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祝宴
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紅蓮は呆然としていた。
光源がないと足元がおぼつかなくなってきた夕方、ついに宴会が始まった。獣の脂に火をつけ木に燃え移らせた、大きな炎が村の中心で燃えている。茣蓙の外側にもいくつか篝火が用意されていて、村全体が煌々と明るく照らされていた。
そんなことよりも、だ。
紅蓮の思考はぐっちゃぐちゃで、目の前の食事とか酒とか、大皿に盛られた料理とか、わいわい騒ぐ村人たちとか、そんな瑣末なものには思考が向かないほど混乱していた。
────いやいやいやいや、なんだよそれ!?
女衆がにやにやしながら、旦那の隣で紅蓮を見つめている。昼過ぎ、女衆が紅蓮を櫻に近付けなかったのは、紅蓮のこの表情を見たかったからだと納得がいった。
そのくらい、紅蓮は目を見開いて固まりながら、主役席にいる櫻の姿を凝視していた。普段は長が座るその位置に、快気祝いと18年分の誕生祝いの主役、櫻が座っている。
紅蓮たちと大して変わらない食事を摂れるようになり、栄養が体に回ったことで、肌も、髪も、体つきも、全て成長して綺麗になった少女──否。女性が、めかし込んでそこに座っている。
火の灯りで照る艶々とした綺麗な髪は、繊細な桜の簪で綺麗にまとめ上げられている。櫻は化粧が苦手だから、化粧は本当に最低限。なのに艶っぽく綺麗なのは、彼女が本来持つものの質がいいからだろうか。
見慣れない大陸の衣装は、薄い布をたっぷりと使った華やかなものだ。紺の生地に満開の桜と金の枝、そして薄い翡翠色と、真冬の早朝の空のような薄い水色の蝶が舞っている。どこか楓の振袖を連想させるが、デザインが全く違って、けれど夜桜が櫻にとても似合っていて。
文字通り、紅蓮は言葉を失っていた。
昨日だって桜の姿を見ていたはずなのに、普段の彼女と着飾った彼女は全く違っていて。
────嗚呼、もう無理だ。
目を逸らし続けた言葉が、目の前で踊る。
「あ、お兄ちゃん」
紅蓮の姿を捉えた櫻の目が、トロリと甘く蕩けて紅蓮を見つめる。紅蓮を見つけられたことがどれほど嬉しいのか、ほんのりと頬を染めて腰を上げかけた。それを制して、自分から近づいていく。彼女の右隣に腰掛けて、持ってきた野草の天麩羅を一口頬張った。
「……誕生日おめでとう、櫻」
この桜が見頃な日を選んだのは大蛇だった。櫻を拾った日が、この日だったという。ならばその日を櫻の誕生日にしようと、櫻も含めて話し合って決めた。
だからこの言葉は、正真正銘、誕生日の祝いの言葉。出会う前までの9年と、出会ってからの9年。18年間誰からも伝えられなかった祝いの言葉。
「…………ありがとう。お兄ちゃん」
恥ずかしそうに櫻は微笑んだ。手元の盃を一口飲む。
のそりのそりと大蛇が櫻の左隣にやってきて、彼女の隣で酒樽に頭ごと体を突っ込んだ。
……………………。
────突っ込んだ!?!?!?
「ジイさん!?!?」
「いやーーー!人間の酒とは美味い!!ひじょーーーに美味い!!!いくらでも飲めるなぁ!」
「だからって樽ごと!?!?」
「くぴ。おじいちゃん、お酒大好きなんだねぇ。お祝いの日くらいいいんじゃないかなぁ?くぴ」
「おい待て櫻、何をすごい勢いで飲んでる」
んー?と言いながら、櫻は手元の盃をまた傾ける。盃というかお猪口だ。
「櫻、ようやく先生から治療は終わりって言われたんだ。早速酒を飲んでどうする」
「ちょっとなら大丈夫!たぶん!」
「たぶん、って付いてるじゃないか!先生!先生ー!」
声を上げながら周囲を見回すが、ようやく見つけた君月は完全に出来上がって隅の方で寝ていた。畜生、こんな時なのに使えない。
「あの男は……!」
「わっぱぁ、わかっとらんなぁ!酒は度が過ぎなければ薬になるんだぁ、度が過ぎない程度に櫻も飲めぇ!」
「はぁーい!」
「おい!その話誰に吹き込まれたんだ!」
「伊藤から~」
「おい、伊藤のおっさん!!」
麦酒片手に筍の煮付けを食べている獣狩の男に詰め寄った。けれど彼もまた酔っているので、手に持っていた麦酒を薦められただけで話にならない。彼から逃れるために一口だけ飲んだが、やはり好きになれそうにない味だった。
自分の席に戻って、酒の匂いをかき消したくて湯呑みのお茶を一気に煽った。横から、ふにゃふにゃした櫻の声がかかる。
「ねぇねぇ、お兄ちゃん」
「────。……さ、くら、四つん這いになるな。せっかくの衣装が汚れるぞ」
一瞬息を呑んで、冷静を装いなんとかそう言った。
櫻が四足歩行の猫みたいに、四つん這いで紅蓮に近寄って来ていたのだ。よりにもよって今日の服は大陸の衣装。鎖骨も見えるほど胸元の広い作りだから、どうしたって視線が揺らぐ。
────嗚呼、畜生!頭が揺れる!
紅蓮の動揺など露知らず、ぽすん、と、櫻が紅蓮の片胡座の間に座った。随分と前にしなくなった座り方で、紅蓮は更に動揺する。視線を右往左往させたいはずなのに、目の前にある櫻の白く細い頸から目が離せない。
「えへへ、ねぇお兄ちゃん」
そんな紅蓮にはやはり気付きもせず、櫻は幼い頃のように、紅蓮の胡座の上でキャッキャとはしゃぐ。紅蓮は頭を抱えたい気分だ。否、目元を覆って頭を抱えていた。既に。
「──おい、櫻」
「お兄ちゃんも飲むー?」
そう言って差し出されたのは、どう考えても病み上がりが持つには相応しくない大きさの徳利。しかもそれが櫻のお膳の隣に何個も並んでいるのだ。紅蓮は信じられないものを見た気分で女衆を呪った。こんな量の酒を飲ませるな、病み上がりに。
「櫻、酒、離せ」
「んぇー」
「ほら、お猪口もだ。没収」
櫻の手からそれらを取り上げる。
「ぼっしゅーってなにぃ?」
「取り上げること──ちょ、おい、こら櫻」
「やーだ、のむー」
そう言って、取り上げた酒を取り返そうと身を乗り出してくるからたまったものじゃない。紅蓮の胸に手をつきながら不安定な姿勢で手を伸ばすから、櫻の親としての思考が櫻の腰を抱き寄せて支えた。
ほんの数年前まで、栄養が足りていなくてやせぎすだったから、栄養が巡ったことで櫻の身体は急激に成長した。『今までできなかった分を一気にやります』とでも言うように、毎晩櫻は成長痛に苦しんでいたのだ。本人も急に変わった身体をわかっていなくて、背の低い洞窟の入り口に後頭部を頻繁にぶつけていたのだけれど。
────こういうのは、本当にまずい!
自分が1人の女性だという自覚がまだ薄いから、距離の詰め方が子供の頃と同じなのだ。目の前に迫る櫻の真っ白な胸元に、櫻の兄としての思考がグラグラ揺さぶられて、紅蓮は本当に気絶しそうになる。
なんとか後ろ手に手をついたけれど、紅蓮の体の上の櫻は、本当に酒しか目に入っていないようで。
柔らかな胸が、熱い吐息が、甘い香りが。
間近に迫って、酒の入った紅蓮の思考を掻き混ぜる。
「──さ、くら。これ以上は、本当に……まずいから……!」
考えたこともなかった──否。
否、否、否!
意図的に、作為的に、恣意的に。時には、故意的に。
考えないようにしていた事実が、紅蓮の脳裏をジリジリと灼いていく。
柔らかな身体、細い腰、薄い腹や肩、紅蓮の思考をいとも容易く蕩かす甘い香りが、意識すればするほど【娘】で、【妹】で、育てなければならない【庇護の対象】で、紅蓮の【生きる理由】だった女の子が──1人の女性だと、認識させられる。
「……さくら、頼む離れてくれ……これ以上はなんか、もう……俺がもたない」
脳が蕩ける。思考が茹る。理性が瓦解する。
「えぇー、なんでぇ?」
「なんでも!」
紅蓮の胸に両手をついて、櫻は渋々起き上がった。酒のせいで瞳は蕩け頬は紅潮していて、酷く扇情的で。
ほぼ押し倒されている構図だった紅蓮は、どうにか起き上がりながらため息をひとつついた。
────嗚呼。もうだめだ。
認めるしかない。
出会ってからの9年間、紅蓮の胸の内で燻り続けたこの感情は、決して【庇護】などではないのだと。
目の前の櫻を見る。
眠る直前のようなぽやぽやした雰囲気と重そうな瞼が、煌びやかで華やかな衣装と全く合っていなくて。
────見た目は本当に綺麗だけれど、ちゃんと中身は櫻だな。
そう思うとなんだかやはり可愛らしくて、もう一つため息をついてさっきの行動も許してしまう。
「櫻はこれ以上飲むな」
「むぅ」
唇を尖らせると、更に幼さが際立った。黙っていれば一丁前の美人なのに、表情はこんなにも豊かで幼い。
「なんだー、櫻はもう飲まんのか?なら儂が飲むぞぉ!!ぐぴー!」
「……おいジイさん」
「んぎゃ、なんじゃこれはぁ!?!?酒ではないではないか!!!」
「はぁ?」
素っ頓狂な声を上げてしまったが、大蛇が飲んでいるのは確かに櫻のお膳の隣に並んでいたものだ。よく見ると、紅蓮や他の獣狩たちのお膳の横に並んでいる徳利とは形が違う。
大蛇が「酒はどこだー!次の樽を持って来ーい!」なんて叫んでいるが、紅蓮は完全無視を決め込んで、手の中の徳利を凝視する。櫻から取り上げたその徳利に、行儀は悪いがそのまま口をつけて飲み込めば、甘ったるい酒の匂いが口の中を占領する──けれど、この味は……
「…………あ、甘酒?」
「あったりまえでしょう?病み上がりの子にお酒なんて飲ませないわよ」
声を掛けてきたのは、櫻に負けず劣らず、大胆に衣装の胸元をはだけさせた女性、島田麗羅だった。櫻が今着ている異国の衣装と、なんとなくの意匠が似ている。櫻の服は、大陸で遊女をやっていた経歴を持つ彼女が、懐かしがって買った衣装なのかもしれない。
──なんて、そんなことより。
「……じゃあなんで櫻は酔ってるんだ!?」
「んんー」
櫻は眠そうに目元を擦る。せっかく離れたのにまた紅蓮の胸にくっついて、完璧に紅蓮の胸で寝る体勢だ。紅蓮の胸にぐりぐりと頭を押し付け、安定する位置を探ってモゾモゾと動く。柔らかになった髪が肌に触れてくすぐったい。
「あらあらぁ~、お酒なんて飲んだこともない子だからか、甘酒程度でも酔っちゃったのね。子供でも飲めるはずなんだけど……」
おっかしいわねぇ~、と言いながら麗羅は旦那の元に帰っていく。何をしに来たんだ、と思いながら、絶好の位置を見つけてウトウトし始めている櫻を引き剥がそうと試みる。
「おい櫻」
「んー、おにいちゃん……」
「あ、こら抱きつくな」
「んん……ぐぅ」
「…………嘘だろ、数秒で寝たよ……全く……」
────人の気も、知らないで。
お前は全然、全く、何にもわかっていないから、そんな風に俺に気を許して、甘えて、擦り寄って、俺の胸で眠るのかもしれないけど。
この感情が普通じゃないことくらい、とうの昔に紅蓮も気付いている。
紅蓮の知らない櫻を大蛇は沢山見て、知って、支えて、同じ時間を過ごした事実に羨ましさを感じるのも。
紅蓮が手伝わないとできなかった物事が、いつの間にかできるようになっていると寂しさを感じるのも。
紅蓮の知らないところであった大蛇との楽しげな思い出話に、行き場のない嫉妬心を感じるのも。
仕事で村を空けている間、知らないうちに女衆に櫻が懐いていると、何故か面白くないのも。
他の獣狩と櫻が楽しそうに世間話をしていると、なんだか苛々するのも。
【子への愛】【兄妹間の愛】が、ただただ純粋な【愛情】【恋慕】に変わるのはとても簡単で。
────嗚呼、嗚呼。
桜が満開に咲く、満月の夜。薄ぼんやりと、けれど確かな光量で輝く月を見上げながら、紅蓮は今日、最後と決めたため息をついた。
────櫻、俺は、君を──
光源がないと足元がおぼつかなくなってきた夕方、ついに宴会が始まった。獣の脂に火をつけ木に燃え移らせた、大きな炎が村の中心で燃えている。茣蓙の外側にもいくつか篝火が用意されていて、村全体が煌々と明るく照らされていた。
そんなことよりも、だ。
紅蓮の思考はぐっちゃぐちゃで、目の前の食事とか酒とか、大皿に盛られた料理とか、わいわい騒ぐ村人たちとか、そんな瑣末なものには思考が向かないほど混乱していた。
────いやいやいやいや、なんだよそれ!?
女衆がにやにやしながら、旦那の隣で紅蓮を見つめている。昼過ぎ、女衆が紅蓮を櫻に近付けなかったのは、紅蓮のこの表情を見たかったからだと納得がいった。
そのくらい、紅蓮は目を見開いて固まりながら、主役席にいる櫻の姿を凝視していた。普段は長が座るその位置に、快気祝いと18年分の誕生祝いの主役、櫻が座っている。
紅蓮たちと大して変わらない食事を摂れるようになり、栄養が体に回ったことで、肌も、髪も、体つきも、全て成長して綺麗になった少女──否。女性が、めかし込んでそこに座っている。
火の灯りで照る艶々とした綺麗な髪は、繊細な桜の簪で綺麗にまとめ上げられている。櫻は化粧が苦手だから、化粧は本当に最低限。なのに艶っぽく綺麗なのは、彼女が本来持つものの質がいいからだろうか。
見慣れない大陸の衣装は、薄い布をたっぷりと使った華やかなものだ。紺の生地に満開の桜と金の枝、そして薄い翡翠色と、真冬の早朝の空のような薄い水色の蝶が舞っている。どこか楓の振袖を連想させるが、デザインが全く違って、けれど夜桜が櫻にとても似合っていて。
文字通り、紅蓮は言葉を失っていた。
昨日だって桜の姿を見ていたはずなのに、普段の彼女と着飾った彼女は全く違っていて。
────嗚呼、もう無理だ。
目を逸らし続けた言葉が、目の前で踊る。
「あ、お兄ちゃん」
紅蓮の姿を捉えた櫻の目が、トロリと甘く蕩けて紅蓮を見つめる。紅蓮を見つけられたことがどれほど嬉しいのか、ほんのりと頬を染めて腰を上げかけた。それを制して、自分から近づいていく。彼女の右隣に腰掛けて、持ってきた野草の天麩羅を一口頬張った。
「……誕生日おめでとう、櫻」
この桜が見頃な日を選んだのは大蛇だった。櫻を拾った日が、この日だったという。ならばその日を櫻の誕生日にしようと、櫻も含めて話し合って決めた。
だからこの言葉は、正真正銘、誕生日の祝いの言葉。出会う前までの9年と、出会ってからの9年。18年間誰からも伝えられなかった祝いの言葉。
「…………ありがとう。お兄ちゃん」
恥ずかしそうに櫻は微笑んだ。手元の盃を一口飲む。
のそりのそりと大蛇が櫻の左隣にやってきて、彼女の隣で酒樽に頭ごと体を突っ込んだ。
……………………。
────突っ込んだ!?!?!?
「ジイさん!?!?」
「いやーーー!人間の酒とは美味い!!ひじょーーーに美味い!!!いくらでも飲めるなぁ!」
「だからって樽ごと!?!?」
「くぴ。おじいちゃん、お酒大好きなんだねぇ。お祝いの日くらいいいんじゃないかなぁ?くぴ」
「おい待て櫻、何をすごい勢いで飲んでる」
んー?と言いながら、櫻は手元の盃をまた傾ける。盃というかお猪口だ。
「櫻、ようやく先生から治療は終わりって言われたんだ。早速酒を飲んでどうする」
「ちょっとなら大丈夫!たぶん!」
「たぶん、って付いてるじゃないか!先生!先生ー!」
声を上げながら周囲を見回すが、ようやく見つけた君月は完全に出来上がって隅の方で寝ていた。畜生、こんな時なのに使えない。
「あの男は……!」
「わっぱぁ、わかっとらんなぁ!酒は度が過ぎなければ薬になるんだぁ、度が過ぎない程度に櫻も飲めぇ!」
「はぁーい!」
「おい!その話誰に吹き込まれたんだ!」
「伊藤から~」
「おい、伊藤のおっさん!!」
麦酒片手に筍の煮付けを食べている獣狩の男に詰め寄った。けれど彼もまた酔っているので、手に持っていた麦酒を薦められただけで話にならない。彼から逃れるために一口だけ飲んだが、やはり好きになれそうにない味だった。
自分の席に戻って、酒の匂いをかき消したくて湯呑みのお茶を一気に煽った。横から、ふにゃふにゃした櫻の声がかかる。
「ねぇねぇ、お兄ちゃん」
「────。……さ、くら、四つん這いになるな。せっかくの衣装が汚れるぞ」
一瞬息を呑んで、冷静を装いなんとかそう言った。
櫻が四足歩行の猫みたいに、四つん這いで紅蓮に近寄って来ていたのだ。よりにもよって今日の服は大陸の衣装。鎖骨も見えるほど胸元の広い作りだから、どうしたって視線が揺らぐ。
────嗚呼、畜生!頭が揺れる!
紅蓮の動揺など露知らず、ぽすん、と、櫻が紅蓮の片胡座の間に座った。随分と前にしなくなった座り方で、紅蓮は更に動揺する。視線を右往左往させたいはずなのに、目の前にある櫻の白く細い頸から目が離せない。
「えへへ、ねぇお兄ちゃん」
そんな紅蓮にはやはり気付きもせず、櫻は幼い頃のように、紅蓮の胡座の上でキャッキャとはしゃぐ。紅蓮は頭を抱えたい気分だ。否、目元を覆って頭を抱えていた。既に。
「──おい、櫻」
「お兄ちゃんも飲むー?」
そう言って差し出されたのは、どう考えても病み上がりが持つには相応しくない大きさの徳利。しかもそれが櫻のお膳の隣に何個も並んでいるのだ。紅蓮は信じられないものを見た気分で女衆を呪った。こんな量の酒を飲ませるな、病み上がりに。
「櫻、酒、離せ」
「んぇー」
「ほら、お猪口もだ。没収」
櫻の手からそれらを取り上げる。
「ぼっしゅーってなにぃ?」
「取り上げること──ちょ、おい、こら櫻」
「やーだ、のむー」
そう言って、取り上げた酒を取り返そうと身を乗り出してくるからたまったものじゃない。紅蓮の胸に手をつきながら不安定な姿勢で手を伸ばすから、櫻の親としての思考が櫻の腰を抱き寄せて支えた。
ほんの数年前まで、栄養が足りていなくてやせぎすだったから、栄養が巡ったことで櫻の身体は急激に成長した。『今までできなかった分を一気にやります』とでも言うように、毎晩櫻は成長痛に苦しんでいたのだ。本人も急に変わった身体をわかっていなくて、背の低い洞窟の入り口に後頭部を頻繁にぶつけていたのだけれど。
────こういうのは、本当にまずい!
自分が1人の女性だという自覚がまだ薄いから、距離の詰め方が子供の頃と同じなのだ。目の前に迫る櫻の真っ白な胸元に、櫻の兄としての思考がグラグラ揺さぶられて、紅蓮は本当に気絶しそうになる。
なんとか後ろ手に手をついたけれど、紅蓮の体の上の櫻は、本当に酒しか目に入っていないようで。
柔らかな胸が、熱い吐息が、甘い香りが。
間近に迫って、酒の入った紅蓮の思考を掻き混ぜる。
「──さ、くら。これ以上は、本当に……まずいから……!」
考えたこともなかった──否。
否、否、否!
意図的に、作為的に、恣意的に。時には、故意的に。
考えないようにしていた事実が、紅蓮の脳裏をジリジリと灼いていく。
柔らかな身体、細い腰、薄い腹や肩、紅蓮の思考をいとも容易く蕩かす甘い香りが、意識すればするほど【娘】で、【妹】で、育てなければならない【庇護の対象】で、紅蓮の【生きる理由】だった女の子が──1人の女性だと、認識させられる。
「……さくら、頼む離れてくれ……これ以上はなんか、もう……俺がもたない」
脳が蕩ける。思考が茹る。理性が瓦解する。
「えぇー、なんでぇ?」
「なんでも!」
紅蓮の胸に両手をついて、櫻は渋々起き上がった。酒のせいで瞳は蕩け頬は紅潮していて、酷く扇情的で。
ほぼ押し倒されている構図だった紅蓮は、どうにか起き上がりながらため息をひとつついた。
────嗚呼。もうだめだ。
認めるしかない。
出会ってからの9年間、紅蓮の胸の内で燻り続けたこの感情は、決して【庇護】などではないのだと。
目の前の櫻を見る。
眠る直前のようなぽやぽやした雰囲気と重そうな瞼が、煌びやかで華やかな衣装と全く合っていなくて。
────見た目は本当に綺麗だけれど、ちゃんと中身は櫻だな。
そう思うとなんだかやはり可愛らしくて、もう一つため息をついてさっきの行動も許してしまう。
「櫻はこれ以上飲むな」
「むぅ」
唇を尖らせると、更に幼さが際立った。黙っていれば一丁前の美人なのに、表情はこんなにも豊かで幼い。
「なんだー、櫻はもう飲まんのか?なら儂が飲むぞぉ!!ぐぴー!」
「……おいジイさん」
「んぎゃ、なんじゃこれはぁ!?!?酒ではないではないか!!!」
「はぁ?」
素っ頓狂な声を上げてしまったが、大蛇が飲んでいるのは確かに櫻のお膳の隣に並んでいたものだ。よく見ると、紅蓮や他の獣狩たちのお膳の横に並んでいる徳利とは形が違う。
大蛇が「酒はどこだー!次の樽を持って来ーい!」なんて叫んでいるが、紅蓮は完全無視を決め込んで、手の中の徳利を凝視する。櫻から取り上げたその徳利に、行儀は悪いがそのまま口をつけて飲み込めば、甘ったるい酒の匂いが口の中を占領する──けれど、この味は……
「…………あ、甘酒?」
「あったりまえでしょう?病み上がりの子にお酒なんて飲ませないわよ」
声を掛けてきたのは、櫻に負けず劣らず、大胆に衣装の胸元をはだけさせた女性、島田麗羅だった。櫻が今着ている異国の衣装と、なんとなくの意匠が似ている。櫻の服は、大陸で遊女をやっていた経歴を持つ彼女が、懐かしがって買った衣装なのかもしれない。
──なんて、そんなことより。
「……じゃあなんで櫻は酔ってるんだ!?」
「んんー」
櫻は眠そうに目元を擦る。せっかく離れたのにまた紅蓮の胸にくっついて、完璧に紅蓮の胸で寝る体勢だ。紅蓮の胸にぐりぐりと頭を押し付け、安定する位置を探ってモゾモゾと動く。柔らかになった髪が肌に触れてくすぐったい。
「あらあらぁ~、お酒なんて飲んだこともない子だからか、甘酒程度でも酔っちゃったのね。子供でも飲めるはずなんだけど……」
おっかしいわねぇ~、と言いながら麗羅は旦那の元に帰っていく。何をしに来たんだ、と思いながら、絶好の位置を見つけてウトウトし始めている櫻を引き剥がそうと試みる。
「おい櫻」
「んー、おにいちゃん……」
「あ、こら抱きつくな」
「んん……ぐぅ」
「…………嘘だろ、数秒で寝たよ……全く……」
────人の気も、知らないで。
お前は全然、全く、何にもわかっていないから、そんな風に俺に気を許して、甘えて、擦り寄って、俺の胸で眠るのかもしれないけど。
この感情が普通じゃないことくらい、とうの昔に紅蓮も気付いている。
紅蓮の知らない櫻を大蛇は沢山見て、知って、支えて、同じ時間を過ごした事実に羨ましさを感じるのも。
紅蓮が手伝わないとできなかった物事が、いつの間にかできるようになっていると寂しさを感じるのも。
紅蓮の知らないところであった大蛇との楽しげな思い出話に、行き場のない嫉妬心を感じるのも。
仕事で村を空けている間、知らないうちに女衆に櫻が懐いていると、何故か面白くないのも。
他の獣狩と櫻が楽しそうに世間話をしていると、なんだか苛々するのも。
【子への愛】【兄妹間の愛】が、ただただ純粋な【愛情】【恋慕】に変わるのはとても簡単で。
────嗚呼、嗚呼。
桜が満開に咲く、満月の夜。薄ぼんやりと、けれど確かな光量で輝く月を見上げながら、紅蓮は今日、最後と決めたため息をついた。
────櫻、俺は、君を──
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