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ヒツジとオオカミの日常
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パソコンの電源を落としたところで、ふっと息を吐き出す。持ち帰った仕事がひと段落し、休憩を入れようと椅子から立ち上がる。リビング横の部屋は共用スペースではあったが、最近は僕専用の仕事部屋と化していた。
くるりと視線を巡らせば大きな本棚が目に入る。左半分は僕の仕事関係の本が多く並んでいるけれど、右半分は料理の本が目立つ。以前はマンガや小説が多かったのに。いつの間にか変わってしまっている。
「ふふ……」
思わず漏れてしまった自分の笑い声に胸の奥が反応する。
扉一枚隔てているだけ。距離としては近いし、同じ空間にいると言っても過言ではないけれど。同じ家にいるからこそ感じられる気配を「もっと」と欲張ってしまう。
そっと静かに引き戸を開ければ、大きな窓から差し込む光で視界は一気に明るくなった。カーテンの隙間から柔らかな風が流れてくる。冬の冷たさが消えた、植物の匂いの混じる春の風。来週には桜が満開になると点けっぱなしになっているテレビから声が聞こえる。
来週末はお花見に出かけてもいいな。僕らが出会った日の――あの公園に行ってもいい。そのためには今抱えている仕事を終わらせないといけないのだけど……。
顔を振り返らせると同時にキッチンの方へと足を進める。
僕よりも細い背中、華奢な腰で結ばれたエプロンの紐。薄く聞こえる鼻歌はなんの曲かわからないけれど、機嫌がいいのは伝わってくる。
思わずこぼれた息は先ほどのものとは全く違う。吐き出した息を満たすのはどうしようもないほどの愛おしさだ。
「皮から作るの?」
突然声をかけたからだろう。ビクリと両肩を揺らしたイチが勢いよく振り返る。手元でカタン、と銀色のボールが音を立てた。中には丸く整えられた白い生地が寝ている。今日のメニューは餃子だと聞いていたけれど、これはどう見ても中身ではない。皮の方だろう。
「……急に背後に立つなよな」
大きなため息をついて軽く眉根を寄せたイチだけど、一瞬にして染まった頬が隠しきれない感情を見せつけてくる。僕の胸の奥、震えは大きくなり、指先にまで広がる。そんなことにはまったく気づいていないイチは再びカウンターに向き直り、吊り棚の下のラックへと手を伸ばした。
「これ?」
イチの指が届くより早く、僕がラップの箱を掴めば「ん」とイチが小さく頷く。手渡した箱からラップを引き出すと、ボールから取り出した生地を丁寧に包んでいく。
「仕事、終わったのかよ」
白く細いイチの指の動きをじっと見つめたまま答える。
「んー、あと少しってところかな」
「休憩に来たの?」
ラップで包み終わった生地をその場に残し、イチが使い終わった道具をシンクの中へと移動させる。そのタイミングで僕はゆっくりと手を伸ばす。
「うん。それと……」
水の流れる音に重ねるようにイチのうなじへと言葉を落とす。
「……充電」
「ちょ、お前なあ」
びくりと体を震わせ、振り返ろうとしたイチをぎゅっとうしろから抱きしめる。肩へと頭を載せれば、イチの反応が直接体に流れ込む。
「髪、くすぐったいんだけど」
逃げようとしているのか、くすぐったくて震えているだけなのか、イチから感じる抵抗があまりにも弱くて僕の中の熱が大きくなる。
「その生地どれくらい寝かすの?」
腕を緩めることなく問いかければ、イチは「一時間くらいだけど」と律儀に返してくれる。
「一時間ね。じゃあ、イチも僕と一緒に休憩しよう」
「いいけど。とりあえず離れろよ。俺、動けないから」
キュッと水道の蛇口を下ろしたイチがため息に言葉を混ぜる。銀色のボールには溢れ出すほどに水が溜まっている。どうやら洗うのは諦めて僕の相手をしてくれるらしい。それがたまらなく嬉しくて、イチへの想いが僕の体を満たし……溢れた。
「イチは動かなくていいよ」
「は?」
首を振り返らせたイチを待ち構えていた僕が捕まえる。ツン、と触れ合わせた唇の先が柔らかく沈めば、一瞬にして濃くなったイチの香りが僕の心臓を揺らす。表面の皺を感じられるくらいに優しかったキスがせり上がってきた熱に押し出されて強くなっていく。
「んっ……待っ……」
首をすくめて逃げようとするイチを僕は追いかけ、さらに強く捕まえる。
イチが僕の腕の中で抵抗してできた隙間を利用して、体を正面から向かい合わせれば心臓の音が深く絡み合う。音も熱も呼吸すら、もうどちらのものなのかわからなくなる。
「――キ……」
隙間にこぼされた声にならない音が、僕の名前を呼んだのだとわかってしまって、ぎゅっと胸の奥が痛くなる。幸せで嬉しくて仕方ないはずなのに、どうしようもなく胸が痛くて苦しくて、泣きたくなった。
イチに触れるたび、イチが僕の名前を呼ぶたび、こわいくらいに僕の全身は震える。何かを訴えるかのように。手を離したことはないはずなのに。「もう二度と離したくない」と強く思ってしまう。
「……っ」
この痛みを忘れたいのか、忘れたくないのか。僕自身にもわからない。
パッと顔を離せばイチが――頬も耳も首も真っ赤にしたイチが――揺れた水面に僕を映し出す。この中にずっといたい。
「舌、噛まないでね」
「え?」
イチの体に回していた腕でひょいっとその細い体を持ち上げる。軽く肩に担ぐ感じで。
「わ、ちょ、何?」
イチの足からスリッパが落ちても気にせず僕はイチを抱えたまま歩き出す。
「休憩。付き合ってくれるんでしょ?」
「そうだけど」
この体勢だとイチの顔が見えないのが悔しいな。
「え、なんでそっち?」
廊下へと続くドアを僕が開けるとイチの声が肩でビクンと跳ねるように転がってきた。
「休憩するならしっかりしないとね」
「……休憩、するんだよな?」
「ふふ」
止めていた足を再び動かしてもイチは抵抗しない。その代わり「餃子、お前も手伝えよ」と言葉を落としながらきゅっと僕のシャツを掴んできた。
「もちろん」
「……」
言葉が返ってこなくても、その表情を確かめられなくても、触れ合っている体から僕にはわかってしまう。
「ねえ」
「何?」
静かな廊下にスリッパが床を叩く音と遠ざかっていくテレビの音が重なる。背中から追いかけてきた柔らかな風がふわりと肌に触れれば自然と笑みがこぼれる。
「――来週……ううん、今日の餃子って先月作ってくれたやつ?」
言いかけた言葉を差し替える。お花見に誘うのは今でなくてもいい。言葉にしなくても、この時期にあそこを訪れるのはもう毎年のことなのだから。きっとイチもそろそろだと思ってくれているだろう。
ドアの取手を軽く下ろせば、手の中にカチャッと振動が伝わってくる。正面の窓は少し開けられていて白いレースのカーテンが風に揺れている。東向きの窓から差し込む光が白い枕カバーの上に優しい熱を注いでくれているのがわかる。
「そうだけど」
ゆっくりとイチの体をベッドへと下ろせば、僕の首に腕を回したままイチが答えてくれる。
「そっか」
ふふ、と笑いを漏らした僕をイチが睨み上げる。
「何?」
「ううん。イチも僕と同じ気持ちだったんだなって」
「は?」
「いっぱいキスしようね」
「俺はべつに……んっ……」
閉じきれていない口を上から塞げば、自分の体重でベッドが軋むのが膝から伝わってくる。
僕の頭の中では先月の光景が再生され、イチへの愛おしさが狂おしいほどの欲となって溢れ出す。
――ねえ、これニンニクじゃないの?
口の中で広がっていく肉汁が爽やかな香りに包まれる。舌には脂っぽさが消えて旨みだけが残される。イチの作るものはなんでも美味しい。この餃子ももちろんとっても美味しい。美味しいからこそ、いつもとは違う味に思わず聞いていた。
「ニンニクの代わりにシソとショウガ入れてみた」
「さっぱりしていて、とっても美味しいね」
ひょいっと箸の先を香ばしい焼き色へと向ければ、白くもっちりした皮の弾力が摘むだけで伝わってくる。これはいくらでも食べられちゃうな。
「ビールもう一本飲んじゃおうかな」
「飲み過ぎるなよ。久しぶりの休みが二日酔いで潰れるぞ」
「そんなに飲まないし、僕がお酒強いのはイチも知って……」
そこまで口にしてから、目の前のイチの顔が赤くなっていることに気づく。ふいっと逸らされた視線。何かを言いたそうにしながらも小さく噛みしめられている唇。久しぶりの休み。止められたビール。ニンニクの代わりに入れられたシソとショウガ。ちっとも素直じゃない僕の恋人……口だけは。言葉にしてくれないのに、僕にはちゃんと伝えてくる。その顔で、その態度で、全身で。そういうところが可愛すぎるから困る。
「ねえ」
「……何?」
戻ってきた視線を捕まえてとびきりの笑顔を僕はイチに向ける。
「今日、一緒にお風呂入ろうよ」
「は? なんで?」
「僕が酔っ払ってお風呂で溺れたら大変でしょ?」
「いや、お前そこまで飲んでな……」
摘んだままだった餃子をイチの口に当てて塞ぐ。
「ね? いいでしょ?」
「……」
イチの視線が僕の顔から目の前の餃子へとゆっくり動く。「いいけど」小さく落とされた言葉が消えないうちにイチは僕の箸から餃子を奪っていった。
「――イチ」
触れ合わせていた唇を少しだけ離せば、閉じられていた瞼がそっと開けられる。
「……?」
窓から流れてくる柔らかな風がイチの前髪を揺らし、温かな日差しが白く丸い額を照らし出す。
イチが動くたびにできる枕のシワすら今の僕には愛おしくてたまらない。
「愛してるよ」
見開かれた瞳に自分の顔を映しこみ、そのまま深く潜る。イチの答えを僕はもう一度溶け合わせた熱の中で受け取った。
***
テーブルにお箸を並べながら、キッチンを振り返る。
「ねえ、イチ」
「んー?」
ジューッと水がフライパンに注がれる音が響き、手早く閉じられた蓋の中に湯気が閉じ込められる。流れてきた香ばしさにくぅと僕のお腹が反応する。
「お腹空いたね」
「……誰のせいでこんな時間になったと思ってるんだよ」
壁にかけられた時計を見上げれば、針は午後九時を示していた。窓の隙間から入り込む風は冷たさを増し、夜の匂いを纏っている。
「ごめんね。でも」
麦茶のボトルを取りにキッチンへと向かえば、イチが何かを警戒するようにフライ返しを掴んだまま僕を見つめてくる。
「でも、なんだよ」
寄せられた眉。尖った口の先。僕の顔を映し続ける丸い瞳。
イチは、本当にわかっていない。その表情が僕を遠ざけるどころか近づけてしまうということを。いや、もしかしてわかってやってる?
「僕のせいだけじゃないと思うんだけど」
冷蔵庫へと向かうはずだった手がイチの肩を掴む。わずかにかけた重みにイチの体は素直にこちらへと傾いてくれる。
「イチが可愛すぎるのが悪いんだよ」
耳の奥へと直接落とすようにささやけば、イチの肌が一瞬にして赤く染まる。餃子のいい匂いにふたり分のシャンプーの香りが混ざり合う。まだ薄く湿っている頬にそっと唇で触れる。繋がった輪郭は一瞬。体温さえ溶け合えない時間。それでも同じ香りで包まれている僕らは同じだけの熱を抱えている。
「触れれば触れるほど可愛くなっていっちゃうんだもん。離してあげられなくなっちゃうよ」
「っ……」
「あ、もういいんじゃない?」
文句を言おうと構えたイチの意識を、フライパンへと向けさせる。
透明な蓋の向こうでは水分がいい感じに蒸発している。
「――お皿、出して」
「はーい」
するりと手を離せばイチがため息を落とすのが聞こえた。食器棚を開きながら視線だけを振り返らせる。そこにはあの日――僕が初めて告白した日と同じ複雑な表情をしたイチがいた。
「イチ」
「……なに?」
「好きだよ」
「……お皿」
それが返事なの? と言ってしまいそうになったけど、これ以上は僕のお腹も黙ってはいないだろう。僕は素直に差し出されていた手へとお皿を載せる。
「あ、ねえ」
「んー?」
フライ返しの先でくるりと焼き目のついた餃子がひっくり返される。
「来週、お花見行かない?」
「いいけど」
「またイチのところで和菓子たくさん買っていこうね」
焼き上がった餃子をすべてお皿に着地させると、イチが振り返った。
「もう『たくさん』はいらないだろ」
「そう?」
イチはふっと息を吐き出すように笑いながら言った。
「和菓子じゃなくても、もう『美味しい』と思えるんだろ?」
和菓子以外は何を食べても「美味しい」と思えなかった僕を、イチが変えてくれた。そのことを噛みしめながら、僕も笑う。
「うん。――早く食べよう」
今の僕には、君と過ごすこの日常が何よりも美味しい。
くるりと視線を巡らせば大きな本棚が目に入る。左半分は僕の仕事関係の本が多く並んでいるけれど、右半分は料理の本が目立つ。以前はマンガや小説が多かったのに。いつの間にか変わってしまっている。
「ふふ……」
思わず漏れてしまった自分の笑い声に胸の奥が反応する。
扉一枚隔てているだけ。距離としては近いし、同じ空間にいると言っても過言ではないけれど。同じ家にいるからこそ感じられる気配を「もっと」と欲張ってしまう。
そっと静かに引き戸を開ければ、大きな窓から差し込む光で視界は一気に明るくなった。カーテンの隙間から柔らかな風が流れてくる。冬の冷たさが消えた、植物の匂いの混じる春の風。来週には桜が満開になると点けっぱなしになっているテレビから声が聞こえる。
来週末はお花見に出かけてもいいな。僕らが出会った日の――あの公園に行ってもいい。そのためには今抱えている仕事を終わらせないといけないのだけど……。
顔を振り返らせると同時にキッチンの方へと足を進める。
僕よりも細い背中、華奢な腰で結ばれたエプロンの紐。薄く聞こえる鼻歌はなんの曲かわからないけれど、機嫌がいいのは伝わってくる。
思わずこぼれた息は先ほどのものとは全く違う。吐き出した息を満たすのはどうしようもないほどの愛おしさだ。
「皮から作るの?」
突然声をかけたからだろう。ビクリと両肩を揺らしたイチが勢いよく振り返る。手元でカタン、と銀色のボールが音を立てた。中には丸く整えられた白い生地が寝ている。今日のメニューは餃子だと聞いていたけれど、これはどう見ても中身ではない。皮の方だろう。
「……急に背後に立つなよな」
大きなため息をついて軽く眉根を寄せたイチだけど、一瞬にして染まった頬が隠しきれない感情を見せつけてくる。僕の胸の奥、震えは大きくなり、指先にまで広がる。そんなことにはまったく気づいていないイチは再びカウンターに向き直り、吊り棚の下のラックへと手を伸ばした。
「これ?」
イチの指が届くより早く、僕がラップの箱を掴めば「ん」とイチが小さく頷く。手渡した箱からラップを引き出すと、ボールから取り出した生地を丁寧に包んでいく。
「仕事、終わったのかよ」
白く細いイチの指の動きをじっと見つめたまま答える。
「んー、あと少しってところかな」
「休憩に来たの?」
ラップで包み終わった生地をその場に残し、イチが使い終わった道具をシンクの中へと移動させる。そのタイミングで僕はゆっくりと手を伸ばす。
「うん。それと……」
水の流れる音に重ねるようにイチのうなじへと言葉を落とす。
「……充電」
「ちょ、お前なあ」
びくりと体を震わせ、振り返ろうとしたイチをぎゅっとうしろから抱きしめる。肩へと頭を載せれば、イチの反応が直接体に流れ込む。
「髪、くすぐったいんだけど」
逃げようとしているのか、くすぐったくて震えているだけなのか、イチから感じる抵抗があまりにも弱くて僕の中の熱が大きくなる。
「その生地どれくらい寝かすの?」
腕を緩めることなく問いかければ、イチは「一時間くらいだけど」と律儀に返してくれる。
「一時間ね。じゃあ、イチも僕と一緒に休憩しよう」
「いいけど。とりあえず離れろよ。俺、動けないから」
キュッと水道の蛇口を下ろしたイチがため息に言葉を混ぜる。銀色のボールには溢れ出すほどに水が溜まっている。どうやら洗うのは諦めて僕の相手をしてくれるらしい。それがたまらなく嬉しくて、イチへの想いが僕の体を満たし……溢れた。
「イチは動かなくていいよ」
「は?」
首を振り返らせたイチを待ち構えていた僕が捕まえる。ツン、と触れ合わせた唇の先が柔らかく沈めば、一瞬にして濃くなったイチの香りが僕の心臓を揺らす。表面の皺を感じられるくらいに優しかったキスがせり上がってきた熱に押し出されて強くなっていく。
「んっ……待っ……」
首をすくめて逃げようとするイチを僕は追いかけ、さらに強く捕まえる。
イチが僕の腕の中で抵抗してできた隙間を利用して、体を正面から向かい合わせれば心臓の音が深く絡み合う。音も熱も呼吸すら、もうどちらのものなのかわからなくなる。
「――キ……」
隙間にこぼされた声にならない音が、僕の名前を呼んだのだとわかってしまって、ぎゅっと胸の奥が痛くなる。幸せで嬉しくて仕方ないはずなのに、どうしようもなく胸が痛くて苦しくて、泣きたくなった。
イチに触れるたび、イチが僕の名前を呼ぶたび、こわいくらいに僕の全身は震える。何かを訴えるかのように。手を離したことはないはずなのに。「もう二度と離したくない」と強く思ってしまう。
「……っ」
この痛みを忘れたいのか、忘れたくないのか。僕自身にもわからない。
パッと顔を離せばイチが――頬も耳も首も真っ赤にしたイチが――揺れた水面に僕を映し出す。この中にずっといたい。
「舌、噛まないでね」
「え?」
イチの体に回していた腕でひょいっとその細い体を持ち上げる。軽く肩に担ぐ感じで。
「わ、ちょ、何?」
イチの足からスリッパが落ちても気にせず僕はイチを抱えたまま歩き出す。
「休憩。付き合ってくれるんでしょ?」
「そうだけど」
この体勢だとイチの顔が見えないのが悔しいな。
「え、なんでそっち?」
廊下へと続くドアを僕が開けるとイチの声が肩でビクンと跳ねるように転がってきた。
「休憩するならしっかりしないとね」
「……休憩、するんだよな?」
「ふふ」
止めていた足を再び動かしてもイチは抵抗しない。その代わり「餃子、お前も手伝えよ」と言葉を落としながらきゅっと僕のシャツを掴んできた。
「もちろん」
「……」
言葉が返ってこなくても、その表情を確かめられなくても、触れ合っている体から僕にはわかってしまう。
「ねえ」
「何?」
静かな廊下にスリッパが床を叩く音と遠ざかっていくテレビの音が重なる。背中から追いかけてきた柔らかな風がふわりと肌に触れれば自然と笑みがこぼれる。
「――来週……ううん、今日の餃子って先月作ってくれたやつ?」
言いかけた言葉を差し替える。お花見に誘うのは今でなくてもいい。言葉にしなくても、この時期にあそこを訪れるのはもう毎年のことなのだから。きっとイチもそろそろだと思ってくれているだろう。
ドアの取手を軽く下ろせば、手の中にカチャッと振動が伝わってくる。正面の窓は少し開けられていて白いレースのカーテンが風に揺れている。東向きの窓から差し込む光が白い枕カバーの上に優しい熱を注いでくれているのがわかる。
「そうだけど」
ゆっくりとイチの体をベッドへと下ろせば、僕の首に腕を回したままイチが答えてくれる。
「そっか」
ふふ、と笑いを漏らした僕をイチが睨み上げる。
「何?」
「ううん。イチも僕と同じ気持ちだったんだなって」
「は?」
「いっぱいキスしようね」
「俺はべつに……んっ……」
閉じきれていない口を上から塞げば、自分の体重でベッドが軋むのが膝から伝わってくる。
僕の頭の中では先月の光景が再生され、イチへの愛おしさが狂おしいほどの欲となって溢れ出す。
――ねえ、これニンニクじゃないの?
口の中で広がっていく肉汁が爽やかな香りに包まれる。舌には脂っぽさが消えて旨みだけが残される。イチの作るものはなんでも美味しい。この餃子ももちろんとっても美味しい。美味しいからこそ、いつもとは違う味に思わず聞いていた。
「ニンニクの代わりにシソとショウガ入れてみた」
「さっぱりしていて、とっても美味しいね」
ひょいっと箸の先を香ばしい焼き色へと向ければ、白くもっちりした皮の弾力が摘むだけで伝わってくる。これはいくらでも食べられちゃうな。
「ビールもう一本飲んじゃおうかな」
「飲み過ぎるなよ。久しぶりの休みが二日酔いで潰れるぞ」
「そんなに飲まないし、僕がお酒強いのはイチも知って……」
そこまで口にしてから、目の前のイチの顔が赤くなっていることに気づく。ふいっと逸らされた視線。何かを言いたそうにしながらも小さく噛みしめられている唇。久しぶりの休み。止められたビール。ニンニクの代わりに入れられたシソとショウガ。ちっとも素直じゃない僕の恋人……口だけは。言葉にしてくれないのに、僕にはちゃんと伝えてくる。その顔で、その態度で、全身で。そういうところが可愛すぎるから困る。
「ねえ」
「……何?」
戻ってきた視線を捕まえてとびきりの笑顔を僕はイチに向ける。
「今日、一緒にお風呂入ろうよ」
「は? なんで?」
「僕が酔っ払ってお風呂で溺れたら大変でしょ?」
「いや、お前そこまで飲んでな……」
摘んだままだった餃子をイチの口に当てて塞ぐ。
「ね? いいでしょ?」
「……」
イチの視線が僕の顔から目の前の餃子へとゆっくり動く。「いいけど」小さく落とされた言葉が消えないうちにイチは僕の箸から餃子を奪っていった。
「――イチ」
触れ合わせていた唇を少しだけ離せば、閉じられていた瞼がそっと開けられる。
「……?」
窓から流れてくる柔らかな風がイチの前髪を揺らし、温かな日差しが白く丸い額を照らし出す。
イチが動くたびにできる枕のシワすら今の僕には愛おしくてたまらない。
「愛してるよ」
見開かれた瞳に自分の顔を映しこみ、そのまま深く潜る。イチの答えを僕はもう一度溶け合わせた熱の中で受け取った。
***
テーブルにお箸を並べながら、キッチンを振り返る。
「ねえ、イチ」
「んー?」
ジューッと水がフライパンに注がれる音が響き、手早く閉じられた蓋の中に湯気が閉じ込められる。流れてきた香ばしさにくぅと僕のお腹が反応する。
「お腹空いたね」
「……誰のせいでこんな時間になったと思ってるんだよ」
壁にかけられた時計を見上げれば、針は午後九時を示していた。窓の隙間から入り込む風は冷たさを増し、夜の匂いを纏っている。
「ごめんね。でも」
麦茶のボトルを取りにキッチンへと向かえば、イチが何かを警戒するようにフライ返しを掴んだまま僕を見つめてくる。
「でも、なんだよ」
寄せられた眉。尖った口の先。僕の顔を映し続ける丸い瞳。
イチは、本当にわかっていない。その表情が僕を遠ざけるどころか近づけてしまうということを。いや、もしかしてわかってやってる?
「僕のせいだけじゃないと思うんだけど」
冷蔵庫へと向かうはずだった手がイチの肩を掴む。わずかにかけた重みにイチの体は素直にこちらへと傾いてくれる。
「イチが可愛すぎるのが悪いんだよ」
耳の奥へと直接落とすようにささやけば、イチの肌が一瞬にして赤く染まる。餃子のいい匂いにふたり分のシャンプーの香りが混ざり合う。まだ薄く湿っている頬にそっと唇で触れる。繋がった輪郭は一瞬。体温さえ溶け合えない時間。それでも同じ香りで包まれている僕らは同じだけの熱を抱えている。
「触れれば触れるほど可愛くなっていっちゃうんだもん。離してあげられなくなっちゃうよ」
「っ……」
「あ、もういいんじゃない?」
文句を言おうと構えたイチの意識を、フライパンへと向けさせる。
透明な蓋の向こうでは水分がいい感じに蒸発している。
「――お皿、出して」
「はーい」
するりと手を離せばイチがため息を落とすのが聞こえた。食器棚を開きながら視線だけを振り返らせる。そこにはあの日――僕が初めて告白した日と同じ複雑な表情をしたイチがいた。
「イチ」
「……なに?」
「好きだよ」
「……お皿」
それが返事なの? と言ってしまいそうになったけど、これ以上は僕のお腹も黙ってはいないだろう。僕は素直に差し出されていた手へとお皿を載せる。
「あ、ねえ」
「んー?」
フライ返しの先でくるりと焼き目のついた餃子がひっくり返される。
「来週、お花見行かない?」
「いいけど」
「またイチのところで和菓子たくさん買っていこうね」
焼き上がった餃子をすべてお皿に着地させると、イチが振り返った。
「もう『たくさん』はいらないだろ」
「そう?」
イチはふっと息を吐き出すように笑いながら言った。
「和菓子じゃなくても、もう『美味しい』と思えるんだろ?」
和菓子以外は何を食べても「美味しい」と思えなかった僕を、イチが変えてくれた。そのことを噛みしめながら、僕も笑う。
「うん。――早く食べよう」
今の僕には、君と過ごすこの日常が何よりも美味しい。
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