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春の景色を君に
しおりを挟む——彼女だけが違った。
多くの人が熱を失っていく中で、彼女だけが温度を上げている。
興味がないように装っていたはずなのに、いつからそんな目で僕を見るようになっていたのだろう。その強い眼差しにはどんな気持ちが含まれているのだろう。
——知りたい、と思った。
彼女の見ている景色を、彼女が何を考えているのかを、知りたくてたまらなかった。
破り取られたページを見つけた時、僕はそれが彼女の仕業なのだとすぐにわかった。僕の絵にこんなふうに触れられるのは、もう彼女以外にはいないはずだから。
——心がどうしようもなく震えるのを抑えることができなかった。
「久遠くん?忘れ物でも取りに来た?」
「あの、描き直してもいいですか」
「え、」
二階から降りてきた先生に、僕は言葉にすることさえもどかしくて返事を待つことなく歩き出す。
「桜の絵、どうしても描き直したくて」
「!……あぁ、構わないけど」
「ありがとうございます」
振り返ることなく、僕はその大きな窓を開けた。
ふわりと柔らかな風が冷たい温度をまとって肌に触れる。建物の中からの明かりで浮かび上がる桜の輪郭が夜の暗さに溶けている。太陽の光も、暖かな日差しもそこにはなかったけれど、僕の視界は光に満ちていた。
——忘れていた色彩が、僕にだけ見える鮮やかな景色が、蘇った瞬間だった。
自分の手が何かに引っ張られるように動き出す、その感覚の懐かしさに僕はいつのまにか泣いていた。手元のスケッチブックに小さなシミがいくつもできていたけれど、それでも僕は描くことを止められない。
——この絵を彼女に見せたい、そう強く思った。
*
——それは本当に些細な言葉だった。
「久遠くん、絵じょうずだね」
運動があまり得意ではなかった僕は教室で絵を描いていることが多かった。
積極的に外遊びをする子たちから離れて一人でスケッチブックを開く僕に先生はそう言ってくれた。その言葉は寂しさを隠し続ける僕の心に優しく触れた。そこにいてもいいのだと、そのままでいいのだと、自分を許された気がして、僕は嬉しかった。
「できた絵を見せ合いましょう」
そう言われてみんなの絵を見るのが好きだった。
「すごい」
「じょうず」
そう言ってもらえるのがたまらなく嬉しかった。
いつからか僕の席にも人が集まるようになっていた。
僕はそれが嬉しくてさらに絵を描き続けた。
——だけど、次第に周りの反応は変わっていった。
「……見せたくない」
「え」
「私は久遠くんみたいにじょうずじゃないもん」
絵を描いている僕のところに集まっていた友達が、僕が絵を描けば描くほど離れていく。それでも僕は絵を描き続けることしかできなかった。
それこそが自分の居場所の証明だったから。
僕には本当にそれしかなかったから。
——そして、いつからか気づいてしまった。
他人から見える自分は『普通』ではないのだ、と。
それを『特別』と呼ぶのか『天才』と呼ぶのか、つけられた言葉に悪意はなかったはずなのに、僕にはその意味が『化け物』と同義に感じられた。
——普通ではない、自分たちとは違う生き物。
何が違うのか、僕にはわからない。
ただ、好きで描いているだけ。
それがどうしてこんなにも周りの目を引くのか、僕にはわからなかった。
やがて、かけられる言葉の温度は変わっていった。
賛辞に混ぜられた妬みや嫉妬、隠された嫌味、意味の見えない文字で表された言葉たちがゆっくりと僕の視界を埋めていく。
僕は何かから逃げるように以前にも増して絵を描き続けた。
——そこにはもう『楽しさ』なんて、なかった。
遠巻きに羨望の眼差しを向けてくる人は、僕の異質さに恐怖の色を覗かせる。
敵意をむき出しにライバル宣言してくる人は、いつの間にかその熱量を失くして筆を折る。
媚びるようにうわべだけの言葉を並べてくる人は、どの絵を見ても同じ評価しかしてくれない。
——何を信じればいいのか、わからなかった。
中学二年の冬休みに親の転勤で引っ越すことになった。
美術部に入るつもりはなかった。学校の中だけは自分を『普通』に見て欲しかったから。それでも絵を描くことをやめられなかった僕は、学校以外の場所を求めていた。そんな時にたまたま目に止まったのが駅の掲示板に貼られていた絵画教室のポスターだった。
少し古びたビルの二階で簡単な説明を受け、同じ学校の生徒がいないことを聞き出した僕は、その日のうちに教室に通うことを決めた。
——そして、そこに彼女はいた。
取り囲んで質問を繰り返す人の中にはいない。
遠巻きに見つめてくる人の中にもいない。
彼女は僕を風景の一部にするかのように視線をそらして、自分の絵を見つめていた。
——彼女だけが、一度も僕の絵を褒めなかった。
彼女は必要以上に他人と関わろうとはしない。それは自分の作品に対しても同じだった。「自分はここまで」と自ら線を引く彼女が、「今は休憩中」と穏やかに笑ってみせる彼女が、時折見せる息苦しそうな表情に気付いた時、僕はたまらなく興味を惹かれた。熱を失っていく人ばかりだった僕の周りで、唯一、彼女だけが熱を失くしていない。ずっと静かにもがき続けている。
——その内側に隠している感情を見てみたいと、いつからか僕はそんなふうに思うようになっていた。
だから、僕は破り取られた自分のスケッチブックを見つけた時、湧き上がる興奮を抑えられなかった。僕の絵が彼女の奥に触れたのだと、そう感じてたまらなくなった。
——もっと、知りたい。
——もっと、触れてみたい。
——もっと、彼女に見て欲しい。
蘇ったのだと思っていた景色は以前に見えていたものと同じではなかった。
風景に溶け込む光は増していて、そこに映し出される自分の感情は掴みきれないほど激しく揺れ動く。追いかけても、追いかけても消えない熱がそこには確かに存在していた。
——絵を描くことが好きだった。
——絵を描くことが楽しかった。
——絵を描くことが僕の一部だった。
彼女に、何かを伝えなければ、そう思うのに適当な言葉が見つからない。僕には鮮やかさを取り戻した目の前の風景を写すことしかできない。
——これしかないのだと思った。
彼女に今の僕の気持ちを伝える方法はこれしかないのだ、と。
ページをめくるのももどかしく、抑えきれない衝動のままに僕は手を動かし続けた。
——けれど、彼女が僕の絵を見ることは、なかった。
*
——あの日から八年が経っていた。
まさかこんなふうにまた会えるとは思っていなかった。
彼女のカバンから取り出されたスケッチブックに、僕は驚くと同時に嬉しくなる。彼女の中にはまだあの頃の風景が残っているのかもしれない。
「……それ、いいんですか?」
桜の花びらが敷き詰められた地面に揃えられた水色のパンプスには土がついていた。そして、彼女が腰かけている12ロールのトイレットペーパーも、ビニールで包まれた下の部分が汚れている。
そっと視線を向けた僕に、彼女は不思議そうな表情を見せてから小さく笑った。
「?……あぁ、中身は汚れてないし、大丈夫でしょ」
「そう、ですか」
「久遠くん」
「?」
「私ね、あの絵、部屋に飾ってるんだ」
「え」
「勝手に盗んでおいて何言ってるんだって思うかもしれないけど、でも、捨てられなくてさ。破ってしまおうかと思ったのに、シワだらけになっても綺麗なままで……そんなのもう認めるしか、なかったんだよね」
「認める?」
「……うん、」
何を、とは言わなかった。
僕もそれ以上は聞かなかった。
ただ、ちらりと見えた彼女の絵が、僕はとても好きだと思った。
——そして、今度こそ僕は彼女に自分の絵を見せようと、指を動かした。
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