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(7)初デート
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背中から伝わってくる振動も、窓の隙間から入り込む風も心地よく、気を抜くとそのまま寝てしまいそうになる。
「着いたら起こすから、寝ていいよ」
自然と漏れたあくびに気づいたらしい朝見が一瞬だけこちらに視線を向けた。クスッと小さく口元だけで笑うと緩やかなカーブに合わせてハンドルを動かす。ふわりと体にかかる力は優しく、車はどんな道でも滑らかに進んでいく。
陶器のような白い肌に包まれた横顔。サングラスの隙間から覗く目尻は小さく下がり、車内を流れる音楽に合わせて鼻歌が薄く聞こえてくる。――朝見はわかりやすいくらいにご機嫌だった。
「……寝ないし」
「無理しなくていいのに」
「寝ないから」
――無理しなかった結果が、昨日の出来事に繋がるなら意地でも寝るわけにはいかない。
昨日はすっかり油断していた。車で家に帰るのはいつものことで、時間にして十分足らず。お互いシートベルトをしているのでふたりきりとはいえ、一定の距離は保たれていた。何よりこの一か月あの朝の日のような出来事はなかったのだ。
――だから、油断した。
保健室を出る頃にはすっかり日は落ちてしまっていた。
並んでいた椅子は片付けられ、暗くなったグラウンドはもう見慣れた姿に戻っていた。大きな看板も得点ボードも見当たらない。体育祭後すぐに片付けられたのだろう。昨日の事故を考えれば当然と言えば当然だけど、少しだけ寂しさを感じる。
緩やかな風に混じるグラウンドの匂いを吸い込み、前を歩く背中に問いかけた。
「どこが優勝したの?」
「あれ? 覚えてないの?」
振り返った朝見は驚いたように目を丸くし瞬きを繰り返した。
「リレー走り切ったところで限界だったから。まわり見る余裕なくて」
古賀部長と最後まで競り合っていたことは覚えている。走りながら朝見の言葉が自分の中を照らしてくれたことも、不思議なほど風を感じたことも覚えている。けれど、どちらが先にゴールしたかまではわからなかった。確かめる余裕もないまま、気を失ってしまった。
「朝見?」
すぐに答えてくれるのだと思ったら、朝見はふっと息を吐き出し笑った。「そっか」とだけ言い、長い腕をこちらへと伸ばしてくる。思わず立ち止まった俺の手から荷物を引き取ると、空いたばかりの手をそのまま握られた。
「え、なに」
驚きのあまり振り払おうとした俺よりもわずかに早く、きゅっと力が強められる。
「また倒れたら困るでしょ?」
「もう倒れ……」
ない、と言いたいがすでに二度も朝見の前で倒れている。
体力を使い果たした体は今もまだ完全には回復しきっていない。
辺りは暗く学校に残っている生徒ももういない。人目を気にする必要がないなら、このまま朝見の優しさに甘えてもいいのかもしれない。それに――。
「遼平?」
「……なんでもない」
保健室で自分から朝見を抱きしめてしまったことを思い出し、顔が熱くなる。
――あれは、なんていうか、安心したってだけで。特別なものじゃない、けど。
指先から流れ込む体温が胸の奥を刺激する。トクトクと速くなっていく鼓動から目を逸らし、夜の闇に紛れるように顔を俯ける。
「じゃあ、行こうか」
「……」
静かに手を引かれるまま、車までの距離を歩く。校舎に設置されたライトの光から遠ざかると足元の影は薄く溶けていく。ひとつに繋がったまま見えなくなってしまった影に心臓がきゅっと痛んだ。頬に当たる風はいつもより冷たくて、繋がれている手よりも自分の体の方が熱いことを自覚させられた。
久しぶり、というほどではなかったけれど。その場所に少しだけ懐かしさを感じてしまった。助手席に座ると一瞬にして甘く柔らかな朝見の香りに包み込まれる。わずかな緊張感とそれを容易に受け入れてしまうほどの心地よさ。体の中で膨らむ安心感に車が動き出す頃には、意識は夢の中へと沈んでいた。
瞼を開けるほんの少し前、ふっと光を遮るように影が落ちてきた。温かな空気が肌に触れ、甘い香りが濃くなる。微かな物音にぼやけたままの視界を開く。――その瞬間、飛び込んできた光景にすぐには頭が追いつかなかった。
目の前にあるはずのフロントガラスが映る余地は一ミリもない。呼吸だけで触れてしまいそうな距離にあるのは薄暗い車内でもはっきりとわかる白い肌。目が合うというよりはそれしか見えないという方が正しい。目の前の青い瞳は色を深くし、俺の顔を映しこむ。
「――え?」
小さく息を吐き出すのがやっとだった。
これ以上ないほどの至近距離で繋がっていた視線はふわりと緩まった。柔らかく目を細め、いつもの笑顔を作った朝見が声を弾ませる。
「起きた? ちょうど家に着いたところだよ」
ふふっと笑いを零しながら、運転席へと体を戻していく朝見。身じろぎひとつまともにできないまま、心臓の音が大きくなっていく。
「……なに?」
「うん? 何もしてないよ。気持ちよさそうに寝てたから、起こすのかわいそうかなって見てただけ」
「……そう」
「うん。何かする前に遼平起きちゃったしね」
「……っ」
小さく笑って付け足された言葉に思わず体を起こしたが、外していなかったシートベルトに途中で押し戻された。「ふふ」と小さく笑った朝見がなぜか再び近づいてきて思わずシートに預けていた体が強張る。
カチャッとシートベルトの外される音が鳴り、体を締め付けていた感覚がなくなったのと同時に、耳に落とされたのは甘く柔らかな声だった。
「――何かしてほしかった?」
「そんなわけ、ないだろ!」
上がってしまった体温を隠し、車の外へと逃げるように飛び出した。
――それが昨日の出来事。
鼻の先に触れた潮の香りを吸い込み、窓の外に顔を向けてもう一度言葉を繰り返す。
「寝ないからな」
「そう? それは少し残念」
なんでだよ、と聞き返しそうになって寸前で思いとどまる。
ここは深く追求しないのが身のためだ。ただでさえ、今日はもういろいろとキャパオーバーなのだから。
「帰るの?」
次の行き先を聞いていないことを思い出し、視線だけを向けて問いかける。
信号が赤く変わったのに合わせて緩やかに景色が停止する。風の音が止まると今度は波の音が耳に届いた。太陽は視線の高さにある。あと一時間もすれば夕陽へと色を変えるだろう。
ハンドルに置いた手を離すことなく、こちらへと振り返った朝見がふわりと目を細めた。
「ううん。あともう一か所だけ寄りたいところがあるんだ」
「ふうん」
ふっと小さく息を震わせ零れた笑いに「なに?」と眉根を寄せる。
「いや、今朝とは大違いだなって」
――今朝。
両親が目の前に座る食卓で「今日こそデートに行こう」と朝見が言った。
俺は食後のメロンを口の中に入れたばかりで、すぐには言葉を返せなかった。
「っん、……デ」
「あらあら。それじゃあ、買い物も頼んでいいかしら?」
「ええ、もちろんです。車で行きますので重いものでもなんでも言ってください」
ようやく甘い塊を飲み込んだときにはもう遅かった。
「あとで遼平にメモ渡すわね」
にっこりと正面の母さんに微笑まれ、隣からは「せっかくだから大きなスーパーに寄ろうか?」と弾んだ声を出され、斜め前に座る父さんにはそっと目を逸らされ――いや、肩がわずかに震えているから笑われている。
「……ん」
せめてもの意思表示にと大きなため息を吐き出し、俺は不機嫌な表情のまま頷いた。
――いや、今だってため息をつきたい気持ちは変わらない。
そもそも「デート」を受け入れたわけじゃないのだ。母さんに頼まれた買い物を朝見ひとりに押し付けるわけにはいかなかっただけで。仕方なく来ただけで。これはそのついでのようなもので。だから、俺は何ひとつ納得していなかったし、何ひとつ楽しんでなどいないわけで。
「遼平」
聞こえていたはずの波音が消えた。
鼓膜に触れた甘い声に、その声が形作る自分の名前に一瞬にして意識を持っていかれる。
「デート、楽しいね」
「べつに俺は――」
続けるはずだった言葉は正面へと戻された視線に、緩やかに滑り出した車窓に遮られる。
「……」
――楽しんでなんか、ない。
そうすぐに口にできなかったのはただのタイミングの問題だと、頭の中で繰り返す。ひそかに楽しみにしていた映画の続編も、海を眺められるレストランも、新しくできたスポーツ用品店もべつに一人でも楽しめたのだから。だから、これは決して朝見といるから楽しいわけじゃない。ましてやデートだから、なんてことはないはずだ。
あともう一か所。そう言われて連れてこられたのは、競技場だった。
来月に記録会で来ることになっているその場所は、先月インターハイの地区予選が行われた場所でもあった。もしも今、もう一度予選が行われたなら結果は違っただろう。
俺たちには――『朝見凛』がいるのだから。
触れる空気に懐かしさが滲む。思わず足がすくみ、隣を歩いていた朝見との距離が開く。振り返った朝見の手がこちらへと伸ばされ、優しく肩に触れた。
「遼平」
「あ、うん」
触れられた大きな手にそっと押し出され、俺は止めてしまっていた足を再び動かした。
どうしてここに連れてこられたのか、その理由を尋ねる間もなく朝見は入口にいた係員に軽く会釈をし、中へと入っていく。どうしてこんなにもあっさり入れてしまうのか? さらに疑問が浮かんだところで、明らかに待ち構えていたと思われるスーツ姿の男の人が現れる。事前に何かしら話を通していたのだろう。とくに説明もなく、ゲートの先へと案内される。
視界が広がると同時に風が体を吹き抜けた。
学校のグラウンドではない、競技場の香り。短い芝の鮮やかな色が目に沁みる。スタンドとトラックの間の通路を歩きながら、まるで競技前のようだと体の奥がざわつき始める。
今日は大会ではない。俺たちのほかには誰もいない。
それでも――向けずにはいられなかった視線の先――それはあった。
スタンドを背にしたフィールドの左端。
「っ……」
ぐっと唾とともに息を飲み込まずにはいられなかった。
――どうして? と言葉を発することもできない。
朝見に問いかけたいことはありすぎるけれど、そのどれもが「朝見だから」で納得できてしまう。朝見だからどんなことでもできてしまうし、朝見ならどんなことが起きてもおかしくはなかった。
「遼平」
名前を呼ばれて顔を上げれば、いつもよりも透き通った青色の瞳がまっすぐ向けられる。ふわりと柔らかく笑ってから朝見はいつもと同じ優しい声で言った。
「ちょっと着替えてくるね」
「……」
俺をその場にひとり残し、朝見はメインスタンドの下へと行ってしまった。
視界を戻せば、目の前にはバーとマットがある。誰もいない競技場のフィールドの中、それだけが俺と同じようにポツンと残されている。
「まさか、な」
零れた声は風に攫われた。流れていく空気に懐かしさも苦しさも蘇っていく。ドクドクと鳴り始めた心臓の理由を俺自身もまだ理解できない。
――ただ、「逃げたい」とはもう思わなかった。
この空間に存在する匂いを、音を、温度を静かに体の中に受け入れていく。目を閉じ、すっと大きく息を吸い込んだタイミングで、近づいてくる足音に気づいた。
「ちょっと暑いかな」
振り返った先で朝見が白いジャージを脱ぎ小さく笑う。
「持っていてもらえる?」
差し出されたジャージを受け取り、頷く。
「遼平はそこにいてくれるだけでいいから」
――跳ぶの?
開きかけた口は息を吐き出しただけだった。
聞かなくても、わかる。その顔を見れば、わかる。――『朝見凛』は跳ぶのだと。
「ちょっとアップだけさせてね」
俺からは何も言葉にしなかったのに朝見はそう言って小さく笑った。
画面の向こう側から見ているだけだった。風も匂いも感じられない。その音もマイクを通せば変わってしまう。
――本物とは違う。
だからこそ、肌に直接触れる、感じられるすべてを記憶したいと自然に願ってしまうのだろう。目の前にあるのが手を伸ばし続けた、憧れ続けた光景だと知っているから。本当は一瞬も忘れたことがないとわかっているから。俺はそこに行きたいと祈るように手を伸ばし続けたのだから。
――これが。
言葉にはならなかった。
その姿を見てしまったら。その世界に一瞬でも触れてしまったら。きっともう目を逸らすことなんてできなくて。抑え込んできた想いは勝手に溢れ出てしまう。
空が見たい、と。
あの景色が恋しくてたまらない、と。
――それがわかっていたから近づきたくなかった。
こんなに遠くにいても、その体がマットに沈んでいく音すら聞こえてしまう。自分が跳んだわけでもないのに背中に触れる感触まで鮮明に伝わってくる。見上げた先の空の色を、流れていく景色を想像する自分がいる。俺はフィールドの端で立ち止まったまま動けない。
――遼平はそこにいてくれるだけでいいから。
ほんの数分前の朝見の声が耳の奥で蘇る。「持っていてもらえる?」と言われて渡されたジャージを握り締めることしかできない。湿気の混ざった緩やかな風が俺の前髪を揺らし、慣れ親しんだ芝の匂いとそばにあることが当たり前になってしまった甘い香りを舞い上がらせる。鼻の先から胸の奥まで広がる空気。吸い込めば吸い込むほど固くなった胸の奥が溶かされていく。必死で守ってきたその場所に優しく触れてくる。もういいのだと、もう大丈夫だからと、そう言われている気がした。
視界の奥で体を起こした朝見が手を挙げる。俺に向かって振っているのだと、きっといつもと同じ柔らかな笑顔を向けているのだと分かったけれど、足を動かすことも手を振り返すこともできない。ツンと鼻の奥が痛みだす。両目に集まった熱が視界をぼやけさせる。――まだ見ていたいのに。もっと触れていたいのに。どうしてこんなにも俺の体は言うことをきいてくれないのだろう。
「遼平」
いつの間にか朝見は目の前に立っていて。落とされた声に視線を上げれば、夕陽を背に微笑む、見慣れてしまった顔がある。何を言えばいいのか、何から言葉にすればいいのかわからない。どう答えていいかわからない。
わからない、けれど――わかっていることも、ある。
ここに連れてきてくれた意味。その理由。
敢えて何も言わなかったのも、こんな「デート」という形をとったのも、全部、全部――朝見がすることのすべてが――俺のためだって、もうとっくにわかっていた。
「遼平」
ただ名前を呼ばれただけなのに。そっと頬に指が触れただけなのに。その温かさに堪えきれなくなる。
「……っ」
噛みしめた唇のすき間から嗚咽が漏れる。これ以上は見られたくないと顔を下げるのと、体ごと優しい力に包み込まれたのはほぼ同時だった。
「大丈夫。もう大丈夫だから」
何が、なんて聞き返す必要はもうなくて。この腕を振り解くという選択肢もなくて。どこまでも優しく包み込んでくれるその温度に、その柔らかな香りに顔をうずめる。
「……跳びたい」
想いは言葉となって溢れた。
「跳びたい、です」
――ずっと言いたかった。
朝見の言葉を体の中に感じたときから、朝見に「跳べるよ」と言われたときから――本当はもうずっと前、朝見が現れたときからずっと、この言葉を言いたかった。
「うん」
そっと置かれた息が鼓膜に触れ、少しだけ強く朝見の腕に力が込められる。わずかにあった隙間がなくなり、Tシャツ越しの体温が肌に触れる。ぐっと濃くなった香りに心臓がバクバクと揺れ出す。
それでも、離れたいなんてもう思えなかった。ここが俺にとって深く息を吸える場所なのだと知ってしまったから。この熱が誰よりも俺を救ってくれるのだとわかってしまったから。だから――。
「最後にプレゼントがあるんだけど、受け取ってくれる?」
着替えをすませた朝見がフィールドへと戻ってくる。
手にしていたのは見覚えのあるロゴの入った袋。ここに来る前に立ち寄ったスポーツ用品店のものだ。
「え」
戸惑う俺に構うことなく朝見は自ら袋を外し、箱を取り出す。朝見の手の中で蓋が開けられると、真新しいニオイがふわりと浮かんだ。
差し込む夕陽に消えることのない青空が、目の前で優しく細められる。
赤みを残した空は夜の色へと染まり始めていたが、視線の先には変わることのない美しい青空があった。
「遼平」
どこまでも鮮やかに透き通る丸い瞳に映るのは自分の顔で。白く長い指が優しく触れるのは俺の指先で。芝の上に片膝をついた朝見が見上げるのも俺だった。――一体、何度この場面をやるのかと言ってやりたかったけれど、今は震える唇を噛みしめることしかできない。
泣きたいのか笑いたいのかさえもうわからなくて。込み上げてくるこの想いがなんなのかもわからなくて。ただ静かに差し出されたスパイクへと視線を向けることしかできない。
「これは僕からのプレゼントだよ」
「……っ」
言葉にはできなくて。声を出すことももうできなくて。優しく向けられるその瞳を、温かく沁みていくその声を受け止めることしかできなかった。
「遼平、僕と一緒に空を見にいこう」
キュッと紐を引くと、足全体を包み込む確かな感触が伝わってくる。
ここに来るのは一か月前のあの日――目の前で朝見が跳ぶのを見た日――以来、三度目だ。
視界に広がるのは学校のグラウンドではない、競技場のフィールド。
吸い込んだ空気に感じるのは懐かしさでも苦しさでもない。踏み切ることさえできなかったあの辛さを忘れたわけではなかったけれど。キレイさっぱり消し去れたわけではないけれど。それでも今の俺に流れるのは、中学時代の思い出ではなかった。
瞼の裏に浮かぶ新たな記憶。傾いていく陽射し。観客のいないスタンド。緩やかにスピードを上げていく足音。――過去の苦しさは蘇った憧れに塗り替えられた。
俺の中には、求め続けた光だけが――あの日見た朝見の姿だけが――存在していた。
梅雨を越えた空はどこまでも明るく晴れ渡っている。
青いトラックから続く地面に落ちた自分の影を踏みしめスタート位置で足を揃える。マークしたテープをたどり、まっすぐに置かれたバーを見つめる。吸い込んだ空気に体温が上がる。リズムを整えながら駆け出した足が地面からの力を捉え、風を体に送り込む。意識を満たすのは、踏み切った先に持ち上がる体の感覚ではなく、目の前を流れていく景色だった。
――遼平、僕と一緒に空を見にいこう。
その日、俺が記録会で跳んだ高さは中学時代の自分の記録には遠く及ばなかった。
それでも体は軽く、胸の奥には風が通っていた。
「悔しい?」
競技場を出る間際、いつの間にか隣に並んだ朝見が小さな声で訊いてきた。
「うん。でも、また跳べばいいだけだから」
自然に出てきた言葉は強がりではない、素直な気持ちだった。
「そうだね」
向けられた視線の奥と、踏み切った直後の景色が重なる。
――それは、今まで見たどんなものよりも、鮮やかで美しかった。
今なら、言えるかもしれない。
「あ、あのさ」
ずっと言えなかった、その一言を今なら。
「ありが……」
「ところで遼平はハネムーンどこに行きたい?」
言いかけた言葉は弾んだ声とともに放たれた予期せぬ言葉によって掻き消される。
「え? ハネムーン?」
「火曜日から夏休みだろう? 旅行に行くのにちょうどいいかなって。あ、新婚旅行じゃなくて婚前旅行になるのかな? まあ両方行けばいいよね。結婚式だって何回やってもいいし。旅行だって何度行っても楽しいに決まっているし」
「え、ちょ」
「えー、いいなあ」
「どこ行くんですか?」
「ハワイ? ヨーロッパ?」
「お土産よろしくな」
どこから聞いていたのか、いつの間にか集まっていた部員たちに俺と朝見は囲まれる。キラキラと目を輝かせる女子部員たちとニヤニヤと口元を緩める男子部員たち。記録会の結果がよかったのもあってか、みんなのテンションはいつも以上に高かった。
「もしかして結婚式も海外ですか?」
「えー、でもそしたら行けないじゃん」
「日本でもやればいいんじゃないの?」
「そうだな。ふたりを見届ける義務が俺たちにはあるよな」
「いや、ちょっと」
勝手に盛り上がり進んでいく話の内容に恐ろしくなり、止めようと声を上げた、その瞬間――。
小さな重みを肩に感じると同時に一瞬にして強まった香りが肌に触れた。何が起きたのか理解するよりも早く「きゃー!」と仲間たちから悲鳴のような歓声が上がる。
「ふふ、ごめんね。遼平が照れちゃうから、今はこれだけ」
柔らかな感触を押し当てられた頬からじわじわと熱が上がっていく。
「っ……!」
「あれ? 口がよかった?」
「いいわけ、ないだろ!」
このやり取りが翌日のニュースのトップを飾るなんて――この時の俺はまだ知らなかった。
「着いたら起こすから、寝ていいよ」
自然と漏れたあくびに気づいたらしい朝見が一瞬だけこちらに視線を向けた。クスッと小さく口元だけで笑うと緩やかなカーブに合わせてハンドルを動かす。ふわりと体にかかる力は優しく、車はどんな道でも滑らかに進んでいく。
陶器のような白い肌に包まれた横顔。サングラスの隙間から覗く目尻は小さく下がり、車内を流れる音楽に合わせて鼻歌が薄く聞こえてくる。――朝見はわかりやすいくらいにご機嫌だった。
「……寝ないし」
「無理しなくていいのに」
「寝ないから」
――無理しなかった結果が、昨日の出来事に繋がるなら意地でも寝るわけにはいかない。
昨日はすっかり油断していた。車で家に帰るのはいつものことで、時間にして十分足らず。お互いシートベルトをしているのでふたりきりとはいえ、一定の距離は保たれていた。何よりこの一か月あの朝の日のような出来事はなかったのだ。
――だから、油断した。
保健室を出る頃にはすっかり日は落ちてしまっていた。
並んでいた椅子は片付けられ、暗くなったグラウンドはもう見慣れた姿に戻っていた。大きな看板も得点ボードも見当たらない。体育祭後すぐに片付けられたのだろう。昨日の事故を考えれば当然と言えば当然だけど、少しだけ寂しさを感じる。
緩やかな風に混じるグラウンドの匂いを吸い込み、前を歩く背中に問いかけた。
「どこが優勝したの?」
「あれ? 覚えてないの?」
振り返った朝見は驚いたように目を丸くし瞬きを繰り返した。
「リレー走り切ったところで限界だったから。まわり見る余裕なくて」
古賀部長と最後まで競り合っていたことは覚えている。走りながら朝見の言葉が自分の中を照らしてくれたことも、不思議なほど風を感じたことも覚えている。けれど、どちらが先にゴールしたかまではわからなかった。確かめる余裕もないまま、気を失ってしまった。
「朝見?」
すぐに答えてくれるのだと思ったら、朝見はふっと息を吐き出し笑った。「そっか」とだけ言い、長い腕をこちらへと伸ばしてくる。思わず立ち止まった俺の手から荷物を引き取ると、空いたばかりの手をそのまま握られた。
「え、なに」
驚きのあまり振り払おうとした俺よりもわずかに早く、きゅっと力が強められる。
「また倒れたら困るでしょ?」
「もう倒れ……」
ない、と言いたいがすでに二度も朝見の前で倒れている。
体力を使い果たした体は今もまだ完全には回復しきっていない。
辺りは暗く学校に残っている生徒ももういない。人目を気にする必要がないなら、このまま朝見の優しさに甘えてもいいのかもしれない。それに――。
「遼平?」
「……なんでもない」
保健室で自分から朝見を抱きしめてしまったことを思い出し、顔が熱くなる。
――あれは、なんていうか、安心したってだけで。特別なものじゃない、けど。
指先から流れ込む体温が胸の奥を刺激する。トクトクと速くなっていく鼓動から目を逸らし、夜の闇に紛れるように顔を俯ける。
「じゃあ、行こうか」
「……」
静かに手を引かれるまま、車までの距離を歩く。校舎に設置されたライトの光から遠ざかると足元の影は薄く溶けていく。ひとつに繋がったまま見えなくなってしまった影に心臓がきゅっと痛んだ。頬に当たる風はいつもより冷たくて、繋がれている手よりも自分の体の方が熱いことを自覚させられた。
久しぶり、というほどではなかったけれど。その場所に少しだけ懐かしさを感じてしまった。助手席に座ると一瞬にして甘く柔らかな朝見の香りに包み込まれる。わずかな緊張感とそれを容易に受け入れてしまうほどの心地よさ。体の中で膨らむ安心感に車が動き出す頃には、意識は夢の中へと沈んでいた。
瞼を開けるほんの少し前、ふっと光を遮るように影が落ちてきた。温かな空気が肌に触れ、甘い香りが濃くなる。微かな物音にぼやけたままの視界を開く。――その瞬間、飛び込んできた光景にすぐには頭が追いつかなかった。
目の前にあるはずのフロントガラスが映る余地は一ミリもない。呼吸だけで触れてしまいそうな距離にあるのは薄暗い車内でもはっきりとわかる白い肌。目が合うというよりはそれしか見えないという方が正しい。目の前の青い瞳は色を深くし、俺の顔を映しこむ。
「――え?」
小さく息を吐き出すのがやっとだった。
これ以上ないほどの至近距離で繋がっていた視線はふわりと緩まった。柔らかく目を細め、いつもの笑顔を作った朝見が声を弾ませる。
「起きた? ちょうど家に着いたところだよ」
ふふっと笑いを零しながら、運転席へと体を戻していく朝見。身じろぎひとつまともにできないまま、心臓の音が大きくなっていく。
「……なに?」
「うん? 何もしてないよ。気持ちよさそうに寝てたから、起こすのかわいそうかなって見てただけ」
「……そう」
「うん。何かする前に遼平起きちゃったしね」
「……っ」
小さく笑って付け足された言葉に思わず体を起こしたが、外していなかったシートベルトに途中で押し戻された。「ふふ」と小さく笑った朝見がなぜか再び近づいてきて思わずシートに預けていた体が強張る。
カチャッとシートベルトの外される音が鳴り、体を締め付けていた感覚がなくなったのと同時に、耳に落とされたのは甘く柔らかな声だった。
「――何かしてほしかった?」
「そんなわけ、ないだろ!」
上がってしまった体温を隠し、車の外へと逃げるように飛び出した。
――それが昨日の出来事。
鼻の先に触れた潮の香りを吸い込み、窓の外に顔を向けてもう一度言葉を繰り返す。
「寝ないからな」
「そう? それは少し残念」
なんでだよ、と聞き返しそうになって寸前で思いとどまる。
ここは深く追求しないのが身のためだ。ただでさえ、今日はもういろいろとキャパオーバーなのだから。
「帰るの?」
次の行き先を聞いていないことを思い出し、視線だけを向けて問いかける。
信号が赤く変わったのに合わせて緩やかに景色が停止する。風の音が止まると今度は波の音が耳に届いた。太陽は視線の高さにある。あと一時間もすれば夕陽へと色を変えるだろう。
ハンドルに置いた手を離すことなく、こちらへと振り返った朝見がふわりと目を細めた。
「ううん。あともう一か所だけ寄りたいところがあるんだ」
「ふうん」
ふっと小さく息を震わせ零れた笑いに「なに?」と眉根を寄せる。
「いや、今朝とは大違いだなって」
――今朝。
両親が目の前に座る食卓で「今日こそデートに行こう」と朝見が言った。
俺は食後のメロンを口の中に入れたばかりで、すぐには言葉を返せなかった。
「っん、……デ」
「あらあら。それじゃあ、買い物も頼んでいいかしら?」
「ええ、もちろんです。車で行きますので重いものでもなんでも言ってください」
ようやく甘い塊を飲み込んだときにはもう遅かった。
「あとで遼平にメモ渡すわね」
にっこりと正面の母さんに微笑まれ、隣からは「せっかくだから大きなスーパーに寄ろうか?」と弾んだ声を出され、斜め前に座る父さんにはそっと目を逸らされ――いや、肩がわずかに震えているから笑われている。
「……ん」
せめてもの意思表示にと大きなため息を吐き出し、俺は不機嫌な表情のまま頷いた。
――いや、今だってため息をつきたい気持ちは変わらない。
そもそも「デート」を受け入れたわけじゃないのだ。母さんに頼まれた買い物を朝見ひとりに押し付けるわけにはいかなかっただけで。仕方なく来ただけで。これはそのついでのようなもので。だから、俺は何ひとつ納得していなかったし、何ひとつ楽しんでなどいないわけで。
「遼平」
聞こえていたはずの波音が消えた。
鼓膜に触れた甘い声に、その声が形作る自分の名前に一瞬にして意識を持っていかれる。
「デート、楽しいね」
「べつに俺は――」
続けるはずだった言葉は正面へと戻された視線に、緩やかに滑り出した車窓に遮られる。
「……」
――楽しんでなんか、ない。
そうすぐに口にできなかったのはただのタイミングの問題だと、頭の中で繰り返す。ひそかに楽しみにしていた映画の続編も、海を眺められるレストランも、新しくできたスポーツ用品店もべつに一人でも楽しめたのだから。だから、これは決して朝見といるから楽しいわけじゃない。ましてやデートだから、なんてことはないはずだ。
あともう一か所。そう言われて連れてこられたのは、競技場だった。
来月に記録会で来ることになっているその場所は、先月インターハイの地区予選が行われた場所でもあった。もしも今、もう一度予選が行われたなら結果は違っただろう。
俺たちには――『朝見凛』がいるのだから。
触れる空気に懐かしさが滲む。思わず足がすくみ、隣を歩いていた朝見との距離が開く。振り返った朝見の手がこちらへと伸ばされ、優しく肩に触れた。
「遼平」
「あ、うん」
触れられた大きな手にそっと押し出され、俺は止めてしまっていた足を再び動かした。
どうしてここに連れてこられたのか、その理由を尋ねる間もなく朝見は入口にいた係員に軽く会釈をし、中へと入っていく。どうしてこんなにもあっさり入れてしまうのか? さらに疑問が浮かんだところで、明らかに待ち構えていたと思われるスーツ姿の男の人が現れる。事前に何かしら話を通していたのだろう。とくに説明もなく、ゲートの先へと案内される。
視界が広がると同時に風が体を吹き抜けた。
学校のグラウンドではない、競技場の香り。短い芝の鮮やかな色が目に沁みる。スタンドとトラックの間の通路を歩きながら、まるで競技前のようだと体の奥がざわつき始める。
今日は大会ではない。俺たちのほかには誰もいない。
それでも――向けずにはいられなかった視線の先――それはあった。
スタンドを背にしたフィールドの左端。
「っ……」
ぐっと唾とともに息を飲み込まずにはいられなかった。
――どうして? と言葉を発することもできない。
朝見に問いかけたいことはありすぎるけれど、そのどれもが「朝見だから」で納得できてしまう。朝見だからどんなことでもできてしまうし、朝見ならどんなことが起きてもおかしくはなかった。
「遼平」
名前を呼ばれて顔を上げれば、いつもよりも透き通った青色の瞳がまっすぐ向けられる。ふわりと柔らかく笑ってから朝見はいつもと同じ優しい声で言った。
「ちょっと着替えてくるね」
「……」
俺をその場にひとり残し、朝見はメインスタンドの下へと行ってしまった。
視界を戻せば、目の前にはバーとマットがある。誰もいない競技場のフィールドの中、それだけが俺と同じようにポツンと残されている。
「まさか、な」
零れた声は風に攫われた。流れていく空気に懐かしさも苦しさも蘇っていく。ドクドクと鳴り始めた心臓の理由を俺自身もまだ理解できない。
――ただ、「逃げたい」とはもう思わなかった。
この空間に存在する匂いを、音を、温度を静かに体の中に受け入れていく。目を閉じ、すっと大きく息を吸い込んだタイミングで、近づいてくる足音に気づいた。
「ちょっと暑いかな」
振り返った先で朝見が白いジャージを脱ぎ小さく笑う。
「持っていてもらえる?」
差し出されたジャージを受け取り、頷く。
「遼平はそこにいてくれるだけでいいから」
――跳ぶの?
開きかけた口は息を吐き出しただけだった。
聞かなくても、わかる。その顔を見れば、わかる。――『朝見凛』は跳ぶのだと。
「ちょっとアップだけさせてね」
俺からは何も言葉にしなかったのに朝見はそう言って小さく笑った。
画面の向こう側から見ているだけだった。風も匂いも感じられない。その音もマイクを通せば変わってしまう。
――本物とは違う。
だからこそ、肌に直接触れる、感じられるすべてを記憶したいと自然に願ってしまうのだろう。目の前にあるのが手を伸ばし続けた、憧れ続けた光景だと知っているから。本当は一瞬も忘れたことがないとわかっているから。俺はそこに行きたいと祈るように手を伸ばし続けたのだから。
――これが。
言葉にはならなかった。
その姿を見てしまったら。その世界に一瞬でも触れてしまったら。きっともう目を逸らすことなんてできなくて。抑え込んできた想いは勝手に溢れ出てしまう。
空が見たい、と。
あの景色が恋しくてたまらない、と。
――それがわかっていたから近づきたくなかった。
こんなに遠くにいても、その体がマットに沈んでいく音すら聞こえてしまう。自分が跳んだわけでもないのに背中に触れる感触まで鮮明に伝わってくる。見上げた先の空の色を、流れていく景色を想像する自分がいる。俺はフィールドの端で立ち止まったまま動けない。
――遼平はそこにいてくれるだけでいいから。
ほんの数分前の朝見の声が耳の奥で蘇る。「持っていてもらえる?」と言われて渡されたジャージを握り締めることしかできない。湿気の混ざった緩やかな風が俺の前髪を揺らし、慣れ親しんだ芝の匂いとそばにあることが当たり前になってしまった甘い香りを舞い上がらせる。鼻の先から胸の奥まで広がる空気。吸い込めば吸い込むほど固くなった胸の奥が溶かされていく。必死で守ってきたその場所に優しく触れてくる。もういいのだと、もう大丈夫だからと、そう言われている気がした。
視界の奥で体を起こした朝見が手を挙げる。俺に向かって振っているのだと、きっといつもと同じ柔らかな笑顔を向けているのだと分かったけれど、足を動かすことも手を振り返すこともできない。ツンと鼻の奥が痛みだす。両目に集まった熱が視界をぼやけさせる。――まだ見ていたいのに。もっと触れていたいのに。どうしてこんなにも俺の体は言うことをきいてくれないのだろう。
「遼平」
いつの間にか朝見は目の前に立っていて。落とされた声に視線を上げれば、夕陽を背に微笑む、見慣れてしまった顔がある。何を言えばいいのか、何から言葉にすればいいのかわからない。どう答えていいかわからない。
わからない、けれど――わかっていることも、ある。
ここに連れてきてくれた意味。その理由。
敢えて何も言わなかったのも、こんな「デート」という形をとったのも、全部、全部――朝見がすることのすべてが――俺のためだって、もうとっくにわかっていた。
「遼平」
ただ名前を呼ばれただけなのに。そっと頬に指が触れただけなのに。その温かさに堪えきれなくなる。
「……っ」
噛みしめた唇のすき間から嗚咽が漏れる。これ以上は見られたくないと顔を下げるのと、体ごと優しい力に包み込まれたのはほぼ同時だった。
「大丈夫。もう大丈夫だから」
何が、なんて聞き返す必要はもうなくて。この腕を振り解くという選択肢もなくて。どこまでも優しく包み込んでくれるその温度に、その柔らかな香りに顔をうずめる。
「……跳びたい」
想いは言葉となって溢れた。
「跳びたい、です」
――ずっと言いたかった。
朝見の言葉を体の中に感じたときから、朝見に「跳べるよ」と言われたときから――本当はもうずっと前、朝見が現れたときからずっと、この言葉を言いたかった。
「うん」
そっと置かれた息が鼓膜に触れ、少しだけ強く朝見の腕に力が込められる。わずかにあった隙間がなくなり、Tシャツ越しの体温が肌に触れる。ぐっと濃くなった香りに心臓がバクバクと揺れ出す。
それでも、離れたいなんてもう思えなかった。ここが俺にとって深く息を吸える場所なのだと知ってしまったから。この熱が誰よりも俺を救ってくれるのだとわかってしまったから。だから――。
「最後にプレゼントがあるんだけど、受け取ってくれる?」
着替えをすませた朝見がフィールドへと戻ってくる。
手にしていたのは見覚えのあるロゴの入った袋。ここに来る前に立ち寄ったスポーツ用品店のものだ。
「え」
戸惑う俺に構うことなく朝見は自ら袋を外し、箱を取り出す。朝見の手の中で蓋が開けられると、真新しいニオイがふわりと浮かんだ。
差し込む夕陽に消えることのない青空が、目の前で優しく細められる。
赤みを残した空は夜の色へと染まり始めていたが、視線の先には変わることのない美しい青空があった。
「遼平」
どこまでも鮮やかに透き通る丸い瞳に映るのは自分の顔で。白く長い指が優しく触れるのは俺の指先で。芝の上に片膝をついた朝見が見上げるのも俺だった。――一体、何度この場面をやるのかと言ってやりたかったけれど、今は震える唇を噛みしめることしかできない。
泣きたいのか笑いたいのかさえもうわからなくて。込み上げてくるこの想いがなんなのかもわからなくて。ただ静かに差し出されたスパイクへと視線を向けることしかできない。
「これは僕からのプレゼントだよ」
「……っ」
言葉にはできなくて。声を出すことももうできなくて。優しく向けられるその瞳を、温かく沁みていくその声を受け止めることしかできなかった。
「遼平、僕と一緒に空を見にいこう」
キュッと紐を引くと、足全体を包み込む確かな感触が伝わってくる。
ここに来るのは一か月前のあの日――目の前で朝見が跳ぶのを見た日――以来、三度目だ。
視界に広がるのは学校のグラウンドではない、競技場のフィールド。
吸い込んだ空気に感じるのは懐かしさでも苦しさでもない。踏み切ることさえできなかったあの辛さを忘れたわけではなかったけれど。キレイさっぱり消し去れたわけではないけれど。それでも今の俺に流れるのは、中学時代の思い出ではなかった。
瞼の裏に浮かぶ新たな記憶。傾いていく陽射し。観客のいないスタンド。緩やかにスピードを上げていく足音。――過去の苦しさは蘇った憧れに塗り替えられた。
俺の中には、求め続けた光だけが――あの日見た朝見の姿だけが――存在していた。
梅雨を越えた空はどこまでも明るく晴れ渡っている。
青いトラックから続く地面に落ちた自分の影を踏みしめスタート位置で足を揃える。マークしたテープをたどり、まっすぐに置かれたバーを見つめる。吸い込んだ空気に体温が上がる。リズムを整えながら駆け出した足が地面からの力を捉え、風を体に送り込む。意識を満たすのは、踏み切った先に持ち上がる体の感覚ではなく、目の前を流れていく景色だった。
――遼平、僕と一緒に空を見にいこう。
その日、俺が記録会で跳んだ高さは中学時代の自分の記録には遠く及ばなかった。
それでも体は軽く、胸の奥には風が通っていた。
「悔しい?」
競技場を出る間際、いつの間にか隣に並んだ朝見が小さな声で訊いてきた。
「うん。でも、また跳べばいいだけだから」
自然に出てきた言葉は強がりではない、素直な気持ちだった。
「そうだね」
向けられた視線の奥と、踏み切った直後の景色が重なる。
――それは、今まで見たどんなものよりも、鮮やかで美しかった。
今なら、言えるかもしれない。
「あ、あのさ」
ずっと言えなかった、その一言を今なら。
「ありが……」
「ところで遼平はハネムーンどこに行きたい?」
言いかけた言葉は弾んだ声とともに放たれた予期せぬ言葉によって掻き消される。
「え? ハネムーン?」
「火曜日から夏休みだろう? 旅行に行くのにちょうどいいかなって。あ、新婚旅行じゃなくて婚前旅行になるのかな? まあ両方行けばいいよね。結婚式だって何回やってもいいし。旅行だって何度行っても楽しいに決まっているし」
「え、ちょ」
「えー、いいなあ」
「どこ行くんですか?」
「ハワイ? ヨーロッパ?」
「お土産よろしくな」
どこから聞いていたのか、いつの間にか集まっていた部員たちに俺と朝見は囲まれる。キラキラと目を輝かせる女子部員たちとニヤニヤと口元を緩める男子部員たち。記録会の結果がよかったのもあってか、みんなのテンションはいつも以上に高かった。
「もしかして結婚式も海外ですか?」
「えー、でもそしたら行けないじゃん」
「日本でもやればいいんじゃないの?」
「そうだな。ふたりを見届ける義務が俺たちにはあるよな」
「いや、ちょっと」
勝手に盛り上がり進んでいく話の内容に恐ろしくなり、止めようと声を上げた、その瞬間――。
小さな重みを肩に感じると同時に一瞬にして強まった香りが肌に触れた。何が起きたのか理解するよりも早く「きゃー!」と仲間たちから悲鳴のような歓声が上がる。
「ふふ、ごめんね。遼平が照れちゃうから、今はこれだけ」
柔らかな感触を押し当てられた頬からじわじわと熱が上がっていく。
「っ……!」
「あれ? 口がよかった?」
「いいわけ、ないだろ!」
このやり取りが翌日のニュースのトップを飾るなんて――この時の俺はまだ知らなかった。
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