見えない君と春の先

hamapito

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7.百瀬の告白

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 タクシーが停車しても、百瀬は寝ていた。クレジットカードを抜き取った運転手は「えっと」と俺と百瀬を交互に見る。笑顔は保たれているが、吹き出しにはしっかりと文字が並ぶ。
 ――一緒に降りてほしいな。
 ですよね。心の中で答えて、カードを受け取る。強引にタクシー乗り場へと連れていったくせに、乗り込んだ瞬間、百瀬は住所を告げることなく寝てしまった。
「百瀬。起きろ」
「……んー」
「着いたから。降りて」
 強く肩を揺さぶり、夢に半分沈む百瀬を車外へ連れ出す。自力で立とうという気持ちはあるのか、座り込むことはないが、力が入っていない。肩にかかる腕は重く、何より歩きづらい。はあ、と夢の中まで届けと念じながら盛大にため息をつく。
「まだ寝るなよ」
「うー……い」
 だいぶ怪しいが、完全に落ちているわけでもない。ゆっくり歩いてはくれる。どうにかドアの前までたどり着き、鍵を差し込む。木崎以外の誰かを泊めるのは初めてかもしれないと気づき、指が少しだけ強張る。
「つ、しま、さん?」
 半分以上瞼を閉じた百瀬が、ドアに寄りかかった。このまま座り込まれたら、部屋に入れなくなる。
「寝るなって」
 急いで鍵を回し、百瀬を引き剥がすと同時にドアを開け、明るくなった玄関に放り込む。瞬間、キーケースが百瀬の袖に引っかかった。
 あ、と声を零すより早く、硬い感触が指からすり抜ける。三和土の上で高い金属音が響く……はずだった。
「――百瀬?」
 半分寝ていたとは思えない素早さで大きな手が鍵を受け止めていた。咄嗟の反応にしてはあまりにも淀みがない。だから、確信する。吹き出しなんて見なくてもわかる。
「お前、酔ってないだろ」
「あー、えっと……酔ってなくはないんですけど、そこまでではなくて……」
 すみません、と気まずさよりも気恥ずかしそうに笑う。邪推したくなるような表情とは程遠い、柔らかな笑顔だった。はあ、とため息を落とし、キーケースを返してもらう。
「上がれば」
 先に靴を脱ぐと、百瀬はもう一度「すみません」と口にしてから「おじゃまします」と言った。小さな声ではあったが、そういうことを忘れない百瀬にふっと心が緩む。
「スリッパ、これ使って」
「ありがとうございます」
 ――騙すようなことしたのに怒らないんだ。
 百瀬の心を読んだ俺は、もう一度ため息を吐く。後ろから抱きつかれたときは恐怖が掠めた。部屋に連れてくるのも気が進まなかった。けれど、騙されたことにはそれほど怒りが湧かない。百瀬は酔ったふりはしても、嘘はつかなかった。心を偽る言葉を口にしなかった。百瀬はどこか――昔の木崎に似ている気がした。
 マグカップを二つローテーブルに置く。
「ありがとうございます」
 クッションを抱えた百瀬が、ベッドを背にする。大きな体がいつもより小さく見える。
 隣ではなく直角になる位置に座り、マグカップを手に取れば、コーヒーの香りが湯気とともに浮かぶ。深夜と言える時間帯に飲むものではないが、話をするにはいいだろう。
「何か話したいことあるんじゃないの」
「あ、はい。えっと」
 わざわざ家まで押しかけた(持ち帰らせた?)くせに、どう話すかはまとまっていないようだ。「酔ってなくはない」という言葉は本当なのだろう。
「ゆっくりでいいよ。ちゃんと聞くから」
「すみません。津島さんとずっと話してみたくて」
「いつも話してるじゃん」
 百瀬は曖昧な笑みを見せる。俯きがちな横顔とは目が合わない。
「最初は木崎課長かなって思ったんですよね」
 唐突に木崎の名前が出てきて、心臓が跳ねた。手元で黒い水面が揺れる。
「……なにが?」
「好きなひとです」
 好きなひと、って誰の? 跳ねた心臓は鎮まることなく不穏に音を鳴らす。
「木崎課長は格好いいし、憧れるけど、でも、特定のひとは絶対に作らないって聞くし」
 百瀬の腕の中、クッションが苦しそうに皺を寄せる。
「どうしてかなって気になって聞いたことあるんですけど、『不幸にするのわかってて、作るわけにいかないだろ』って笑って言われました」
 不幸にする。その意味を考える前に、百瀬が視線を向けてくる。浮かんだ吹き出しが視界に入り込む。
 ――俺の方がずっといいのに。
 真剣な眼差しに喉は詰まり、言葉を挟む隙を見つけられない。
「そんなひとわざわざ選ばなくてもいいじゃないかって、思って」
 ――ずっと想ってきたのに。どうして……。
 泣き出す前のように顔を歪めた百瀬が、一息に吐き出す。
「だから木崎課長じゃないってわかってホッとしたけど。でも、相手が津島さんじゃ、敵うわけないじゃないですか」
 聞こえた言葉の意味が理解できず、頭上へと視線を向ける。けれど、並んだ文字はますます俺を混乱させた。
 ――どうして、あかねちゃんは津島さんが好きなんだろう。
「……百瀬」
「はい」
「あかねちゃん、って誰?」
「え、だから、あかねちゃんです。総務の。佐藤あかねちゃん」
「佐藤、さん?」
「そうです」
 どうしてここで佐藤さんの名前が出てくるのか。酔いはとっくに醒めているはずだが、理解がちっとも追いつかない。構わず百瀬は吐き出し続ける。
「ずっと好きだったんです。津島さんと会う前からずっと。あかねちゃんにとっては、弟みたいなものだと思うけど。ずっと好きで……それなのに会社では話しかけてくれなくて。四月になってからはこっちの島でもよく見かけるようになったから、自分から話しかけてみようって思ったのに……あかねちゃんはいつも自分じゃない誰かを探してて」
 一度伏せられた瞼が、ゆっくり上がる。百瀬がまっすぐ俺を見る。
「津島さんは、あかねちゃんのこと、どう思ってるんですか」
 百瀬はこれを聞くために来たのだろう。
 
 ベッドの隣、ローテーブルを端に寄せて作ったスペースからは規則正しい寝息が聞こえる。俺の話を聞いて安心したのか、百瀬は大きな体を器用に丸めて寝ていた。コーヒーを一気飲みしたとは思えないほどぐっすりと。こっちは寝つけそうにないというのに。
「……紛らわしいんだよ」
 眠る後輩に文句を言っても、夢の中から出てくる気配はない。
 ――どうして、津島さんが好きなんだろう。
 一度読んだ心は正確ではなかった。『あかねちゃんは』という主語が抜けていた。
 口にされた言葉しか聞き取れないのと同じで、言葉にされた感情しか読めないということだろうか。俺が今まで見てきた心は一部でしかなく、本当はもっと多くのことが隠れていたのだろうか。
 ざわつく胸を押さえ、壁側へと体を向ける。
 見えるのだからいいと思った。心が見えるのだから聞く必要なんてないと。でも今は、本当にそれでよかったのかと疑問が膨らむ。
 ――朝陽ならわかってくれる。
 あの日の言葉にも見えていなかった意味があったとしたら。木崎が一度も「朝陽は?」と聞かなかったことにも理由があったとしたら。俺は……。
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