花影のさくら

月神茜

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医者先生、君月

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村に着くまでの道中でも、やはり櫻は食事の度に食べたものを吐いていた。
獣狩ししがりの村に向かうには、山の中を通る最短のルートでも一週間かかってしまう。村までの道筋を知らない櫻も一緒となれば、一週間以上かかるだろう。それが櫻の身体の負担にならないか心配だったのだが、紅蓮の想像以上に櫻は平気そうだった。紅蓮と出会う以前から食事の度になっていたから、紅蓮が考えているほど『食事を戻してしまう』という行為に負担を感じないらしい。
食後にふらりと姿を消して、数分後にはケロッとした何でもないような表情かおで戻ってくる。


「櫻、大丈夫か?」
「うん?大丈夫だよ?」
「……そっか」


冗談でもなんでもなく、本当に平気そうな口ぶりなので、紅蓮はそれ以上の追及をしなくなった。


「おいわっぱ。村にはあとどれくらいで着くのだ?」
「この調子だと、予定より早く着くと思うから……あと三日か四日かな。櫻の調子次第だけど、想像以上に櫻も動けるみたいだから」


櫻がどの程度体力があるのか、常に一緒にいるわけではない紅蓮にはわからなかったのだが、『その非常に細い体のどこにそんな体力があるのだろうか』と思うくらい櫻は紅蓮の後ろをついて行くことができていた。幼少期から山の中で過ごしていて、少しくらいの岩場や凹凸は全く障害にならないらしい。
しかし、櫻は川の横断が非常に苦手だった。倒木があるならば話は別だが、基本的には川を横断するなら岩を飛んでわたるしかない。その『飛ぶ』という動作が苦手らしかった。普段山を登ったり下りたりする中で『飛ぶ』という動作はあまり出てこない。それこそ川の横断くらいだろう。

櫻たちがいたのは【冬の山】の中腹より少し上の方で、近くの川はそこそこ勢いがあった。しかし太く苔生した倒木があったので、対岸に行きたいのならその上を渡るだけでよかった。だから岩を飛んで川を渡る、という経験が無くて、櫻は苦戦していたのだ。
けれど、川に差し掛かったら紅蓮が櫻の手を引いてやれば、何の問題なく渡れていた。本当に、その細い体のどこにそれだけの体力と腕力、脚力が隠れているのかさっぱりわからないのは変わらないのだが。

そうしてようやく到着した、獣狩ししがりの村。
その日は、ちょうど雲が多いものの青空も見える晴れの日で、紅蓮は村の女衆の機嫌がよさそうだな、と頭の片隅で考えていた。
みんな洗濯をしに行っているのか、昼過ぎの村の中には住人があまりいなくて、人とすれ違うことが無かった。大蛇おろちと共に行動しているので、それはそれでありがたい。


「ここだ」


紅蓮が躊躇いなくとある家の玄関扉を開ける。そこは村にいる医者のためにあてがわれた診療所だった。ずかずかと中に入って行き、大声で名前を呼ぶ。


「先生!君月先生!寝てるんですか!」
「…………」
「こりゃ寝てるな……櫻、ジイさん。ちょっと待ってて」
「う、うん……」


声を張り上げる紅蓮の姿を初めて見た櫻は、ぱちくりと瞬きしながら紅蓮を待つ。何やら櫻の見えないところでドカッ、とかドンッ、とか、聞き取れないが紅蓮の話声が聞こえてくる。手持無沙汰で周囲を見回した櫻の目には、診療所の中にあるものすべて、何が何やらさっぱりわからなかった。


────あ、本がある。


最終的に櫻に分かったのは、この診療所に『本』がある、ということだけだった。それ以外のものは名前もわからない。櫻は、紅蓮から言葉を教わるために本を貰ったことがあるので、『本』のことだけはわかる。自分の話している言葉に形があるなんて櫻は考えたこともなくて、それはもう驚いたものだ。

奥のほうから、紅蓮が何かを引きずりながら戻ってくる。引きずられているのは男性で、彼のうなじあたりにある服を掴みながら紅蓮が歩いているものだから、男性はジタバタしながらもがいている。


「──ったく、ほんとに楓さんから見限られますよ」
「嫁さんは俺がこういう人間だってわかってるんだよ。だから何も言われないし、手伝ってくれている。ありがたい限りだよ……というか紅蓮くん、首締まる……」
「そういうのを巷ではって言うんですよ。本当に貴方は、楓さんに頭上げないほうがいいですよ。足も向けて寝ちゃダメです」
「いやさすがに足は向けてないけどね?何ならいつも机で寝てるし……あでっ!」


櫻と大蛇おろちの目の前にやって来ると、紅蓮は男性の服を掴んでいた手を突然放す。後ろに体重をかけていた男性は、そのままゴロンと倒れてしまう。……かなり、大きくて痛そうな音を立てて。


「そんなことより、俺の連れてきたんで、診てください。随分前から体調が悪いらしくて」
「あいたたた、腰が……あのね紅蓮くん、君はもうちょっと年上を敬う気概をだね」
「椅子に座って、机に突っ伏して寝ていた先生が悪いです」
「ぐうの音も出ない正論。かなしいなぁ……」


口をへの字に曲げながら、君月はズレた眼鏡をくいと上げた。眠たげだった目が櫻を捉えると、一瞬ぽかんとしたような顔になって、すぐさま目を見開き──ものすごい勢いで紅蓮を振り向く。


「話に聞いてた女の子!?」
「そうです。俺の娘であり妹みたいな子」
「ついに連れてきてくれたのかい!!!」
「連れてきたというよりは、連れて来ざるを得なかったというか。随分前から──俺と会う前から、ずっと体調不良が続いていたらしいので」
「──ふむ、それはそれは……」

『体調不良』という言葉を聞いた瞬間に、君月が医者の顔になる。癖の強い髪に海外物の眼鏡をかけた四十路の君月は、櫻のことを上から下までじっと観察して、小さくうなずいた。
大蛇おろちの尻尾が櫻の背中を軽くペシンと叩く。


「櫻、ちゃんと挨拶せい」
「……え、ぁ、えと……さ、くら……です」
「さくらさん、だね。紅蓮くん、この子の名前の漢字は?」
「難しいほうの櫻」
「うん、ありがとう。──よろしくね、櫻さん」
「…………、ぅ、うん」


人懐っこい笑顔で、君月は櫻に目線を合わせて屈んだ。緊張で視線を彷徨わせる櫻は、じりじりと大蛇おろちのそばに移動して、大蛇おろちの長い体を抱きしめる。大蛇おろちの身体は、紅蓮が両手で手筒を作った程度の太さがある。紅蓮の腕に抱き着いている時のように隠れられてはいないが、櫻は大蛇おろちを抱きしめていても落ち着くらしい。
そして君月の視線は、櫻の隣でおとなしくしている大蛇おろちに向かう。


「──それでこちらが、件の?」
「はい。櫻を拾ってくれた、大蛇おろちです。人の言葉も普通に通じます」
「へぇ、それはそれは……お初にお目にかかります、大蛇おろち殿。この村で医師をしている、君月紫苑しおんといいます」
「うむ。君月殿か。わたし大蛇おろちと言う。名前は特にないから好きに呼んでもらって構わん」
「では大蛇おろち殿と」


臆することなく、笑顔でそう言った君月は、礼儀正しくお辞儀をした。驚くほど胡散臭いが、その所作は洗練されていた。再び眼鏡をくいっと持ち上げてから、体の向きを変えて奥へいざなうように言った。


「まずは座ろう。座って、ちゃーんと話を聞くよ。櫻さん、お茶は飲める?」
「……お、おちゃ……?」
「飲み物だ。飲む分には平気なんだっけ?」
「か、川の水なら少しだけ……たくさん飲むと、駄目」
「──うん?何が駄目?」
「後で話すので、とりあえず水とお茶、両方用意してくれると助かります」
「了解だ。こちらにおいで。靴は脱いでね」


君月の案内で進んだ奥の座敷には、脚が長めの机と椅子があった。長めといっても、長さは紅蓮の膝とだいたい同じくらいだ。机は座布団に座って茶を飲むには少し高いくらいの高さで、座敷用の椅子に座ると高さがちょうどよくなる。
椅子も机も初めて見た櫻は──そもそも、家やら畳やら机やら、村にあるものすべてを初めて見たのだ。借りてきた猫みたいに固まってしまっている。紅蓮以外の人間にも初めて会ったはずだ。玄関でもそうだったが、眉をハの字にして、視線を右往左往させている。肩も小さく震えていて、酷く緊張しているようだった。


「櫻さん、甘いものを食べたことはあるかな?きんつばがあるけれど」
「……???」
「食べ物はあまり。とりあえず話を聞いてくれませんか」
「──何か事情があるって顔だね。いいとも、聞かせておくれよ」
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