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(9)星空の下
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帰りの車の中から違和感はすでにあった。
「あ、あのさ」
帰ったら……と言ったものの、ふたりの時の方がいいだろうと俺が口を開けば、
「あ、ちょっと待って」
とめずらしく朝見が言葉を遮る。
しばらくしてもう一度話しかければ、
「ごめん。ちゃんと遼平の顔見たいからもう少し待って」
とまたしても止められる。
視線だけをちらりとこちらに向け、朝見はすぐに正面に向き直る。運転しているのは学校から家までのいつもの道で、普段なら朝見の方から話しかけてくる。それなのに今日に限って俺の言葉は止められ、朝見からは話しかけてくる気配もない。
――なんで?
押し出すはずだった言葉を喉に引っ掛け、落ち着かない心地を胸に抱える。
――ようやく伝えられると思ったのに。
向かい合って言うよりも、運転に集中してくれているときの方がいいのだけど。伝えたいのはたった一言だ。これまでに膨らんだ想いはいろいろあるけれど、言葉として伝えられるのはそれだけ。それだけだから……。
景色は刻々とその色を変えていく。太陽は山の向こうに沈んでしまっていたが、空は夜に染まりきってはいない。ゆっくりと青が濃くなっていく静かな時間。残された陽射しが優しく朝見の横顔を照らす。光の線で描かれる輪郭。緩い風になびく柔らかな髪。白い肌に落ちるのはサングラスの影。なんてことのない田舎道を走っているだけなのに、そこだけ切り取られたみたいに輝いて見える。まるで映画のワンシーン。その美しさが現実感を奪っていく。
ふっと、サングラスの隙間から目尻を下げられ、笑われたのだとわかった。同時に自分がずっと見つめていたことにも気づく。何か言われる前にと、顔を窓の向こうへと背ける。――どうしたの? くらい言ってくるかと思ったけれど。朝見は何も言わず、そっと小さく空気を震わせただけだった。声にならないくらいの振動で微笑んでいるのが隣から伝わってくる。
「……なに?」
流れる景色を視界に入れ、振り向くことなく尋ねる。
「ううん、何でもないよ」
朝見の柔らかな声がなぜかいつもより甘く聞こえた気がして、俺は家に着くまで窓から視線を戻せなかった。
結局、車が家に着いてからも朝見は「あとでね」と小さく笑って俺の言葉を塞いだ。
――一体なんなのだ?
言おうと決めた言葉を何度も押し戻され俺の中には怒りにも似た気持ちが生まれる。もやもやとした心地の悪さを抱えたまま、すでに食卓に着いていた朝見の隣に座る。もう一生言ってやらなくてもいいか、と手にしたグラスを傾けたときだった。
朝見は隣に座った俺ではなく、正面に座る両親に向かって言った。
「あとで少し遼平とドライブに行ってきてもいいですか?」
突然の朝見の言葉に喉へと向かうはずの麦茶が口の中で跳ね返る。
「っ、んん、……な」
「あら素敵ね。せっかくだから高台の方まで行ってきたら? 星がよく見えるわよ」
母さんにおすすめスポットまで教えられ「行ってみます。ありがとうございます」と朝見が微笑み返す。ニコニコと笑顔を交し合うふたりの間でテーブルにグラスを戻しながら口を開く。
「あのさ、なに勝手に」
「遼平は行ったことあるの?」
くるりと向けられた顔には、今まさに春を迎えましたとばかりに笑顔が咲いている。現実の季節はとっくに夏だけど。
「……ないけど」
ここに越してきて四か月。走高跳を辞めてからは、積極的に何かを知ろうという気持ちを持てなかった。新しい場所に馴染むつもりもなく、ただ穏やかに過ぎていけばいいのだと思って過ごしてきた。春休みの間は引っ越しの片づけを。学校が始まってからは学校と家との往復を。休日にどこか遊びに行こうと誘い合うほどの人付き合いさえしてこなかった。
「そっか。じゃあ、僕と行くのが初めてになるね」
「まあ」
それは間違いではない。――ないが、なんでそんなに嬉しそうなんだ?
「ふふ、嬉しいな」
表情どころか声にまで出している。
別にそれくらい……と思ったところで気づく。自分がドライブに行くことを了承してしまっているという事実に。
「じゃあ、そのときに話聞くね」
謀られた気がしなくもないが(そもそも俺ではなく両親に話をするのがズルい)、自分から話すと言った手前、断ることもできず「ん」と小さく頷き返した。
お風呂上がりの体に風が心地よく触れていく。いってきます、と閉めたばかりの扉を振り返る。母さんは俺たちを玄関まで送るといつのまに準備したのか、虫よけスプレーとお茶のペットボトルを二本手渡してくれた。「アイスもいる? あ、お菓子の方がいいかしら」と放っておいたら大荷物になりかねない勢いだったので「ちょっと出るだけだから! いってきます」と俺は急いで外に飛び出した。
「遠足じゃあるまいし」
「ふふ、今度はみんなで行こうか?」
「え、いや、そこまでは……っ」
朝見を母さんのところに残してきたら意味がないと、咄嗟に掴んでしまっていた腕を慌てて離す。
「離さなくてもいいのに」
さらりと放たれた言葉が夜の空気を震わせる。家から漏れ出る明かりと道路に並ぶ外灯のぼやけた光しかない空間。
それでも小さく笑う朝見の表情だけはなぜかわかってしまって、
「……虫よけ、するから」
と返すのがやっとだった。
シューッと中身が噴射される音とともにツンとした匂いが辺りに広がっていく。
「朝見は?」
「僕は大丈夫。あんまり刺されないんだよね」
「へえ、意外」
「そう?」
「虫って明るいところに集まるから……」
――しまった。と思った時には言葉は音を纏って飛び出したあとだった。
「遼平がそんなふうに思ってくれていたなんて、僕……」
ジャリ、と朝見の靴底で砂が音を立てる。まっすぐ視線を合わせたまま朝見の体が一歩近づく。
「いや、べつに……あ」
踏み出された距離の分だけ足を引くと、自然と広がった視界に息が止まった。
「遼平?」
視線が合っていないことに気づいた朝見が後ろを振り返る。
「ふふ、綺麗だね」
そっと息を吐き出すように零された言葉に「うん」と頷くことしかできない。真上を向かなくてもすでに数えきれないほどの星で空は覆われていた。
「……」
声にならない息が自然と漏れる。言葉にはできなかった。こんな景色がこんなにも身近にあったなんて。今までずっと気づかずにいたなんて。
「行こうか」
目の前に広がる景色に圧倒され、完全に空へと意識を持っていかれた俺は朝見に促されるまま歩き出す。
「上ばかり見ていたら危ないよ」
「うん」
「これよりすごいってどんなだろうね」
「うん」
自然の美しさに圧倒された俺が、手を繋がれていたことに気づいたのは、車の前にたどり着いてからだった。
「え、なんで握ってんの」
「遼平が転ばないように」
「子供じゃないんだけど」
ため息とともに振り払おうとした手を朝見はさらに強く握ってきた。
「え」
驚き見上げた俺にふわりと目尻を下げると、朝見はすぐに手を離した。
「さあ乗って」
「う、うん」
開けられた助手席のドアへと視線を向け、小さく頷く。トクトクと速まっていく鼓動が耳の内側で音を鳴らす。座り慣れたシートに腰を下ろせば、薄まっていた虫よけスプレーの匂いが一瞬にして甘く柔らかな香りへと塗り替えられた。
――そういえば、ここに来てから夜に出掛けるのも初めてかもしれない。
繰り返される日常とは違う、いつもとは違う夜の空気に自然と手に力が入る。離される直前に加えられた力は、俺の中に小さな熱を残していた。
ナビに従うこと十分。もともと車の通りが少ないのもあって最初に提示された到着予定時刻より五分ほど早く着いた。ドアを開けた瞬間、気温が大きく変わってしまっていることに気づく。先ほどまで涼しいとしか思っていなかった風が、今はとても冷たい。
「さっむ」
Tシャツ一枚ではちょっと厳しいかも。上着持ってくるべきだったか、と思ったところにふわりと朝見の香りが濃くなった。ビクリと跳ねさせた肩に朝見の両手が置かれる。二の腕を掴んでいた手には布地の感触。
「少し冷えるね。これ着ておいて」
かけられたのは薄手のシャツだった。先ほどまで朝見が着ていたものだ。朝見の白い腕が露になる。細くしなやかな腕は夜の中にあっても光を纏っているかのように輝いて見える。
「いや、でも」
「いいから。遼平が風邪を引いたら大変だから」
「でも……っ」
前から吹き付けた風のあまりの冷たさに思わず首をすくめる。
「朝見は? 寒くないの?」
揺り戻された風の中、縮こまる俺とは反対に朝見はその空気を深く吸い込んでいる。
「うん。遼平といると嬉しくて自然と温かくなっちゃうから」
「――あっそ」
「少し歩こうか」
振り返るように朝見が視線を向けた先、緩やかな傾斜を越えたところ、展望スペースらしき場所にベンチが置かれている。あそこから見渡したならきっと今以上に広い空が見えるのだろう。わざわざ車で来たのだ。これくらいの寒さでせっかくの景色を見ずに帰るのは勿体ないだろう。
「うん」
「じゃあ、はい」
頷いたと同時になぜか手を差し出される。
「なにこの手?」
「なにってこの方が温かいだろう?」
「……」
一体何を言っているのだと眉根を寄せれば、朝見はきゅっと寂しそうに肩を落とす。
ちらりとこちらに視線を向け、
「遼平は僕に手の熱も分けてくれないの?」
――僕はシャツを貸したのに? とその表情と声で訴えてきた。
シャツは自分からかけてきたんだろうが、と思わなくはなかったが、この気温の中で今さら返すこともできないと観念する。手くらい幼稚園児でも繋ぐし。今までだって繋いできたのだからなんてことないはずだ。――自分から意識して繋いだことがなかっただけで。
「つ、繋げばいいんだろ」
「うん」
声を弾ませた朝見がいつもより少しだけ照れたように見えたのは、きっと気のせいだ。明かりなんて真上の星しかないのだから。
見上げなくても視界は星空で埋まった。
ベンチから伝わる固い感触は一瞬で忘れてしまった。風が吹くたびに木々が音を立て、夏の夜の匂いに甘く柔らかな香りが溶け合う。繋いだままの手は汗を纏う前に朝見の体温に包み込まれる。吸い込んだ空気の冷たさに体を縮めれば自然と隣の熱が触れてくる。怖いくらいに美しい景色とおそろしいほどの心地よさ。
静まり返る夜の空気とは反対に、体に響く心臓の音は大きくなっていく。
目の前の景色を見に来たはずなのに。顔は正面を向いているのに。意識だけは触れ合っている隣へと向いてしまう。そっと視線だけを横へと動かせば、その美しさこそがこの景色を作っているのだとわかる。言葉を漏らすことさえ憚られ、この瞬間を壊したくないと思わずにはいられなくなる。
ふっと空気が揺れ、視線に気づいた朝見が音もなく微笑む。
ただ笑った、それだけ。
言葉もなく、名前を呼ばれたわけでもない。それなのにトクトクと心臓はさらに走り出す。冷たい風が鼻先に触れてツンと痛みだし、美しかった景色はぼやけていく。泣きたいことなんかひとつもない。胸が痛むことなんかひとつもない。それなのに胸の奥から沸き立つように生まれた熱が体の先まで広がっていき、止まってくれない。降り出しそうなほどの星の下にいても、隣にいる朝見の存在を意識せずにはいられない。
「遼平?」
優しい声が触れ、星明りしかないのに輝き続ける瞳がそっと細められる。
その瞬間――言葉は勝手に滑り落ちた。
「……そ、ら?」
どこから降ってきたのかもわからないうちに、音は唇の上を転がり、空気に触れた途端に弾け、鼓膜を外から震わす。そのたった二音がなぜだかひどく懐かしく感じられ、どこかで会ったような気がして、胸の奥が痛くなった。
「遼平……」
「あ、いや」
なんでもない、と言いかけたところで繋いでいた手にきゅっと力が加えられた。
「思い出してくれたんだね」
「え」
――思い出す?
風が肌を撫でていく。朝見の柔らかな髪が揺れ、静かな空気の中に甘い香りが広がっていく。昼間の光を閉じ込めた双眸から視線を逸らすことはもうできない。どんな言葉を続けていいのかもわからない。手から上っていく熱に思考が奪われ、沈黙だけが辺りを包み込む。
「ふふ、遼平から言ってくれるんじゃなかったの?」
柔らかく発せられた朝見の言葉に、ここに来た目的を、言いたかった言葉があったことを思い出す。
「え、あ、えっと」
――ありがとう。朝見がいてよかった。
それだけを伝えるつもりだった。朝見にずっと言えなかった「お礼」を伝えたかった、それだけだった――のに。
吸い込まれそうなほどにまっすぐ見つめられ、胸の中はどんどん落ち着かなくなる。落ち着かない心地には覚えがあったが、朝見が帰ってこなかった、あの体育祭のときに感じていたものとは違う。それとは違う、別の何かが広がっていく。――と同時に、帰りの車の中から覚えていた違和感が蘇る。
向けられたふたつの空が求めているのは、朝見が欲しているのはこんな言葉ではないのではないか? 朝見が期待しているのは、待っているのは「お礼」なんかじゃなくて……。
「……り」
「やっぱり僕から言おうか?」
舌が作り出した音は飛び出すと同時に、ふわりと弾んだ声に掻き消された。ふふ、と小さな息を吐き出すように笑った朝見は細めていた瞳を夜の光で煌めかせて言った。
「その代わり、僕が言ったら遼平もちゃんと言ってね」
「う……ん? ちょっと待って」
頷きかけた首を途中で戻す。朝見の『ちゃんと言ってね』が指す言葉が俺と同じでなかったら?
そしたら、俺は――。
「うん?」
いつも以上に甘く柔らかな表情。薄く頬が赤くなって見えるのは気のせいだろうか?
昼間の空に映る星はどこか幻想的で、それだけで引き込まれてしまいそうになる。
「遼平」
何度も呼ばれてきたはずの自分の名前。何度も聞いた朝見の声。それなのに、今だけは違う。
風が止まる。音が消える。静かな夜の闇に紛れることなく、まっすぐ胸の奥まで落ちてくる。そっと触れて、内側から震わせる。
もう逸らせない。
真上に広がる星空よりもその瞳に強く吸い込まれる。
「僕の」
ブー、ブー、ブー……。
突如鳴り響いたスマートフォンの振動音に、張りつめていた糸は切られ、繋がっていた視線は解けた。
「ごめん、ちょっと待って」
ポケットから取り出した画面には鷹人の名前が表示されていた。
鷹人の電話をとらないという選択肢は俺にはない。力の緩まった朝見の手から自分の手を引き抜く。肌に残っていた熱が空気に散らばり消えていく。そのカケラを捕まえておくことはできず、震え続けるスマートフォンの画面へと指を伸ばした。
「もしもし? 鷹人?」
タップと同時に耳へと持っていく。
「……っ、りょう、へい……」
――泣いてる?
聞こえた鷹人の声は震えていた。絞り出すように呼ばれた自分の名前に、言いようのない不安が体を駆け巡る。こんなにも頼りなく消えそうな鷹人の声を聞いたのは初めてだった。
「鷹人? どうした?」
「……っ」
漏れ聞こえるのは声と言うよりも息に近い音だった。唇を噛みしめる様子が頭に浮かび、鷹人が言葉にするのを躊躇っているのが痛いほど伝わってくる。
何か言いたいことがあったから、伝えたいことがあったから、聞いてほしいことがあったから、だから――かけてきたんじゃないのか?
「鷹人?」
「……」
聞こえるのはわずかな息遣いだけで、向こうの音は不思議なほど何も伝わってこない。
「……」
鷹人が切らないでいてくれるのならいくらでも待つつもりだった。言葉にできるまでどれだけでも待つつもりだった。
「……」
話し出すその瞬間を決して取り零すことのないように、耳に神経を集中させる。呼びかけることはしなかった。言葉をかけなくても繋がっていることはわかるから。
「……」
スマートフォンを握る手が冷たくなっていく。止まっていた風が動き出し、体温を奪いにくる。寒さに肩を縮めたその瞬間、届いた声は耳元ではなく隣から発せられたものだった。
「遼平。ここは冷えるから一度車に戻ろう」
「え、あ、でも」
静かに立ち上がった朝見は戸惑う俺の手首を掴み、そのまま引き上げる。前につんのめる形で立ち上がった体を抱きとめられ「こんなに冷たくなって」と温かな息をかけられる。
「っ……」
寒気ではない震えが全身を駆け上がり、とっさに触れていた体を引き離す。バクバクと大きな音を立て始めた心臓から熱が体中に送られていき、振り解けなかった手から流れてくる朝見の体温と混ざり合う。
ぶつけるように繋がった視線の先、映りこむ自分の顔は夜の闇でよく見えない。見えないけれど、わかってしまうのは明らかに赤いだろうということ。
「――ごめん」
静かに落とされた言葉が耳の入口で響き、画面へと顔を向ける。
「鷹人? もしもし?」
「ごめん……やっぱ、いいや」
ようやく聞こえた鷹人の声に安堵するとともに、先ほどとは明らかに違うトーンに胸がざわつく。
「え?」
「急に電話してごめんな」
「え? 鷹人?」
「ごめん、またかけるな」
「え、ちょっと待っ」
木々を揺らした風が唸りを上げると同時に音は途切れた。思わず閉じてしまっていた目を開くと手元の画面は見慣れた待ち受け画像に戻っていた。
「遼平?」
俺の体を守るように立っていた朝見が顔を覗き込んできたが、頭は鷹人のことでいっぱいだった。
あんなの鷹人じゃない。突然変わってしまった空気も、変に明るい声も違和感しかなかった。表面を固めただけで、中身は何も入っていない――まるで空っぽ。
「……いい、ってなんだよ」
耳の奥に残る鷹人の言葉を反芻させた俺は、これ以上鷹人のカケラを落とさないようにと強く唇を噛みしめる。
家へと戻る車の中、電話をかけ続ける俺に朝見は何も言わなかった。不安げに画面を握り締めることしかできない俺に、朝見はただの一度も「大丈夫だよ」と言ってはくれなかった。
晴れない不安を抱えたまま終業式を終え、スマートフォンを確認してみるが鷹人からの着信はなく、昨夜送ったメッセージも未読のままだった。鷹人が電話に出てくれないということも、メッセージを読んですらくれないのも初めてで、俺はどうすればいいのかわからなくなる。
直接会いに行くべきなのか、行かない方がいいのか。連絡を取り続けるべきなのか、来るのを待つべきなのか。どうするのが正解で、どうすれば鷹人とまた話せるようになるのかがわからない。わからないから、決められた流れに身を任せることしかできなかった。
こんな状態で跳べるのかはわからないけれど、部活を休んだところで自分がすべきことの答えを見つけられるとも思えなかった。
「瀬永!」
部室の扉へと手を伸ばしたところで、後ろから声をかけられる。
振り返ると平井が戸惑うような表情のまま「これ」とスマートフォンの画面を見せてきた。寝不足の頭がゆっくりと動き出す。並んだ文字が言葉として入ってきたその瞬間、俺は平井の手からスポーツニュースを表示し続けるそれを奪い取っていた。
「なあ、これって瀬永の友達じゃなかった?」
遠慮がちにかけられた声も俺の耳にはもう届かない。目の前に提示された事実を理解することも、受け止めることもできない。言葉ひとつ形にはならず、息苦しさだけが広がっていく。
――錦高校陸上部 小林鷹人 練習中の故障によりインターハイ出場を断念
「このタイミングで故障ってきついよな」
平井が息を吐き出しながら落とした言葉に、ドクンと心臓が跳ね上がる。
そうだ。インターハイ本番は二週間後だ。
――鷹人は、あいつは今、どうしてる?
「……ごめん。俺、今日の部活休むわ」
「え?」
持っていたスマートフォンを平井の手に押し付けるように返し、そのまま顔を見ることなく駆け出す。
「え、ちょっと、瀬永―?」
驚き戸惑う平井の声が背中で響いていたけれど、振り返ることはもうできなかった。
――っ、りょう、へい……。
昨夜の鷹人の声が耳の奥で蘇る。あんなの初めてだった。鷹人はいつでも笑っていて、落ち込んでるやつがいたら放っておけなくて。明るくて頼りになって、誰よりも跳ぶことが好きで。走高跳が大好きで。
――やっぱ、いいや。
「いいわけないだろっ……」
噛みしめた唇から漏れたつぶやきはそのまま風に溶けていく。
「どこに行くの?」
グラウンドの前を通り過ぎ、校門へと向かう途中で静かな声が響いた。
腕を掴まれたわけではなかったが、聞き慣れたその声に足は自然と止まっていた。
「これから部活だよね?」
グラウンドへと続く階段の前に立っていた朝見が、一歩ずつこちらへと向かってくる。
「どうしてまだ着替えてもいないの?」
――いつもは温かく感じられるその声が。
風に揺れる木々の音も鳴き続ける蝉の声も遠くなっていく。
「遼平?」
――いつもは柔らかく聞こえるその声が。
夏特有の湿った空気も上がり続ける気温も遠ざかっていく。
「どこに行こうとしていたの?」
――今だけはとても冷たく感じた。
細められた瞳の奥、光しか見えないはずのその場所にいつもとは違う空が見え、ビクリと体が震える。そんな色が、そんな熱が、朝見にもあったなんて知らなかった。
それでも――ここで立ち止まることはできない。
「……ごめん」
静かに、ゆっくりと、朝見の顔から笑みが消えていく。俺はそれに気づきながらも言葉を重ねる。今、優先すべきなのは俺のことでも、朝見のことでもない。
「鷹人のところに行ってくる。あいつ故障したらしくて。それでインターハイも出られないって。そんなの放っておけないから」
今一番考えなくてはいけないのは、親友の、鷹人のことだから。
「遼平が行っても治るわけじゃないよね?」
まっすぐ見つめ返した視線の先、落とされたのは一瞬何を言われたのかわからなくなるほどに冷たい言葉だった。
「え」
「今、遼平がやるべきことは鷹人くんに会いに行くことじゃないよ」
何を言っているのか、何を言われているのかすぐには理解できなかった。
――目の前にいるのは本当に朝見なのか?
その存在すら疑いたくなるほどに纏っている空気は別物だった。優しく穏やかな色を取り戻した瞳は変わらないのに。薄い唇から聞こえる声も変わらないのに。
「部室に戻りなさい」
コーチとしては正しいであろうその言葉が、胸の奥へと突き刺さる。
――こんなの朝見じゃない。
いつでも俺の気持ちを優先してくれた、いつでも親身になってくれた、俺の知っている朝見じゃない。
「遼平」
「……っ」
掴まれた腕を全力で振り払い、俺はその顔を確かめることなく校門を飛び出した。
「あ、あのさ」
帰ったら……と言ったものの、ふたりの時の方がいいだろうと俺が口を開けば、
「あ、ちょっと待って」
とめずらしく朝見が言葉を遮る。
しばらくしてもう一度話しかければ、
「ごめん。ちゃんと遼平の顔見たいからもう少し待って」
とまたしても止められる。
視線だけをちらりとこちらに向け、朝見はすぐに正面に向き直る。運転しているのは学校から家までのいつもの道で、普段なら朝見の方から話しかけてくる。それなのに今日に限って俺の言葉は止められ、朝見からは話しかけてくる気配もない。
――なんで?
押し出すはずだった言葉を喉に引っ掛け、落ち着かない心地を胸に抱える。
――ようやく伝えられると思ったのに。
向かい合って言うよりも、運転に集中してくれているときの方がいいのだけど。伝えたいのはたった一言だ。これまでに膨らんだ想いはいろいろあるけれど、言葉として伝えられるのはそれだけ。それだけだから……。
景色は刻々とその色を変えていく。太陽は山の向こうに沈んでしまっていたが、空は夜に染まりきってはいない。ゆっくりと青が濃くなっていく静かな時間。残された陽射しが優しく朝見の横顔を照らす。光の線で描かれる輪郭。緩い風になびく柔らかな髪。白い肌に落ちるのはサングラスの影。なんてことのない田舎道を走っているだけなのに、そこだけ切り取られたみたいに輝いて見える。まるで映画のワンシーン。その美しさが現実感を奪っていく。
ふっと、サングラスの隙間から目尻を下げられ、笑われたのだとわかった。同時に自分がずっと見つめていたことにも気づく。何か言われる前にと、顔を窓の向こうへと背ける。――どうしたの? くらい言ってくるかと思ったけれど。朝見は何も言わず、そっと小さく空気を震わせただけだった。声にならないくらいの振動で微笑んでいるのが隣から伝わってくる。
「……なに?」
流れる景色を視界に入れ、振り向くことなく尋ねる。
「ううん、何でもないよ」
朝見の柔らかな声がなぜかいつもより甘く聞こえた気がして、俺は家に着くまで窓から視線を戻せなかった。
結局、車が家に着いてからも朝見は「あとでね」と小さく笑って俺の言葉を塞いだ。
――一体なんなのだ?
言おうと決めた言葉を何度も押し戻され俺の中には怒りにも似た気持ちが生まれる。もやもやとした心地の悪さを抱えたまま、すでに食卓に着いていた朝見の隣に座る。もう一生言ってやらなくてもいいか、と手にしたグラスを傾けたときだった。
朝見は隣に座った俺ではなく、正面に座る両親に向かって言った。
「あとで少し遼平とドライブに行ってきてもいいですか?」
突然の朝見の言葉に喉へと向かうはずの麦茶が口の中で跳ね返る。
「っ、んん、……な」
「あら素敵ね。せっかくだから高台の方まで行ってきたら? 星がよく見えるわよ」
母さんにおすすめスポットまで教えられ「行ってみます。ありがとうございます」と朝見が微笑み返す。ニコニコと笑顔を交し合うふたりの間でテーブルにグラスを戻しながら口を開く。
「あのさ、なに勝手に」
「遼平は行ったことあるの?」
くるりと向けられた顔には、今まさに春を迎えましたとばかりに笑顔が咲いている。現実の季節はとっくに夏だけど。
「……ないけど」
ここに越してきて四か月。走高跳を辞めてからは、積極的に何かを知ろうという気持ちを持てなかった。新しい場所に馴染むつもりもなく、ただ穏やかに過ぎていけばいいのだと思って過ごしてきた。春休みの間は引っ越しの片づけを。学校が始まってからは学校と家との往復を。休日にどこか遊びに行こうと誘い合うほどの人付き合いさえしてこなかった。
「そっか。じゃあ、僕と行くのが初めてになるね」
「まあ」
それは間違いではない。――ないが、なんでそんなに嬉しそうなんだ?
「ふふ、嬉しいな」
表情どころか声にまで出している。
別にそれくらい……と思ったところで気づく。自分がドライブに行くことを了承してしまっているという事実に。
「じゃあ、そのときに話聞くね」
謀られた気がしなくもないが(そもそも俺ではなく両親に話をするのがズルい)、自分から話すと言った手前、断ることもできず「ん」と小さく頷き返した。
お風呂上がりの体に風が心地よく触れていく。いってきます、と閉めたばかりの扉を振り返る。母さんは俺たちを玄関まで送るといつのまに準備したのか、虫よけスプレーとお茶のペットボトルを二本手渡してくれた。「アイスもいる? あ、お菓子の方がいいかしら」と放っておいたら大荷物になりかねない勢いだったので「ちょっと出るだけだから! いってきます」と俺は急いで外に飛び出した。
「遠足じゃあるまいし」
「ふふ、今度はみんなで行こうか?」
「え、いや、そこまでは……っ」
朝見を母さんのところに残してきたら意味がないと、咄嗟に掴んでしまっていた腕を慌てて離す。
「離さなくてもいいのに」
さらりと放たれた言葉が夜の空気を震わせる。家から漏れ出る明かりと道路に並ぶ外灯のぼやけた光しかない空間。
それでも小さく笑う朝見の表情だけはなぜかわかってしまって、
「……虫よけ、するから」
と返すのがやっとだった。
シューッと中身が噴射される音とともにツンとした匂いが辺りに広がっていく。
「朝見は?」
「僕は大丈夫。あんまり刺されないんだよね」
「へえ、意外」
「そう?」
「虫って明るいところに集まるから……」
――しまった。と思った時には言葉は音を纏って飛び出したあとだった。
「遼平がそんなふうに思ってくれていたなんて、僕……」
ジャリ、と朝見の靴底で砂が音を立てる。まっすぐ視線を合わせたまま朝見の体が一歩近づく。
「いや、べつに……あ」
踏み出された距離の分だけ足を引くと、自然と広がった視界に息が止まった。
「遼平?」
視線が合っていないことに気づいた朝見が後ろを振り返る。
「ふふ、綺麗だね」
そっと息を吐き出すように零された言葉に「うん」と頷くことしかできない。真上を向かなくてもすでに数えきれないほどの星で空は覆われていた。
「……」
声にならない息が自然と漏れる。言葉にはできなかった。こんな景色がこんなにも身近にあったなんて。今までずっと気づかずにいたなんて。
「行こうか」
目の前に広がる景色に圧倒され、完全に空へと意識を持っていかれた俺は朝見に促されるまま歩き出す。
「上ばかり見ていたら危ないよ」
「うん」
「これよりすごいってどんなだろうね」
「うん」
自然の美しさに圧倒された俺が、手を繋がれていたことに気づいたのは、車の前にたどり着いてからだった。
「え、なんで握ってんの」
「遼平が転ばないように」
「子供じゃないんだけど」
ため息とともに振り払おうとした手を朝見はさらに強く握ってきた。
「え」
驚き見上げた俺にふわりと目尻を下げると、朝見はすぐに手を離した。
「さあ乗って」
「う、うん」
開けられた助手席のドアへと視線を向け、小さく頷く。トクトクと速まっていく鼓動が耳の内側で音を鳴らす。座り慣れたシートに腰を下ろせば、薄まっていた虫よけスプレーの匂いが一瞬にして甘く柔らかな香りへと塗り替えられた。
――そういえば、ここに来てから夜に出掛けるのも初めてかもしれない。
繰り返される日常とは違う、いつもとは違う夜の空気に自然と手に力が入る。離される直前に加えられた力は、俺の中に小さな熱を残していた。
ナビに従うこと十分。もともと車の通りが少ないのもあって最初に提示された到着予定時刻より五分ほど早く着いた。ドアを開けた瞬間、気温が大きく変わってしまっていることに気づく。先ほどまで涼しいとしか思っていなかった風が、今はとても冷たい。
「さっむ」
Tシャツ一枚ではちょっと厳しいかも。上着持ってくるべきだったか、と思ったところにふわりと朝見の香りが濃くなった。ビクリと跳ねさせた肩に朝見の両手が置かれる。二の腕を掴んでいた手には布地の感触。
「少し冷えるね。これ着ておいて」
かけられたのは薄手のシャツだった。先ほどまで朝見が着ていたものだ。朝見の白い腕が露になる。細くしなやかな腕は夜の中にあっても光を纏っているかのように輝いて見える。
「いや、でも」
「いいから。遼平が風邪を引いたら大変だから」
「でも……っ」
前から吹き付けた風のあまりの冷たさに思わず首をすくめる。
「朝見は? 寒くないの?」
揺り戻された風の中、縮こまる俺とは反対に朝見はその空気を深く吸い込んでいる。
「うん。遼平といると嬉しくて自然と温かくなっちゃうから」
「――あっそ」
「少し歩こうか」
振り返るように朝見が視線を向けた先、緩やかな傾斜を越えたところ、展望スペースらしき場所にベンチが置かれている。あそこから見渡したならきっと今以上に広い空が見えるのだろう。わざわざ車で来たのだ。これくらいの寒さでせっかくの景色を見ずに帰るのは勿体ないだろう。
「うん」
「じゃあ、はい」
頷いたと同時になぜか手を差し出される。
「なにこの手?」
「なにってこの方が温かいだろう?」
「……」
一体何を言っているのだと眉根を寄せれば、朝見はきゅっと寂しそうに肩を落とす。
ちらりとこちらに視線を向け、
「遼平は僕に手の熱も分けてくれないの?」
――僕はシャツを貸したのに? とその表情と声で訴えてきた。
シャツは自分からかけてきたんだろうが、と思わなくはなかったが、この気温の中で今さら返すこともできないと観念する。手くらい幼稚園児でも繋ぐし。今までだって繋いできたのだからなんてことないはずだ。――自分から意識して繋いだことがなかっただけで。
「つ、繋げばいいんだろ」
「うん」
声を弾ませた朝見がいつもより少しだけ照れたように見えたのは、きっと気のせいだ。明かりなんて真上の星しかないのだから。
見上げなくても視界は星空で埋まった。
ベンチから伝わる固い感触は一瞬で忘れてしまった。風が吹くたびに木々が音を立て、夏の夜の匂いに甘く柔らかな香りが溶け合う。繋いだままの手は汗を纏う前に朝見の体温に包み込まれる。吸い込んだ空気の冷たさに体を縮めれば自然と隣の熱が触れてくる。怖いくらいに美しい景色とおそろしいほどの心地よさ。
静まり返る夜の空気とは反対に、体に響く心臓の音は大きくなっていく。
目の前の景色を見に来たはずなのに。顔は正面を向いているのに。意識だけは触れ合っている隣へと向いてしまう。そっと視線だけを横へと動かせば、その美しさこそがこの景色を作っているのだとわかる。言葉を漏らすことさえ憚られ、この瞬間を壊したくないと思わずにはいられなくなる。
ふっと空気が揺れ、視線に気づいた朝見が音もなく微笑む。
ただ笑った、それだけ。
言葉もなく、名前を呼ばれたわけでもない。それなのにトクトクと心臓はさらに走り出す。冷たい風が鼻先に触れてツンと痛みだし、美しかった景色はぼやけていく。泣きたいことなんかひとつもない。胸が痛むことなんかひとつもない。それなのに胸の奥から沸き立つように生まれた熱が体の先まで広がっていき、止まってくれない。降り出しそうなほどの星の下にいても、隣にいる朝見の存在を意識せずにはいられない。
「遼平?」
優しい声が触れ、星明りしかないのに輝き続ける瞳がそっと細められる。
その瞬間――言葉は勝手に滑り落ちた。
「……そ、ら?」
どこから降ってきたのかもわからないうちに、音は唇の上を転がり、空気に触れた途端に弾け、鼓膜を外から震わす。そのたった二音がなぜだかひどく懐かしく感じられ、どこかで会ったような気がして、胸の奥が痛くなった。
「遼平……」
「あ、いや」
なんでもない、と言いかけたところで繋いでいた手にきゅっと力が加えられた。
「思い出してくれたんだね」
「え」
――思い出す?
風が肌を撫でていく。朝見の柔らかな髪が揺れ、静かな空気の中に甘い香りが広がっていく。昼間の光を閉じ込めた双眸から視線を逸らすことはもうできない。どんな言葉を続けていいのかもわからない。手から上っていく熱に思考が奪われ、沈黙だけが辺りを包み込む。
「ふふ、遼平から言ってくれるんじゃなかったの?」
柔らかく発せられた朝見の言葉に、ここに来た目的を、言いたかった言葉があったことを思い出す。
「え、あ、えっと」
――ありがとう。朝見がいてよかった。
それだけを伝えるつもりだった。朝見にずっと言えなかった「お礼」を伝えたかった、それだけだった――のに。
吸い込まれそうなほどにまっすぐ見つめられ、胸の中はどんどん落ち着かなくなる。落ち着かない心地には覚えがあったが、朝見が帰ってこなかった、あの体育祭のときに感じていたものとは違う。それとは違う、別の何かが広がっていく。――と同時に、帰りの車の中から覚えていた違和感が蘇る。
向けられたふたつの空が求めているのは、朝見が欲しているのはこんな言葉ではないのではないか? 朝見が期待しているのは、待っているのは「お礼」なんかじゃなくて……。
「……り」
「やっぱり僕から言おうか?」
舌が作り出した音は飛び出すと同時に、ふわりと弾んだ声に掻き消された。ふふ、と小さな息を吐き出すように笑った朝見は細めていた瞳を夜の光で煌めかせて言った。
「その代わり、僕が言ったら遼平もちゃんと言ってね」
「う……ん? ちょっと待って」
頷きかけた首を途中で戻す。朝見の『ちゃんと言ってね』が指す言葉が俺と同じでなかったら?
そしたら、俺は――。
「うん?」
いつも以上に甘く柔らかな表情。薄く頬が赤くなって見えるのは気のせいだろうか?
昼間の空に映る星はどこか幻想的で、それだけで引き込まれてしまいそうになる。
「遼平」
何度も呼ばれてきたはずの自分の名前。何度も聞いた朝見の声。それなのに、今だけは違う。
風が止まる。音が消える。静かな夜の闇に紛れることなく、まっすぐ胸の奥まで落ちてくる。そっと触れて、内側から震わせる。
もう逸らせない。
真上に広がる星空よりもその瞳に強く吸い込まれる。
「僕の」
ブー、ブー、ブー……。
突如鳴り響いたスマートフォンの振動音に、張りつめていた糸は切られ、繋がっていた視線は解けた。
「ごめん、ちょっと待って」
ポケットから取り出した画面には鷹人の名前が表示されていた。
鷹人の電話をとらないという選択肢は俺にはない。力の緩まった朝見の手から自分の手を引き抜く。肌に残っていた熱が空気に散らばり消えていく。そのカケラを捕まえておくことはできず、震え続けるスマートフォンの画面へと指を伸ばした。
「もしもし? 鷹人?」
タップと同時に耳へと持っていく。
「……っ、りょう、へい……」
――泣いてる?
聞こえた鷹人の声は震えていた。絞り出すように呼ばれた自分の名前に、言いようのない不安が体を駆け巡る。こんなにも頼りなく消えそうな鷹人の声を聞いたのは初めてだった。
「鷹人? どうした?」
「……っ」
漏れ聞こえるのは声と言うよりも息に近い音だった。唇を噛みしめる様子が頭に浮かび、鷹人が言葉にするのを躊躇っているのが痛いほど伝わってくる。
何か言いたいことがあったから、伝えたいことがあったから、聞いてほしいことがあったから、だから――かけてきたんじゃないのか?
「鷹人?」
「……」
聞こえるのはわずかな息遣いだけで、向こうの音は不思議なほど何も伝わってこない。
「……」
鷹人が切らないでいてくれるのならいくらでも待つつもりだった。言葉にできるまでどれだけでも待つつもりだった。
「……」
話し出すその瞬間を決して取り零すことのないように、耳に神経を集中させる。呼びかけることはしなかった。言葉をかけなくても繋がっていることはわかるから。
「……」
スマートフォンを握る手が冷たくなっていく。止まっていた風が動き出し、体温を奪いにくる。寒さに肩を縮めたその瞬間、届いた声は耳元ではなく隣から発せられたものだった。
「遼平。ここは冷えるから一度車に戻ろう」
「え、あ、でも」
静かに立ち上がった朝見は戸惑う俺の手首を掴み、そのまま引き上げる。前につんのめる形で立ち上がった体を抱きとめられ「こんなに冷たくなって」と温かな息をかけられる。
「っ……」
寒気ではない震えが全身を駆け上がり、とっさに触れていた体を引き離す。バクバクと大きな音を立て始めた心臓から熱が体中に送られていき、振り解けなかった手から流れてくる朝見の体温と混ざり合う。
ぶつけるように繋がった視線の先、映りこむ自分の顔は夜の闇でよく見えない。見えないけれど、わかってしまうのは明らかに赤いだろうということ。
「――ごめん」
静かに落とされた言葉が耳の入口で響き、画面へと顔を向ける。
「鷹人? もしもし?」
「ごめん……やっぱ、いいや」
ようやく聞こえた鷹人の声に安堵するとともに、先ほどとは明らかに違うトーンに胸がざわつく。
「え?」
「急に電話してごめんな」
「え? 鷹人?」
「ごめん、またかけるな」
「え、ちょっと待っ」
木々を揺らした風が唸りを上げると同時に音は途切れた。思わず閉じてしまっていた目を開くと手元の画面は見慣れた待ち受け画像に戻っていた。
「遼平?」
俺の体を守るように立っていた朝見が顔を覗き込んできたが、頭は鷹人のことでいっぱいだった。
あんなの鷹人じゃない。突然変わってしまった空気も、変に明るい声も違和感しかなかった。表面を固めただけで、中身は何も入っていない――まるで空っぽ。
「……いい、ってなんだよ」
耳の奥に残る鷹人の言葉を反芻させた俺は、これ以上鷹人のカケラを落とさないようにと強く唇を噛みしめる。
家へと戻る車の中、電話をかけ続ける俺に朝見は何も言わなかった。不安げに画面を握り締めることしかできない俺に、朝見はただの一度も「大丈夫だよ」と言ってはくれなかった。
晴れない不安を抱えたまま終業式を終え、スマートフォンを確認してみるが鷹人からの着信はなく、昨夜送ったメッセージも未読のままだった。鷹人が電話に出てくれないということも、メッセージを読んですらくれないのも初めてで、俺はどうすればいいのかわからなくなる。
直接会いに行くべきなのか、行かない方がいいのか。連絡を取り続けるべきなのか、来るのを待つべきなのか。どうするのが正解で、どうすれば鷹人とまた話せるようになるのかがわからない。わからないから、決められた流れに身を任せることしかできなかった。
こんな状態で跳べるのかはわからないけれど、部活を休んだところで自分がすべきことの答えを見つけられるとも思えなかった。
「瀬永!」
部室の扉へと手を伸ばしたところで、後ろから声をかけられる。
振り返ると平井が戸惑うような表情のまま「これ」とスマートフォンの画面を見せてきた。寝不足の頭がゆっくりと動き出す。並んだ文字が言葉として入ってきたその瞬間、俺は平井の手からスポーツニュースを表示し続けるそれを奪い取っていた。
「なあ、これって瀬永の友達じゃなかった?」
遠慮がちにかけられた声も俺の耳にはもう届かない。目の前に提示された事実を理解することも、受け止めることもできない。言葉ひとつ形にはならず、息苦しさだけが広がっていく。
――錦高校陸上部 小林鷹人 練習中の故障によりインターハイ出場を断念
「このタイミングで故障ってきついよな」
平井が息を吐き出しながら落とした言葉に、ドクンと心臓が跳ね上がる。
そうだ。インターハイ本番は二週間後だ。
――鷹人は、あいつは今、どうしてる?
「……ごめん。俺、今日の部活休むわ」
「え?」
持っていたスマートフォンを平井の手に押し付けるように返し、そのまま顔を見ることなく駆け出す。
「え、ちょっと、瀬永―?」
驚き戸惑う平井の声が背中で響いていたけれど、振り返ることはもうできなかった。
――っ、りょう、へい……。
昨夜の鷹人の声が耳の奥で蘇る。あんなの初めてだった。鷹人はいつでも笑っていて、落ち込んでるやつがいたら放っておけなくて。明るくて頼りになって、誰よりも跳ぶことが好きで。走高跳が大好きで。
――やっぱ、いいや。
「いいわけないだろっ……」
噛みしめた唇から漏れたつぶやきはそのまま風に溶けていく。
「どこに行くの?」
グラウンドの前を通り過ぎ、校門へと向かう途中で静かな声が響いた。
腕を掴まれたわけではなかったが、聞き慣れたその声に足は自然と止まっていた。
「これから部活だよね?」
グラウンドへと続く階段の前に立っていた朝見が、一歩ずつこちらへと向かってくる。
「どうしてまだ着替えてもいないの?」
――いつもは温かく感じられるその声が。
風に揺れる木々の音も鳴き続ける蝉の声も遠くなっていく。
「遼平?」
――いつもは柔らかく聞こえるその声が。
夏特有の湿った空気も上がり続ける気温も遠ざかっていく。
「どこに行こうとしていたの?」
――今だけはとても冷たく感じた。
細められた瞳の奥、光しか見えないはずのその場所にいつもとは違う空が見え、ビクリと体が震える。そんな色が、そんな熱が、朝見にもあったなんて知らなかった。
それでも――ここで立ち止まることはできない。
「……ごめん」
静かに、ゆっくりと、朝見の顔から笑みが消えていく。俺はそれに気づきながらも言葉を重ねる。今、優先すべきなのは俺のことでも、朝見のことでもない。
「鷹人のところに行ってくる。あいつ故障したらしくて。それでインターハイも出られないって。そんなの放っておけないから」
今一番考えなくてはいけないのは、親友の、鷹人のことだから。
「遼平が行っても治るわけじゃないよね?」
まっすぐ見つめ返した視線の先、落とされたのは一瞬何を言われたのかわからなくなるほどに冷たい言葉だった。
「え」
「今、遼平がやるべきことは鷹人くんに会いに行くことじゃないよ」
何を言っているのか、何を言われているのかすぐには理解できなかった。
――目の前にいるのは本当に朝見なのか?
その存在すら疑いたくなるほどに纏っている空気は別物だった。優しく穏やかな色を取り戻した瞳は変わらないのに。薄い唇から聞こえる声も変わらないのに。
「部室に戻りなさい」
コーチとしては正しいであろうその言葉が、胸の奥へと突き刺さる。
――こんなの朝見じゃない。
いつでも俺の気持ちを優先してくれた、いつでも親身になってくれた、俺の知っている朝見じゃない。
「遼平」
「……っ」
掴まれた腕を全力で振り払い、俺はその顔を確かめることなく校門を飛び出した。
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