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しおりを挟む昨日、試合が終わって学校に帰ってきたときに猫田監督が言った。
「悔しいか。悔しいと思えた奴だけが次に進める。その気持ちを決して忘れるな。忘れずにいられたかどうか、一週間後に確認するからな」
「?」
俺を含む一年生全員が最後の猫田監督の言葉に「?」を浮かべた。
猫田監督の隣に立つ渡辺副主将が部室に集まったチーム全員の顔を見渡した。
「明日から部活は一週間休みだ。休み明けから新チーム始動だからな」
こうして今日の終業式を含めた夏休み最初の一週間、部活は休みになった。
大会で負けた後は毎年恒例のお休みなので先輩たちに戸惑いは見られなかったが、俺たち一年生は大いに戸惑った。今まで休みなく部活漬けの毎日だったのだから、休みは単純に嬉しいものだけど、でも、今は……。
「え?北海道?」
久しぶりに制服のネクタイを締めていた俺は、母さんの言葉に振り返った。
「そう。みんなで北海道のおじさんの家に行くから」
「え?俺は?」
母さんが申し訳なさそうに困り顔を作る。
あ、これ、ちょっと嘘だな。
「だって、大地が部活休みなんて聞いてないもの。昨日だって、朝練がないってことしか言ってなかったわよ。それも終業式だからって」
「あれ?そうだっけ?」
「うん。大ちゃん言ってなかったよ」
水色のスカーフを手に持ったひかりが俺と鏡の間に割って入ってくる。
狭い洗面台から俺ははじき出される。
「そうよねぇ。言ってなかったわよねぇ」
母さんが先ほどの困り顔から一転、ホッと笑みをこぼした。
「部活ないならお弁当もいらないし、ちょうどよかったわ」
「え、俺、居残り決定なの?」
「行くって言っても週末の二泊だけだし。すぐに帰ってくるから」
母さんの有無を言わせぬ笑顔に俺は言葉を失った。
いや、待てよ。
じゃあ、その間って、もしかして……?
「私も明日から一週間家に帰るから、大ちゃんは一人を満喫だね」
スカーフを結び、前髪を確かめたひかりが俺の肩をポンと叩いた。
俺は居残りにされた悲しさよりも、ひかりと一緒に過ごせるかもしれないと一瞬抱いた淡い期待が消えたことにがっくりと肩を落とした。
これは、きっと、神様が言っているのだ。
精進せよと——
「マジかぁ!いいなぁ」
そんな俺の心をちっとも察してくれない安田の大きな声が夏休みの始まりを告げられた教室内に響き渡る。その声量は相変わらずだったが、夏休みの予定とえげつない量の宿題の話題で持ちきりのため、振り返るような人は誰もいない。
「え?俺、置いてきぼりなんだけど。何がいいわけ?」
首元の窮屈感から逃れるべく、俺はネクタイの結び目に手をかける。緩んだ襟元に風が通り、少しだけ息を大きく吸い込む。午前中で終わってしまった学校も、部活のない放課後も、三ヶ月ぶりに締めたネクタイも、慣れなくて違和感しかない。
「だって、誰にも何も言われずに好きなことできるじゃん」
安田が日に焼けて黒くなった顔に白い歯を見せて笑った。
「まぁ、そうだけど」
好きなこと。
誰にも何も言われずにやりたいこと。
頭の中でひかりの笑った顔が浮かぶ。
俺のやりたいことは——
「……別に、そんなのねぇしっ!!」
俺は思わずしてしまった想像に自分で自分にツッコミを入れた。
「え?ないの?」
安田が突然ムキになった俺の声に驚いて、目を丸くする。
「俺には野球があるからな。うん。それだ。それしかない」
俺は赤くなった顔を見られないようにわざと上を向いて、そう宣言した。
「まぁ、そうだけど」
安田が不思議そうに俺に視線を向けたが、俺はさらに顎を上げた。
「ところでさ、宿題、どうするよ?」
安田がプリントの束を両手で掴んでその重さを確かめるように上下に振っている。
「どうするって」
俺もプリントの束を掴んだまま、安田の隣で窓枠に腰掛ける。
教室の中は夏休みの始まりにワクワクする声と俺たちと同じように宿題の量に嘆く声で溢れている。
「俺、一人でやれる自信ない……あ!」
「何?」
安田の大きな声に俺は身構える。
安田の目がちょっとコワイ。
「藤倉の家、誰もいない日あるんだろ?」
「あるけど」
「よし、その日に一緒にやろう!俺、行ってやるから!」
「え、いや、でも」
「まぁまぁ、手土産は持っていくからさ!」
安田の笑顔がなんかコワイ。
「……変なモン持ってくるなよ」
「任せとけって!」
うわぁ。
なんだろ、この安田の笑顔。
全然、宿題やりますって顔じゃないんだけど。
信号が青に変わるのを確かめて、俺は足を踏み出す。
息が弾む。
まだ温まりきらない朝の風が肺の奥に染み渡る。
体全体がリズムに乗って目覚め始める。
スピードが自然に上がる。
汗で背中にTシャツが張り付く。
熱い。
風をもっと感じようと俺の足はさらに加速した。
少し苦しいくらいがちょうどいい。
きっと「悔しさ」の居場所はそこにある。
決して忘れないように体の中に作るんだ。
いつでも思い出せるように。
俺の体の中に、ちゃんと。
——そうやって、俺は強くなりたい。
野球部が休みの一週間、俺はバスケをやっていた頃のように、規則正しく過ごした。
朝は5時に起床。
走り込みと筋トレをして、朝ごはんを食べたら図書館に行く。
図書館で宿題を少し片付け、野球に関する本とDVDを借りて昼すぎに帰宅。
昼ごはんを食べたら、野球部の仲間たちと近くの市民グラウンドに集まる。
野球はやっぱり一人ではできないし、一人の集中力には限界がある。
部活がないといっても、ハイそうですかと何もしないなんてことはできない。
俺たちはやっぱり野球部なのだ。
部活と同じようにみんなで練習し、部活ではできない個人練習も含めると、結局家に帰るのは7時すぎ。
そこから風呂に入って、夕飯を食べて、ストレッチしながら図書館で借りてきた本を読むかDVDを観る。
で、12時前には就寝。
なんだ、この健全な高校生男子とは思えない規則正しさ。
いや、健全といえば健全なんだけど。
まぁ、俺にとってはひかりが、高校生男子の興味の大部分を占めるはずの存在が、近くにいないのだから仕方ないとも言える。
とにかく今は、野球のことだけを考える。
ひかりがいない間に少しでも成長したい。
——俺は今度こそ強くなりたいから。
「ご飯は冷凍庫にあるものをチンしてね。出かけるときは戸締り忘れないで。エアコンの消し忘れには注意してね。それから……」
玄関で見送る俺に母さんがいつまでも注意を並べるものだから、父さんと翔太がなかなか出発できずにいる。
「母さん、飛行機乗り遅れるよ」
俺のため息に母さんが腕時計を確かめる。
「あら、こんな時間?やだ、大変。じゃあ、とにかくアイス食べ過ぎてお腹壊したりしないようにね」
「……」
時間を惜しんでまで言いたかった注意がそれかい。
俺は思わず心の中でツッコミを入れる。
俺がドアを押さえていると、三人は仲良く声を揃えて振り返った。
「「「いってきまーす!」」」
「いってらっしゃい」
朝の強い日差しがとても眩しかった。
玄関で家族を見送った俺は、いつも通り図書館に行く準備をする。
安田が来るのは明日だし、ここまで続けてきたリズムを壊したくはない。
リビングのエアコンを消して、いざ出発というところでチャイムが鳴った。
ピンポーン。
静かな室内に響き渡る軽やかなリズム。
「忘れ物か?」
俺はリュックを背負ったまま、玄関に向かう。
ピンポーン。
2回目のチャイムが鳴った時には、俺はもうドアを開けるところまで来ていた。
あれだけ人に注意を言っておいて、これかよ。
「はい、はい」
ちょっぴしイラっとした気持ちのまま、俺は勢いよくドアを開けた。
「きゃっ」
忘れ物を取りに戻った母さんがいるのだろうと決めつけていた俺は、予想外の声に驚き、顔を上げた。
「!」
俺が勢いよくドアを開けたことにより、バランスを崩して段差を踏み外しかけた、その腕を俺はとっさに掴む。
白く細い手首は簡単に折れてしまいそうだった。
俺は目の前に現れるはずがない人物を前に、言葉が出てこない。
「ちょっと、ビックリさせないでよね。いるならもっと早く出てきてよ」
「……ひかり?」
そう、ドアの前にはひかりが立っていたのだ。
「お前、来週帰ってくるって言ってなかった?」
「そのつもりだったんだけど、予定が変わっちゃって」
グラスの中に注がれた麦茶が氷を揺らす。
窓からの風に薄いレースのカーテンが膨らむ。
俺から麦茶のグラスを受け取ったひかりはソファに座ったまま部屋の中を見渡す。
「みんなは北海道だっけ?」
「そうだけど」
「大ちゃんはどこか行くところ?」
ひかりが、俺が背負ったままのリュックを指差す。
俺はひかりにびっくりしすぎてリュックを下ろすことさえ忘れていたらしい。
そんな失態を俺は悟られないようにとリュックを改めて背負い直す。
「そう。帰って来たところ悪いけど、俺出かけるから」
「そうなんだ。どこ行くの?」
「図書館」
「わぁ、懐かしいね。ちょっと待って、私も行く」
「え、いや、俺もう出るつもりで……」
俺の言葉なんてもう耳に入っていないひかりが勢いよく麦茶を飲み干す。
「ごちそうさま。大ちゃん、このコップ片しておいて」
そう言って素早くリビングを出ていったひかりの足音が階段を駆けていった。
「……」
俺はため息を一つついてから、今度こそ背負っていたリュックをソファに下ろし、ひかりが飲み干したコップをキッチンに運んだ。
「一緒に来るのはいいけど。俺、午後は野球部で集まるから昼過ぎには図書館出るよ」
自転車を両手で押しながら坂道を上る俺の声に前を歩いていたひかりが振り返った。
白いレースのリボンが揺れ、麦わら帽子がくるりと向きを変える。
「そっか。でも部活は休みだったよね?野球部はどこで集まるの?」
「……市民グラウンドだけど」
「あそこかぁ。日陰あるかなぁ?」
合唱を繰り返す蝉の声がひかりの声に重なる。
「え?」
「ん?」
ひかりの有無を言わせない笑顔が出る。
「いや、連れて行かねーからな」
「大丈夫だよ。邪魔しないし。遠くで見てるだけだから……!」
ひかりの言葉が途切れる。
突然、坂道を駆け上るように強い風が背中から吹き抜けた。
ひかりがぎゅっと目を閉じる。
片目だけ閉じた俺の視界で水色のワンピースの裾がふわりと舞い上がった。
「わぁっ!」
ひかりが帽子を抑えていた手を慌てて下ろす。
「……風、強かったなぁ」
俺の声にひかりがちょっと恥ずかしそうに顔を俯かせた。……のは、ほんの一瞬で先ほどよりも強い笑顔を俺に見せる。
「一緒に行ってもいいよね?大ちゃん?」
「……邪魔するなよ」
風のいたずらに感謝してしまった俺には、もう断る選択肢は残されていなかった。
「大丈夫だって。さ、そろそろ行きますか」
「え?」
ひかりは麦わら帽子を掴んだ手を俺の肩に乗せ、自転車の後輪の中心に足をかけると、荷台にまたがるようにして立った。
「二人乗り禁止だぞ」
俺は一応、言ってみる。
「大丈夫だよ。ここで捕まったことないし」
「知らないからな」
緩やかな下り坂へと俺は自転車のペダルを漕ぎ出す。
後輪が下り坂に入ると、自転車は強い力に引っ張られるように加速していく。
「ちょ、大ちゃん!?」
「ひかり、落ちるなよ!」
ひかりの予想スピードよりも速く自転車は坂道を下っていく。
夏の日差しを含んだ大きな風が体全体を包み込む。
俺の肩を掴むひかりの手に力が入るのが伝わる。
自転車が加速するに従って、ひかりは手だけではなく、体全体を俺の背中にくっつけてきた。
自転車のハンドルを握る手に力を込めながら、俺は背中へと神経を集中させてしまう。
やっぱ、俺、健全な高校生男子だわ。
坂道、もうちょっと長くてもいいのに。
そう思いながらも、俺は柔らかくブレーキをかける。
自転車の加速が緩くなる。
体を包んでいた風が俺たちを置き去りにするように逃げていく。
自転車をゆっくりと道の端に停めた俺はひかりを振り返った。
「ひかり?」
ひかりは俺の肩をぎゅっと掴んだまま顔を伏せている。
やりすぎたかな?
不安になった俺はひかりの顔を覗き込む。
「ひかり?大丈夫か?」
「……ふっ」
ひかりがうつむいたまま声を漏らした。
「?」
「ふ、あは、あはははははっ……」
ひかりは勢いよく顔を上げたかと思うと、耐えかねたように空に向かって大きな声で笑い出した。
「は、あは、すっごい怖かった」
笑いながら、ひかりが言葉を紡ぐ。
「すっごい怖くて、死ぬかと思ったけど、死ななかったね」
ひかりの目には少し涙が浮かんでいる。
「怖かったけど、楽しかった」
「……なら、よかったわ」
ひかりの突然の大笑いに、俺はついていけなかったけど。
ひかりが笑うことで作られる体の揺れが、心地よいリズムとなって、俺の背中をくすぐり続ける。
自転車に乗った二人の濃い影が道路の上を跳ねるように小さく揺れていた。
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