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手放せない夜に
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やってしまった、と後悔はすぐにやってきた。けれどすぐに電話をかけ直すほど素直にはなれない。というか、もう相手は出てくれない――いや、出られなくなっているだろう。
画面にはカウントの止まった通話時間が表示されている。窓の向こうは夕暮れに染まり、定時まではあと一時間といったところか。好物でも買って帰るか、とため息をついたとき。
「休憩中にすみません」
ガラスの扉が開けられた。休憩室には自分ひとり。スマートフォンをスーツの内ポケットに戻し、空になっていた紙カップをゴミ箱に捨てる。
「トラブル?」
呼びにきた部下を萎縮させず、けれど軽くもしない絶妙な声音で尋ねる。
「実は……」
内容を聞き取りながら、廊下を歩く。頭の中で取り掛かるべき事項を整理していく。優先順位、誰に何を任せ、自分は何をすべきか。思考のすべてを仕事で埋める。
思わぬ残業はよかったのか、悪かったのか。部屋で丸くなっているであろう姿を頭の隅に押しやり、目の前のことを片付けていった。
鍵を回し、白い息を溶かしながらドアを開く。人感センサーで点いたライトが玄関を明るくする。
「ただいま」
薄暗い廊下の先へと声をかけるが、返事はない。肌に触れる空気はそれほど冷たくないので、暖房はついているのだろう。そのことにホッとしつつ、出迎えに来ないことに機嫌を損ねたままなのだと思い知らされる。
――大人でいようと思った。
どうしたって自分の方が守るべき立場にいる。支える側にいる。けれど、大人でいることと、相手を子供扱いすることは違う(正確には「子供」とも違うのだけど)。わかっていても上手くできないのだから、自分は大人にさえなれてはいないのかもしれない。
「ただいま」
リビングの扉を開け、もう一度声をかける。部屋は暗く、カーテンは開けられたまま。電話で話した時のままなのだろう、と察せられた。
「おーい」
明かりをつけ、テーブルにコンビニの袋を置く。ガサ、と鳴ったのは気づいているはず。けれど姿は見えない。
「悪かったよ。謝るから出てきてくれ」
ソファにコートとカバンを放り、スーツのまま下を覗き込む。いない。コタツか? と捲るがこちらにもいない。視線を巡らす。エアコンがあるのはリビングだけだ。てっきりここにいると思ったのに。
リビングと寝室を隔てる引き戸に手をかける。音はしない。そっと静かに開ければ、ベッドが月明かりに照らされていた。ここからではまだわからない。声をかけず、明かりもつけず、ゆっくり近づく。
ベッドの端に腰掛け、枕と布団の間でゆっくりと呼吸をする小さな体に手を伸ばす。丸くなった背に沿わせるように触れれば、ピクッと耳が動いた。
「ごめんな。信用していないわけでも、嬉しくなかったわけでもないんだ」
ただどうしても心配で、と言葉を落とせば布団の隙間から「にゃ」と小さな声が返ってくる。その響きにはもう苛立ちも怒りもない。
「ありがとう。俺のこと気遣ってくれて」
――俺がご飯作っておくよ。
自分を思ってくれた言葉がとても嬉しかったのに、感謝の言葉よりも先に「やらなくていい」と言ってしまった。自分がそばにいない時に何かあったらという不安が口調を強めた。彼が普通の人間であったなら、ここまで言わなかっただろうけど。そんなの今更だ。
「なあ、お前の好きなシュークリーム買ってきたからさ。一緒に食おう?」
ピクピクっと黒い耳が揺れる。その付け根を指先で撫でながら、物でつろうとしている自分が悪い大人に思えてくる。
「まだ不安?」
心の不調がダイレクトに姿に反映されると気づいたのは、彼を拾った翌日。彼をただの猫だと思っていたから、事態を飲み込むまでにかなりの時間を要した。
彼自身、どうしてこんなことになったのかはわかっていなかった。人間に可愛がられては捨てられるのを三度経験し、もう野良でいいやと思っていたらしい。俺が拾ったのはそんなときで、何がどう作用したのかはわからないが、猫だったはずの彼は人間になっていた。けれど常に姿を保っていられるわけではなく、心が少しでも不安を感じると猫に戻ってしまう。
「……ゃ、ご、めん」
高く頼りない声が低く太い声に変わる。短い毛を撫でていた手が肌の感触を捉える。三角の耳は消え、艶やかな黒髪で覆われた頭部が動く。小さな膨らみでしかなかったのに、今はもうひと一人分の大きさがあるのだとわかる。ここまでくれば、もう大丈夫だろう。
布団を捲り、視線を合わせる。
「ただいま」
「……おかえりなさい」
触れ合った唇が同じ形と温度を伝え、小さな息が漏れる。
きっとこれからも彼が猫に戻ることを止めることはできないだろう。情けないけど、不安をすべて前もって取り除いてあげられるとは思えない。
「シュークリーム、食べる」
「うん」
それでもそばにいて欲しいというのはズルいだろうか。
「……食べるんだって」
「あとでね」
「おいっ」
両手で頬を挟まれる。が、本気で抵抗していないのは手を重ねればわかってしまう。剥がしながら指を絡めれば、むっと口に皺を寄せ、視線を揺らす。
「ズルくてごめんね」
人間の姿でいてくれる、それだけで気持ちを読み取れてしまうことも含めて。このズルさは手放せそうにない。だから
「好きだよ」
ぶわりと広がった熱の先へ、もう一度唇を落とした。
画面にはカウントの止まった通話時間が表示されている。窓の向こうは夕暮れに染まり、定時まではあと一時間といったところか。好物でも買って帰るか、とため息をついたとき。
「休憩中にすみません」
ガラスの扉が開けられた。休憩室には自分ひとり。スマートフォンをスーツの内ポケットに戻し、空になっていた紙カップをゴミ箱に捨てる。
「トラブル?」
呼びにきた部下を萎縮させず、けれど軽くもしない絶妙な声音で尋ねる。
「実は……」
内容を聞き取りながら、廊下を歩く。頭の中で取り掛かるべき事項を整理していく。優先順位、誰に何を任せ、自分は何をすべきか。思考のすべてを仕事で埋める。
思わぬ残業はよかったのか、悪かったのか。部屋で丸くなっているであろう姿を頭の隅に押しやり、目の前のことを片付けていった。
鍵を回し、白い息を溶かしながらドアを開く。人感センサーで点いたライトが玄関を明るくする。
「ただいま」
薄暗い廊下の先へと声をかけるが、返事はない。肌に触れる空気はそれほど冷たくないので、暖房はついているのだろう。そのことにホッとしつつ、出迎えに来ないことに機嫌を損ねたままなのだと思い知らされる。
――大人でいようと思った。
どうしたって自分の方が守るべき立場にいる。支える側にいる。けれど、大人でいることと、相手を子供扱いすることは違う(正確には「子供」とも違うのだけど)。わかっていても上手くできないのだから、自分は大人にさえなれてはいないのかもしれない。
「ただいま」
リビングの扉を開け、もう一度声をかける。部屋は暗く、カーテンは開けられたまま。電話で話した時のままなのだろう、と察せられた。
「おーい」
明かりをつけ、テーブルにコンビニの袋を置く。ガサ、と鳴ったのは気づいているはず。けれど姿は見えない。
「悪かったよ。謝るから出てきてくれ」
ソファにコートとカバンを放り、スーツのまま下を覗き込む。いない。コタツか? と捲るがこちらにもいない。視線を巡らす。エアコンがあるのはリビングだけだ。てっきりここにいると思ったのに。
リビングと寝室を隔てる引き戸に手をかける。音はしない。そっと静かに開ければ、ベッドが月明かりに照らされていた。ここからではまだわからない。声をかけず、明かりもつけず、ゆっくり近づく。
ベッドの端に腰掛け、枕と布団の間でゆっくりと呼吸をする小さな体に手を伸ばす。丸くなった背に沿わせるように触れれば、ピクッと耳が動いた。
「ごめんな。信用していないわけでも、嬉しくなかったわけでもないんだ」
ただどうしても心配で、と言葉を落とせば布団の隙間から「にゃ」と小さな声が返ってくる。その響きにはもう苛立ちも怒りもない。
「ありがとう。俺のこと気遣ってくれて」
――俺がご飯作っておくよ。
自分を思ってくれた言葉がとても嬉しかったのに、感謝の言葉よりも先に「やらなくていい」と言ってしまった。自分がそばにいない時に何かあったらという不安が口調を強めた。彼が普通の人間であったなら、ここまで言わなかっただろうけど。そんなの今更だ。
「なあ、お前の好きなシュークリーム買ってきたからさ。一緒に食おう?」
ピクピクっと黒い耳が揺れる。その付け根を指先で撫でながら、物でつろうとしている自分が悪い大人に思えてくる。
「まだ不安?」
心の不調がダイレクトに姿に反映されると気づいたのは、彼を拾った翌日。彼をただの猫だと思っていたから、事態を飲み込むまでにかなりの時間を要した。
彼自身、どうしてこんなことになったのかはわかっていなかった。人間に可愛がられては捨てられるのを三度経験し、もう野良でいいやと思っていたらしい。俺が拾ったのはそんなときで、何がどう作用したのかはわからないが、猫だったはずの彼は人間になっていた。けれど常に姿を保っていられるわけではなく、心が少しでも不安を感じると猫に戻ってしまう。
「……ゃ、ご、めん」
高く頼りない声が低く太い声に変わる。短い毛を撫でていた手が肌の感触を捉える。三角の耳は消え、艶やかな黒髪で覆われた頭部が動く。小さな膨らみでしかなかったのに、今はもうひと一人分の大きさがあるのだとわかる。ここまでくれば、もう大丈夫だろう。
布団を捲り、視線を合わせる。
「ただいま」
「……おかえりなさい」
触れ合った唇が同じ形と温度を伝え、小さな息が漏れる。
きっとこれからも彼が猫に戻ることを止めることはできないだろう。情けないけど、不安をすべて前もって取り除いてあげられるとは思えない。
「シュークリーム、食べる」
「うん」
それでもそばにいて欲しいというのはズルいだろうか。
「……食べるんだって」
「あとでね」
「おいっ」
両手で頬を挟まれる。が、本気で抵抗していないのは手を重ねればわかってしまう。剥がしながら指を絡めれば、むっと口に皺を寄せ、視線を揺らす。
「ズルくてごめんね」
人間の姿でいてくれる、それだけで気持ちを読み取れてしまうことも含めて。このズルさは手放せそうにない。だから
「好きだよ」
ぶわりと広がった熱の先へ、もう一度唇を落とした。
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