君のためなら親でも殺す

小貝川リン子

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4 過去編①

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 朔之介が小学校に上がったばかりの頃、呉作という青年が使用人として働いていました。彼は西園の養子として朔之介を尊重していたし、朔之介が母無し子なのを憐れんでもいたようでした。不憫な子は大切にしてあげなければいけないという、いわば兄のような気持ちで朔之介と接していたように思われます。
 一方、内気な性格と出自のせいで友達のいなかった朔之介も、歳が近いのもあって呉作に懐いていました。彼は田舎の出身でしたが人並みに学がありましたので、朔之介はたまに勉強をみてもらっていました。

「呉作さん、この本読めない漢字があるんです」

 朔之介はこの頃から既に離れの一室を宛がわれていました。小学生にとっては豪勢な部屋です。壁際に桐箪笥と鏡台が並び、押し入れがあって、床の間があって、中央には座卓が置いてあります。しかし西園は家を留守にすることが多く、休日も朔之介と関わろうとはしなかったため、朔之介は常に孤独でした。

「坊っちゃん、俺みたいな奉公人に敬語はいけませんよ」
「でも学校で目上の人には敬語を使うようにと習いました。呉作さんはぼくよりも年上なので敬語で話します」

 朔之介が無邪気に笑うと、呉作は困った顔をして朔之介の坊主頭を撫でるのでした。

 ある時、朔之介は言いました。
「呉作さんのこと、もっとよく教えてください」

 ただ、呉作と親しくなりたかっただけです。朔之介は自身が学校でのけ者にされるのは、皆に色々なことを秘密にしているからだと思っていました。裏を返せば、互いのことをよく知れば自然と仲が深まるはずと思ったのです。

「お母さんのこととか、実家のお山の話とか」
「その話、先週もしたじゃないですか。新しいおもしろい話も、もうさすがに出てこないですよ。できれば今度は、坊っちゃんのお話を聞かせてください」
「呉作さんに内緒にしてることなんてないです。話せることなんて……」

 朔之介は一旦落ち込みますが、思いついたように手を打って、いそいそと包帯を外し始めました。右目は何があっても絶対に人前へ晒してはいけないと西園にきつく言い付けられていましたが、幼い彼にはその理由がわかりませんでした。皆がお前に石を投げるようになるぞ、などと脅されても朔之介にはぴんとこなかったのです。今、この時までは……

「見てください呉作さん。ぼくの目、本当は潰れてなんかないんですよ」

 朔之介はにこにこと両手を広げて立ち上がりました。朔之介の双眸は綺麗な弧を描いています。男はしばし朔之介の顔を見つめたかと思うと、たちどころに表情を変えました。つい先ほどまで優しかった青年が、まるで鬼のようです。恐ろしく顔を歪めて、朔之介を睨み付けます。
 朔之介は怯えて後退りますが、一歩早く男の拳が飛んできます。後方へぶっ飛ばされて腰を打った朔之介は、痛いと叫びました。何が起こったのか咄嗟にはわかりませんでした。混乱の最中、今すぐ逃げろと脳が警鐘を鳴らしますが、立ち上がることすらできず、足は力なく床を蹴るだけです。

「ば、化け物……いや、呪われているのか?なんなんだお前、その顔は……」

 男はわなわなと震える手で朔之介の胸倉を掴み、馬乗りになって思い切り殴りかかりました。硬い拳が容赦なく飛んできて、朔之介の幼い肌を無慈悲に傷付けます。
 まぶたと唇がざっくり切れます。口の中を噛みすぎて血まみれです。頬が腫れ上がります。鼻血も大量に出ているようでした。鉄の塊がぬるりと喉を滑って落ちていきます。気持ち悪くて吐き出そうとするとまた叩かれます。血の海で窒息してしまいそうです。深紅に染まった視界はだんだん狭まっていきます。

「っ、痛い……やだ……やめて、やめて……」

 朔之介は咳き込みながら弱々しく懇願しますが、男は全く聞く耳を持ちません。着物がはだけてぐしゃぐしゃに乱れ、朔之介はもうほとんど裸でした。急所を晒していることで不安が増します。

「化け物のくせに指図するな!かわいい顔して、今まで俺を騙していたんだな。クソ忌々しい鬼子め」

 男は狂ったようになじります。遠くでボンボン時計が鳴っています。朔之介は、今ここで何が起きているかなんてことは誰にも知り得ないのだと悟りました。もしかしたら死ぬのかもしれない、自分は何か選択を誤ったのだろうかと、朔之介は朦朧とする意識の中で考えていました。心臓についた傷が一番こたえました。

 ふと、男は力任せに振り下ろしていた腕を止め、殺そうと呟きました。片手で朔之介の細い首をがっちりと掴み、不規則に喘ぐ口も掌で覆いました。徐々に意識が遠のき、呼吸もできなくなっていきます。朔之介は夢中で男の腕を引っ掻きました。死にたくないと確かに思いました。
 口を押さえていた掌を退けると、男はいきなり朔之介の唇に噛み付きました。文字通り噛み付いたのです。食いちぎられると思った朔之介は、食べないでと懇願しました。男は朔之介の首を押さえ付けたまま、むしゃくしゃしたように、肩や胸にも噛み付きました。食い破らんばかりの勢いで、鋭い痛みが走ります。

 朔之介ははらはらと涙を流しました。大粒の雫が両の目から零れ落ち、頬を伝って畳を濡らしました。痛みか恐怖か悲しみか、あるいはあくびの時に涙が出るのと同じ原理からなのか、朔之介には涙の理由がわかりませんでした。
 朔之介の泣き顔が気に食わなかったのか、男はぎりぎりと歯噛みして、器用に自身の前を寛げました。朔之介の平らかな腹はほんのり火照っていました。色白の肌は薄紅色に染まっているのが余計に目立つのでした。男はますます苛立った様子です。

「貴様の前世は狐か、蛇か、それとも化け猫か?……クソ、俺はこんな得体の知れない化け物と暮らしていたのか」

 男は口汚く罵りながら、下半身を朔之介の太腿へ擦り付けました。息を荒げて、時々思い出したように口に噛み付きます。片手は相変わらず朔之介の首を押さえ、じわじわと絞め上げています。
 朔之介には男が何をしているのかわかりませんでした。ぬめりのある長細いものが内腿の肉を潰して、押しのけて、上下に動いていることしかわかりませんでした。ただ、何か酷く屈辱的な辱めを受けているのではないか、ということは理解できました。だんだんと喉が絞まってきます。このままでは本当に殺されかねない、ということも理解しました。やられる前にやらなければ、と。

 朔之介はちらりと頭上を見上げました。ぼんやり霞む視界の中、床の間に花瓶が見えます。朔之介は懸命に手を伸ばして、何とかそれを掴みました。高く振り上げると、挿してあった桜草がはらはらと散ります。そのまま、男の頭部めがけて、力いっぱい振り下ろしました。じんじんと腕が痺れ、痛みます。男がぎろりと睨むので、朔之介はもう二度三度、躊躇なく花瓶を振り下ろしました。

 そのうち男はぐったりとして、朔之介の体へ乗り上げたまま動かなくなりました。緊張の糸が切れた朔之介もすっかり放心して横たわったままでした。相変わらず右目が見えないままなので、潰されてしまったのだろうかと手をやると、熱い膨らみに触っただけでした。まぶたが腫れて熱を持っていたのです。それからどのくらいの時間が経ったのか、はっきり覚えていません。天井の木目を数えていたように思います。

 西園が部屋へやってきて、大声を上げました。事情を説明しようと朔之介は飛び起きますが、その前にビンタが飛んできます。頬を押さえてうずくまる朔之介に西園は何やら言い付けて、どこかへ行ってしまいました。朔之介が風呂に入り戻ってくると、部屋は全く元通りになっていました。呉作は死んだのか、死んでいないのか、何もかもがわからないままです。西園がうまく後始末をしたようで、この件が公になることはありませんでした。

 しかし朔之介にとって苦しい日々はここからでした。朔之介の怪我が治り学校へ通い始めると、西園は肉体的な交わりを命じるようになりました。いわく、躾を怠っていたのを悟ったらしいのです。素顔を見せること、素肌を晒すことが何を意味するのか、どんな危険を招くのかということを、その身に叩き込んでやらねばならない、とのことでした。

「まだ年端もいかぬ小僧のくせに、この手管は一体どこで身に着けた。血のせいだろうか……お前は毒そのものだ」

 西園は浅く息をしながら、朔之介の腿や尻に下半身を塗り付けるのでした。痛みを伴う行為をされることもありました。尻を割って何かが無理やり入ってくるのです。そうする時、西園はあまり喋らず、呼吸音だけがやかましく聞こえるのでした。
 痛みに悲鳴を上げたくなっても、うるさくしては怒られると思い、朔之介は自分の腕を噛んで耐えました。そのため腕は常に歯型だらけで、血の出ることもありましたが、西園が気にする素振りはありませんでした。

 父上、と朔之介が口にすると西園は苛つき、時には激昂しました。次信様と呼べ、と言って朔之介をぶつのです。普段二人の時は父上と呼ばせているのになぜ怒るのだろう、と朔之介には不思議でなりませんでした。

「次信様……これは、愛し合う者同士がすること……なんですよね」
「そうだ。私はお前を愛しているし……お前も私を愛しているだろう?」
「はい……お慕いしています」

 数を重ねるごとに、この行為の意味するところを朔之介は理解していきました。西園に逆らわず身を任せていればいい、愛の言葉を口にすればなお良いということもわかってきました。

「……じゃあ、時々ぼくの目を潰そうとなさるのも、愛ゆえなのですか?」
 西園はもちろんだと答えます。
「お前が大切だから、呪われた右目を抉り取りたくなるのだが……お前が大切だからそれができないのだよ」
「っ、そうなのですか?……ぼくにはよく、わかりません」
「お前がまだ幼いからだ……だが私はいつだってお前のためを思って行動している。全部お前のためだ……信じてくれるね」

 呉作も西園と同じような行為をしましたが、それも朔之介に対する愛ゆえだったのでしょうか。以前西園に尋ねたことがありました。西園はいたく怒り、朔之介は尻が腫れるまで叩かれたのですが、一方的な愛は愛ではないのだと最後に教えてくれました。
 朔之介が拒んだせいで呉作のそれは愛ではなくなったのでしょうか。瓶で殴ったりせずに黙って呉作の愛を受け入れていれば、朔之介はもっと多くの愛を手にすることができたのでしょうか。そう思うと朔之介は悔しいようなやりきれない気持ちになるのでした。

「私たちの絆は本物だが……前にも言ったように信頼関係が大切なのだ。互いの信頼が最も優先されるべきこと……これを失えば愛も失う、だから――」
「はい、二度と約束は違えません。……っ、ぼくにはあなただけです。誰にもこの目は見せないし……他の者を誑かしたりもしません」
「よしよし、お前は賢い子だ。真にお前を理解し、愛することができるのは、この私だけなのだからな。……信じているぞ、朔之介。私を失望させてくれるな」

 西園の呼吸はさらに荒くなり、激しく朔之介を揺さぶりました。そろそろ終わりが近いのです。朔之介は自身の下腹部へ熱が集まっていくのを感じました。じくじくとした熱が内側へ籠って苦しいのに、これが発散されることはありません。朔之介は誤魔化すように両膝をすり合わせました。
 西園が短いうなり声を上げ、深く腰を押し付けます。朔之介の体内は生温いほとばしりで満杯です。西園はそのままの姿勢で朔之介の坊主頭を撫で、一息つくと部屋を出ていくのでした。

 朔之介は腰を庇いながら中のものを掻き出し、濡れた手拭いで体を拭き、散らばったちり紙を捨て、布団を直してから独りで眠りにつきます。ほったらかしにすると叱られるからです。痛いのも苦しいのも寂しいのも全て愛ゆえならば、自分もまた全てを許さねばならないのだろう、と朔之介は思いました。
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