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林檎買ってきて
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――林檎買ってきて。
たった一言。会社を出てスマートフォンを確認すれば吹き出しはひとつだけだった。夜風に首を縮めながら「それだけ?」と思わず呟く。
金曜日の夜。ここしばらくは互いに仕事が忙しく、二週間ぶりにようやく会えるという日。「お疲れ様」も「待ってるよ」もなく、林檎。
酒でもつまみでも明日の朝食でもなく、林檎。
「なんで林檎?」
浮かんだ問いをそのままメッセージにして送るが返信はない。既読もつかない。「買ってきて」ということは家にはいるのだろう。会いたかった気持ちを隠してとりあえずは文句を言おうと駅への道を早足で進んだ。
インターフォンを鳴らすことなく合鍵でオートロックを解除。エレベーターで四階へ。染み付いた動きはなんの障害もなく見慣れたドアの前まで体を運んだ。
ドア横のインターフォンへと視線は向かったが、押さずに手にしていた鍵で開ける。早く暖まりたい。駅からの道ですっかり体が冷えていた。
「おじゃましまーす」
人感センサーが反応して明るくなった玄関。手首にスーパーの袋を引っ掛けたまま靴紐を解く。慣れた手つきでスリッパを取り出し、足を入れる。けれど家主は一向に姿を現さない。
「あれ?」
廊下の先、リビングに続くドアはぴったり閉じられ、明かりが見えない。留守か? と一瞬思ったが、三和土には自分の革靴よりも一回り小さい革靴が並んでいる。帰ってはいるハズ。
「おーい。まさか寝てんの?」
リビングの手前、寝室のドアを開ける。部屋は真っ暗だったが、廊下の明かりがある。ベッドには人ひとり分の膨らみ。
「……マジか」
二週間ぶりに会う恋人に労いの言葉もなく、おつかいを頼み、さらには先に寝てるとかないだろ。床にカバンと林檎の入った袋を置き、部屋の中へ進む。
おい、と声をかけようとしたところで何かを踏んだ。下を確認すればスーツのジャケットとネクタイがどこにもかけられず、床に落ちていた。なんで? 思わずベッドへ視線を向ける。ジャケットをソファにかけて怒られるのはいつも自分だ。皺になる、と文句を言いながらも自分のものと同じように扱ってくれる。間違っても床に脱ぎ捨てるような奴ではない。どんなに酔っ払っていてもしっかりハンガーにかけるのだから。
「おい、寝てんの?」
声をかけ、布団を少し捲る。
「あ、いらっ、しゃい」
ガラガラの声。半分も開かない瞼。手の甲で触れれば頬はしっかりと熱を伝えてきた。
「風邪ひいたの?」
「……うん」
「なんで言わねーの」
だから林檎だったのか。いや、わかんないだろ。
「……ごめん」
喉の痛みを容易に想像できる声に、これ以上喋らせるべきではないと思い至る。「待ってて」と片手で額にはりついていた髪をさらえば、手にはじっとりと汗が残った。
置きっぱなしの袋を持ってキッチンへ。あの様子では、家に帰ってくるまでで限界だったのだろう。何も食べてないだろうし、薬すら飲んでいないに違いない。
――林檎買ってきて。
それが精一杯だったのか。「風邪ひいた」の一言でもよかったのに。そしたらスポーツドリンクとかゼリーとか色々買ってきたのに。
ざっと水で洗い、取り出した包丁をあてる。スルスルと赤い皮が落ちていく。
「風邪、か」
そう呟いて、ふと自分が風邪をひいた時のことを思い出した。デートの日の前日に熱が上がり、これは無理だと連絡をした。「風邪ひいたから明日会えない」家に行こうか、と返ってきて嬉しかったけどうつしたくないし、何より弱っている姿を見せたくなくて断った。
「……まさか」
サクッと包丁で八等分したところで、種の部分を取り除く。水切りカゴから適当にお皿を選び、切り分けた林檎を載せる。
発見した薬と水、林檎の皿を持って部屋に戻れば、先ほどと変わらずベッドの中で丸まっていた。
「林檎、食べられる?」
「うん」
掠れた小さな声。ゆっくりとした動作で起き上がる。背中を支えれば、ワイシャツが汗を吸っているのがわかる。熱くて頼りない体。いっそうつしてくれたらいいのに、と思った。
フォーク、と彷徨った手を無視して、素手で掴んだ林檎を口元に持っていく。ちら、と一瞬視線を向けられたが、潤んだ瞳では怖くもなんともない。
シャクリ、と小さな音。ゆっくりと咀嚼され飲み込まれていく。
「なあ」
半分ほど齧られたところで口を開く。
「風邪、って言ったら来ないと思った?」
うつしたくない。弱っている姿を見られたくない。相手もそう思うだろうと想像して。俺が来ないことを選ぶのではないか、と。
止まっていた咀嚼音が再び鳴る。コクン、と喉が動いて息に近い小さな声が聞こえた。
「……ごめん」
来ないと思ったことに対するごめんか。風邪と言わなかったことに対するごめんか。約束の日に体調崩してごめんか。どれかはわからない。でも、そんなのどうだっていい。
「俺もごめん。買ってきて、って言ってくれてよかった」
こんな状態になっているのに、そばにいられなかったら恋人である意味がない。弱っているからこそ頼りたいと思ってもらえてよかった。
「ずっといるから安心して寝てな」
そっと頬を撫で、その熱をわずかに分けてもらう。
「うん、ありがとう」
次は自分も言ってみよう。
林檎買ってきて、と。
たった一言。会社を出てスマートフォンを確認すれば吹き出しはひとつだけだった。夜風に首を縮めながら「それだけ?」と思わず呟く。
金曜日の夜。ここしばらくは互いに仕事が忙しく、二週間ぶりにようやく会えるという日。「お疲れ様」も「待ってるよ」もなく、林檎。
酒でもつまみでも明日の朝食でもなく、林檎。
「なんで林檎?」
浮かんだ問いをそのままメッセージにして送るが返信はない。既読もつかない。「買ってきて」ということは家にはいるのだろう。会いたかった気持ちを隠してとりあえずは文句を言おうと駅への道を早足で進んだ。
インターフォンを鳴らすことなく合鍵でオートロックを解除。エレベーターで四階へ。染み付いた動きはなんの障害もなく見慣れたドアの前まで体を運んだ。
ドア横のインターフォンへと視線は向かったが、押さずに手にしていた鍵で開ける。早く暖まりたい。駅からの道ですっかり体が冷えていた。
「おじゃましまーす」
人感センサーが反応して明るくなった玄関。手首にスーパーの袋を引っ掛けたまま靴紐を解く。慣れた手つきでスリッパを取り出し、足を入れる。けれど家主は一向に姿を現さない。
「あれ?」
廊下の先、リビングに続くドアはぴったり閉じられ、明かりが見えない。留守か? と一瞬思ったが、三和土には自分の革靴よりも一回り小さい革靴が並んでいる。帰ってはいるハズ。
「おーい。まさか寝てんの?」
リビングの手前、寝室のドアを開ける。部屋は真っ暗だったが、廊下の明かりがある。ベッドには人ひとり分の膨らみ。
「……マジか」
二週間ぶりに会う恋人に労いの言葉もなく、おつかいを頼み、さらには先に寝てるとかないだろ。床にカバンと林檎の入った袋を置き、部屋の中へ進む。
おい、と声をかけようとしたところで何かを踏んだ。下を確認すればスーツのジャケットとネクタイがどこにもかけられず、床に落ちていた。なんで? 思わずベッドへ視線を向ける。ジャケットをソファにかけて怒られるのはいつも自分だ。皺になる、と文句を言いながらも自分のものと同じように扱ってくれる。間違っても床に脱ぎ捨てるような奴ではない。どんなに酔っ払っていてもしっかりハンガーにかけるのだから。
「おい、寝てんの?」
声をかけ、布団を少し捲る。
「あ、いらっ、しゃい」
ガラガラの声。半分も開かない瞼。手の甲で触れれば頬はしっかりと熱を伝えてきた。
「風邪ひいたの?」
「……うん」
「なんで言わねーの」
だから林檎だったのか。いや、わかんないだろ。
「……ごめん」
喉の痛みを容易に想像できる声に、これ以上喋らせるべきではないと思い至る。「待ってて」と片手で額にはりついていた髪をさらえば、手にはじっとりと汗が残った。
置きっぱなしの袋を持ってキッチンへ。あの様子では、家に帰ってくるまでで限界だったのだろう。何も食べてないだろうし、薬すら飲んでいないに違いない。
――林檎買ってきて。
それが精一杯だったのか。「風邪ひいた」の一言でもよかったのに。そしたらスポーツドリンクとかゼリーとか色々買ってきたのに。
ざっと水で洗い、取り出した包丁をあてる。スルスルと赤い皮が落ちていく。
「風邪、か」
そう呟いて、ふと自分が風邪をひいた時のことを思い出した。デートの日の前日に熱が上がり、これは無理だと連絡をした。「風邪ひいたから明日会えない」家に行こうか、と返ってきて嬉しかったけどうつしたくないし、何より弱っている姿を見せたくなくて断った。
「……まさか」
サクッと包丁で八等分したところで、種の部分を取り除く。水切りカゴから適当にお皿を選び、切り分けた林檎を載せる。
発見した薬と水、林檎の皿を持って部屋に戻れば、先ほどと変わらずベッドの中で丸まっていた。
「林檎、食べられる?」
「うん」
掠れた小さな声。ゆっくりとした動作で起き上がる。背中を支えれば、ワイシャツが汗を吸っているのがわかる。熱くて頼りない体。いっそうつしてくれたらいいのに、と思った。
フォーク、と彷徨った手を無視して、素手で掴んだ林檎を口元に持っていく。ちら、と一瞬視線を向けられたが、潤んだ瞳では怖くもなんともない。
シャクリ、と小さな音。ゆっくりと咀嚼され飲み込まれていく。
「なあ」
半分ほど齧られたところで口を開く。
「風邪、って言ったら来ないと思った?」
うつしたくない。弱っている姿を見られたくない。相手もそう思うだろうと想像して。俺が来ないことを選ぶのではないか、と。
止まっていた咀嚼音が再び鳴る。コクン、と喉が動いて息に近い小さな声が聞こえた。
「……ごめん」
来ないと思ったことに対するごめんか。風邪と言わなかったことに対するごめんか。約束の日に体調崩してごめんか。どれかはわからない。でも、そんなのどうだっていい。
「俺もごめん。買ってきて、って言ってくれてよかった」
こんな状態になっているのに、そばにいられなかったら恋人である意味がない。弱っているからこそ頼りたいと思ってもらえてよかった。
「ずっといるから安心して寝てな」
そっと頬を撫で、その熱をわずかに分けてもらう。
「うん、ありがとう」
次は自分も言ってみよう。
林檎買ってきて、と。
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