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その後のはなし
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――林檎買ってきて。
残業を終え、そろそろ駅に着くというタイミングでメッセージが来た。金曜日の夜、周囲はいつも以上にざわめきで満ちている。静かなところに、と思ったが、この騒がしさが会話をかき消してくれるだろう。足を止めることなく、通話ボタンをタップした。
「仕事終わった?」
一秒もかからず耳に届いた声は少しの掠れもない。
やっぱりな、とため息とともに
「風邪じゃないよな?」
と確認する。
「うん」
相手は悪びれることなくあっさりと答えた。
「林檎いるの?」
「あってもいいけど、なくてもいい」
なんだそれ、と返す前に「会いたいだけだから」と息に近い音で言われる。一瞬にして色を変えた声に鼓膜よりも奥、心臓が震える。外気温に反して顔が熱くなっていく。なんでこんなタイミングで、と明るすぎる駅構内を早足で進む。
「……寝てたら怒るから」
起きてるよ、と笑った声を閉じ込めるように通話を切った。
いつもとは反対のホームへ向かいながら発車時刻を確かめる。急行は停まらないから次の各駅停車に乗るとして、着くのは三十分後だろう。戸惑うことなく計算できてしまう自分に小さな息がこぼれた。
「林檎、ね」
――林檎買ってきて。
そう最初に送ったのは自分だった。
繁忙期を乗り越え、ようやく迎えた金曜日。二週間ぶりに会えると思ったら朝から落ち着かなくて。今日だけは残業しないで帰る、と心に決めていつも以上に仕事を片付けた。
張り切りすぎたのか、会えることに気が緩んだのか、午後になると体が熱をもっていることに気づいた。怠さと悪寒。上がり続ける体温。風邪だな、と病院に行くまでもなくわかる。定時まではギリギリなんとかなるだろうことも。
すぐに休むべきだと頭ではわかっていても、目の前にある仕事を放りだせない。今日は早く帰りたい、そう思っているのは自分だけではないはずだから。
「お疲れ様です」
周囲に悟られることなく仕事を終え、駅へと向かう。内側の熱は膨らみ続けているのに、寒くてたまらない。電車で帰ることを諦め、タクシーに乗り込んだ。
スーツの内ポケットからスマートフォンを取り出す。メッセージはなし。まだ仕事中だろうか。
――ごめん、今日無理
打ち込んだ文字を消す。
――風邪ひいたから
もう一度空欄に戻す。
この状態では話すらまともにできない。
風邪をうつしてしまうかもしれない。
会わない方がいい。今日を逃したところで、一生会えなくなるわけじゃない。二週間会えなくても大丈夫だったのだから、たった数日延びたところで変わらないだろう。
本当に変わらない、だろうか。
自分は本当に大丈夫、だったのだろうか。
重くなった頭より痛み出す胸が言葉を生む。
――会いたい。
まともに話せなくても、風邪をうつしてしまうかもしれなくても、どうしても会いたかった。迷惑かもしれない。呆れられるかもしれない。でも、きっと許してくれるのを確信している。
それでも素直に「会いたい」とは打ち込めなくて。「風邪」と送って気を遣われるのも嫌で。
ぼーっとする頭をなんとか回して出てきたのは「林檎買ってきて」だった。
鍵を差し込む前にドアが開いた。
「足音聞こえたから」
室内の明かりを背負って笑う顔に、きゅっと心臓が縮む。会えて嬉しい、と言葉にされなくても伝わってきて、視線を向けていられなくなる。
「入って。寒かっただろ」
うん、と俯いたまま答える。三和土に革靴をのせれば、背後でドアが閉まる。紐を解こうと屈むより先に伸ばされた腕に捕まる。冬の空気が一瞬で押し潰され、柔らかな熱に上書きされる。
「耳冷たいな」
寄せられた頬で耳に触れられ、確かな温度差を実感する。自分の耳が冷たいことなんて、今の今まで自覚していなかったのに。
氷が解けていくように感覚が鮮明になっていく。肌の感触。流れ込む体温。抱きしめられている腕の力。包み込む香り。会いたかったのだという自分の気持ちまで確かな形を作る。
「……あっためて」
これだけできっと伝わる。
会いたかった、も。
好き、も。
――林檎買ってきて。
あの日「会いたい」という気持ちで送った言葉が今も同じ意味で使われているのだから。
「いいよ」
耳に落とされた声が形を変える。俺も、と。
残業を終え、そろそろ駅に着くというタイミングでメッセージが来た。金曜日の夜、周囲はいつも以上にざわめきで満ちている。静かなところに、と思ったが、この騒がしさが会話をかき消してくれるだろう。足を止めることなく、通話ボタンをタップした。
「仕事終わった?」
一秒もかからず耳に届いた声は少しの掠れもない。
やっぱりな、とため息とともに
「風邪じゃないよな?」
と確認する。
「うん」
相手は悪びれることなくあっさりと答えた。
「林檎いるの?」
「あってもいいけど、なくてもいい」
なんだそれ、と返す前に「会いたいだけだから」と息に近い音で言われる。一瞬にして色を変えた声に鼓膜よりも奥、心臓が震える。外気温に反して顔が熱くなっていく。なんでこんなタイミングで、と明るすぎる駅構内を早足で進む。
「……寝てたら怒るから」
起きてるよ、と笑った声を閉じ込めるように通話を切った。
いつもとは反対のホームへ向かいながら発車時刻を確かめる。急行は停まらないから次の各駅停車に乗るとして、着くのは三十分後だろう。戸惑うことなく計算できてしまう自分に小さな息がこぼれた。
「林檎、ね」
――林檎買ってきて。
そう最初に送ったのは自分だった。
繁忙期を乗り越え、ようやく迎えた金曜日。二週間ぶりに会えると思ったら朝から落ち着かなくて。今日だけは残業しないで帰る、と心に決めていつも以上に仕事を片付けた。
張り切りすぎたのか、会えることに気が緩んだのか、午後になると体が熱をもっていることに気づいた。怠さと悪寒。上がり続ける体温。風邪だな、と病院に行くまでもなくわかる。定時まではギリギリなんとかなるだろうことも。
すぐに休むべきだと頭ではわかっていても、目の前にある仕事を放りだせない。今日は早く帰りたい、そう思っているのは自分だけではないはずだから。
「お疲れ様です」
周囲に悟られることなく仕事を終え、駅へと向かう。内側の熱は膨らみ続けているのに、寒くてたまらない。電車で帰ることを諦め、タクシーに乗り込んだ。
スーツの内ポケットからスマートフォンを取り出す。メッセージはなし。まだ仕事中だろうか。
――ごめん、今日無理
打ち込んだ文字を消す。
――風邪ひいたから
もう一度空欄に戻す。
この状態では話すらまともにできない。
風邪をうつしてしまうかもしれない。
会わない方がいい。今日を逃したところで、一生会えなくなるわけじゃない。二週間会えなくても大丈夫だったのだから、たった数日延びたところで変わらないだろう。
本当に変わらない、だろうか。
自分は本当に大丈夫、だったのだろうか。
重くなった頭より痛み出す胸が言葉を生む。
――会いたい。
まともに話せなくても、風邪をうつしてしまうかもしれなくても、どうしても会いたかった。迷惑かもしれない。呆れられるかもしれない。でも、きっと許してくれるのを確信している。
それでも素直に「会いたい」とは打ち込めなくて。「風邪」と送って気を遣われるのも嫌で。
ぼーっとする頭をなんとか回して出てきたのは「林檎買ってきて」だった。
鍵を差し込む前にドアが開いた。
「足音聞こえたから」
室内の明かりを背負って笑う顔に、きゅっと心臓が縮む。会えて嬉しい、と言葉にされなくても伝わってきて、視線を向けていられなくなる。
「入って。寒かっただろ」
うん、と俯いたまま答える。三和土に革靴をのせれば、背後でドアが閉まる。紐を解こうと屈むより先に伸ばされた腕に捕まる。冬の空気が一瞬で押し潰され、柔らかな熱に上書きされる。
「耳冷たいな」
寄せられた頬で耳に触れられ、確かな温度差を実感する。自分の耳が冷たいことなんて、今の今まで自覚していなかったのに。
氷が解けていくように感覚が鮮明になっていく。肌の感触。流れ込む体温。抱きしめられている腕の力。包み込む香り。会いたかったのだという自分の気持ちまで確かな形を作る。
「……あっためて」
これだけできっと伝わる。
会いたかった、も。
好き、も。
――林檎買ってきて。
あの日「会いたい」という気持ちで送った言葉が今も同じ意味で使われているのだから。
「いいよ」
耳に落とされた声が形を変える。俺も、と。
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