君のためなら親でも殺す

小貝川リン子

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 梅雨明け間近のある晩。夜遅くまで、稀一郎は眠らずに待っていました。降り始めた雨の音を聞いていたのです。屋根から水が漏るので、床に桶を置いて凌ぎます。そこに水滴が落ちると、ぽこぽこと小気味良い音を奏でるのでした。何か所も漏るので、桶だけでなく食事に使う椀も受け皿にします。それぞれ違う拍子で音を鳴らすのがリズミカルで心地いいのでした。

 頬杖をついてうつらうつらしていると、かたかたと玄関の戸が開きました。おかえり、と間延びした声で言った稀一郎は、瞬間目を疑いました。

「な、なん……どうしたんだお前、その恰好……」

 勢いよく立ち上がって、足元のお椀を蹴り倒してしまいます。中に溜まった雨水が零れました。

「あっ、やべ」
「はは、相変わらず馬鹿だな」

 薄く笑って、朔之介は雑巾を差し出しました。あまりにも通常運転なので、稀一郎は呆気に取られます。雑巾を受け取り、粗雑に床を拭きます。

「お前こそ馬鹿だろ。何だよ、それ」
「ああ、これか」

 朔之介は自身の体をちらりと見、傘を忘れたから、と呟きました。確かに全身ずぶ濡れで、毛先から裾から水が滴っていますが、稀一郎が言いたいのはそこではありません。怪訝な顔で人差し指を向けます。

「違ぇよ。その……喧嘩か?怪我したの?転んだ?」

 朔之介の、人と違う瞳を隠すための包帯が、深紅に滲んでいました。その包帯越しにもはっきりわかるほど、顔面が腫れています。鼻血を流した痕なのか赤いものがこびり付き、唇が割れてがさがさしています。着物はしわくちゃで、所々破れていたり汚れが付いていたりするのでした。走りながらやったのかと言いたくなるくらい雑な着付け方で、胸元からも赤黒い痣がちらちら覗きます。

「なんでもない。ちょっと、しくじっただけだ」
「はぁ?どういうことだよ。喧嘩にしてはおかしいよな。なんか、髪とかもすごく、がびがびだし……」

 髪の毛が糊で固めたようにいくつかの束になっています。綺麗な黒髪が台無しだと思って手に取り、しかしやはり異様なものを感じます。鼻を突く生臭さを、稀一郎はどこかで嗅いだことがあります。とても身近にある臭いです。

「…………乱暴されたな?誰にやられた」

 切れ長の三白眼を血走らせ、恐ろしく低い声で稀一郎は問いました。朔之介は物憂げに目を伏せ、歯切れ悪く話し始めます。

「倍払うからって言われて、ついていったら酷い目に遭った」
「もっとちゃんと話せ。どこで、誰にやられたんだ」

 稀一郎が肩を掴んで詰めるので、朔之介はげんなりした様子で顔をしかめます。

「いつもの、駅前の歓楽街か?相手は複数だな。何人いた?三人?四人?」
「最初は三人だったが、途中から増えたような……覚えていない」

 俺が殺してきてやる!と叫ぶ稀一郎の瞳孔は完全に開いています。玄関を蹴破って出ていこうとする稀一郎を、朔之介は慌てて引き留めました。

「や、やめろ馬鹿。いいんだよ、別に。これくらいのこと」
「全然よくねぇだろ!俺は許せねぇ」
「落ち着けよ。今さら何もできねぇだろ。あいつらももう帰っただろうし。お前が怒るようなことでもないだろ」

 朔之介になだめられ、稀一郎の目から徐々に炎が消えていきます。肩を掴んでいた腕を背中に回し、朔之介を掻き抱きました。

「離れろよ。お前まで汚れるし、臭いも移るぜ」
「そんなの気にしねぇ。なぁ、こんなことに慣れるなよ。お前はもっと怒っていいんだぞ」
「……慣れるしかねぇだろうが」

 いちいち傷ついていたら身が持たない、と言外にほのめかします。

 路地裏の人気のない場所へ連れ込まれて三人分を相手した後、唐突に殴られたのでした。朔之介が血を噴いてもお構いなしに行為は続きます。彼らは朔之介の頭をがっちり掴んで口淫を強要しました。根元まで無理やりくわえさせ、幾度となく精液を流し込むのです。精液が鼻血と混ざって気道を塞ぎ、朔之介は窒息しかけます。意識が朦朧として、人数が増えたことにも気づきませんでした。

「すごく楽しそうに殴るんだ。人を化かした狐は狩られるが、そのことに罪悪感を持つやつなんていないよな。まさにそんな感じだった。おれはいつだって、人間共に狩られる狐なのさ」

 朔之介の口調には諦念が表れていました。

「まぁ、この程度は日常茶飯事だ。今回のはちょっとやりすぎだけどな。街娼の、しかも男なんてこんなもんよ。殺されなかっただけマシってとこだな」

 稀一郎は何も言えず、どんな顔をすれば良いのかもわからず、ただ優しく抱擁するばかりでした。朔之介は稀一郎の胸にもたれて呟きます。

「でも、おれもあいつらのチンポ噛みちぎってやった。誰のもんかわからんが、股間押さえて泣いてたぜ。相当痛かったろうな。いい気味だ」

 そして声だけで笑いました。朔之介は汚れたままの恰好で稀一郎の寝ていた布団へ身を投げます。ぐったりと頭をもたげ、稀一郎を見ました。

「疲れた。眠い」
「あ、せめて着替えろよ。布団まで濡れちゃうだろ」
「ん……ああ、明日、全部やるから。ほっといてくれ」

 稀一郎の言葉も聞かずに朔之介はまぶたを閉じ、すぐに眠りに落ちました。

 翌日。朔之介が深い眠りから覚めると、稀一郎はすぐさま枕元へ飛んでいきます。心配そうなというよりは今にも泣き出しそうな顔で朔之介を覗き込みました。その瞳が稀一郎の姿を映しているのを確認すると、表情を和らげて安堵の息を漏らします。

「よかった。生きてた」
「死ぬわけないだろ……」
「だって、熱がすごくて」
「ねつ……?」
「そう。高熱でうなされてたんだぞ」

 稀一郎は下ろし立ての手拭いを冷水で濡らし、朔之介の額へ乗せました。朔之介は部屋の中を見回し、口を開くのすら億劫そうに問いました。

「今何時だ」
「もう昼過ぎ。お前、俺がいくら起こしても全然起きなくて」
「仕事は?」
「休んだ。病人をほっとけないだろ。雨に濡れたのがよくなかったんだ。薬あるから、ちゃんと飲めよ」
「ああ……悪かったな。面倒かけた」
「お前なぁ、そういう時はありがとうって言えばいいんだよ。面倒だなんて思ってねぇし、当たり前のことだろ」

 口ではそう言いつつ、稀一郎は微笑みました。

 昨晩、朔之介の服だけでも替えようと思って脱がした時、稀一郎は愕然としました。予想以上に酷い有様だったのです。全身血だらけで、ぼこぼこに腫れていました。首と腕、そして腰には指の痕が残り、鈍く滲んでいます。誰かが凄まじい力で押さえ付けて犯した痕だというのは明らかでした。耐えがたい現実に稀一郎の怒りの炎は燃え盛ります。

 しかし傷の手当が先決です。体を清め、常備しているガマの油を塗ります。朔之介の裸を間近にじっくり見るうち、古い傷もたくさん残っていることに気づきました。今回できたのではない傷痕が至るところに散見され、そこにも軟膏を塗りました。発熱したのは明け方で、それからずっと、稀一郎は献身的に看病しています。

「思ったより元気そうで安心した。起きられるか?」

 のそりと上体を起こした朔之介に、稀一郎は煎じた薬を飲ませます。作っておいた白粥も食べさせました。一口目をむせて吐き出したので、一旦冷ましてから再度口元へ運びます。

「どうだ?料理なんて慣れてないけど、味は悪くないよな」

 弱々しく咀嚼しながら、朔之介はうなずきました。大人しく稀一郎の箸から粥を食べる様はいじらしく、守ってあげたいという庇護欲が芽生えます。唇に付いた汚れを指で拭き取ってやると、熱に浮かされた瞳が稀一郎を見ます。熱のせいか、朔之介の表情はぽんやりしていて寄る辺なく、肌はほんのり上気し、呼吸は荒く苦しそうです。朔之介の丸い口が開いて、稀一郎は息を呑みます。

「つぎ、もっと」

 朔之介の指の先、稀一郎は自身の手元を見ました。

「へっ!?あっ、まだ食うの?」

 朔之介に見惚れて本来の目的を忘れていたことに気づきます。稀一郎は慌てて箸を持ち直しました。

「はやく、さっさとよこせ」

 曖昧な滑舌のくせに、朔之介は強気に要求してきます。しかしこういうところが不憫で愛おしいと稀一郎は思うのでした。

 食事を終え、朔之介はまた横になります。何かしてほしいことはあるかと稀一郎が問いました。朔之介はおずおずと、片手を布団の外へ出します。

「手、繋ぎたいの?」

 朔之介は素直にうなずきます。そばにいてくれ、と掠れた声で言いました。稀一郎は穏やかに笑み、緩く指を絡めて手を握りました。朔之介の手はほっそりとしなやかで、少し汗ばんでいました。

「眠るまでいるから、安心しろよ」
「違う、ずっとだ。ずっといてくれ」

 朔之介は強く手を握り返し、掌を密着させました。

「どこにもいくな」

 しっかりと指を絡ませ、儚げに仰ぎます。

「ど、どうしちゃったの。えらくしおらしいな」
「しおらしい……?」
「うん。ちょっと、かわいいかも」

 朔之介は何を思ったか、繋いだ手に唇を寄せ、子猫のように甘え始めました。熱い息が、稀一郎の荒れた手の上を滑っていきます。額に張り付いた前髪をすいてやると、気持ちよさそうに目を瞑ります。汗を拭こうかと問うといらないと言います。

「なぁ、朔之介」

 どうして売春なんかしてるんだよと、稀一郎は今まで避けてきた質問をぶつけてしまいました。朔之介は薄目で稀一郎を見、また唇で遊び始めます。

「……もう、やめちまえよ。体売るのなんて」

 朔之介は何も言いません。

「別に、卑しいからやめろってわけじゃねぇんだぜ。ただ、危険だろ。昨日みたいなことがまた起こるかもしれないなんて、心配なだけだ。わざわざ危ないことすんなよ」

 稀一郎は喉を震わせて訴えます。

「もしお前がいなくなったら、俺は独りになっちまうんだぞ。そんなの絶対許さねぇ」
「……そうは言うけどな」

 朔之介はやっと口を開き、たどたどしく言葉を紡ぎます。

「だって、寂しいんだ。毎晩切なくてたまらない。お前にはわからんだろうが」

 否定しようとして、やめました。稀一郎だって天涯孤独の身だし、故郷を思って涙を流す夜もありますが、朔之介の言う感覚とは別物なのだろうと思いました。稀一郎は朔之介の手をきつく握ったまま、黙って耳を傾けます。

「全部親父のせいだ。おれが人間になれるのは男を勃起させた時だけだ。その時だけは生きていられる。向こうもおれを尊重してくれる。対等でいられる」

 調子を変えず、淡々と続けます。

「気狂いの両親から生まれた人間が、まともになれるはずはなかったんだ。実の息子を犯すなんて……」

 恐怖と、生理的な嫌悪感から、稀一郎の喉がひゅっと音を立てました。嫌な汗が背中を伝います。朔之介が泣いているのではないかと見ますがそこに表情はなく、瞳は空虚に凪いでいました。

「とにかく寂しい。誰でもいいんだ。抱いて、好きだと言ってくれればいい。認めてほしい。欲しがってほしい。でも、おれは永遠に満たされないんだ。誰に何度抱かれても、欠けたものは戻ってこない」

 朔之介は、どうやら意識が不鮮明であるらしく、夢中で稀一郎の手を食みます。甘えているのか口淋しいのか、その両方でしょうか。

「俺はお前が好きだぜ。寝なくたってちゃんと好きだ」
「そんなの、信じられない。好きなら寝るはずだ。お前はおれを、死んだ妹の代わりにしてるんだ」
「んなわけねぇ」
「だったら今すぐおれを抱け。犯してみろ」

 朔之介は抑揚なく言いました。稀一郎はぐっと言葉に詰まります。

「……でもさ、好きか嫌いかわからないって、前に言ってたろ。あれはどうなったんだ。好きじゃなくてもしたいの?」

 したい。ぽつりと呟きます。

「そしたら体売るのやめるか?」
「稀一郎が毎晩愛してくれるなら……」

 朔之介は敷布に顔を沈めて目を閉じます。寝付くまで、稀一郎はその頭を撫でていました。何遍も何遍も撫でました。
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