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観光バス特有の匂いと座席から伝わってくる振動に体が慣れ始めた。
バスガイドのアナウンスが途切れ、俺は窓の外に流れていく街の景色を眺める。見慣れているはずの街がいつもとは違って見える気がして、わずかに心が弾む。そんな時だった。
「藤倉さぁ、さっきの子だれ?」
隣に座った安田が俺にポッキーの箱を差し出しながら、聞いてきた。
「誰って……?」
俺はポッキーを一本抜き取りながら、考えているフリをする。
「さっき、バスの前でしゃべってただろ?セーラー服の」
「あ、それ、俺も見た!すげーかわいい子だったよな?」
通路を挟んだ隣の席のクラスメイトが安田のポッキーに手を伸ばしながら、会話に加わってきた。
「忘れ物届けに来ていたみたいだけど、妹とか?」
「俺は藤倉に似ているとは思わなかったけど。とりあえず可愛かったよな」
いつの間にか前の座席のクラスメイトまで俺を振り返っている。
俺は大きくため息をついてから、口を開いた。
「妹じゃないよ。幼なじみというか……ただの居候?」
「え?なになに?どういうこと?」
「一緒に住んでるってこと?」
「あんな可愛い子と一緒なんて、うらやましい奴だな」
「別に、親同士仲が良いってだけだし。住んでるって言っても一時的なものだし。なんもねーよ」
「え?あんな可愛いのに?一緒にいて、なんかないわけ?」
「ないよ。あいつ、彼氏いるし」
俺は何でもないように言いながら、胸の奥が小さく疼くのを感じた。その疼きを押し込める様に、俺はポッキーをくわえたまま、隣の安田を思いきり睨みつける。
けれど、安田はそんな俺の視線に気付くことなく、何もない空中に視線を向けたまま何かを考えている様子だった。
「おいっ」
俺の低い声にようやく安田が振り返った。
「ぅわっ。わりぃって。まさか、こんなみんな食いついてくるなんて、思わなかったからさ」
「お前、自分の声の大きさ、自覚しろよな」
「まじ、ごめん。いや、なんかちょっと気になって……」
安田がからかい口調ではなく、何かを考えるように小さく呟いた。
「え?」
「いや、俺、あの子、どっかで会った気がするんだよな」
「安田……ナンパでもした?」
「ちげーよ!俺、ナンパなんかしねーし!」
俺の冷たい視線に安田が顔を真っ赤にして、叫んだ。
「安田、うるさいぞ!」
安田の大声にバスの先頭の座席から担任の声が飛んできた。
「すみませんっ」
大声で頭を下げた安田が俺を睨みつけた。
「まぁ、おあいこだな」
俺の声に安田は力が抜けた様に笑った。
「なんだよ、それ」
「すべてはお前の大きな声が悪い」
「そうだけど。でも、ホントに、どこかで見た気がするんだよなぁ。どこだっけなぁ」
安田はポッキーを三本まとめてくわえながら、まだブツブツと言っていた。
宿泊研修の一日目はバス移動の時間がほとんどで、夕飯のバーベキューが終わるとあっという間に肝試しの時間になった。
梅雨前の夏に少しだけ触れたようなこの時期、日が落ちると気温は一気に下がった。Tシャツ一枚で過ごせていた昼間とは違い、上着がないと肌寒い。俺はパーカーのファスナーを上げながら、少しだけ早足で歩いていた。真っ暗な山を背景に外灯の明かりしかないような広場に十人前後の人が集まっている。
「あれ?香川?」
「おー。藤倉も?」
肝試しの脅かし役の集合場所には、香川がいた。香川は俺の顔を見つけると、「まじ、ついてねーよなー。俺だって回りたかったのに」と吐き出された言葉とは裏腹な弾んだ声で言ってきた。それを俺はなんだかんだ脅かし役もそれなりに楽しみだという意味で受け取った。
「ま、仕方ないよな。その分、すげぇ脅かしてやろうぜ」
「まー、そうだな」
そう言って笑い合っていると、学年主任の先生から肝試しのコースの説明と待機場所のポイント、小道具の説明が行われた。誰よりもこの先生の方が張り切っていて、実際に脅かし役もやるとのことだ。
「毎年レベルアップが目標らしいよ」
「すげえな」
「そういえば、安田は誰とペアになったの?」
香川の問いに、俺は先ほど自分が施した裏工作を思い出す。そして、そんな俺のズルを知らずにまんまと当たりくじを引いた時の安田の嬉しさと不安が入り混じった複雑な表情も。
「……さぁ。来たらわかるだろ」
「ま、そうだけど」
肝試しのコースは片道三十分ほどで、先生以外の脅かし役は一つのポイントごとに二人配置される。脅かし役は各クラス二名いるので、同じクラスの奴と一緒になるのだけど、香川と話し込んでいた俺は、自分と同じクラスの奴を確かめることをすっかり忘れていた。
「香川くん。行こう」
先生の説明が終わると同時に香川の元に一人の女子がやってきた。ゆるくパーマのかかった茶色い髪。香川と同じくらいの背丈。顔はそこまではっきり見えなかったというか、他に目線を奪われたというか……。
「お、おう」
香川が俺に一瞬だけ視線を送ってから、その女子と一緒に歩いていく。その後ろ姿を見送りながら、先ほどの香川の弾んだ声が俺の脳裏に蘇る。
「……あいつ、わざと脅かし役にしたんじゃ」
「藤倉くん」
香川を見送っていた俺の背中から遠慮がちな小さな声が聞こえた。
振り返った俺は、驚きのあまり一瞬声が出なくなった。
「!」
「あ、あの、その、脅かし役の子が体調悪くなったみたいで、それで」
「え、でも、なんで、それで、川上?」
「あ、頼まれて、それで……」
川上はずっと俯いたまま、足元に視線を落として、必死に言葉を探す様に話していた。流れるように落ちる髪から覗く川上の耳は真っ赤だった。俺は川上に気付かれないように小さく息を吸った。そして、思い浮かんでしまったことを、気付いてしまったことを振り払う様に少し声を大きくした。
「よろしくな」
「えっ?」
俺の声にようやく川上が顔を上げた。川上は耳だけでなく、その頬も赤く染めていた。俺はそれに気付かないフリをして、川上に笑いかけた。
「みんな、脅かしてやろうぜ」
「う、うん」
そう言って笑った川上の表情は——もう、ひかりに似てはいなかった。
部屋に帰ると、わかりやすく安田が落ち込んでいた。
「安田?」
安田は部屋の隅で、膝を抱えて座っていた。安田の丸くなった影には天井のライトの明かりも届かない。
「風呂の時間だけど、どうする?」
俺の声に安田は振り返ることもせず、首を振った。
ダメだ、こりゃ。
「じゃあ、俺、風呂行ってくるわ」
安田を部屋に残し、一人大浴場への道を歩きながら、俺は先ほどの出来事を思い返す。
ま、あれはあれで、結果オーライじゃないかなぁ。
大浴場へと続く引き戸を開けると、暖かな湿気が一気に体を包み込んだ。
大きなお風呂の手前、いくつも並ぶシャワーへと視線を向けた俺は、そこに見知った姿を見つけた。
俺は空いていたその隣を静かに陣取り、椅子に腰を下ろすと同時に仕切りから顔をのぞかせた。
「かーがーわー」
俺の声に気付いた香川がシャンプーをシャワーで流しながら、振り返った。俺の顔を確かめると、泡を流し切れていないその顔が一気に赤くなっていく。
「な、なんだよ」
「さっきの女子、誰だよ?」
俺はいつもワンプッシュですませるシャンプーを、ツープッシュしてから、泡立てたシャンプーをボーズ頭に乗せる。
「同じクラスの女子だよ」
「そうじゃなくて。お前、わざと脅かし役に回っただろ?」
「!」
香川の目がまんまるに見開かれて、その固まった表情に、俺は確信する。
「やっぱりなぁ。そうだと思った」
「……言うなよ」
香川がいつになく低く鋭い声を出してきた。俺はそれには気付かないフリをして、シャワーの蛇口をひねる。いつもより無駄に多い泡が排水溝に向かって流れていく。
「彼女?」
俺は、シャンプーの隣に並ぶコンディショナーのボトルをスルーして、ボディーソープのボトルに手を伸ばす。ボーズにしてから、コンディショナーの必要性を感じなくなったのだ。
「……たぶん」
歯切れの悪い香川の声が周りのシャワーの音に重なる。
「なんだよ、たぶんって。告白されたんだろ?」
「……されてないよ」
香川が体を洗いながら、小さくぶっきらぼうに答えた。
「え?じゃあ、香川が言ったのか?」
先ほどの二人の様子を思い浮かべてみた俺は、なんとなく、香川よりも女子のほうが積極的に見えたから、勝手に告白されたのかと思っていた。
「お前、やるじゃん」
「……」
返事がないので、視線を向けると、香川が真っ赤な顔をして固まっていた。
「え?何?どしたの?」
「……」
俺はシャワーのお湯を自分の体ではなく、香川の体に向けて出してみた。
「ぼーっとしてるからだぞ」
てっきり香川が怒り出すものだと思って身構えた俺は、香川の戸惑う様な表情に肩すかしをくらった。
「おい、なんだよ。何があったんだよ」
香川が小さく口を開きかけ、また閉じるという、話したい様な、話したくない様な、なんとも言えない表情を繰り返すので、俺はこれ以上追求するのを諦めた。もう、自分で話し出すのを待ったほうが早い。
俺はシャワーで体中の泡を洗い流すと、香川を置いて、一人で湯船に向かった。
ったく、なんなんだよ。
先にお風呂に浸かっていると、今度は香川が俺の隣にやってきた。もう先ほどの戸惑いの表情は消えている。
「安田は?」
香川が先ほどの話題を持ち出さないので、俺も追求しなかった。
「あー、部屋かな」
俺は先ほどの安田の姿を頭に浮かべる。
「そういえば、あいつ腰痛めたの?肝試しのとき、豊田に支えられてた気がするんだけど」
「あー、そう。そうなんだけど……それ、俺のせいなんだよなぁ」
「脅かされて、腰でも抜かしたとか?」
そう笑いながら言った香川に、俺は視線を逸らしてから静かに頷いた。
「マジ?」
「マジ」
「で、豊田に支えられる様にして引っぱられていった、と」
「そう」
「で、藤倉がやったって知らないの?」
「知らない。というか言えない。いや、その場で出て行けなかったというか」
「まさか、意外といい雰囲気だったの?」
「安田はそうは思っていないだろうけどな」
「うわ、マジか!」
そう、安田はそうは思っていないだろうけれど、二人は結構いい感じだったのだ。
*
「あ、あれ、真子たちかな?」
懐中電灯の小さな明かりが視界に入ってきた。
「お、ホントだ。思い切り脅かそうぜ」
俺と川上の担当スポットには細長い机が一つ置いてある。肝試しを回るペアは、その上に置かれた、いかにも怪しげな二つの箱にそれぞれ手を入れることになっている。基本的には、その箱に入れられた手をこちら側から握るのだが、それよりも、無防備な足を下から突然掴まれるほうがはるかに恐がられることに途中で気付いた俺たちは、回ってくる人によって、脅かすバージョンを変えていた。
「豊田は手でいいいけど、安田は足を思いっきり掴んでやろうっと」
「了解」
机の下の布で覆われたスペースに二人で入り込みながら、小声で打ち合わせる。正直、暗くて顔はよく見えなかった。だけど、川上の小さな声がとても近くから聞こえてきて、お互いがとても近い距離にいることを意識させられる。ぶっちゃけ、肝試し回るより、こっちのほうがよっぽど、カップルになれそうな気がする。俺はなるべく川上を意識しない様にと、近づいてくる足音に意識を集中させた。
俺と川上が潜んでいる布には視界を確保するための小さな穴が空いている。俺はその穴から安田と豊田が近づくのを窺っていた。
「これ、絶対、何か入ってるよな?」
「たぶん。明らかに怪しいし」
箱を前にした二人の会話がすぐ上から聞こえてくる。
俺は隣で同じ様に様子を確認していた川上に視線で合図を送る。
川上が箱の反対側から手を入れるタイミングを図る。
「じゃあ、せーので入れるか」
「うん、そうだね」
「せーの!」
安田と豊田がそれぞれの箱に手を入れる。
すかさず川上が豊田の手を握った。
「きゃっ!」
「え?」
思わず手を引っ込めた豊田を振り返る安田。
「俺のほうは、何も……うわぁっっ!!!」
自分のほうに仕掛けがないと安心した安田の足を一瞬だけ、俺の両手が掴んだのだ。その思いがけない出来事に、ビックリした安田はその場に尻餅をついて、ひっくり返った。
安田の大きな声とひっくり返った音に心配した川上が思わず声を上げそうになって、俺はとっさにその口を手で押さえた。
「大丈夫?」
「あ、わり、ちょっと……」
豊田に声をかけられてもその場からなかなか動けない安田。
俺は川上の口を押さえたまま、小さな穴から二人の様子を伺う。
「もしかして、立てなくなった?」
「あ、いや、ちょっと、腰が」
「ふっ、」
豊田が小さく笑った。それは、決してバカにしているとか、呆れているとか、そんな笑い方ではなく、とても優しくて温かな笑い方だった。
「はい」
豊田の細くて長い腕が安田の前に差し出された。
「いや、でも、」
戸惑う安田の上擦った声が、安田の頬が上気していることを感じさせる。
「ずっとここにはいれないし、たぶん、そろそろ治ってくるだろうし……とりあえず、ちょっと動かないと」
「……わりぃな」
豊田の手に支えられながら、なんとか起き上がった安田は、腰を押さえながらも少しずつ歩き出した。
*
「で、豊田といい感じだったのに、安田は部屋に閉じこもってるわけか」
「まぁ、そんな雰囲気を悟る余裕はなかったってことだな」
「好きな子の目の前で腰抜かして、あげくに支えられて歩くことになったら……そんな余裕ないか」
「そういうこと」
俺と香川は二人で同時にため息をついて、二人で同時に笑った。
お風呂場に響く自分たちの笑い声がさらに笑いを誘って、俺たちはもう何で笑い出したのか分からないくらい、腹が痛くなるまで大いに笑い合った。
風呂上がりの夜風はとても気持ちよかった。風呂の後は就寝時間の点呼まで自由時間になっていたので、俺と香川は宿の外を歩いていた。正直、この時間こそ香川はさっきの女子といるべきではないかと思ったけど、香川がどうしてもと言ってきたので、断りきれずに俺は香川と二人で歩いている。悲しいくらいに星がキレイに輝いていた。
「俺、こういうの初めてで、どうしていいか、わかんなくて。なんていうか、その、すごい、意識するっていうか……」
突然、独り言のように香川が話し始めた。俺は真面目に話し込むのが照れくさくて、ついつい茶化してしまう。
「あの子、胸、でかかったよな」
「!」
俺の言葉に香川がすごい勢いで俺の顔を振り返る。俺と香川は身長差があるので、俺は下からすごく強い視線を感じながらも、遠くで輝く星を見ながら続ける。
「あれで意識するなってほうが無理だろ。俺、正直、顔覚えてないし」
「お前なぁ」
香川の声に若干の怒りが混ざったので、俺は香川に視線を合わせた。
「ごめん、ごめんって。でも、しょうがなくない?」
「まぁ、わかるけど……」
怒っていたはずの香川の声が小さくなる。やっぱ、男子なんてそんなもんだ。香川だって、思ったことがないわけではないのだ。
「で、いつから付き合ってるわけ?」
「……」
「なんだよ、教えろよ」
「……藤倉さ……キス……」
「え?なに?」
一段と小さくなった香川の声は俺の耳まで届かなかった。俺が香川の顔を覗き込むと、香川は耳まで真っ赤にしていた。
「なに?どしたの?」
「キスしたことあるよな?」
意を決した様に顔を上げた香川の声が今度は辺りに響き渡った。
「お、お前、声でけーよ!」
暗がりに消していたはずの周りの同級生たちの気配が一気にざわついた。夜の散歩に出ているなんて、大抵がカップルなので、お互いに気を遣う様にうまく気配を消しているというのに……台無しじゃねーか。
「ちょっと、来い」
俺は現れた気配から逃れる様に、香川を宿の裏手の庭に引っぱった。ここは宿の窓からは丸見えなので、カップルたちはいなかった。別に俺と香川は話を聞かれなきゃ問題はないので、隠れる必要はなかった。窓から見えると言っても、部屋の窓ではなく、カーテンのかかった食堂の窓から見える程度で、この時間に食堂を使っているのは従業員たちだけの様だった。
「で、キスがどうしたって?」
手近な石で出来たベンチに腰掛けながら、俺は香川を振り返った。
俺に倣うように隣に座った香川が今度は声の大きさに気をつけながら、話し始めた。
「されたんだ、いきなり」
「え?あの子に?」
香川は小さく頷くと、視線をまっすぐ庭の池に向けた。
「あいつ、吉田っていうんだけど、最初、俺の身長のことでからかってきてさ、だから、俺、正直ちょっと苦手で……図書室で宿泊研修の調べものしてるときにさ、いつの間にか吉田が俺の隣にいて、『身長、やっぱりそんなに変わらないね』って言ってきて、それで、またバカにされると思って、俺、無視して通り過ぎようとしたんだけど、」
そこで、香川の言葉は一瞬、途切れた。少し寒いくらいの風が吹き抜けて、池の表面を波立たせていく。
「なんか、正直、よく覚えてないっていうか、気付いたら、肩掴まれてて、それで……」
視線だけで振り返ると、隣で香川が頭を抱え込んでいた。
「すげー、積極的だな。その、吉田さん?」
「やっぱさ、俺、からかわれてるのかな?好きとか、付き合うとか、言われてないしさ、やっぱ、なんか、違うよな???」
「香川はどうなの?」
「俺は……わかんない。最初、苦手だったし。だけど、キスされて、そしたら、なんか、意識しちゃって、でも、それって、好きっていうのと違うっていうか。だって、ほら、普通さ、順番、逆だろ???」
「あー、そういうことか」
「俺はさ、ちゃんと自分が好きだなって思って、それで、その子と付き合う様になって、それから……って思ってたわけ。それがさ、吉田の奴、俺の気持ちとかなんにも考えてなくない?こういうのってどうなの??……って、笑い事じゃないんだけど」
俺の顔を振り返った香川が冷たい視線を向けてきた。
「ごめん、だって、……ふ、ふは」
俺は完全にツボに入って笑いが止まらなくなってしまった。
「ちょ、俺、真剣なんだけど。このこと話したの、藤倉だけだし。それで笑うって、どういうことだよ」
「ごめんって。これ、俺の想像だけど、今日の肝試しの間もなんかあっただろ?」
「!」
カマかけただけなんだけど。
分かりやすく香川の表情は変わった。
「また、吉田さんにキスされた?」
「!」
香川が視線を逸らして、顔を背けた。また耳まで真っ赤になっている。
「……しただろ。自分から」
「だって!あいつが、」
俺の言葉に思わず振り返った香川だったが、俺の顔を見て、またもや顔を背けた。
「もう、答え出てるじゃん。順番って言うけどさ、言葉より先に気持ちが出ちゃうこともあるって、自分が一番わかったんじゃないの?」
「いや、俺は、だから、ちゃんと好きだなって思ったから、そうしたわけで……」
「だって、吉田さん」
「は?」
突然後ろを振り返った俺を怪訝な顔で見ていた香川だったが、やがてゆっくりと俺の視線の先へと首を回す。
「え、吉田?いつから……?」
振り返った香川の顔が今度は血の気が引いたように青ざめていく。
「ごめんなさい、あの、でも、どうしても、気になって」
恥ずかしそうに顔を俯かせながら、吉田さんはそっと香川を窺う様に視線を向けた。
「じゃ、俺、先に帰るね」
「え、ちょっと、おい、」
俺は香川をベンチに残し、吉田さんに会釈して宿への道をかけ戻った。
まぁ、俺もあいつが途中で大声出さなきゃ気付かなかったけど。あれで周りの気配が一気にざわめいたのだ。そして、駆け出した俺たちの後を追ってくるとしたら、そのまま声もかけずに静かに耳を澄ませているとしたら——吉田さんしかいないと思ったのだ。
「いやぁ、めでたいねっ」
俺は両手を大きく空に突き上げ、全身を伸ばす。
「……キス、か」
小さく呟いた俺は、左の手の平を思わず見つめていた。
まだ、はっきりと感触が残っている。
思わず触れてしまった、川上の小さな唇の柔らかさが、小さく息を吐き出す温かさが、まだ、はっきりと残っていた。
先ほどよりも冷たい夜風が俺の小さなため息を静かにさらっていった。
バスガイドのアナウンスが途切れ、俺は窓の外に流れていく街の景色を眺める。見慣れているはずの街がいつもとは違って見える気がして、わずかに心が弾む。そんな時だった。
「藤倉さぁ、さっきの子だれ?」
隣に座った安田が俺にポッキーの箱を差し出しながら、聞いてきた。
「誰って……?」
俺はポッキーを一本抜き取りながら、考えているフリをする。
「さっき、バスの前でしゃべってただろ?セーラー服の」
「あ、それ、俺も見た!すげーかわいい子だったよな?」
通路を挟んだ隣の席のクラスメイトが安田のポッキーに手を伸ばしながら、会話に加わってきた。
「忘れ物届けに来ていたみたいだけど、妹とか?」
「俺は藤倉に似ているとは思わなかったけど。とりあえず可愛かったよな」
いつの間にか前の座席のクラスメイトまで俺を振り返っている。
俺は大きくため息をついてから、口を開いた。
「妹じゃないよ。幼なじみというか……ただの居候?」
「え?なになに?どういうこと?」
「一緒に住んでるってこと?」
「あんな可愛い子と一緒なんて、うらやましい奴だな」
「別に、親同士仲が良いってだけだし。住んでるって言っても一時的なものだし。なんもねーよ」
「え?あんな可愛いのに?一緒にいて、なんかないわけ?」
「ないよ。あいつ、彼氏いるし」
俺は何でもないように言いながら、胸の奥が小さく疼くのを感じた。その疼きを押し込める様に、俺はポッキーをくわえたまま、隣の安田を思いきり睨みつける。
けれど、安田はそんな俺の視線に気付くことなく、何もない空中に視線を向けたまま何かを考えている様子だった。
「おいっ」
俺の低い声にようやく安田が振り返った。
「ぅわっ。わりぃって。まさか、こんなみんな食いついてくるなんて、思わなかったからさ」
「お前、自分の声の大きさ、自覚しろよな」
「まじ、ごめん。いや、なんかちょっと気になって……」
安田がからかい口調ではなく、何かを考えるように小さく呟いた。
「え?」
「いや、俺、あの子、どっかで会った気がするんだよな」
「安田……ナンパでもした?」
「ちげーよ!俺、ナンパなんかしねーし!」
俺の冷たい視線に安田が顔を真っ赤にして、叫んだ。
「安田、うるさいぞ!」
安田の大声にバスの先頭の座席から担任の声が飛んできた。
「すみませんっ」
大声で頭を下げた安田が俺を睨みつけた。
「まぁ、おあいこだな」
俺の声に安田は力が抜けた様に笑った。
「なんだよ、それ」
「すべてはお前の大きな声が悪い」
「そうだけど。でも、ホントに、どこかで見た気がするんだよなぁ。どこだっけなぁ」
安田はポッキーを三本まとめてくわえながら、まだブツブツと言っていた。
宿泊研修の一日目はバス移動の時間がほとんどで、夕飯のバーベキューが終わるとあっという間に肝試しの時間になった。
梅雨前の夏に少しだけ触れたようなこの時期、日が落ちると気温は一気に下がった。Tシャツ一枚で過ごせていた昼間とは違い、上着がないと肌寒い。俺はパーカーのファスナーを上げながら、少しだけ早足で歩いていた。真っ暗な山を背景に外灯の明かりしかないような広場に十人前後の人が集まっている。
「あれ?香川?」
「おー。藤倉も?」
肝試しの脅かし役の集合場所には、香川がいた。香川は俺の顔を見つけると、「まじ、ついてねーよなー。俺だって回りたかったのに」と吐き出された言葉とは裏腹な弾んだ声で言ってきた。それを俺はなんだかんだ脅かし役もそれなりに楽しみだという意味で受け取った。
「ま、仕方ないよな。その分、すげぇ脅かしてやろうぜ」
「まー、そうだな」
そう言って笑い合っていると、学年主任の先生から肝試しのコースの説明と待機場所のポイント、小道具の説明が行われた。誰よりもこの先生の方が張り切っていて、実際に脅かし役もやるとのことだ。
「毎年レベルアップが目標らしいよ」
「すげえな」
「そういえば、安田は誰とペアになったの?」
香川の問いに、俺は先ほど自分が施した裏工作を思い出す。そして、そんな俺のズルを知らずにまんまと当たりくじを引いた時の安田の嬉しさと不安が入り混じった複雑な表情も。
「……さぁ。来たらわかるだろ」
「ま、そうだけど」
肝試しのコースは片道三十分ほどで、先生以外の脅かし役は一つのポイントごとに二人配置される。脅かし役は各クラス二名いるので、同じクラスの奴と一緒になるのだけど、香川と話し込んでいた俺は、自分と同じクラスの奴を確かめることをすっかり忘れていた。
「香川くん。行こう」
先生の説明が終わると同時に香川の元に一人の女子がやってきた。ゆるくパーマのかかった茶色い髪。香川と同じくらいの背丈。顔はそこまではっきり見えなかったというか、他に目線を奪われたというか……。
「お、おう」
香川が俺に一瞬だけ視線を送ってから、その女子と一緒に歩いていく。その後ろ姿を見送りながら、先ほどの香川の弾んだ声が俺の脳裏に蘇る。
「……あいつ、わざと脅かし役にしたんじゃ」
「藤倉くん」
香川を見送っていた俺の背中から遠慮がちな小さな声が聞こえた。
振り返った俺は、驚きのあまり一瞬声が出なくなった。
「!」
「あ、あの、その、脅かし役の子が体調悪くなったみたいで、それで」
「え、でも、なんで、それで、川上?」
「あ、頼まれて、それで……」
川上はずっと俯いたまま、足元に視線を落として、必死に言葉を探す様に話していた。流れるように落ちる髪から覗く川上の耳は真っ赤だった。俺は川上に気付かれないように小さく息を吸った。そして、思い浮かんでしまったことを、気付いてしまったことを振り払う様に少し声を大きくした。
「よろしくな」
「えっ?」
俺の声にようやく川上が顔を上げた。川上は耳だけでなく、その頬も赤く染めていた。俺はそれに気付かないフリをして、川上に笑いかけた。
「みんな、脅かしてやろうぜ」
「う、うん」
そう言って笑った川上の表情は——もう、ひかりに似てはいなかった。
部屋に帰ると、わかりやすく安田が落ち込んでいた。
「安田?」
安田は部屋の隅で、膝を抱えて座っていた。安田の丸くなった影には天井のライトの明かりも届かない。
「風呂の時間だけど、どうする?」
俺の声に安田は振り返ることもせず、首を振った。
ダメだ、こりゃ。
「じゃあ、俺、風呂行ってくるわ」
安田を部屋に残し、一人大浴場への道を歩きながら、俺は先ほどの出来事を思い返す。
ま、あれはあれで、結果オーライじゃないかなぁ。
大浴場へと続く引き戸を開けると、暖かな湿気が一気に体を包み込んだ。
大きなお風呂の手前、いくつも並ぶシャワーへと視線を向けた俺は、そこに見知った姿を見つけた。
俺は空いていたその隣を静かに陣取り、椅子に腰を下ろすと同時に仕切りから顔をのぞかせた。
「かーがーわー」
俺の声に気付いた香川がシャンプーをシャワーで流しながら、振り返った。俺の顔を確かめると、泡を流し切れていないその顔が一気に赤くなっていく。
「な、なんだよ」
「さっきの女子、誰だよ?」
俺はいつもワンプッシュですませるシャンプーを、ツープッシュしてから、泡立てたシャンプーをボーズ頭に乗せる。
「同じクラスの女子だよ」
「そうじゃなくて。お前、わざと脅かし役に回っただろ?」
「!」
香川の目がまんまるに見開かれて、その固まった表情に、俺は確信する。
「やっぱりなぁ。そうだと思った」
「……言うなよ」
香川がいつになく低く鋭い声を出してきた。俺はそれには気付かないフリをして、シャワーの蛇口をひねる。いつもより無駄に多い泡が排水溝に向かって流れていく。
「彼女?」
俺は、シャンプーの隣に並ぶコンディショナーのボトルをスルーして、ボディーソープのボトルに手を伸ばす。ボーズにしてから、コンディショナーの必要性を感じなくなったのだ。
「……たぶん」
歯切れの悪い香川の声が周りのシャワーの音に重なる。
「なんだよ、たぶんって。告白されたんだろ?」
「……されてないよ」
香川が体を洗いながら、小さくぶっきらぼうに答えた。
「え?じゃあ、香川が言ったのか?」
先ほどの二人の様子を思い浮かべてみた俺は、なんとなく、香川よりも女子のほうが積極的に見えたから、勝手に告白されたのかと思っていた。
「お前、やるじゃん」
「……」
返事がないので、視線を向けると、香川が真っ赤な顔をして固まっていた。
「え?何?どしたの?」
「……」
俺はシャワーのお湯を自分の体ではなく、香川の体に向けて出してみた。
「ぼーっとしてるからだぞ」
てっきり香川が怒り出すものだと思って身構えた俺は、香川の戸惑う様な表情に肩すかしをくらった。
「おい、なんだよ。何があったんだよ」
香川が小さく口を開きかけ、また閉じるという、話したい様な、話したくない様な、なんとも言えない表情を繰り返すので、俺はこれ以上追求するのを諦めた。もう、自分で話し出すのを待ったほうが早い。
俺はシャワーで体中の泡を洗い流すと、香川を置いて、一人で湯船に向かった。
ったく、なんなんだよ。
先にお風呂に浸かっていると、今度は香川が俺の隣にやってきた。もう先ほどの戸惑いの表情は消えている。
「安田は?」
香川が先ほどの話題を持ち出さないので、俺も追求しなかった。
「あー、部屋かな」
俺は先ほどの安田の姿を頭に浮かべる。
「そういえば、あいつ腰痛めたの?肝試しのとき、豊田に支えられてた気がするんだけど」
「あー、そう。そうなんだけど……それ、俺のせいなんだよなぁ」
「脅かされて、腰でも抜かしたとか?」
そう笑いながら言った香川に、俺は視線を逸らしてから静かに頷いた。
「マジ?」
「マジ」
「で、豊田に支えられる様にして引っぱられていった、と」
「そう」
「で、藤倉がやったって知らないの?」
「知らない。というか言えない。いや、その場で出て行けなかったというか」
「まさか、意外といい雰囲気だったの?」
「安田はそうは思っていないだろうけどな」
「うわ、マジか!」
そう、安田はそうは思っていないだろうけれど、二人は結構いい感じだったのだ。
*
「あ、あれ、真子たちかな?」
懐中電灯の小さな明かりが視界に入ってきた。
「お、ホントだ。思い切り脅かそうぜ」
俺と川上の担当スポットには細長い机が一つ置いてある。肝試しを回るペアは、その上に置かれた、いかにも怪しげな二つの箱にそれぞれ手を入れることになっている。基本的には、その箱に入れられた手をこちら側から握るのだが、それよりも、無防備な足を下から突然掴まれるほうがはるかに恐がられることに途中で気付いた俺たちは、回ってくる人によって、脅かすバージョンを変えていた。
「豊田は手でいいいけど、安田は足を思いっきり掴んでやろうっと」
「了解」
机の下の布で覆われたスペースに二人で入り込みながら、小声で打ち合わせる。正直、暗くて顔はよく見えなかった。だけど、川上の小さな声がとても近くから聞こえてきて、お互いがとても近い距離にいることを意識させられる。ぶっちゃけ、肝試し回るより、こっちのほうがよっぽど、カップルになれそうな気がする。俺はなるべく川上を意識しない様にと、近づいてくる足音に意識を集中させた。
俺と川上が潜んでいる布には視界を確保するための小さな穴が空いている。俺はその穴から安田と豊田が近づくのを窺っていた。
「これ、絶対、何か入ってるよな?」
「たぶん。明らかに怪しいし」
箱を前にした二人の会話がすぐ上から聞こえてくる。
俺は隣で同じ様に様子を確認していた川上に視線で合図を送る。
川上が箱の反対側から手を入れるタイミングを図る。
「じゃあ、せーので入れるか」
「うん、そうだね」
「せーの!」
安田と豊田がそれぞれの箱に手を入れる。
すかさず川上が豊田の手を握った。
「きゃっ!」
「え?」
思わず手を引っ込めた豊田を振り返る安田。
「俺のほうは、何も……うわぁっっ!!!」
自分のほうに仕掛けがないと安心した安田の足を一瞬だけ、俺の両手が掴んだのだ。その思いがけない出来事に、ビックリした安田はその場に尻餅をついて、ひっくり返った。
安田の大きな声とひっくり返った音に心配した川上が思わず声を上げそうになって、俺はとっさにその口を手で押さえた。
「大丈夫?」
「あ、わり、ちょっと……」
豊田に声をかけられてもその場からなかなか動けない安田。
俺は川上の口を押さえたまま、小さな穴から二人の様子を伺う。
「もしかして、立てなくなった?」
「あ、いや、ちょっと、腰が」
「ふっ、」
豊田が小さく笑った。それは、決してバカにしているとか、呆れているとか、そんな笑い方ではなく、とても優しくて温かな笑い方だった。
「はい」
豊田の細くて長い腕が安田の前に差し出された。
「いや、でも、」
戸惑う安田の上擦った声が、安田の頬が上気していることを感じさせる。
「ずっとここにはいれないし、たぶん、そろそろ治ってくるだろうし……とりあえず、ちょっと動かないと」
「……わりぃな」
豊田の手に支えられながら、なんとか起き上がった安田は、腰を押さえながらも少しずつ歩き出した。
*
「で、豊田といい感じだったのに、安田は部屋に閉じこもってるわけか」
「まぁ、そんな雰囲気を悟る余裕はなかったってことだな」
「好きな子の目の前で腰抜かして、あげくに支えられて歩くことになったら……そんな余裕ないか」
「そういうこと」
俺と香川は二人で同時にため息をついて、二人で同時に笑った。
お風呂場に響く自分たちの笑い声がさらに笑いを誘って、俺たちはもう何で笑い出したのか分からないくらい、腹が痛くなるまで大いに笑い合った。
風呂上がりの夜風はとても気持ちよかった。風呂の後は就寝時間の点呼まで自由時間になっていたので、俺と香川は宿の外を歩いていた。正直、この時間こそ香川はさっきの女子といるべきではないかと思ったけど、香川がどうしてもと言ってきたので、断りきれずに俺は香川と二人で歩いている。悲しいくらいに星がキレイに輝いていた。
「俺、こういうの初めてで、どうしていいか、わかんなくて。なんていうか、その、すごい、意識するっていうか……」
突然、独り言のように香川が話し始めた。俺は真面目に話し込むのが照れくさくて、ついつい茶化してしまう。
「あの子、胸、でかかったよな」
「!」
俺の言葉に香川がすごい勢いで俺の顔を振り返る。俺と香川は身長差があるので、俺は下からすごく強い視線を感じながらも、遠くで輝く星を見ながら続ける。
「あれで意識するなってほうが無理だろ。俺、正直、顔覚えてないし」
「お前なぁ」
香川の声に若干の怒りが混ざったので、俺は香川に視線を合わせた。
「ごめん、ごめんって。でも、しょうがなくない?」
「まぁ、わかるけど……」
怒っていたはずの香川の声が小さくなる。やっぱ、男子なんてそんなもんだ。香川だって、思ったことがないわけではないのだ。
「で、いつから付き合ってるわけ?」
「……」
「なんだよ、教えろよ」
「……藤倉さ……キス……」
「え?なに?」
一段と小さくなった香川の声は俺の耳まで届かなかった。俺が香川の顔を覗き込むと、香川は耳まで真っ赤にしていた。
「なに?どしたの?」
「キスしたことあるよな?」
意を決した様に顔を上げた香川の声が今度は辺りに響き渡った。
「お、お前、声でけーよ!」
暗がりに消していたはずの周りの同級生たちの気配が一気にざわついた。夜の散歩に出ているなんて、大抵がカップルなので、お互いに気を遣う様にうまく気配を消しているというのに……台無しじゃねーか。
「ちょっと、来い」
俺は現れた気配から逃れる様に、香川を宿の裏手の庭に引っぱった。ここは宿の窓からは丸見えなので、カップルたちはいなかった。別に俺と香川は話を聞かれなきゃ問題はないので、隠れる必要はなかった。窓から見えると言っても、部屋の窓ではなく、カーテンのかかった食堂の窓から見える程度で、この時間に食堂を使っているのは従業員たちだけの様だった。
「で、キスがどうしたって?」
手近な石で出来たベンチに腰掛けながら、俺は香川を振り返った。
俺に倣うように隣に座った香川が今度は声の大きさに気をつけながら、話し始めた。
「されたんだ、いきなり」
「え?あの子に?」
香川は小さく頷くと、視線をまっすぐ庭の池に向けた。
「あいつ、吉田っていうんだけど、最初、俺の身長のことでからかってきてさ、だから、俺、正直ちょっと苦手で……図書室で宿泊研修の調べものしてるときにさ、いつの間にか吉田が俺の隣にいて、『身長、やっぱりそんなに変わらないね』って言ってきて、それで、またバカにされると思って、俺、無視して通り過ぎようとしたんだけど、」
そこで、香川の言葉は一瞬、途切れた。少し寒いくらいの風が吹き抜けて、池の表面を波立たせていく。
「なんか、正直、よく覚えてないっていうか、気付いたら、肩掴まれてて、それで……」
視線だけで振り返ると、隣で香川が頭を抱え込んでいた。
「すげー、積極的だな。その、吉田さん?」
「やっぱさ、俺、からかわれてるのかな?好きとか、付き合うとか、言われてないしさ、やっぱ、なんか、違うよな???」
「香川はどうなの?」
「俺は……わかんない。最初、苦手だったし。だけど、キスされて、そしたら、なんか、意識しちゃって、でも、それって、好きっていうのと違うっていうか。だって、ほら、普通さ、順番、逆だろ???」
「あー、そういうことか」
「俺はさ、ちゃんと自分が好きだなって思って、それで、その子と付き合う様になって、それから……って思ってたわけ。それがさ、吉田の奴、俺の気持ちとかなんにも考えてなくない?こういうのってどうなの??……って、笑い事じゃないんだけど」
俺の顔を振り返った香川が冷たい視線を向けてきた。
「ごめん、だって、……ふ、ふは」
俺は完全にツボに入って笑いが止まらなくなってしまった。
「ちょ、俺、真剣なんだけど。このこと話したの、藤倉だけだし。それで笑うって、どういうことだよ」
「ごめんって。これ、俺の想像だけど、今日の肝試しの間もなんかあっただろ?」
「!」
カマかけただけなんだけど。
分かりやすく香川の表情は変わった。
「また、吉田さんにキスされた?」
「!」
香川が視線を逸らして、顔を背けた。また耳まで真っ赤になっている。
「……しただろ。自分から」
「だって!あいつが、」
俺の言葉に思わず振り返った香川だったが、俺の顔を見て、またもや顔を背けた。
「もう、答え出てるじゃん。順番って言うけどさ、言葉より先に気持ちが出ちゃうこともあるって、自分が一番わかったんじゃないの?」
「いや、俺は、だから、ちゃんと好きだなって思ったから、そうしたわけで……」
「だって、吉田さん」
「は?」
突然後ろを振り返った俺を怪訝な顔で見ていた香川だったが、やがてゆっくりと俺の視線の先へと首を回す。
「え、吉田?いつから……?」
振り返った香川の顔が今度は血の気が引いたように青ざめていく。
「ごめんなさい、あの、でも、どうしても、気になって」
恥ずかしそうに顔を俯かせながら、吉田さんはそっと香川を窺う様に視線を向けた。
「じゃ、俺、先に帰るね」
「え、ちょっと、おい、」
俺は香川をベンチに残し、吉田さんに会釈して宿への道をかけ戻った。
まぁ、俺もあいつが途中で大声出さなきゃ気付かなかったけど。あれで周りの気配が一気にざわめいたのだ。そして、駆け出した俺たちの後を追ってくるとしたら、そのまま声もかけずに静かに耳を澄ませているとしたら——吉田さんしかいないと思ったのだ。
「いやぁ、めでたいねっ」
俺は両手を大きく空に突き上げ、全身を伸ばす。
「……キス、か」
小さく呟いた俺は、左の手の平を思わず見つめていた。
まだ、はっきりと感触が残っている。
思わず触れてしまった、川上の小さな唇の柔らかさが、小さく息を吐き出す温かさが、まだ、はっきりと残っていた。
先ほどよりも冷たい夜風が俺の小さなため息を静かにさらっていった。
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