君と泳ぐ空

hamapito

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 翌朝、ダイニングには既に制服姿のひかりが座って朝ご飯を食べていた。俺は寝癖がついたままの頭を掻きながら、しばらくその光景を突っ立て見ていた。
「おはよう、大ちゃん。ご飯、食べたら?」
 ひかりの声にようやく俺の頭が回り始めた。そうだ、そうだった。
「あら、おはよう。早いのね」
 包み終わったお弁当をダイニングテーブルに並べていた母さんが俺の姿を見て、キッチンへと戻っていく。
「あ、今日から朝練だから」
 俺の言葉にちらっとひかりが視線を一瞬だけ投げてきたが、何も言わなかった。
 母さんがキッチンカウンターから俺のご飯とお味噌汁を差し出してくれる。俺は両手でそれを受け取ると昨日から俺の席になった誕生日席に座った。
「いただきます」
 俺はあおさのいい香りに誘われるままお味噌汁に口をつける。
「大地、これ書いたからな」
 リビングのソファで新聞を読んでいた父さんが俺のところにやってきた。テーブルに差し出された入部届を確かめる。保護者欄に父さんの力強い大きな文字が並ぶ。「ありがと」俺が小さく言うと、父さんはいつもの穏やかな声で「いってきます」とリビングの扉から出て行った。
 母さんが父さんを見送るため、父さんの背中を追いかけるように玄関へと向かった。いつもの朝の光景だ。
 翔太はまだ小学生なので、朝は一番遅い。ダイニングには俺とひかりだけになった。テレビから聞こえる今日の天気予報を伝える女の人の声だけが静かな空間を虚しく漂っていた。俺とひかりはしばらく無言で朝ご飯を食べていたが、やがてひかりの「ごちそうさま」という小さな声が聞こえ、俺は反射的に視線を上げた。ひかりは立ち上がって食器を重ねながら、「なんの朝練なの?」と聞いてきた。
「……野球」
 少し間を空けて答えた俺にひかりはそっと視線を向け、「そっか」と小さく呟いた。それだけ言うと食器をキッチンに運び、「じゃあ、私、先に出るね」と先ほど母さんが用意していたお弁当の入った赤い袋を見慣れた学生カバンにしまった。
「おう」
 俺は静かに閉められた扉を見つめたまま、先ほどのひかりの表情を思い出していた。「そっか」と小さく呟いたひかりの表情はどこか寂しげだった。やっぱり、ひかりは「バスケ」って言ってほしかったのだろうか。
 しばらくして、ひかりが出て行くのを玄関で見送ったらしい母さんが戻ってきた。
「大地は何時に出れば間に合うの?」
 食器をキッチンに下げていた俺は母さんの言葉で初めて壁の時計を確かめた。
「やべ、もう出なきゃ」
 慌てて洗面所に駆け込み、寝癖を無理矢理ワックスで押さえ込むと、父さんが書いてくれた入部届けとカバンを引っ掴んで玄関に向かった。
「ボーズにすれば、寝癖も気にしなくていいんじゃない?」
 母さんがお弁当の入った青い包みを手に笑いながら、玄関までやってくる。
「……ありがと」
 差し出されたお弁当はまだほんのりと温かい。それをカバンにしまいながらも眉を寄せた俺に「遅刻するわよ」と母さんが言い、俺は母さんに追い出される様に玄関を出た。閉まりかけた扉から「いってらっしゃい。バリカン買っておくわね」という楽しそうな母さんの声が聞こえた。

 汗の染み込んだシャツを脱ぐ。そんな当たり前の動作でさえ、ピリリと痛みが走る。
いてぇ……」
 ほんの数ヶ月前までもっと激しい運動をしていたはずなのに、俺の体のあちこちから悲鳴が上がっている。受験勉強で少し休んだだけで、驚くほど俺の体力は落ちていた。思わず漏らしてしまったつぶやきに、隣で汗を拭いていた安田が呆れたように笑いながら振り返った。
「どんだけ、怠けてたんだよ」
「怠け……たな。それは認めるわ」
 安田の言葉に反論できないとすぐに悟った俺は、母さんに文句を言われそうなほど汚れたジャージをカバンにしまう。
「まぁ、これから取り戻すしかないな」
「だなぁ」
 ロッカーにかけていたワイシャツを手に取り、袖を通す。肌に触れる布の冷たさが熱くなった体に心地よい。俺が両手でボタンを留めていると、未だに上半身裸のまま、カバンから取り出した下敷きで仰いでいる安田の肘が当たった。
「あ、わり」
「あ、いや……」
 小さく振り返った俺は安田のキレイに刈り上げられたボーズ頭に目を留める。頭の形キレイだな。安田は俺の肩くらいの身長なので、俺は安田の頭を真上から見下ろすことができてしまう。
「安田は、ボーズだよな」
「は?」
 ようやくワイシャツを手に取った安田が俺の視線に気付いて、振り返った。
「いや、やっぱ野球部はボーズなのかと」
「まぁ、多いけどな」
 安田が周りの一年生を見渡すのに合わせて、俺も視線を巡らす。
「こいつはちょっとボーズとは言えないけどな」
 そう言って安田は隣で着替えていた香川かがわに顔を向けた。
「これくらい、いいだろ」
 香川が頭を触ろうと伸ばしてきた安田の手を振り払う。
 小柄で足が速く、守備がめちゃくちゃ上手い香川の希望ポジションはショートで、セカンドを希望している安田とは、中学の野球部からの付き合いらしい。高校でも無敵の二遊間コンビを見せてやると安田から聞かされている。
「まぁ、ボーズじゃなきゃいけないって決まりはうちにはないけど」
「そーだよ。藤倉も俺とそんな変わらないし、そのままでいいと思うけど?」
 安田と香川に見上げられて、俺は自分の頭を手で確かめる。確かに、今のところ部活に支障はないよなぁ。
「うーん、ボーズなぁ……」
 自分でつぶやきながら、今朝の母さんとのやりとりが思い出される。ボーズ……ボーズかぁ。母さんはやると言ったらやるからなぁ。
「おいっ。一年、早くしろ!」
 そんな俺の思考を振り払うように、鍵係の先輩の鋭い声が耳に飛び込んできた。
「はいっ、すみません!!」
 慌てて部室を飛び出した俺たちを春の夜風が包み込む。沁みるような冷たさ、その温度が今の俺たちには心地よく、思わず三人並んで両腕を広げると深呼吸していた。すでに日は暮れ、外灯の消えたグラウンドは真っ暗だった。さっきまで当たり前にあったはずの場所が今は目を凝らしてもよく見えない。それでも、吸い込んだ空気の中に名前も知らない春の花の香りが混ざっていて、足元にできた影が一つではないという事実に、肩の力は自然と抜けていった。
「じゃあな」
「おう、また明日」
 自転車組の香川と校門の前で分かれ、俺と安田は駅へと続く道を歩き始めた。
 坂道を一気に下っていく香川の自転車のライトは、あっという間に視界から消えてしまった。
「そういえば、安田はいつから野球やってるの?」
「あー、俺は小学校三年生からだな。近所の少年野球チームに入ってた」
「そっか。じゃあ、その頃からボーズだった?」
「言われてみればそれからずっとコレかも……」
 少しぼやけたような光を落とす外灯の下、俺と安田の影が重なる。
「そっか。じゃあ、もう周りも違和感ないよなぁ……何?」
 安田の静かな視線によって、俺は無意識のうちに指先で髪をいじっていたことに気づいた。
「いや、ボーズになった藤倉を想像してみたんだけど、なんか、うーん、」
「なんだよ」
「いや、うん。やっぱり野球部といえばボーズだ。うん、きっと似合うよ」
「……」
 安田が全く信用のできない表情かおで言ってきたので、俺は言葉ではなくため息で返した。
 学校から駅まで続く道は片側二車線の広い通りで、歩道も広かったが役所や消防署など公共施設が多く、夜はとても静かだった。ちらほらと見える人影は俺たちと同じ部活帰りの生徒ばかりだ。
「……藤倉さぁ、豊田のことどう思う?」
 突然変わった話題に、珍しく声を小さくした安田に、俺は思わず隣を振り返る。
「豊田?えっ、どうって?」
 豊田は野球部のマネージャーで、俺と安田と同じクラスの女子だ。女子の中では背が高めで、手足もすらりと長いため、そのスタイルのよさでよく目立っている。少し短めのショートカットがよく似合っていて、クラスの男子はもちろん、野球部でも人気がある。安田が好きになっていても何も不思議ではない。
「安田も豊田のこと好きなの?」
「!」
 直球の俺の言葉に安田の顔が一気に赤くなる。わかりやすい。
「豊田、すげー目立つもんな」
 俺は楽しくなってきて、安田の肩に腕を回す。安田は珍しく黙ったままだ。
「一見、クールそうだけど、マネの仕事は一生懸命だし、それに」
「笑うとすげー可愛いんだよな」
 堪え兼ねた様に安田が俺の言葉に被せて続けた。
「普段、全然笑わないのにさぁ、誰かがいいプレイすると、すげー喜ぶんだよ。野球好きなんだって、すごい伝わってくるというか……なんだよ」
 興奮してしゃべっていた安田が、俺が顔を背けているのに気付いた。
「ぶはっ。だって、お前、素直すぎて、わかりやすすぎて、ふは、」
 耐えきれずに俺が笑い出すと、安田は俺の腕から抜け出し、「なんだよ」と小さく呟いて、横を向いた。まだ顔が赤い。
「ごめんって。悪かった。なんでも協力してやるからさ」
 俺の言葉にしばらく無言で歩いていた安田が、声を弾ませて振り返った。
「ホントか?」
「あぁ、ホント、ホント。安田が豊田とうまくいく様に協力するから」
 安田は俺に向き直ると、その太い腕を巻きつけるようにして抱きついてきた。
「ふじくらぁ~!お前、いい奴だなぁ」
「安田っ!協力してやるから、離れろっ!」
 視界の先には暗く静かな大通りを抜けた駅前の明るい風景が見えている。同じ学校の生徒ばかりでなく、帰路につく様々な人の姿がドラッグストアや書店の並んだ通りへと流れている。
「安田ってば」
 びくともしない安田の腕の力に俺は少し戸惑う。野郎と抱き合ってる姿なんて、誰かに見られたらどうするつもりだよ、まったく。安田の力強い腕から逃れようと、俺は努めて冷静に言った。
「安田、豊田に見られたら、どうするんだよ」
「!」
 効果覿面。安田はすぐさま腕を離すと、キョロキョロと辺りを窺った。
 俺は一つ、大きく息を吐き出してから、安田に言った。
「とりあえず、何かしてほしいこと思いついたら言って」
 安田の目が輝く。安田はまたもや両手を広げかけたが、先ほどの言葉を思い出したのか,急いで引っ込めた。
「藤倉も好きな奴いるなら、言ってくれよな。俺、協力するからさ」
「あー、うん。できたら言うわ」
 好きな奴——か。

 電車を下りて改札を抜けると、駅の外へと向かう人の流れの中に見慣れた制服が目に入った。ひかりだ。ひかりがほんの数メートル先を歩いていた。俺は声をかけようか一瞬迷ったが、同じ家に帰るので追いついてしまうだろうと思い、足を速めた。
「ひかり」
 俺の声によほど驚いたのか、ひかりの肩がビクッと大きく揺れた。振り返ったひかりの目は真ん丸に見開かれている。そして耳にはスマホの画面があてられていた。誰かと通話中らしい。俺の顔を確かめると、ひかりは何も言わずに体の向きを戻して足を進める。そんなひかりから三歩程下がって、俺も歩き出す。
「……うん。そう、大ちゃん。うん、そうだけど、大丈夫だから。心配しないで。うん、じゃあ、切るね」
 ひかりがスマホを耳から外し、カバンのポケットにしまうと、俺の方を振り返って立ち止まった。
「部活どう?」
「え、あぁ、まだ2日目だからキツイかな」
 ひかりの電話の相手が気になっていた俺は、とっさに言葉がうまく出てこなかった。ひかりは俺が隣に並ぶのを待ってから、再び歩き出した。そのあまりにも自然な流れに、俺の中で懐かしさがこみ上げる。俺は蘇りそうになる思い出を必死に押し込め、鍵をかける。今、思い出しちゃダメだ。
「2日目かぁ。まだまだだね」
「うん」
「野球部ってことは、大ちゃんボーズになるの?」
「……今朝、母さんが嬉しそうにバリカン買っておくって言ってた」
 俺は小さくため息をついて、肩を落とした。母さんはやると言ったら、絶対やる。……先ほどのニヤけた安田の顔が浮かぶ。
「うわぁ、楽しそう。私もやりたいな」
 俺の落ち込みとは対照的なひかりの明るい声が飛んでくる。
「だめ。ひかりにはやらせない」
「えー、いいじゃん。どうせ、全部切っちゃうんでしょ?」
「ひかり、失敗しそうだもん」
「失礼な。そもそも、ボーズに失敗とかあるの?」
「そこが分からない人にはやらせないから」
「えー、何ソレ」
 ひかりが膨れっ面をして、足を速める。俺はとっさにその腕を掴んだ。ひかりが掴まれた腕の肩越しに俺を振り返る。俺はそっと自分の顔をひかりの顔に寄せる。無意識だった。体が勝手に動いていた。それは、あまりにも長い間繰り返され、染み付いてしまった条件反射のようなものだった。
「だいちゃん」
 いつもと違ったのは、ひかりが目を閉じずにまっすぐ俺を見ていたことだった。ひかりの声で、唇が触れ合う前に、俺の体は止まった。俺から視線を逸らさずに、ひかりは掴まれていた腕を引いた。俺はそのまま手を離し、ひかりの視線から逃げる様に顔を背けた。
 ひかりは何も言わずにまた前を向いて歩き出した。俺は、ひかりの背中から二歩ほど下がって歩き出した。
 家へと続く最後の曲がり角を曲がり、細い道に入ったときだった。ひかりは前を向いたまま、立ち止まることも、俺を振り返ることもせずに言った。
「大ちゃん、さっきの電話ね、あれ、シンくんなんだ」
「え?」
「ほら、私たちの一つ下の、バスケ部の後輩」
「あ、あぁ、細川ほそかわ新一しんいちね」
「そう、その新くん」
 家の外灯が俺とひかりの影を道に作り出す。いつの間にか俺たちは家の前にたどり着いていた。ひかりは門の取手に手をかけながら、俺を振り返ると、俺の目をまっすぐ見つめて、はっきりと言った。
「私、今、新くんと付き合ってるの」
「え?」
 ひかりのまっすぐな視線に、聞き慣れたよく通る声に、俺はとっさに反応できなかった。
「新くんと付き合ってる」
 ひかりはゆっくりとそれだけ言うと、何事もなかったかのように門を開け、扉に手を掛けた。
「今日のご飯は何かなぁ」
 先ほどの静かな声とは違う明るく弾んだひかりの声が開いたドアから玄関に響いた。
「お帰りなさい」
 ひかりの声に応えるように母さんの声が飛んできた。ひかりはその声に応えながら、閉まりかけたドアを手で押さえると、門の前に立ち止まったままの俺を振り返った。
「大ちゃん?どうしたの??早く入りなよ」
 そう言ってひかりは笑った。

     ◇

 一年前、自分も同じ表情かおをしていたのだろうかと、懐かしさがこみ上げる。
 緊張と期待を全身に貼り付けて、注がれる多くの視線を受け止める新入生たち。
「一年四組、細川新一です。希望ポジションはポイントガードです。宜しくお願いします」
 まだ声変わりのしていない幼い声が体育館に響く。
「あの子、大ちゃんにちょっと似てるね」
 隣に並んだひかりがこっそり俺に耳打ちしてきた。この一年で俺の身長は急激に伸びたため、ひかりが少しだけ背伸びをした。視線はそのまま新入部員たちに向けたままで、俺は少しだけ肩を寄せて、小声でひかりに問い返す。
「どこが?」
「どこっていうか……雰囲気?」
「なんだよ、それ」
 俺は軽くひかりに肘を入れた。すると、ひかりは手に持っていたスコアブックの角を俺の背中に突き刺した。そのチクッとした刺激に俺の上半身がビクッと揺れた。
 そんな俺の動きを鬼コーチが見逃すはずはなく、すかさず怒号が飛んできた。
「藤倉っ!!何してる!!」
「すいませんっ!!虫!虫に刺されました!!」
「虫くらいでなんだ!藤倉は腹筋五十回してから上がれ」
「はいっ!!」
 体育館に響き渡る大きな声で応えた俺だが、心の中は穏やかではない。
 隣のひかりは俺から視線を外して、涼しい顔をしている。
 ひかりの奴、あとで覚えてろよ。俺がこっそり復讐を誓ったときだった。俺のその心の声が聞こえたのかもしれない。
「蕗沢」
 鬼コーチが今度はひかりの名前を呼んだ。但し、明らかに先ほどとは声の質が違う。俺のときより全然恐くない。
「はい!」
 ひかりが返事をすると、コーチは満面の笑顔で言った。
「藤倉の腹筋、お前も付き合えよ」
 前言撤回。コーチの笑顔のほうがよっぽど恐い。
「はい……」
 ひかりの声が小さく響いた。
 ざまぁみろ。俺は小さく心の中でガッツポーズをした。

「なんで私まで……三十六」
「もとはと言えばお前のせいだろーが」
「三十七、大ちゃんの肘が先だし……三十八」
「……?」
 あれ?俺のせいだっけ??
 不意に俺の両足を押さえたひかりが頬を膨らませた。視線が恐い。
「二十九」
「は?」
 ひかりの声に俺は動きを止めた。
「三十九だろ?」
「二十九です」
 ひかりが真顔で返してくる。
「お前、数もまともに、」
 ひかりに文句を言おうとした俺だが、体育館の入口に鬼コーチの姿を捉えたため、渋々腹筋の続きに戻る。
「三十……三十一」
 ひかりが涼しい顔で数を数え始める。反論の機会を失った俺は無言で腹筋を続けた。
「……」
「三十二……三十三」
 体育館の二階の大きな窓からは赤みを帯びた空が藍色へと塗り替えられていき、人の熱気と湿気の染み込んだニオイがゆっくりと静まっていった。

 ボールの弾む音が消えた空間にはひかりの静かな声だけが響いていた。
「……五十」
 やっと聞けたその言葉に、俺は両腕を広げてその場に倒れこんだ。
「だー。腹、いてぇ」
 ひかりの地味な嫌がらせが続いた結果、俺は腹筋を百回もするはめになった。俺は体育館の床に大の字になり、ライトの眩しさに目を細める。二階の窓から暗くなった空が覗く。鬼コーチも部の仲間ももうみんな帰ってしまっていて、体育館には俺とひかりの二人だけだった。
「だらしないなぁ。これくらいで」
 ひかりがモップを二本持って俺を見下ろしている。普段は全員でモップがけをして部活終了なのだが、今日の様に罰を言い渡された奴がいるときはモップがけまでが罰に含まれる決まりだった。
「ほら、立って。掃除終わらせて早く帰ろうよ」
「はい、はい」
 一体誰のせいで遅くなったんだか。
 呼吸を整えながら、俺は流れていく汗を手首にはめていたリストバンドで拭った。強いライトの光を視界から遮ると、自分の顔の前にできた小さな影に大きな影が重なった。
「ほら、早く」
 ひかりが片手にモップの柄をまとめ、空いた方の手を俺に差し出してきた。俺は差し出されたひかりの手を握って、上体を起こした。そして、そのまま立ち上がりかけて、やめた。
 俺の動きが止まったので、ひかりが不思議そうに俺の顔をのぞき込む。その瞬間、俺は握っていたひかりの右手に少し力を入れて、思い切り引いた。
「きゃっ」
 ひかりがバランスを崩して、俺の胸に倒れるように転がりこむ。
 ガラン、ガラン……。
 ひかりが掴んでいたモップが床に転がり、大きな音が体育館内に響き渡る。
「ちょっと、危ないじゃ、」
 怒って顔を上げたひかりは最後まで言葉を言えなかった。
 俺の唇がひかりの口を塞いでいた。
「っ……」
 ひかりは俺から逃げようと両手で俺の胸を押してきたが、俺はそんなひかりを離すまいと抵抗する隙間も与えないほどに強くひかりを抱きしめた。正直、ちょっとひかりを困らせてやろうという気持ちだけだった。先ほどの腹筋のお返しに少しだけ意地悪したくなったのだ。だから、ひかりが本気で抵抗してきたら離すつもりだった。
「……」
 だけど、俺はいつの間にか、自分でも戸惑うほどにいつもよりも激しくひかりの唇を求めてしまっていた。それは俺の中にずっと押込められていた感情が、堰を切った様に溢れ出て、俺の体中を駆け巡るかのようだった。けれど、そんな思いとは裏腹に、俺の体はその衝動にどう応えていいか分からず、ひかりを求めようとすればするほどに、自分の感情に戸惑い、うまく応えられないもどかしさでいっぱいになっていく。中学生の俺には、ただただひかりの唇に強く自分の唇を押当て、抱きしめる両腕に力を込めることしかできなかった。
「だいちゃ……ん」
 浅い息継ぎに、唇が離れると、ひかりの口から俺の名前が漏れる。そして、その一瞬を逃さずにひかりが俺のキスから逃げるように顔を俯かせた。そんなひかりに、俺は自分でもどうしていいかわからなくなり、抱きしめていた腕から力を抜いた。ひかりが抵抗すれば、簡単にほどけてしまうくらいに。……それなのに、ひかりは俺から逃げることはしなかった。ひかりは顔を俯かせたまま、ゆっくりと俺の背中に手を回し、二人の隙間を埋めるように体を寄せると、その小さな両手で俺のジャージをぎゅっと握った。
 ジャージ越しに先ほどよりも近くひかりの体を感じた俺は、ただ、ひかりを、その存在を、ずっと感じていたいと、先ほど感じた不安を押し隠すように、強く祈るような気持ちで、もう一度、両腕に力を込めた。
「ひかり」
 このもどかしさを、歯痒さを、不安を、押さえ込む様にゆっくりと俺はひかりの名前を呼んだ。
 俺の声にひかりがゆっくり顔を上げた。ひかりは俺の瞳を確かめると、恥ずかしそうに小さく笑って、そっと目を閉じた。そして、ゆっくりと細く小さな顎を上げ、その白い首を伸ばしてきた。ひかりからキスを求めてきたのはこれが初めてだった。
 俺は、その感触を確かめる様に、今度は、ゆっくりと、優しく、ひかりの唇に触れた。ひかりの体温を、呼吸を、その存在を、ひかりから感じる、そのすべてを逃さないように。
 今までで一番長いキスだった。けれど、先ほどとは違い、とても穏やかで、優しいキスだった。
 体育館の入口から入ってきた夜の風が、春のニオイを纏わせながら、俺とひかりの熱を優しく撫でていった。

     ◇

「わぁ。この感触いい!!」
「そう、そう。この感触がなんとも言えないのよね」
 ひかりと母さんが代わる代わる俺の頭を撫でている。初めは抵抗していた俺だったが、「私が刈ってあげたんだからいいじゃない」という母さんの有無を言わせぬ一言により俺は抵抗することを諦めた。もともと手先が器用な母さんは驚くくらいあっという間に俺の髪を刈り上げた。俺が断固拒否したため、ひかりがバリカンを扱うことはなかったが、俺のボーズ頭が完成すると、母さんに便乗して俺の頭を撫で回している。
「ただいまー」
 玄関から父さんの声が聞こえた。
「おかえりなさい」
 母さんがいそいそと父さんの元へと向かっていく。
 ひかりはソファの後ろに回り込み、飽きもせず俺の頭を撫でている。
「お前、いい加減にしろよ」
 ソファに座ってじっと耐えていた俺だったが、母さんがいなくなったので、遠慮なくひかりの手を払って、振り返った。
「だって、これ気持ちいいんだもん。大ちゃんも自分で触ってみなよ」
 俺の抵抗など構う事無く、ひかりが俺の頭に手を伸ばす。
「だから、もう辞めろよ」
 俺が伸ばされたひかりの手首を掴むと、ひかりの体が一瞬、ビクッと強ばった。その反応に俺の体も強ばり、俺は振り払うようにひかりの手を離すと、ひかりの方を見ずに目の前のテレビに向き直った。
 ひかりはもう何も言わなかった。
「おっ。大地、ボーズになったのか」
 一瞬訪れた俺とひかりの沈黙の時間を破る様に、父さんがリビングに入ってきた。「どれどれ」と父さんも俺に近づくと、俺の頭を撫でた。
「この感触がなんとも言えないよな」
「父さんまで……」
 俺は楽しそうに笑いながら俺の頭を撫でている父さんに抵抗を諦めた。
「あれ?翔太はどうした?」
 父さんが俺の頭の感触に満足したのか、ダイニングへと向かいながら聞いてきた。いつもなら翔太はまだリビングでテレビを見ている時間だ。
「部屋。母さんが翔太までボーズにしようとしたから」
「それは、それは。」
 父さんが小さく笑った。

「おぉー。さっぱりしたなぁ」
 校門へと続く坂道を上っていた俺は、聞き慣れた声に振り向いた。安田が俺の頭を見上げている。
「昨日はずっと家族に頭触られたよ」
「ボーズあるあるだな」
 わずかに残った桜の花びらが落ちていく中、安田がニヤッと笑った。
「野球部はいいけど、クラスに行くのはまだちょっとなぁ」
 俺が自分の頭を掻きながら呟くと、安田は俺の顔をまっすぐ見て言った。
「俺、正直、ちょっとほっとしてる」
「え?」
「藤倉が本気で野球やるって分かったから」
 そう言って笑った安田の顔に柔らかな陽射しが降り注ぐ。
「安田……」
 俺もまっすぐ安田に視線を合わせた。が、安田は先ほどの真剣な顔を崩し、またニヤッと笑った。
「これで、藤倉ファン減ったな。いやー、よかった、よかった」
「!……お前なぁ」
 怒った俺の腕から逃げる様に安田は校門を抜け、部室へと走り出した。
 そんな安田を追いかけ、俺も駆け出す。
 遠くなっていく俺と安田の背中を押す様に、坂道を駆け上った風が緑色に包まれた桜の枝を揺らしていた。


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