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記録会の翌日は日曜日で、部活は午後からだった。今までの俺なら少しだけのんびり起きてもいいかと考えていただろうけれど。
「オニギリ・パンチ、オニギリ・パ」
目覚まし時計を止め、ゆっくりと上半身を持ち上げる。夢の余韻はスッと静かに消えていく。薄く残る疲労感さえどこか心地よく、鮮明になっていく感覚が愛おしくさえある。
「跳べた、んだ」
昨日の映像が閉じた瞼の裏に浮かぶ。風を掴む感覚が体を包み込む。何度再生しても擦り切れることのない新しい記憶。きゅっと握り締めた手の中で皺を作るタオルケットの柔らかな感触にふっと息が零れた。
――夢じゃ、ない。
目を開けると、カーテンの隙間から差し込む光がクリーム色のタオルケットに濃淡を作っていた。エアコンの風で冷やされていたはずの室温はすでに折り返している。今日も気温が高くなるのだろう。わずかな涼しさを保つ空気の中で強く思うのは、今この体の中にある感覚を忘れたくない、ということだけ。
競技場のフィールドの中で、青空の下で、俺は確かに――跳べたのだから。
「もう大丈夫……」
そっと吐き出した息の端に聞き慣れた音が重なった。伝わってくる振動に、枕元に置いていたスマートフォンへと視線を向ける。
――こんな朝早くに電話なんてめずらしいな。
表示されている名前の下をタップし、すぐにスピーカーへと切り替える。
「もしもし? 鷹人?」
あくび交じりの声で話しかけながらベッド横のカーテンを開く。
「遼平!」
「うおっ、なんだよ」
挨拶をすっとばして名前を呼ばれたことと、思っていたよりも強い眩しさに声が跳ねた。
「なんだよ、って大丈夫なのかよ?」
床へと下ろした足の裏で冷たく固いフローリングの感触を確かめ、立ち上がると同時に全身を伸ばす。
「大丈夫って何が?」
「何がって、昨日の……」
天井へと向けていた腕を戻し、そのままスマートフォンを手に取る。スピーカーを切り、通常のマイクの音量に戻したところで耳元へと持っていく。
「昨日? あー、高さは全然ダメだった。でも、ちゃんと跳べたよ」
記録会に出ることも走高跳をもう一度やることも鷹人には全部伝えていた。競技場を出たらすぐに報告しようと思っていたけれど、昨日は色々ありすぎて(主に朝見のせいで)すっかり忘れていた。鷹人はずっと心配してくれていたというのに。
朝見がやってきた二か月前も鷹人は「大丈夫か?」と一言だけメッセージをくれた。どういうことかと、もっと詳しく教えろと興味津々で詰め寄るような、好奇心だけで訊いてくるようなひとたちとは違う。その短い文面が俺のことを純粋に心配しているのだと伝わってきて、鷹人にだけは「大丈夫。ありがと」と返信していた。
ずっと気にかけてくれていた、いつでも見守ってくれていた親友にすぐに伝えられなかったことを反省した俺は、少しでも安心してほしくて声に想いを込めた。
「跳べたからさ。だから、大丈夫」
言葉の後半が弾んだのも、自然と笑みが零れたのも鷹人に伝わればいい。俺はもう大丈夫だからって、今までありがとうって。今さら改めて言葉にすることは照れくさすぎてできないけれど、鷹人ならきっと感じ取ってくれるはずだ。
「ごめんな。すぐに連絡できなくて」
どこか晴れやかな気持ちで机側のカーテンも開くと、部屋の中は一気に明るくなった。
――それだけの、なんてことのない日常の風景が、俺の中に朝見の姿を作り出す。
透き通った朝の光。一瞬にしてあたりを照らし出す眩しいほどの明るさ。けれど痛みは感じられない。優しい輝き。――そのすべてが朝見に繋がってしまう。
まいったな。ふっと自然に漏れてしまったため息に鷹人の声が重なった。
「いや、そうじゃなくて」
「え?」
てっきり昨日の記録会のことを言っているのだと思っていた俺は画面へと視線を向ける。
はあ、と吐き出された大きなため息のあと、鷹人は言った。
「……遼平、ニュース見てないの?」
「え? ニュース?」
――とにかくテレビでもネットでもなんでもいいから見てみろよ。また連絡するからさ。
鷹人との通話を終え、俺は階段を駆け下りた勢いのままリビングのドアを開けた。
「ちょっと遼平。朝からバタバタうるさいわよ」
母さんの声を無視し、もはや定位置となった席で透き通った朝の光を纏う、その姿へと一直線に足を進める。
「おはよう。遼平」
「これ、どういうことだよ?」
振り返って柔らかく笑うその顔に手にしていたスマートフォンを突き出す。
パチパチと揺れた睫毛の奥で俺の顔から手前の画面へと対象を変えた瞳がゆっくりと細められていく。再び繋がった視線の先で朝見は少しだけ照れたように頬を薄く染めた。
「ああ、ごめんね。なんか、撮られちゃったみたいだね」
ちっとも申し訳なさそうではない、ちっとも焦ってなどいないあっさりとした口調。どこか嬉しささえ滲む笑顔。目の前の朝見にふつふつと怒りが沸き立つ。
「撮られたって、もとはと言えばお前のせいだろ。お前があんなことしなければ」
「うん、ごめんね。今度からちゃんと周りを確認するね」
「いや、そういうことじゃなくて」
俺が何を言おうと朝見はずっと笑っていて、眩しすぎる光の中には花さえ咲いて見えるようだ。まるで『幸せオーラ』――いや、そんなものがあるのかどうかも知らないけど。
「うんうん」
「うんうん、じゃなくて」
どうにも嚙み合わない会話に沸き立っていた怒りは次第に出口を見失っていく。一体どうすれば俺の気持ちは伝わるんだよ。これじゃあ宇宙人との方がよほど意思疎通できるんじゃないか?
「まあまあいいじゃない。今さら何も変わらないわよ。ちょっと騒がしくなる程度で」
テーブルにトーストの皿を置かれ、座るよう促される。これ以上は会話にならないと諦め、おとなしく母さんに従う。カタン、と椅子に腰かけ顔を上げると休日らしくポロシャツを着た父さんと目が合った。コーヒーから口を離した父さんは何でもないことのように母さんの言葉を引き継いだ。
「そうだな。ちょっと旅行会社からの勧誘が多くなるだけで」
「旅行会社?」
いただきます、と合わせかけた手が止まる。父さんは視線だけでリビングのローテーブルを指し示した。大きなテーブルの上にはカラフルな写真を使った冊子や封筒がいくつも重ねられ広がっている。「南の島で過ごす最高に幸せな時間」「ふたりだけの優雅なクルーズ旅行」「素敵なハネムーンを」の文字が見え、置かれているもののすべてが新婚旅行のパンフレットなのだとわかる。
「なんで、あんなのがウチにあるの?」
「なんでって」
桃の入った器を食卓に置き、向かいに座った母さんがリモコンを手にする。テレビの音量が上がる。気にかけるようなニュースがあまり流れないためか、休日の朝の番組はうちではあまり人気がない。そのため見るというよりはBGM代わりに流しているに近く、普段より音が絞られていることがほとんどだ。だから、今の今まで俺は気にとめていなかったのだが――。
――婚前旅行はどこへ?
――挙式は海外か?
司会者の背丈を超える御大層なボードには大きな文字で印刷された見出しと昨日の競技場での場面を切り取った写真がある。明らかに話題は俺と朝見のことだ。
「え、これって」
ネットニュースになるくらいだからテレビで騒がれてもおかしくはない、けど。
――でも、これ地方局じゃないよな? 全国放送の番組だよな?
「ふふ、困っちゃうね」
隣からちっとも困っていない声が聞こえ、俺は決して左へ振り向かないことを心に誓う。絶対に困ってはいない、むしろ喜んでいるのであろう朝見の顔を見たら、これから起きることのすべてを許してしまいそうでなんだか怖い。
「素敵なところがいっぱいねえ」
母さんの手には美しい写真で彩られるパンフレットがあった。
「せっかくだから私たちもどこか行きます?」
――私たち「も」?
「そうだな。ふたりの日程に合わせてどこか行こうか」
――「ふたり」の日程?
冷めてしまったトーストにマーマレードジャムを塗っていた俺は目の前で進んでいく会話に思わず割り込んだ。
「え、ちょっと?」
――なんで「行く」前提で話されているんだ?
ニュースになろうが、パンフレットを送り付けられようが実際に行くことなんてこれっぽっちも考えていない。新婚旅行も婚前旅行も現実感がまるでないし、第一そんなのまだ考えられないっていうか……いや、考えるも何も「行かない」一択だろ。「まだ」ってなんだよ、俺。
「心配しなくても大丈夫よ。あなたたちとは別のところにするから」
「え?」
久しぶりの旅行がよほど嬉しいのか、俺の方を見ることなく母さんは満面の笑みを浮かべている。その意識はすでに手元のパンフレットの内容へと落とされ、行き先の吟味に入りかけている。
「婚前旅行に親が同行するわけにはいかないでしょう?」
「は?」
「そんな。お気遣いいただかなくても大丈夫ですよ。僕はみなさんで『家族旅行』も行きたいですから」
俺の声には上がらなかった母さんの顔が、朝見の声に反応してパッと上げられる。
「でも……お邪魔でしょう?」
「遼平とはこれからいくらでもふたりで行けますので」
「ちょっと待て!」
聞こえた言葉に思わず振り返るが、朝見は微笑みを崩さない。
「あら、遼平はやっぱり朝見さんとふたりがいいの?」
「そうじゃなくて!」
再び声を弾ませた母さんに向き直るが、隣から発せられるオーラは強まるばかりだ。
「ふふ、嬉しいなぁ。じゃあ二回行く? 家族旅行と婚前旅行と」
「あら、いいじゃない。そうしなさいな。よかったわね、遼平」
「いや、俺は行くなんて一言も」
――言ってない、そう続けようとした言葉は朝見の静かな声に遮られた。
「遼平」
「なんだよ」
急に温度を変えた朝見の声に戸惑いつつ、その瞳へと視線を合わせる。揺らぐことのない澄んだ青色はまっすぐ俺の顔を映している。
「家族旅行なんていつでもできるわけじゃないんだよ」
諭すように落とされた言葉に思わず自分からその瞳の奥を覗き込んでしまった。
「できるときに行っておかないとダメだよ」
向けられた笑顔は明らかにいつものものとは違っていた。まるで寂しさを隠すような表情。
「そう、だけど」
――そういえば、朝見の家族は?
今まで気にしていなかった、気にしたことのなかった朝見自身のこと――陸上界のプリンスでも、憧れ続けた伝説の存在でもなく――今俺の目の前に存在している、実在している『朝見凛』のことが初めて気になった。それと同時に自分が何も知らないことに改めて気づかされる。
「あ、あのさ」
「遼平はどこに行きたい?」
どう問いかければいいのかわからず戸惑いを含んだまま発した言葉は、一瞬にしていつもの笑顔を取り戻した朝見に止められた。――訊くべきではないのかもしれない。優しく笑う朝見に胸の奥がざわつきだす。
「あ、俺は」
「二か所選んでいいよ。家族旅行と僕との婚前旅行と」
「いや、俺は」
「ハワイはどうかしら? 新婚旅行で行ったのよね」
「ああ、懐かしいな」
「いいですね。過ごしやすい気候ですし」
うまく言葉を紡げすにいる間に、母さんと父さんが朝見との会話を引き取っていった。
目の前で進んでいく旅行の話よりも、朝見が一瞬だけ見せた表情の方が気になって仕方ない。いつも完璧に笑っている朝見の奥にある、本物の『朝見凛』の姿。
俺はそこに――触れてもいいのだろうか。
見上げた先に置かれたバーは落ちていなかった。視界に引かれた直線にそっと息を吐き出す。――今の高さで昨日の自分より五センチ高く跳べたことになる。
太陽の眩しさにかざした片手をぎゅっと握り締め、体を起こす。倉庫から出したときはひやりとしていたマットもあっという間に熱を吸い込んでしまっていた。浮かんだ汗は風に攫われる前に肌を流れていく。グラウンドを囲む木々から蝉の声が止むことはない。高さを増していく白い雲と鮮やかさを増した青色。真上に広がるのは確かな夏の空だ。
俺に希望と絶望を刻み付けた季節。一年前の今頃はまだこの先に起きることを知らなかった。ただ無邪気に未来を信じ、全国大会に行くことを目標に跳んでいた。渡されたスカイブルーのタオルも未来の――希望の象徴だった。
「……」
吸い込んだ空気には熱と湿気が混じっている。足元の影も、自分の体から滲む汗の香りもあの日を思い出させる。――ハサミかカッターか。切り口に迷いは感じられず、そこに向けられた感情が何だったのかを理解することはできなかった。
切り刻まれたスカイブルーはちょうど今の空と同じ色をしていた。
緩やかな風に導かれるように視線を動かせば、強い日差しの中にあっても消えることのない姿を見つけることができる。まっすぐに向けられたふたつの空は青く輝いている。そこに映るのは希望でも絶望でもない。
あのときは感じられなかった、理解できなかった何かを今なら感じ取れるだろうか。
「遼平」
自分の名前を呼んでくれる温かな声がそばにある――今なら。
キュッと蛇口の栓をひねると日中に温められてしまった水が勢いよく流れ出した。手の平で受け止めながら温度が下がってきたところで顔へとかける。じりじりと日焼けした肌に触れる水は心地よく、ずっとこの中に浸っていたいくらいだった。
頭までびっしょり濡らし、少しだけ蒸し暑さから解放されたところで目の前に置いていたタオルへと手を伸ばす。
「で、どこ行くの?」
顔と頭をいっぺんに拭きながら、場所を譲ると後ろに並んでいた平井が笑って言った。
再び蛇口からは水が溢れ出し「お、冷たい」と弾んだ声が聞こえる。バシャバシャと豪快に飛沫をまき散らす平井に、ため息で返す。
「平井、お前楽しんでるだろ」
流れていく水は光を跳ね返しながら排水溝へと吸い込まれていく。グラウンドから流れてくる風が濡れた肌に触れて戻りかけた熱を奪っていく。
「目の前であんなの見せられたら仕方ないでしょ?」
笑いを含めた言葉が一瞬にして俺の中に昨日の競技場での出来事と今朝のテレビ番組を思い出させた。
「明日、教室行くのが怖い」
「まあまあ、大丈夫だって。終業式だけだし。それにもうみんなわかってたことだし」
――ん? わかってたこと?
あまりにもさらりと発せられたため流しそうになったが、耳はしっかりと平井の言葉を拾っていた。
「いやいや、わかってたって何? 俺にはさっぱりなんだけど」
「大丈夫だって。朝見コーチに任せておけば間違いないから」
平井はふわふわと触り心地のよさそうなタオルに顔をうずめ「はー、さっぱりしたぁ」と息を吐き出した。ちょろちょろと水が流れたままの蛇口を確認し、栓を横から回してやりながら、俺は先ほどよりも大きなため息をつく。
「いや、大丈夫って何が……」
「記録、伸びてるじゃん?」
ひょいっと上げられた顔には嫌みのない素直な笑みがあった。妬みもない、揶揄っているわけでもない自然な表情にきゅっと胸の奥が反応する。
「そうだけど」
「お、ついに観念したの?」
聞こえた声に振り向くと、すでに制服へと着替えをすませた樫木先輩が立っていた。
「観念って、俺は何も」
「そういう表情できるようになったってことは色々もう認めたってことだろ?」
夏休みを前に樫木先輩の顔はすでに真っ黒だった。海にでも行ってきたみたいに焼けている。外で練習している時間はみんな同じはずなのに誰よりも黒い。にやりと笑った口から覗く歯が白く輝いている。
「え」
「ああ、確かに」
戸惑う俺の顔を平井が覗き込み、小さく笑った。
「最初の頃に比べると随分とっつきやすくなったかも」
「え、俺ってとっつきにくい感じだった?」
チラリと視線を交し合ったふたりは、同時にふっと緩く息を吐き出した。
「んー、なんていうか、本当はちっとも納得してないんだろうなって」
平井が俺の顔に視線を戻せば、樫木先輩も少し眉根を寄せながら笑う。
「そうそう。口では『お疲れさまです』って笑ってくれていても、心の中では怒ってるんだろうなって。なんで先輩たちが本気でやらないのかわかりませんって、空気が言ってたよな」
「空気って」
「朝見コーチが来たら来たで、今度は戸惑ってるし。俺にもすごい気を遣いだすし」
クスクスとおかしそうに笑う平井から静かに顔を背ける。色々バレているとは思っていたけれど、こんなにも的確に言い当てられると恥ずかしさで消えたくなる。冷えたはずの肌から汗が吹き出しそうなほど体温は上がっていた。
「本当は誰よりもその中に入りたかったくせに、素直じゃないっていうか」
困ったやつだよな、と落とされた言葉はとても温かく、気づけば向けられた視線を自分から掴んでいた。
「あの」
ずっと聞きたかったことをようやく口にする。
「どうして俺をアンカーにしたんですか?」
「ん?」
「体育祭のリレー。どうして俺を選んでくれたのか、ずっとわからなくて」
「ああ。――一度でも何かに本気で取り組むことができたら変われるだろうから」
まっすぐ向けられていた瞳が、そこでふにゃりと下がった目尻の奥に引っ込んだ。
「――って朝見コーチが」
「え?」
「頭下げられたんだよ。『遼平にアンカーを任せてほしい。僕が必ず勝たせるから』って」
「それじゃあ……」
俺のせいで樫木先輩は――続けようとした言葉は形になる前に、樫木先輩自身の言葉で遮られた。
「あ、勘違いするなよ。もともとアンカーにこだわりがなかったのも本当だから。400なんてきっつい距離、譲っていいならどうぞって思ってたし」
「でも、もし、俺が負けてたら」
「それは一ミリも思ってなかったな」
一瞬の迷いもない、揺らぎひとつ感じられない声に、俺の心の方がざわつく。
「だって朝見コーチが言ったんだぜ? 必ず勝たせるって。そんなの信じるしかないだろ」
――信じるしかないだろ。
あっさりと言ってのける樫木先輩の言葉に息が止まる。
「朝見コーチも、朝見コーチに信頼されてる瀬永のことも、俺は両方信じたってだけ」
「たぶんみんな同じですよね」
「だろうな。朝見コーチを疑うやつなんかいないもんな」
「でも、俺は」
「朝見コーチがお前を気にかけるならそれはちゃんとした理由があるってことだろ? 誰もお前のこと悪くなんて思ってないから、安心しろ」
「……っ」
止まっていた呼吸が、心臓が動き出す。
あの日止めてしまった感情のすべてが、ようやく出口を見つけて溢れ出す。
――ずっと怖かった。
何かに本気になることも、誰かを信頼することも。
あの日の出来事は俺から走高跳の未来だけでなく、仲間を信じる気持ちも奪っていた。
あのタオルはずっとリュックに入れたままだった。練習の間は別のものを使っていて、お守り代わりのあれはフィールド内で使うのだと決めていた。誰がやったかなんてわからないし、わかりたくもなかった。誰が――と考えれば、それはどうしたって同じ陸上部のメンバーを疑うことになる。リュックを置いていたテント内が無人になることはないし、部外者が入ってきたらわかるだろう。だからあの時、俺のタオルに何かできるとしたら、仲間の誰かしかいなかった。
みんな応援してくれていた。
仲間として接してくれていた。
――だからこそ、余計に怖くてたまらなかった。
俺は気づかないうちに仲間を傷つけていたのだろうか。何かをしてしまっていたのだろうか。相手がひとりなのか、複数なのかもわからない。誰に何を思われているのかなんてそんなの、目には見えないのだからわかるはずがない。自分以外の誰かを完全に理解するなんて、そんなこと、誰にもできないのだから。
それからずっと、俺は誰かを『信じる』ことができなかった――のに。
「あ、お前泣くなよ」
「っ……ってません」
肩にかけていたタオルで濡れたままの髪を巻き込んでガシガシと顔を擦る。
鼻の奥が痛いのも、両目が熱いのも全部この夏の暑さのせいだ。だから隙間から零れた雫は汗か、拭いきれていなかった水であって、決して涙なんかじゃない。
――俺は悲しいわけではないのだから。
それなのに声はうまく出なくて、顔を見せることもできなくて、聞こえてくる会話に耳を傾けることしかできない。
「俺たちが泣かせたって思われたらどうするんだよ」
「樫木先輩でも怖いものあるんですね」
「いやいや、朝見コーチってああ見えて結構」
「僕がどうかした?」
突如、ふたりの間に聞き慣れた明るい声が割り込んだ。視界をタオルで塞いでいても、誰が来たのかすぐにわかる。
「あ、お疲れさまです!」
ピリッと声を強張らせた樫木先輩の様子には触れることなく、驚きと心配を含んだ声がこちらへと向けられる。
「遼平? どうしたの?」
「あ、いや、これは」
どうやって説明しようかと戸惑う樫木先輩ではなく、朝見はたぶん俺を見ている。そんな気がする。
「遼平? 何があったの?」
労わるような温度の奥には、理由によっては一瞬にして周りを凍りつかせそうなほどの鋭さが潜んでいる。伝わってくる気配におかしくなって、笑いたいのにうまく笑えなくて、ごまかすようにタオル越しに声を絞り出す。
「……が」
「え?」
「あさ、みが」
「え、僕?」
「……っ」
思い切って顔を上げると、いつの間にか樫木先輩も平井もいなくなっていた。
傾き始めていた太陽が色を変え、朝見の輪郭を縁どる。差し込む夕陽が俺の目元を隠してくれていたらいい、と思いながら心配そうに傾けられた顔を見つめ返す。
「遼平? 何があったのかちゃんと話してくれないと分からないだろう」
まっすぐこちらを覗き込む瞳はどんな時でもその色を変えることはない。決して変わらない、変わることのないふたつの空。そこに自分を映すのが怖くてたまらなかったのに、今はそこに自分を見つけて安心してしまう。
「遼平?」
「……たら、言う」
「え?」
「帰ったら言ってやるって言ったの!」
――昨日、言えなかった言葉を今度こそ。
何度か瞬きを繰り返してから、ふっと表情を緩めた朝見が小さく息を吐き出して笑った。
「じゃあ、車で待ってるね」
頭に載せられた大きな手が優しく跳ね、残っていた雫を連れ去る。
消えていく感触を追いかけるように足元に伸びていた影はゆっくりと離れていった。
「オニギリ・パンチ、オニギリ・パ」
目覚まし時計を止め、ゆっくりと上半身を持ち上げる。夢の余韻はスッと静かに消えていく。薄く残る疲労感さえどこか心地よく、鮮明になっていく感覚が愛おしくさえある。
「跳べた、んだ」
昨日の映像が閉じた瞼の裏に浮かぶ。風を掴む感覚が体を包み込む。何度再生しても擦り切れることのない新しい記憶。きゅっと握り締めた手の中で皺を作るタオルケットの柔らかな感触にふっと息が零れた。
――夢じゃ、ない。
目を開けると、カーテンの隙間から差し込む光がクリーム色のタオルケットに濃淡を作っていた。エアコンの風で冷やされていたはずの室温はすでに折り返している。今日も気温が高くなるのだろう。わずかな涼しさを保つ空気の中で強く思うのは、今この体の中にある感覚を忘れたくない、ということだけ。
競技場のフィールドの中で、青空の下で、俺は確かに――跳べたのだから。
「もう大丈夫……」
そっと吐き出した息の端に聞き慣れた音が重なった。伝わってくる振動に、枕元に置いていたスマートフォンへと視線を向ける。
――こんな朝早くに電話なんてめずらしいな。
表示されている名前の下をタップし、すぐにスピーカーへと切り替える。
「もしもし? 鷹人?」
あくび交じりの声で話しかけながらベッド横のカーテンを開く。
「遼平!」
「うおっ、なんだよ」
挨拶をすっとばして名前を呼ばれたことと、思っていたよりも強い眩しさに声が跳ねた。
「なんだよ、って大丈夫なのかよ?」
床へと下ろした足の裏で冷たく固いフローリングの感触を確かめ、立ち上がると同時に全身を伸ばす。
「大丈夫って何が?」
「何がって、昨日の……」
天井へと向けていた腕を戻し、そのままスマートフォンを手に取る。スピーカーを切り、通常のマイクの音量に戻したところで耳元へと持っていく。
「昨日? あー、高さは全然ダメだった。でも、ちゃんと跳べたよ」
記録会に出ることも走高跳をもう一度やることも鷹人には全部伝えていた。競技場を出たらすぐに報告しようと思っていたけれど、昨日は色々ありすぎて(主に朝見のせいで)すっかり忘れていた。鷹人はずっと心配してくれていたというのに。
朝見がやってきた二か月前も鷹人は「大丈夫か?」と一言だけメッセージをくれた。どういうことかと、もっと詳しく教えろと興味津々で詰め寄るような、好奇心だけで訊いてくるようなひとたちとは違う。その短い文面が俺のことを純粋に心配しているのだと伝わってきて、鷹人にだけは「大丈夫。ありがと」と返信していた。
ずっと気にかけてくれていた、いつでも見守ってくれていた親友にすぐに伝えられなかったことを反省した俺は、少しでも安心してほしくて声に想いを込めた。
「跳べたからさ。だから、大丈夫」
言葉の後半が弾んだのも、自然と笑みが零れたのも鷹人に伝わればいい。俺はもう大丈夫だからって、今までありがとうって。今さら改めて言葉にすることは照れくさすぎてできないけれど、鷹人ならきっと感じ取ってくれるはずだ。
「ごめんな。すぐに連絡できなくて」
どこか晴れやかな気持ちで机側のカーテンも開くと、部屋の中は一気に明るくなった。
――それだけの、なんてことのない日常の風景が、俺の中に朝見の姿を作り出す。
透き通った朝の光。一瞬にしてあたりを照らし出す眩しいほどの明るさ。けれど痛みは感じられない。優しい輝き。――そのすべてが朝見に繋がってしまう。
まいったな。ふっと自然に漏れてしまったため息に鷹人の声が重なった。
「いや、そうじゃなくて」
「え?」
てっきり昨日の記録会のことを言っているのだと思っていた俺は画面へと視線を向ける。
はあ、と吐き出された大きなため息のあと、鷹人は言った。
「……遼平、ニュース見てないの?」
「え? ニュース?」
――とにかくテレビでもネットでもなんでもいいから見てみろよ。また連絡するからさ。
鷹人との通話を終え、俺は階段を駆け下りた勢いのままリビングのドアを開けた。
「ちょっと遼平。朝からバタバタうるさいわよ」
母さんの声を無視し、もはや定位置となった席で透き通った朝の光を纏う、その姿へと一直線に足を進める。
「おはよう。遼平」
「これ、どういうことだよ?」
振り返って柔らかく笑うその顔に手にしていたスマートフォンを突き出す。
パチパチと揺れた睫毛の奥で俺の顔から手前の画面へと対象を変えた瞳がゆっくりと細められていく。再び繋がった視線の先で朝見は少しだけ照れたように頬を薄く染めた。
「ああ、ごめんね。なんか、撮られちゃったみたいだね」
ちっとも申し訳なさそうではない、ちっとも焦ってなどいないあっさりとした口調。どこか嬉しささえ滲む笑顔。目の前の朝見にふつふつと怒りが沸き立つ。
「撮られたって、もとはと言えばお前のせいだろ。お前があんなことしなければ」
「うん、ごめんね。今度からちゃんと周りを確認するね」
「いや、そういうことじゃなくて」
俺が何を言おうと朝見はずっと笑っていて、眩しすぎる光の中には花さえ咲いて見えるようだ。まるで『幸せオーラ』――いや、そんなものがあるのかどうかも知らないけど。
「うんうん」
「うんうん、じゃなくて」
どうにも嚙み合わない会話に沸き立っていた怒りは次第に出口を見失っていく。一体どうすれば俺の気持ちは伝わるんだよ。これじゃあ宇宙人との方がよほど意思疎通できるんじゃないか?
「まあまあいいじゃない。今さら何も変わらないわよ。ちょっと騒がしくなる程度で」
テーブルにトーストの皿を置かれ、座るよう促される。これ以上は会話にならないと諦め、おとなしく母さんに従う。カタン、と椅子に腰かけ顔を上げると休日らしくポロシャツを着た父さんと目が合った。コーヒーから口を離した父さんは何でもないことのように母さんの言葉を引き継いだ。
「そうだな。ちょっと旅行会社からの勧誘が多くなるだけで」
「旅行会社?」
いただきます、と合わせかけた手が止まる。父さんは視線だけでリビングのローテーブルを指し示した。大きなテーブルの上にはカラフルな写真を使った冊子や封筒がいくつも重ねられ広がっている。「南の島で過ごす最高に幸せな時間」「ふたりだけの優雅なクルーズ旅行」「素敵なハネムーンを」の文字が見え、置かれているもののすべてが新婚旅行のパンフレットなのだとわかる。
「なんで、あんなのがウチにあるの?」
「なんでって」
桃の入った器を食卓に置き、向かいに座った母さんがリモコンを手にする。テレビの音量が上がる。気にかけるようなニュースがあまり流れないためか、休日の朝の番組はうちではあまり人気がない。そのため見るというよりはBGM代わりに流しているに近く、普段より音が絞られていることがほとんどだ。だから、今の今まで俺は気にとめていなかったのだが――。
――婚前旅行はどこへ?
――挙式は海外か?
司会者の背丈を超える御大層なボードには大きな文字で印刷された見出しと昨日の競技場での場面を切り取った写真がある。明らかに話題は俺と朝見のことだ。
「え、これって」
ネットニュースになるくらいだからテレビで騒がれてもおかしくはない、けど。
――でも、これ地方局じゃないよな? 全国放送の番組だよな?
「ふふ、困っちゃうね」
隣からちっとも困っていない声が聞こえ、俺は決して左へ振り向かないことを心に誓う。絶対に困ってはいない、むしろ喜んでいるのであろう朝見の顔を見たら、これから起きることのすべてを許してしまいそうでなんだか怖い。
「素敵なところがいっぱいねえ」
母さんの手には美しい写真で彩られるパンフレットがあった。
「せっかくだから私たちもどこか行きます?」
――私たち「も」?
「そうだな。ふたりの日程に合わせてどこか行こうか」
――「ふたり」の日程?
冷めてしまったトーストにマーマレードジャムを塗っていた俺は目の前で進んでいく会話に思わず割り込んだ。
「え、ちょっと?」
――なんで「行く」前提で話されているんだ?
ニュースになろうが、パンフレットを送り付けられようが実際に行くことなんてこれっぽっちも考えていない。新婚旅行も婚前旅行も現実感がまるでないし、第一そんなのまだ考えられないっていうか……いや、考えるも何も「行かない」一択だろ。「まだ」ってなんだよ、俺。
「心配しなくても大丈夫よ。あなたたちとは別のところにするから」
「え?」
久しぶりの旅行がよほど嬉しいのか、俺の方を見ることなく母さんは満面の笑みを浮かべている。その意識はすでに手元のパンフレットの内容へと落とされ、行き先の吟味に入りかけている。
「婚前旅行に親が同行するわけにはいかないでしょう?」
「は?」
「そんな。お気遣いいただかなくても大丈夫ですよ。僕はみなさんで『家族旅行』も行きたいですから」
俺の声には上がらなかった母さんの顔が、朝見の声に反応してパッと上げられる。
「でも……お邪魔でしょう?」
「遼平とはこれからいくらでもふたりで行けますので」
「ちょっと待て!」
聞こえた言葉に思わず振り返るが、朝見は微笑みを崩さない。
「あら、遼平はやっぱり朝見さんとふたりがいいの?」
「そうじゃなくて!」
再び声を弾ませた母さんに向き直るが、隣から発せられるオーラは強まるばかりだ。
「ふふ、嬉しいなぁ。じゃあ二回行く? 家族旅行と婚前旅行と」
「あら、いいじゃない。そうしなさいな。よかったわね、遼平」
「いや、俺は行くなんて一言も」
――言ってない、そう続けようとした言葉は朝見の静かな声に遮られた。
「遼平」
「なんだよ」
急に温度を変えた朝見の声に戸惑いつつ、その瞳へと視線を合わせる。揺らぐことのない澄んだ青色はまっすぐ俺の顔を映している。
「家族旅行なんていつでもできるわけじゃないんだよ」
諭すように落とされた言葉に思わず自分からその瞳の奥を覗き込んでしまった。
「できるときに行っておかないとダメだよ」
向けられた笑顔は明らかにいつものものとは違っていた。まるで寂しさを隠すような表情。
「そう、だけど」
――そういえば、朝見の家族は?
今まで気にしていなかった、気にしたことのなかった朝見自身のこと――陸上界のプリンスでも、憧れ続けた伝説の存在でもなく――今俺の目の前に存在している、実在している『朝見凛』のことが初めて気になった。それと同時に自分が何も知らないことに改めて気づかされる。
「あ、あのさ」
「遼平はどこに行きたい?」
どう問いかければいいのかわからず戸惑いを含んだまま発した言葉は、一瞬にしていつもの笑顔を取り戻した朝見に止められた。――訊くべきではないのかもしれない。優しく笑う朝見に胸の奥がざわつきだす。
「あ、俺は」
「二か所選んでいいよ。家族旅行と僕との婚前旅行と」
「いや、俺は」
「ハワイはどうかしら? 新婚旅行で行ったのよね」
「ああ、懐かしいな」
「いいですね。過ごしやすい気候ですし」
うまく言葉を紡げすにいる間に、母さんと父さんが朝見との会話を引き取っていった。
目の前で進んでいく旅行の話よりも、朝見が一瞬だけ見せた表情の方が気になって仕方ない。いつも完璧に笑っている朝見の奥にある、本物の『朝見凛』の姿。
俺はそこに――触れてもいいのだろうか。
見上げた先に置かれたバーは落ちていなかった。視界に引かれた直線にそっと息を吐き出す。――今の高さで昨日の自分より五センチ高く跳べたことになる。
太陽の眩しさにかざした片手をぎゅっと握り締め、体を起こす。倉庫から出したときはひやりとしていたマットもあっという間に熱を吸い込んでしまっていた。浮かんだ汗は風に攫われる前に肌を流れていく。グラウンドを囲む木々から蝉の声が止むことはない。高さを増していく白い雲と鮮やかさを増した青色。真上に広がるのは確かな夏の空だ。
俺に希望と絶望を刻み付けた季節。一年前の今頃はまだこの先に起きることを知らなかった。ただ無邪気に未来を信じ、全国大会に行くことを目標に跳んでいた。渡されたスカイブルーのタオルも未来の――希望の象徴だった。
「……」
吸い込んだ空気には熱と湿気が混じっている。足元の影も、自分の体から滲む汗の香りもあの日を思い出させる。――ハサミかカッターか。切り口に迷いは感じられず、そこに向けられた感情が何だったのかを理解することはできなかった。
切り刻まれたスカイブルーはちょうど今の空と同じ色をしていた。
緩やかな風に導かれるように視線を動かせば、強い日差しの中にあっても消えることのない姿を見つけることができる。まっすぐに向けられたふたつの空は青く輝いている。そこに映るのは希望でも絶望でもない。
あのときは感じられなかった、理解できなかった何かを今なら感じ取れるだろうか。
「遼平」
自分の名前を呼んでくれる温かな声がそばにある――今なら。
キュッと蛇口の栓をひねると日中に温められてしまった水が勢いよく流れ出した。手の平で受け止めながら温度が下がってきたところで顔へとかける。じりじりと日焼けした肌に触れる水は心地よく、ずっとこの中に浸っていたいくらいだった。
頭までびっしょり濡らし、少しだけ蒸し暑さから解放されたところで目の前に置いていたタオルへと手を伸ばす。
「で、どこ行くの?」
顔と頭をいっぺんに拭きながら、場所を譲ると後ろに並んでいた平井が笑って言った。
再び蛇口からは水が溢れ出し「お、冷たい」と弾んだ声が聞こえる。バシャバシャと豪快に飛沫をまき散らす平井に、ため息で返す。
「平井、お前楽しんでるだろ」
流れていく水は光を跳ね返しながら排水溝へと吸い込まれていく。グラウンドから流れてくる風が濡れた肌に触れて戻りかけた熱を奪っていく。
「目の前であんなの見せられたら仕方ないでしょ?」
笑いを含めた言葉が一瞬にして俺の中に昨日の競技場での出来事と今朝のテレビ番組を思い出させた。
「明日、教室行くのが怖い」
「まあまあ、大丈夫だって。終業式だけだし。それにもうみんなわかってたことだし」
――ん? わかってたこと?
あまりにもさらりと発せられたため流しそうになったが、耳はしっかりと平井の言葉を拾っていた。
「いやいや、わかってたって何? 俺にはさっぱりなんだけど」
「大丈夫だって。朝見コーチに任せておけば間違いないから」
平井はふわふわと触り心地のよさそうなタオルに顔をうずめ「はー、さっぱりしたぁ」と息を吐き出した。ちょろちょろと水が流れたままの蛇口を確認し、栓を横から回してやりながら、俺は先ほどよりも大きなため息をつく。
「いや、大丈夫って何が……」
「記録、伸びてるじゃん?」
ひょいっと上げられた顔には嫌みのない素直な笑みがあった。妬みもない、揶揄っているわけでもない自然な表情にきゅっと胸の奥が反応する。
「そうだけど」
「お、ついに観念したの?」
聞こえた声に振り向くと、すでに制服へと着替えをすませた樫木先輩が立っていた。
「観念って、俺は何も」
「そういう表情できるようになったってことは色々もう認めたってことだろ?」
夏休みを前に樫木先輩の顔はすでに真っ黒だった。海にでも行ってきたみたいに焼けている。外で練習している時間はみんな同じはずなのに誰よりも黒い。にやりと笑った口から覗く歯が白く輝いている。
「え」
「ああ、確かに」
戸惑う俺の顔を平井が覗き込み、小さく笑った。
「最初の頃に比べると随分とっつきやすくなったかも」
「え、俺ってとっつきにくい感じだった?」
チラリと視線を交し合ったふたりは、同時にふっと緩く息を吐き出した。
「んー、なんていうか、本当はちっとも納得してないんだろうなって」
平井が俺の顔に視線を戻せば、樫木先輩も少し眉根を寄せながら笑う。
「そうそう。口では『お疲れさまです』って笑ってくれていても、心の中では怒ってるんだろうなって。なんで先輩たちが本気でやらないのかわかりませんって、空気が言ってたよな」
「空気って」
「朝見コーチが来たら来たで、今度は戸惑ってるし。俺にもすごい気を遣いだすし」
クスクスとおかしそうに笑う平井から静かに顔を背ける。色々バレているとは思っていたけれど、こんなにも的確に言い当てられると恥ずかしさで消えたくなる。冷えたはずの肌から汗が吹き出しそうなほど体温は上がっていた。
「本当は誰よりもその中に入りたかったくせに、素直じゃないっていうか」
困ったやつだよな、と落とされた言葉はとても温かく、気づけば向けられた視線を自分から掴んでいた。
「あの」
ずっと聞きたかったことをようやく口にする。
「どうして俺をアンカーにしたんですか?」
「ん?」
「体育祭のリレー。どうして俺を選んでくれたのか、ずっとわからなくて」
「ああ。――一度でも何かに本気で取り組むことができたら変われるだろうから」
まっすぐ向けられていた瞳が、そこでふにゃりと下がった目尻の奥に引っ込んだ。
「――って朝見コーチが」
「え?」
「頭下げられたんだよ。『遼平にアンカーを任せてほしい。僕が必ず勝たせるから』って」
「それじゃあ……」
俺のせいで樫木先輩は――続けようとした言葉は形になる前に、樫木先輩自身の言葉で遮られた。
「あ、勘違いするなよ。もともとアンカーにこだわりがなかったのも本当だから。400なんてきっつい距離、譲っていいならどうぞって思ってたし」
「でも、もし、俺が負けてたら」
「それは一ミリも思ってなかったな」
一瞬の迷いもない、揺らぎひとつ感じられない声に、俺の心の方がざわつく。
「だって朝見コーチが言ったんだぜ? 必ず勝たせるって。そんなの信じるしかないだろ」
――信じるしかないだろ。
あっさりと言ってのける樫木先輩の言葉に息が止まる。
「朝見コーチも、朝見コーチに信頼されてる瀬永のことも、俺は両方信じたってだけ」
「たぶんみんな同じですよね」
「だろうな。朝見コーチを疑うやつなんかいないもんな」
「でも、俺は」
「朝見コーチがお前を気にかけるならそれはちゃんとした理由があるってことだろ? 誰もお前のこと悪くなんて思ってないから、安心しろ」
「……っ」
止まっていた呼吸が、心臓が動き出す。
あの日止めてしまった感情のすべてが、ようやく出口を見つけて溢れ出す。
――ずっと怖かった。
何かに本気になることも、誰かを信頼することも。
あの日の出来事は俺から走高跳の未来だけでなく、仲間を信じる気持ちも奪っていた。
あのタオルはずっとリュックに入れたままだった。練習の間は別のものを使っていて、お守り代わりのあれはフィールド内で使うのだと決めていた。誰がやったかなんてわからないし、わかりたくもなかった。誰が――と考えれば、それはどうしたって同じ陸上部のメンバーを疑うことになる。リュックを置いていたテント内が無人になることはないし、部外者が入ってきたらわかるだろう。だからあの時、俺のタオルに何かできるとしたら、仲間の誰かしかいなかった。
みんな応援してくれていた。
仲間として接してくれていた。
――だからこそ、余計に怖くてたまらなかった。
俺は気づかないうちに仲間を傷つけていたのだろうか。何かをしてしまっていたのだろうか。相手がひとりなのか、複数なのかもわからない。誰に何を思われているのかなんてそんなの、目には見えないのだからわかるはずがない。自分以外の誰かを完全に理解するなんて、そんなこと、誰にもできないのだから。
それからずっと、俺は誰かを『信じる』ことができなかった――のに。
「あ、お前泣くなよ」
「っ……ってません」
肩にかけていたタオルで濡れたままの髪を巻き込んでガシガシと顔を擦る。
鼻の奥が痛いのも、両目が熱いのも全部この夏の暑さのせいだ。だから隙間から零れた雫は汗か、拭いきれていなかった水であって、決して涙なんかじゃない。
――俺は悲しいわけではないのだから。
それなのに声はうまく出なくて、顔を見せることもできなくて、聞こえてくる会話に耳を傾けることしかできない。
「俺たちが泣かせたって思われたらどうするんだよ」
「樫木先輩でも怖いものあるんですね」
「いやいや、朝見コーチってああ見えて結構」
「僕がどうかした?」
突如、ふたりの間に聞き慣れた明るい声が割り込んだ。視界をタオルで塞いでいても、誰が来たのかすぐにわかる。
「あ、お疲れさまです!」
ピリッと声を強張らせた樫木先輩の様子には触れることなく、驚きと心配を含んだ声がこちらへと向けられる。
「遼平? どうしたの?」
「あ、いや、これは」
どうやって説明しようかと戸惑う樫木先輩ではなく、朝見はたぶん俺を見ている。そんな気がする。
「遼平? 何があったの?」
労わるような温度の奥には、理由によっては一瞬にして周りを凍りつかせそうなほどの鋭さが潜んでいる。伝わってくる気配におかしくなって、笑いたいのにうまく笑えなくて、ごまかすようにタオル越しに声を絞り出す。
「……が」
「え?」
「あさ、みが」
「え、僕?」
「……っ」
思い切って顔を上げると、いつの間にか樫木先輩も平井もいなくなっていた。
傾き始めていた太陽が色を変え、朝見の輪郭を縁どる。差し込む夕陽が俺の目元を隠してくれていたらいい、と思いながら心配そうに傾けられた顔を見つめ返す。
「遼平? 何があったのかちゃんと話してくれないと分からないだろう」
まっすぐこちらを覗き込む瞳はどんな時でもその色を変えることはない。決して変わらない、変わることのないふたつの空。そこに自分を映すのが怖くてたまらなかったのに、今はそこに自分を見つけて安心してしまう。
「遼平?」
「……たら、言う」
「え?」
「帰ったら言ってやるって言ったの!」
――昨日、言えなかった言葉を今度こそ。
何度か瞬きを繰り返してから、ふっと表情を緩めた朝見が小さく息を吐き出して笑った。
「じゃあ、車で待ってるね」
頭に載せられた大きな手が優しく跳ね、残っていた雫を連れ去る。
消えていく感触を追いかけるように足元に伸びていた影はゆっくりと離れていった。
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