかりはゆっくりと両手を体の横に広げた。
俺はひかりが外そうとしていたボタンに指を伸ばす。
ボタンが外れると、白い素肌に淡いグリーンの下着が覗く。
ドクンッ……
再び大きくなる鼓動に俺の指は少し震えた。
もうひとつ。
ボタンが外れるたびに露わになる。
もうひとつ。
ひかりの白く柔らかな素肌が。
もうひとつ。
ひかりの膨らみを包み込む淡いグリーンの下着が。
もうひとつ。
俺の鼓動を激しくさせる。
そして、すべてのボタンが外れると同時に、ひかりが閉じていた目をそっと開けた。
「……恥ずかしい、ね」
消えてしまいそうなほど小さな声で、頬を染めたひかりが少し緊張をにじませながらも柔らかく笑った。
「大丈夫。一人にはさせないから……」
俺は自分のTシャツを脱ぎ捨てると、ひかりの開かれた両腕に飛び込む様に、体を寄せ,ひかりの唇に触れた。
触れ合う素肌が、熱を、鼓動を、想いを、苦しくなるほどに伝え合う。
俺よりも小さいはずのひかりの体が俺の体を包み込む。
それは、不思議な感覚だった。とても大きなものに包み込まれるような温かさを俺は全身で感じた。
俺はどこか安心したのか、まるで子どもの様に、自分の心が求めるままにひかりを求め始めた。
「好きだよ、ひかり」
「うん、好きなの、大ちゃん」
キスをしながらお互いの名前を呼び合った俺たちは、心が求め合うままに、体が求め合うままに、二人で、初めての世界に足を踏み入れた。
大ちゃん。
好き。
大好き。
でもね。
私の心はそれだけで出来てなんかない。
出来てなんかないんだよ。
大ちゃんもそうでしょ?
それだけじゃない。
それだけじゃないけど——大ちゃんが好き。
それが、それだけが確かなら、それでいいんだよ。
ひかりの言葉が耳の奥で震えるように響く。
それが。
それだけが確かなら。
それでいい、と——
解き放たれた俺の体がひかりを求めて、ひかりを少しでも感じようと、強くひかりを抱きしめる。
「大ちゃん」
ひかりがしがみつくように俺の体に腕を絡ませる。
どうしたら、ひかりをもっと包み込めるだろう。
どうしたら、ひかりともっと繋がっていられるだろう。
どうしたら、ひかりはもっと俺を感じてくれるのだろう。
この体が邪魔だった。
ひかりに触れられる指も。
ひかりの匂いを感じる鼻も。
ひかりの感触を掴み取る唇も。
ひかりを感じようとすればするほどに、俺とひかりは別の人間で、別の個体で、どうあっても一つに溶け合うことはできないのだと思い知らされる。
こんなにも離したくないのに。
こんなにも求めているのに。
こんなにも……好きなのに。
この気持ちをどうやったら、伝えられるだろうか。
「……」
俺は熱くなる体に抗うようにひかりから唇を離す。
突然離された唇に、ひかりの呼吸が重なる。
ひかりの視線が不安げに揺れる。
「……大ちゃん?」
そんなひかりの顔を見つめながら、言葉を探した……けれど。
「……好きだよ」
俺の口から出てきたのは、それだけだった。
「うん……知ってる」
そう言って笑ったひかりの唇に俺は再び唇を重ねた。
不器用な俺たちは、初めての世界に何度も立ち止まっては、不安に振り返った。
その度に、お互いの名前を呼び合い、気持ちを伝え合った。
そうやって、戻りそうになる心を押しとどめる。
そうやって、今に体を繋ぎ止める。
そうやって、少しずつ進んでいく。
荒くなる呼吸に。
激しくなる鼓動に。
体がパニックを起こしているようだった。
だけど、どこか頭の中は冷静で、体と心と頭がちぐはぐに混ざり合う。
汗ばむ肌にひかりの冷たい肌が心地よくて、ずっと、触れていたい。
耳元で囁かれる吐息がどこまでも俺を震わせて、ずっと、聞いていたい。
ひかりの柔らかな体に、吸い込まれるような感覚に、いつまでも満たされていたい。
まだだ。
まだダメだ。
俺は必死に駆け出そうとする自分の体を繋ぎ止める。
駆け出したら、終わってしまう。
俺は、もっと。
もっと。
ひかりを知りたい。
ひかりを見ていたい。
ひかりを感じていたい。
初めて出会うひかりがきっとまだいるはずなんだ。
俺がひかりの額に貼りついた前髪を指先でつまむと、ひかりが小さく俺の名前を呼んだ。
絡めていた指先からひかりの力が少し緩む。
俺の体が吸い込まれるようにひかりの体に入っていく。
それと同時にひかりの表情が変わっていく。
苦痛に歪んでいた顔が、恥じらうような、切なさを含んだような表情を浮かべたかと思うと、張り詰めていたものが緩むように、小さく涙を浮かべた瞳を俺に向け、震える息でもう一度俺の名前を呼んだ。
それが、合図となった。
俺は繋ぎ止めていた自分を解放した。
駆け上がる快感が。
溢れ出る幸福感が。
俺よりも小さく細いひかりの体が。
俺を包んでいた。
俺の全身を「ひかり」が駆け巡った。
俺はようやく気づいたんだ。
俺がひかりに求められることを望むように、ひかりも、俺に求められたかったのだと。
ひかりが好きで、愛おしくて、離したくなくて、ここにいてほしいって、強く、強く、求めて欲しかったのだと。自分は誰かに愛されていて、誰かに必要とされていて、ここに今生きているのだと——そう、実感したかったのだと。
あの日、俺はひかりを傷つけたくないって言ったけれど、違った。
本当は自分が傷つきたくなかっただけなんだ。
ひかりに甘えてしまう自分がこわかった。
ひかりに弱い自分を見せるのがこわかった。
ひかりに嫌われるのがこわかった。
だから、あの日——あの雪の日、自分が傷つく前に、ひかりを傷つけた。
傷つけて、逃げたんだ。
やっとわかった……だから、もう逃げない。
——もう二度と、俺はひかりから逃げない。
気づくと、目を開ける自分がいた。
心地よい疲労感が体を包んでいた。
俺はその愛おしい存在を確かめるように、そっと手を伸ばす。
手を伸ばせば触れられる。
ひかりの髪が俺の指の間を流れ落ちる。
夢と現実の間。
そんな曖昧な意識と心地よさ。
ひかりの小さな寝息が柔らかく俺の頬に触れた。
俺はこの温もりが消えてしまわないように、そっと顔を寄せる。
俺はひかりの柔らかな唇に優しくキスをする。
そして、もう一度……いや、何度でも、全身を駆け巡った「ひかり」を思い出す。
決して、忘れないように。
心に、頭に、体に、刻み込むように。
この先何度でもこの時の記憶へと戻れるように。
ひかりの冷たく柔らかな肌を。
ひかりの震えるように漏れた声を。
ひかりの苦痛の混じった微笑みを。
俺の吐息に震えるひかりの耳を。
俺の唇に吸いつくように触れたひかりの白く細い首筋を。
言葉にならない声と共に小さく弾けるように震えたひかりの体を。
——そして、俺の全身を駆け上った「ひかり」を俺は一生忘れない。
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