君のためなら親でも殺す

小貝川リン子

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17 過去編②

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 一週間後。同居を始めて一か月が過ぎようとしていました。毎日いい陽気で、稀一郎は汗だくになりながら働いています。今日もへとへとになって帰宅すると朔之介がまだ長屋におり、出かける雰囲気もありません。

「今日はお休み?飯は食ったか?」

 朔之介は黙って布団を敷き、その上にちょこんと座りました。

「もう寝るの?まだ外明るいよ?」
「いいからこっち来い」

 促されるまま、稀一郎はごろんと横になります。これでいいのかと様子を窺う前に、朔之介が稀一郎の腹へ馬乗りになりました。

「えっ?何、何、ちょっと」

 朔之介は腰をくねらせ、稀一郎の股間に尻を擦り付けます。稀一郎は飛び起きて朔之介の肩を掴みますが、止まりません。

「や、やめてやめて!起っちゃうからぁ」
「起たせてんだろうが。いい加減抱けよ。めおとになるんだろ」
「そうは言ったけどぉ……」

 稀一郎は情けない声を上げます。男の性とは悲しいもので、刺激を受ければ簡単に反応してしまいます。気合ではどうにもなりません。それでも稀一郎は気合で何とかしようと、朔之介を仰向けにひっくり返して、逆に自分が馬乗りになりました。華麗な形勢逆転です。布団に沈んだ朔之介は、ほんのりと期待の眼差しで稀一郎を見上げています。

「やっとその気になったか?お前、さては童貞だろう」
「いや、っていうかその……まだ早くない?こういうことするのは……もっと待ってからでも俺は……」

 朔之介は、逡巡する稀一郎の兆し始めた一物を握りました。

「硬くしといて何言ってやがる」
「お前のせいだろ……あ、ちょ、揉まないで」

 しつこく触ってくる朔之介の手首を掴んで無理やり押さえ付けると、朔之介の声には途端に不安と不満が混じります。

「お前……おれを好きだとか言ったのは、やっぱり嘘だったのか」
「違う、違うよ。ちゃんと好きだ」
「じゃあどうしてまた拒むんだ。親父共の手垢にまみれた中古品は嫌だってのか?この一週間、こっそりおれの布団に入ってきてたの知ってるんだぞ。なのに……おれは……」

 悲愴な面持ちで訴える朔之介を見ていると、稀一郎は自分が大変酷いことをしているような気分になってきます。稀一郎のたくましい腕に捕らえられて震えている細身の男を、一体どうしてやればいいのかわかりません。ぐわんぐわん耳鳴りがうるさく、視界が歪んでいく。こんな時、防衛本能からか、普段は隠している己の凶暴さが牙を剥くのです。そのことが、稀一郎は非常に恐ろしいのでした。

「っ、痛い」

 囁くような悲鳴が聞こえ、稀一郎は我に返ります。ぱっと手を放して朔之介を解放します。知らず、骨ごとへし折らんばかりの力で握り締めていたらしく、朔之介の白い手首には赤く指の痕がついていました。脱力した稀一郎は尻をついて座り、ごめんなと言いました。

「……いや、いい。これくらい、慣れてる」
「慣れてるとかじゃないだろ。俺、やっぱりだめだ。怖いんだ」
「ああ、すげぇ怖い顔してたぜ。食われるかと思った」

 完全に獲物を捕捉した獣の目だったぜ、と朔之介は笑います。

「笑い事じゃねぇよ。俺はお前を傷つけたくないの。痛いことも酷いことも……でもいつかやっちまいそうで怖い。俺は、あいつと少し似てる気がする」
「別に、痛くたって、傷ついたっていい。おれもそこまで軟弱じゃないし、男だしな。お前の怖ぇ顔、結構興奮するし」

 稀一郎は困ったように眉を下げます。

「そういう問題じゃねぇだろ。もしも殺しちゃったら、取返しつかないんだ。……あのなぁ、怖がられると思って言わなかったが、俺は」

 実の妹を殺してるんだ、と重苦しい声で言いました。

 *

 黒田稀一郎は関東近郊の農村の生まれでした。のどかな田園地域で、黒田家は代々稲作をして生計を立てていました。稀一郎は長男であり、三歳下の妹が一人おりました。名前を三津と言います。

 幼児期に、三津は百日咳を患ったことがありました。昼夜間問わず激しい発作が起こり、両親と祖母が交代で付きっきりの看病をしていました。まだ就学前であった稀一郎は、明るい間は外へ放り出されて村の友達と遊び、夜は三津と接触しないよう別々の部屋で寝かされました。

 しかし同じ家に住んでいるのだから当然音は聞こえてきます。呑気に眠れるわけもありません。大人たちの忙しない足音と、三津の猛烈に咳き込むのが聞こえてきて、稀一郎はどうしようもなく悲しく、切なく、何もできない自分を憂いました。耳を塞いでも苦しい音がまとわりついて離れず、しばしば泣きながら眠りました。

「三津も死んじゃうの?」

 食事中、ぽつりと母に漏らしました。稀一郎には年子の弟もいたのですが、生まれてまもなく病死しています。そのせいでますます、三津も死んでしまうのではないかと悲しく思ったのです。

「俺、三津が一等大事だ。ほっぺがお乳の匂いがしてかわいい。でも、死んじゃうの?」

 母は小さな稀一郎を胸に抱き、あやすように背中を叩きます。

「お医者様は手を尽くしてくれた。母ちゃんたちもやれることはやった。あとはもう神様次第だよ。三津を連れていかないでくださいって頼むしかないかねぇ」

 母も泣いているのかもしれない、と幼心に思いました。それから稀一郎は昼間友達と遊ぶのをやめ、鎮守様の社へ通うようになりました。高台にあり、毎朝坂道を上っては一日中お祈りするのです。その甲斐あってか、大人たちの看病の成果か、はたまた本人の体力のおかげか、三か月で無事回復したのでした。

 稀一郎が三津を大層かわいがるので、三津も稀一郎に懐きます。妹がいじめられていたら稀一郎は問答無用で相手を殴ったし、小学校へ通うようになってもそれは変わりませんでした。稀一郎の後をくっついてばかりだった三津は、男の子と一緒に野山を駆け回るようなおてんばな少女に育ちました。

「兄ちゃん!ちゃんと受け止めてね」

 庭の柿の木に登って稀一郎の胸に飛び込むのが、気に入りの遊びらしいのでした。稀一郎は木の下で腕を広げます。太い枝をしなるほど蹴って思い切り飛び降りる妹を、稀一郎は一寸よろけながらもしっかり抱きとめます。三津は大きな口を開け、心底愉快そうに笑いました。

「もう子供じゃないんだから、こういう遊びはやめろよ」
「危険な方が楽しいんだもん。兄ちゃんとしかできない遊びだし!ね、もっかいやって」

 三津の白玉のような頬は柔らかく、赤ん坊の時と同様に甘い乳の匂いがします。決して裕福ではありませんが食うに困るほど貧困でもなく、稀一郎は幸福に暮らしていました。

 しかしある時、村を悲劇が襲います。三津が小学校を卒業した年の夏だったと、稀一郎は記憶しています。旅人が持ち込んだか、あるいは村の者がどこからかもらってきたのか、伝染病が大流行したのでした。発症して三日ほどで死んでしまう、恐ろしい病です。近隣の村でも流行ったようですが、稀一郎の村が一番被害を受けました。

 夏風邪をこじらせていた母がまず初めに亡くなり、母を看病していた父も倒れます。その間にも墓穴は絶えず増えていきます。どこの誰が亡くなったとか、今度は誰々さんが危篤だとか、そんなことしか話題に上らないようになります。臥せっていた父がいよいよ危なくなった頃、妹の三津にも同様の症状が現れました。この時以上の絶望を、稀一郎はいまだに知りません。

「三津を殺して、お前は村から出ていけ」

 不意に父が口を開きました。水を飲ませていた手を止め、稀一郎は怒りを露わに反論します。

「そんな残酷なことを命令しないでくれ。俺に三津を殺せると思うのか?」
「お前の手で殺して、楽にしてやるんだ。見ればわかるだろう。これに罹ったやつはみんな死んでる。三津もすぐ死ぬ。無駄に苦しませるな。お前が三津を救ってやるんだ」
「い、嫌だ。やめてくれ……俺にはできねぇ」
「おらが死んだらすぐだ。家を燃やして村を出ろ。こんなとこにいつまでもいちゃいけねぇ。家長の命令だ。お前は生き残れよ、稀一郎……」

 父はうわ言のように繰り返し、それから数時間で事切れました。三津の病床に座り込み、稀一郎は大粒の涙をぼろぼろ零します。眠っていた三津は薄く目を開き、稀一郎を見ました。

「どうしたの。なんで泣いてるの」

 三津はもう大分弱っていました。若い肌は乾いて艶がなく、青ざめています。

「なんでもねぇ。水飲むか?」
「お父ちゃん、死んじゃったの?」

 思いもかけない言葉に、稀一郎はお椀を落としました。

「あたしに内緒にしてたんだね。気を遣ったの?わからないわけないのに、兄ちゃんは馬鹿だな」

 三津は枯れた声で、しかし気丈な台詞を吐きます。

「うるせぇ。お前が気にすることじゃないだろ。自分のことだけ考えてろ」

 本当はこんなことを言いたいのではない。今一番苦しいのは妹なのだと理解しています。稀一郎は家族を失うけれど、三津は自分自身を失うのです。

「でも、きっとそれだけじゃないよね。父ちゃんに何か言われたんでしょ。あたし知ってるんだよ」

 続く言葉を言わないでくれと稀一郎は切に願いました。

「あたしももう長くないって、父ちゃんはわかってたんだな。これ以上苦しまないようにって、思って――」
「やめろ!」

 きりきりと悲痛な叫びを上げ、妹の言葉を遮ります。押し留めていた涙がまたあふれてきます。

「できるわけがない。そんな残酷なことを俺にやれって言うな。俺はお前が一等大事なんだぞ。できるわけがない」
「あたしだって兄ちゃんが一等大事だよ。だから、兄ちゃんの手で死ぬのも悪くないって思う。酷い姿で死ぬのは嫌だ。怖いんだ……」

 また意識が朦朧としてきたらしく、三津は目を閉じました。怖い、怖い、と虚ろに繰り返します。稀一郎は無理やり目を閉じ、耳も閉じて、束の間休息を取ろうとします。そうしている間にも墓穴は増えていく。三津が負ぶってやっていた近所の赤ん坊が死にました。共に学校へ通った子供も、向かいの家の爺さんも、その隣の婆さんも。

 朝日に目を開けた三津の目に稀一郎の姿が映りました。いつになく真剣な眼差しで、手にした切り出し小刀を眺めています。兄ちゃん、と三津が呼ぶと、稀一郎はすかさず飛んできて枕元へ座りました。稀一郎もかなりやつれていて、目の下には濃い隈ができていました。

「兄ちゃんも寝ていないの」
「俺のことなんかいいよ。具合はどうだ?」

 三津は儚く笑います。

「兄ちゃん、腹を決めたんでしょ。なるべく楽にやってよね」
「まだやるとは――」
「顔見りゃわかる。一晩中それ研いでたのも知ってる」

 稀一郎はたまらなくなって唇を噛みしめました。鮮血が滲みます。震える拳を、爪が割れそうなほどに、ぎゅうっと強く握りしめます。

「怖くない。あたしは世界で一番幸せな女の子だ」
「……お前を失いたくないんだ」
「大丈夫。死ぬまで、あたしを忘れない」

 途切れ途切れに言います。もはや呪いだと、稀一郎は思いました。

「俺は……」

 言いかけてやめました。拳は既に震えていません。鋭く研いで綺麗に洗った小刀を逆手に持ち、青白い喉元を慎重に掻き切りました。稀一郎は瞬き一つせず、妹の瞳から光が消えるのを見ていました。くるくるとよく動いていたつぶらな瞳に映るものは、稀一郎の顔を最後に、それ以外にはもう何もないのでした。
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