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夜桜と胡蝶
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重い溜息をつきながら診療所の扉を開けると、既に楓の靴と櫻の靴が玄関に並んでいて、二人の帰還を告げていた。
獣狩は、靴屋で買った靴を自分で調整する者が多い。その人その人で踏み込むときに力の入る場所は違うし、そもそも足に合っていて戦いやすくないと怪我の原因になる。紅蓮も例に漏れず、やろうと思えば一から靴を作れるくらいの知識はある。やらないけれど。
だから今櫻が履いている靴は、大きさが合わなくなったと言って譲ってもらった物を、櫻の足に合わせて紅蓮が調整したものだ。山暮らしの櫻は出会った当初、素足で山の中を動き回っていたので、怪我のことを考えて紅蓮の方から櫻に与えた。木に足を引っ掛けてしまった時や尖った石を踏んでしまった時の怪我が減ったらしく、櫻は気に入ってくれたように思う。いつもボロボロになるまで履いてくれるのはそういうことなのだと信じたい。
奥の座敷に向かっていると、君月と楓の楽しそうな話し声が聞こえてくる。櫻の声は聞こえないが、同じ部屋にいるだろうと判断して、障子越しに声をかけた。
「先生、紅蓮です。戻りましたー」
「嗚呼、おかえり!入っておいでよ!」
随分と楽しげな声なので、何をそんなに上機嫌にしているんだ?と思いながら障子を開ける、と──
「………………………………」
「どう?可愛いでしょう?」
「…………見合い?」
「──そう見えなくもないことは否定しないけども、他に言うことがあるだろう」
「……ただいま?」
「そっちじゃなくて!」
口ではそんなやり取りをしているけれど、視線は真っ赤な顔でカチンコチンになっている櫻に釘付けだった。
「お、にいちゃん」
「…………」
何を言われるのかと思えば。
「お、重い……」
「……うん。そう、だろうね……」
櫻は今、振り袖姿だった。夜色の生地に桜が咲き、その周りを胡蝶が舞う、華やかだけれど品があって綺麗な、明らかに質のいい着物。髪は綺麗に結い上げられて簪が刺され、櫻が紅蓮を見上げようと顔を動かすとシャラシャラ音を立てる。普段浴衣やら小紋やらの着物を、適当に浴衣用の細い帯で締めて暮らしていた櫻にとって、振り袖ほど高価で綺麗な重い着物は初めてだったのだろう。
「あ、あとね!」
「うん」
座椅子に腰かけながら、一層綺麗になった櫻を見る。もともと、櫻は綺麗な顔立ちをしている。ちゃんと風呂に入って手入れをすれば、宝石の原石のように輝く部類の子だと、ずっとそばで見てきた紅蓮は知っている。
「お風呂!すごいの!あったかいお湯がたくさんあって!泡が立つ石……えっと、楓さん、なんだっけ?」
「石鹸?」
「そう!石鹸!!あれすごいの!あれで身体を擦るとすっきりして、気持ちよくて!川で水浴びする時とは全然違うの!」
「え?か、川で水浴び……?」
楓が驚きの声を上げた。普通に考えればそうだろう。本当に、文字通りの意味で山育ちなのだ、櫻は。
「???」
「櫻はジイさんと一緒に川で水浴びしていたんだっけ」
「うん、おじいちゃんが水浴び好きだったから」
櫻はにこにこしながらそう語った。やはり櫻の中で大蛇という存在は大きいのだ。紅蓮とは、比較もできないくらいに。
「いいね、似合ってるよ、櫻」
「…………!……ぅ、ん……あり、がとぅ」
「櫻は夜の色が似合うな」
「私の見立てなの。可愛いでしょう?」
「はい、流石ですね」
────流石は、幼い紅蓮を取っ捕まえて、飽きもせずにあれこれと着物を着せ替えていただけある。
『似合うと思って』と言われて、端切れで作った半纏やら甚平やら浴衣やら、とにかくいろいろと貰った。それらを貰った二日後に『素敵な生地があったの!』と言われて浴衣を作ってもらったし、さらにその三日後には『余っているから貰って?』と言われてやたら手拭いをたくさんもらった。若者がいるととにかく世話を焼くのが大好きな人なのだ、楓という人間は。
浴衣は寝間着として重宝したし、何より手拭いはあって困るものではないので嬉しかったのだけれど──村で自分だけ貰っているというのが、なんだか申し訳なかった。周りに聞いたら『ああ、うん。通常営業だね』なんて言われたけれど。
「でも櫻ちゃん、お風呂で聞けなかったことなんだけれど……なんでそんなに、身体、傷だらけなの?」
「えっ、傷だらけ?どういうこと?」
「俺も知らないです。櫻、そうなの?」
「うーん、と。水浴びをする時、石で身体を擦っていたから、その時によく傷をつけちゃうの」
「「「…………」」」
櫻を除いた全員で、ぽかんとしてしまった。呆然と、櫻の顔を見つめる。当の櫻もまた、『なんで驚かれているの?』といった表情でぽかんとしている。
「え、あれ……私、変なこと言ったかな……?」
「ああ、いや……うん、そうだね……予想外だった、かな……」
「???え、お兄ちゃんも」
「まぁ……ね。石で身体を擦ったことはなかったな……仕事で野営するときも、手拭いで身体を拭いていたから……そっか、流石に駄目だと思って『水浴びに行く』って言っていた時はついて行かなかったんだけど……そうか……」
「そこで『ついて行ってました』って言っていたら、私紅蓮くんのこと嫌いになったかも」
「そこまで人間性捨ててないですよ俺」
櫻はうーん、と言いながら顎先に細い指を添えて小首をかしげる。その仕草は大変可愛いのだけれど、衝撃がものすごくて。紅蓮の思考回路はしばらく機能していない。
「そっか……石で擦る代わりに石鹼で擦るの?みんな」
「……まぁ、そんなところだな。普通は風呂なんて滅多に入らないものなんだけど、この村は特別」
紅蓮が訪れたことのある村では、大半の村が蒸し風呂程度で、しっかり湯船に入れるのはいつもこの村に帰ってきてからだ。身体を洗うことくらいはできるのだけれど、お湯に浸かって疲れを取ることができないのはやっぱりつらい。だから紅蓮は、櫻の元に顔を出しつつ、村に戻ることを欠かさなかった。疲れが取れないと次の仕事に支障が出てしまう。それではこの村全体が立ち行かなくなってしまうから、やはり風早の湯屋の存在は大きい。
「櫻ちゃん、お風呂は好きになった?」
「なった!…………ました」
「…………っ」
「ふふふ、ならよかったわ!」
無意識に返事をして、気恥ずかしくなって敬語に戻しました。そんなところだろうか。
紅蓮は思わず吹き出してしまった。むくれた櫻に横目で睨まれてしまったのだけれど、それもまた可愛らしくて、紅蓮は整えられた髪形を崩さないように撫でる。耳を伏せて心地良さそうにする猫みたいに、頭を撫でられると櫻はいつも目を閉じて擦り寄ってくる。
「ふふ、櫻ちゃんに振り袖を着つけていた時にね、ずーと借りてきた猫みたいに固まっていたのよ」
「ここに連れてきた時だってそうだったじゃないですか。置物みたいに固まってた」
「き、緊張してたの……お兄ちゃん以外の【人】に会ったことなんて、なかったから」
「そっか、そうだね。それなら仕方が無い。でも随分と楓には懐いたね」
「……なんだか、楓さんにずーっと褒められていた、ん、です。照れちゃって、緊張がどこかに行っちゃった……です」
「似合うとか、可愛いとか、すごくいいとか綺麗とか素敵とか最高とか……ずっと言っていたかもね?」
「ずっとそれを連呼されたら緊張なんて吹っ飛んで照れが勝るね、確かに。そう思わない?過去の被害者くん?」
「首がもげるほど同意します」
「まぁ、酷い」
楓が唇を尖らせた。そんな妻の姿にくすりと笑いながら、君月はぐるりと周囲を見回す。
「大蛇殿はまだ外かな?」
「ええ、散歩中です」
咄嗟の嘘だが、君月はごまかされてくれたらしい。そうかい、と言って話を続ける体制に入った。
「櫻さんには、しばらくはこの村で過ごしてもらいたい。できれば俺の目の届く範囲で。食事と夜寝るとき以外は自由に過ごして構わないけれど、紅蓮くんはどう?」
「櫻が嫌がらないなら、問題ありません」
「櫻さんは?」
「えと……私は嫌じゃない、けど……なにを、すればいいのか……」
「それについて詳しく話すね」
紅蓮と大蛇が外に散歩、櫻と楓が湯屋に行っている間に書いたのだろう紙が差し出された。櫻が生活するときの約束事がいくつか書いてある。
「『櫻さんの身体が食事を拒否している理由が何かを調べて、自由に食事できるようにする』っていうのが僕たちの目標だ。まずは薬で寄生虫を殺しつつ、櫻さんの身体が食べ物を消化できるように練習しないといけない」
「…………?消化?」
「そう、消化。ご飯を食べると、ご飯から栄養を貰って、要らないものは体外に排出する。そういう風に体はできている。でも櫻さんの身体は、今まで生きられる最低限しか栄養を摂っていないうえに、食事を吐き出してしまっているから、食べ物を消化するという機能がほとんど動いていないんだ。だから、その機能がちゃんと動くように、少しずつ少しずつ動いてもらう、って感じかな」
「…………???」
「先生、具体的には?」
「その紙だ」
紙には、『川の水を飲まない』とか『できるだけ食事以外で食べ物を食べない』とか『きちんと薬を飲む』とか、当たり障りないけれど、櫻には少し馴染みが無いかもしれない項目があった。
「水が飲みたければ、一声かけてくれればこの村の誰だってくれるからね。次の項目なんだけど、櫻さんが毎日三食食べるとき、どのくらいの量で吐いてしまうのかの上限が知りたい。その上限を調べている時に、俺たちの知らないところで食事をされてしまうとわからなくなるから、できるだけ避けてほしいんだ」
「……ご飯の時だけ食べていい、ってこと?……ですか?」
「そう、その考えでいいよ。水ならいいけどね」
櫻のために、紙に書かれている内容はすべてひらがなだ。紅蓮には少し読みづらい。
「……わかり、ました」
「最後は言わなくてもわかる通り。苦いと思うけど、薬はちゃんと飲んでね」
「苦いのは平気だろう?櫻」
「うん、平気!」
「そうか、山育ちはすごいねぇ。大人顔負けだ」
えらいえらい、と言いながら、君月は席を立つ。櫻のそばまでやってきて、紅蓮同様にポンポン、と頭を撫でた。紅蓮は少しムッとしたけれど、櫻は何の反応も無く君月を見上げている。櫻の目の前にしゃがみこんで、櫻の手を取った。
「今まで感じたことが無い『苦しさ』や『大変さ』があると思うけれど、一緒に頑張ろう。紅蓮くんと一緒に、美味しいご飯が食べたいだろう?」
「……!うん!」
「よし!今夜の食事から頑張ってみようか。紅蓮くん、彼女の寝泊りはこの診療所になるけど、構わない?」
「むしろ俺の家だと困ります、いろいろと」
「私が許しません!」
ふんす!と楓が『怒っています!』の仕草をする。紅蓮だっていきなり同じ家で過ごすことなんて想定に入れていない。仕事ばかりで洗濯物やら壊れた装備やらがざっくばらんに放置されている家に、櫻を連れて行くつもりはさらさらなかった。だから真っ先に、装備も外さずにこの診療所に来たのに。
「生活面は楓に頼むよ。薬は長……じゃなかった、風早と一緒に処方するし、食事もこの診療所で出すから。心配なら紅蓮くんもこちらにおいでね」
「ありがとうございます」
「まずは米を多めの水で煮た重湯から初めて、胃に負担がかからないようにしつつ様子を見よう。櫻さんは好き嫌いってある?」
櫻はパッと花が咲いたように表情を明るくして、
「お味噌が好きです!」
と、今日一番の笑顔でそう言い放った。
櫻は真面目に返答している。お兄ちゃんに教えてもらった『味噌』というものは世界で一番おいしい。
君月の据わった目が、じとーっと紅蓮を射抜いた。貫通したかもしれない。
「……………………紅蓮くん。純真無垢な山育ちの箱入り娘を、君の師匠色に染めて何をする気なの?」
「味噌好きに何か問題が?」
紅蓮は真面目に返答している。味噌は身体に益しかもたらさない。世界中の人間が味噌を食すべきだ。
「楓……彼に言葉が通じないよ……」
「じゃあお味噌汁もつけましょうか!味は薄めにするわね!」
「楓!?」
楓も真面目に返答している。櫻ちゃんが食べたいなら、夫と相談して出すっきゃない。
「……………………………………………………具材は、今は入れちゃ駄目だからね…………味もしっかり、薄くしてね…………」
君月は項垂れながら返答した。もうここまで来たら、何とかして自分が手綱を握るしかない。櫻と紅蓮と楓の手綱を握るのは困難な気しかしないが、人の言葉が通じるだけまだマシだろう。
「お兄ちゃんが持ってきてくれるお味噌大好き!」
「さすがは俺の妹だ櫻。そうだよな、味噌は美味いよな」
「うん!」
「お味噌が好きな櫻ちゃんも可愛いわ!」
────人の言葉、通じるだろうか?
獣狩は、靴屋で買った靴を自分で調整する者が多い。その人その人で踏み込むときに力の入る場所は違うし、そもそも足に合っていて戦いやすくないと怪我の原因になる。紅蓮も例に漏れず、やろうと思えば一から靴を作れるくらいの知識はある。やらないけれど。
だから今櫻が履いている靴は、大きさが合わなくなったと言って譲ってもらった物を、櫻の足に合わせて紅蓮が調整したものだ。山暮らしの櫻は出会った当初、素足で山の中を動き回っていたので、怪我のことを考えて紅蓮の方から櫻に与えた。木に足を引っ掛けてしまった時や尖った石を踏んでしまった時の怪我が減ったらしく、櫻は気に入ってくれたように思う。いつもボロボロになるまで履いてくれるのはそういうことなのだと信じたい。
奥の座敷に向かっていると、君月と楓の楽しそうな話し声が聞こえてくる。櫻の声は聞こえないが、同じ部屋にいるだろうと判断して、障子越しに声をかけた。
「先生、紅蓮です。戻りましたー」
「嗚呼、おかえり!入っておいでよ!」
随分と楽しげな声なので、何をそんなに上機嫌にしているんだ?と思いながら障子を開ける、と──
「………………………………」
「どう?可愛いでしょう?」
「…………見合い?」
「──そう見えなくもないことは否定しないけども、他に言うことがあるだろう」
「……ただいま?」
「そっちじゃなくて!」
口ではそんなやり取りをしているけれど、視線は真っ赤な顔でカチンコチンになっている櫻に釘付けだった。
「お、にいちゃん」
「…………」
何を言われるのかと思えば。
「お、重い……」
「……うん。そう、だろうね……」
櫻は今、振り袖姿だった。夜色の生地に桜が咲き、その周りを胡蝶が舞う、華やかだけれど品があって綺麗な、明らかに質のいい着物。髪は綺麗に結い上げられて簪が刺され、櫻が紅蓮を見上げようと顔を動かすとシャラシャラ音を立てる。普段浴衣やら小紋やらの着物を、適当に浴衣用の細い帯で締めて暮らしていた櫻にとって、振り袖ほど高価で綺麗な重い着物は初めてだったのだろう。
「あ、あとね!」
「うん」
座椅子に腰かけながら、一層綺麗になった櫻を見る。もともと、櫻は綺麗な顔立ちをしている。ちゃんと風呂に入って手入れをすれば、宝石の原石のように輝く部類の子だと、ずっとそばで見てきた紅蓮は知っている。
「お風呂!すごいの!あったかいお湯がたくさんあって!泡が立つ石……えっと、楓さん、なんだっけ?」
「石鹸?」
「そう!石鹸!!あれすごいの!あれで身体を擦るとすっきりして、気持ちよくて!川で水浴びする時とは全然違うの!」
「え?か、川で水浴び……?」
楓が驚きの声を上げた。普通に考えればそうだろう。本当に、文字通りの意味で山育ちなのだ、櫻は。
「???」
「櫻はジイさんと一緒に川で水浴びしていたんだっけ」
「うん、おじいちゃんが水浴び好きだったから」
櫻はにこにこしながらそう語った。やはり櫻の中で大蛇という存在は大きいのだ。紅蓮とは、比較もできないくらいに。
「いいね、似合ってるよ、櫻」
「…………!……ぅ、ん……あり、がとぅ」
「櫻は夜の色が似合うな」
「私の見立てなの。可愛いでしょう?」
「はい、流石ですね」
────流石は、幼い紅蓮を取っ捕まえて、飽きもせずにあれこれと着物を着せ替えていただけある。
『似合うと思って』と言われて、端切れで作った半纏やら甚平やら浴衣やら、とにかくいろいろと貰った。それらを貰った二日後に『素敵な生地があったの!』と言われて浴衣を作ってもらったし、さらにその三日後には『余っているから貰って?』と言われてやたら手拭いをたくさんもらった。若者がいるととにかく世話を焼くのが大好きな人なのだ、楓という人間は。
浴衣は寝間着として重宝したし、何より手拭いはあって困るものではないので嬉しかったのだけれど──村で自分だけ貰っているというのが、なんだか申し訳なかった。周りに聞いたら『ああ、うん。通常営業だね』なんて言われたけれど。
「でも櫻ちゃん、お風呂で聞けなかったことなんだけれど……なんでそんなに、身体、傷だらけなの?」
「えっ、傷だらけ?どういうこと?」
「俺も知らないです。櫻、そうなの?」
「うーん、と。水浴びをする時、石で身体を擦っていたから、その時によく傷をつけちゃうの」
「「「…………」」」
櫻を除いた全員で、ぽかんとしてしまった。呆然と、櫻の顔を見つめる。当の櫻もまた、『なんで驚かれているの?』といった表情でぽかんとしている。
「え、あれ……私、変なこと言ったかな……?」
「ああ、いや……うん、そうだね……予想外だった、かな……」
「???え、お兄ちゃんも」
「まぁ……ね。石で身体を擦ったことはなかったな……仕事で野営するときも、手拭いで身体を拭いていたから……そっか、流石に駄目だと思って『水浴びに行く』って言っていた時はついて行かなかったんだけど……そうか……」
「そこで『ついて行ってました』って言っていたら、私紅蓮くんのこと嫌いになったかも」
「そこまで人間性捨ててないですよ俺」
櫻はうーん、と言いながら顎先に細い指を添えて小首をかしげる。その仕草は大変可愛いのだけれど、衝撃がものすごくて。紅蓮の思考回路はしばらく機能していない。
「そっか……石で擦る代わりに石鹼で擦るの?みんな」
「……まぁ、そんなところだな。普通は風呂なんて滅多に入らないものなんだけど、この村は特別」
紅蓮が訪れたことのある村では、大半の村が蒸し風呂程度で、しっかり湯船に入れるのはいつもこの村に帰ってきてからだ。身体を洗うことくらいはできるのだけれど、お湯に浸かって疲れを取ることができないのはやっぱりつらい。だから紅蓮は、櫻の元に顔を出しつつ、村に戻ることを欠かさなかった。疲れが取れないと次の仕事に支障が出てしまう。それではこの村全体が立ち行かなくなってしまうから、やはり風早の湯屋の存在は大きい。
「櫻ちゃん、お風呂は好きになった?」
「なった!…………ました」
「…………っ」
「ふふふ、ならよかったわ!」
無意識に返事をして、気恥ずかしくなって敬語に戻しました。そんなところだろうか。
紅蓮は思わず吹き出してしまった。むくれた櫻に横目で睨まれてしまったのだけれど、それもまた可愛らしくて、紅蓮は整えられた髪形を崩さないように撫でる。耳を伏せて心地良さそうにする猫みたいに、頭を撫でられると櫻はいつも目を閉じて擦り寄ってくる。
「ふふ、櫻ちゃんに振り袖を着つけていた時にね、ずーと借りてきた猫みたいに固まっていたのよ」
「ここに連れてきた時だってそうだったじゃないですか。置物みたいに固まってた」
「き、緊張してたの……お兄ちゃん以外の【人】に会ったことなんて、なかったから」
「そっか、そうだね。それなら仕方が無い。でも随分と楓には懐いたね」
「……なんだか、楓さんにずーっと褒められていた、ん、です。照れちゃって、緊張がどこかに行っちゃった……です」
「似合うとか、可愛いとか、すごくいいとか綺麗とか素敵とか最高とか……ずっと言っていたかもね?」
「ずっとそれを連呼されたら緊張なんて吹っ飛んで照れが勝るね、確かに。そう思わない?過去の被害者くん?」
「首がもげるほど同意します」
「まぁ、酷い」
楓が唇を尖らせた。そんな妻の姿にくすりと笑いながら、君月はぐるりと周囲を見回す。
「大蛇殿はまだ外かな?」
「ええ、散歩中です」
咄嗟の嘘だが、君月はごまかされてくれたらしい。そうかい、と言って話を続ける体制に入った。
「櫻さんには、しばらくはこの村で過ごしてもらいたい。できれば俺の目の届く範囲で。食事と夜寝るとき以外は自由に過ごして構わないけれど、紅蓮くんはどう?」
「櫻が嫌がらないなら、問題ありません」
「櫻さんは?」
「えと……私は嫌じゃない、けど……なにを、すればいいのか……」
「それについて詳しく話すね」
紅蓮と大蛇が外に散歩、櫻と楓が湯屋に行っている間に書いたのだろう紙が差し出された。櫻が生活するときの約束事がいくつか書いてある。
「『櫻さんの身体が食事を拒否している理由が何かを調べて、自由に食事できるようにする』っていうのが僕たちの目標だ。まずは薬で寄生虫を殺しつつ、櫻さんの身体が食べ物を消化できるように練習しないといけない」
「…………?消化?」
「そう、消化。ご飯を食べると、ご飯から栄養を貰って、要らないものは体外に排出する。そういう風に体はできている。でも櫻さんの身体は、今まで生きられる最低限しか栄養を摂っていないうえに、食事を吐き出してしまっているから、食べ物を消化するという機能がほとんど動いていないんだ。だから、その機能がちゃんと動くように、少しずつ少しずつ動いてもらう、って感じかな」
「…………???」
「先生、具体的には?」
「その紙だ」
紙には、『川の水を飲まない』とか『できるだけ食事以外で食べ物を食べない』とか『きちんと薬を飲む』とか、当たり障りないけれど、櫻には少し馴染みが無いかもしれない項目があった。
「水が飲みたければ、一声かけてくれればこの村の誰だってくれるからね。次の項目なんだけど、櫻さんが毎日三食食べるとき、どのくらいの量で吐いてしまうのかの上限が知りたい。その上限を調べている時に、俺たちの知らないところで食事をされてしまうとわからなくなるから、できるだけ避けてほしいんだ」
「……ご飯の時だけ食べていい、ってこと?……ですか?」
「そう、その考えでいいよ。水ならいいけどね」
櫻のために、紙に書かれている内容はすべてひらがなだ。紅蓮には少し読みづらい。
「……わかり、ました」
「最後は言わなくてもわかる通り。苦いと思うけど、薬はちゃんと飲んでね」
「苦いのは平気だろう?櫻」
「うん、平気!」
「そうか、山育ちはすごいねぇ。大人顔負けだ」
えらいえらい、と言いながら、君月は席を立つ。櫻のそばまでやってきて、紅蓮同様にポンポン、と頭を撫でた。紅蓮は少しムッとしたけれど、櫻は何の反応も無く君月を見上げている。櫻の目の前にしゃがみこんで、櫻の手を取った。
「今まで感じたことが無い『苦しさ』や『大変さ』があると思うけれど、一緒に頑張ろう。紅蓮くんと一緒に、美味しいご飯が食べたいだろう?」
「……!うん!」
「よし!今夜の食事から頑張ってみようか。紅蓮くん、彼女の寝泊りはこの診療所になるけど、構わない?」
「むしろ俺の家だと困ります、いろいろと」
「私が許しません!」
ふんす!と楓が『怒っています!』の仕草をする。紅蓮だっていきなり同じ家で過ごすことなんて想定に入れていない。仕事ばかりで洗濯物やら壊れた装備やらがざっくばらんに放置されている家に、櫻を連れて行くつもりはさらさらなかった。だから真っ先に、装備も外さずにこの診療所に来たのに。
「生活面は楓に頼むよ。薬は長……じゃなかった、風早と一緒に処方するし、食事もこの診療所で出すから。心配なら紅蓮くんもこちらにおいでね」
「ありがとうございます」
「まずは米を多めの水で煮た重湯から初めて、胃に負担がかからないようにしつつ様子を見よう。櫻さんは好き嫌いってある?」
櫻はパッと花が咲いたように表情を明るくして、
「お味噌が好きです!」
と、今日一番の笑顔でそう言い放った。
櫻は真面目に返答している。お兄ちゃんに教えてもらった『味噌』というものは世界で一番おいしい。
君月の据わった目が、じとーっと紅蓮を射抜いた。貫通したかもしれない。
「……………………紅蓮くん。純真無垢な山育ちの箱入り娘を、君の師匠色に染めて何をする気なの?」
「味噌好きに何か問題が?」
紅蓮は真面目に返答している。味噌は身体に益しかもたらさない。世界中の人間が味噌を食すべきだ。
「楓……彼に言葉が通じないよ……」
「じゃあお味噌汁もつけましょうか!味は薄めにするわね!」
「楓!?」
楓も真面目に返答している。櫻ちゃんが食べたいなら、夫と相談して出すっきゃない。
「……………………………………………………具材は、今は入れちゃ駄目だからね…………味もしっかり、薄くしてね…………」
君月は項垂れながら返答した。もうここまで来たら、何とかして自分が手綱を握るしかない。櫻と紅蓮と楓の手綱を握るのは困難な気しかしないが、人の言葉が通じるだけまだマシだろう。
「お兄ちゃんが持ってきてくれるお味噌大好き!」
「さすがは俺の妹だ櫻。そうだよな、味噌は美味いよな」
「うん!」
「お味噌が好きな櫻ちゃんも可愛いわ!」
────人の言葉、通じるだろうか?
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