先生×生徒

小貝川リン子

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16 黎明

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 スマホが鳴って目覚めた。自分のものじゃない。准一のスマホだ。寝汚いこいつは全く起きる気配がなく、俺は仕方なく電話に出た。

「もしもしぃ……」
「ぅおっ! え? 枇々木かぁ? なんやお前、声やばいで」

 何だ、遼馬さんか。懐かしい。相変わらず朝っぱらから声がでかい。スマホから耳を離しても聞こえそうだ。

「聞いとるんか? もしもし!」
「あぁ、聞いてるぜ。だが生憎、准一は今寝てるんだ。後で掛け直してくれ」
「ん? キミ、もしかして」

 電話に出たのが准一でないことにようやく気づいたらしかった。何がおもしろいのか、遼馬さんは大声で笑う。受話器の向こうで一人で笑っているのかと思うと、なかなかシュールである。

「じゃあなんや、めでたく収まるとこに収まったちゅうわけか」
「……何のことだ」
「枇々木から聞いとらんの? 昨日のあいつの慌てっぷりったらなかったで。キミにも見せたかったな」

 昨晩、遼馬さんが准一を飲みに誘おうと電話したら、忙しくてそれどころじゃないとキレ気味に断られたのだそうだ。

「絢瀬がどっか行っちまったーって、そらもう半泣きでな。アハハ」

 しばらくしてGPSか何かで俺の居場所を突き止めたらしい准一は、「迎えに行ってくるから」と言い残して遼馬さんとの電話を切ったそうだ。

「そっからなんの連絡もあらへんし。ワシだって一応心配しとったのに酷い仕打ちや」
「そりゃ悪かったな」
「でも、キミは無事に戻ってきたんやろ? 声聞いて安心したわ」

 よかったよかったと繰り返し、遼馬さんは楽しそうに笑う。

「それにしても、なんで家出なんかしたんや。喧嘩か?」
「ん、まぁ、そんなもんだ」
「枇々木も大人げないなぁ。すーぐムキになるから」

 喧嘩か……。有耶無耶になっているが、そういえば事の発端は喧嘩であった。准一が一方的に「もう来るな」なんて言うから悪いのだ。

「准一はそんなに俺のこと気にしてたのか」
「気にするもしないも、心配しすぎてパニクってたで。ちょっと落ち着かせようとしたら、『お前はあいつのことなんもわかってない!』って怒られてもうたしな。いやぁ、でもほんま、枇々木はよっぽどキミのことが――」

 遼馬さんの言葉の途中で、不意にスマホを取り上げられた。いつのまにか起きていた准一が、自身のスマホを指先で摘まんで持っている。俺が文句を言うのを制して、電話口に向かって話しかけた。

「もしもぉ~~し。……あ? オレだよ、オレ。今代わったから。……は? いや違うって。いいから、もう切る……あぁ? だから違う……あーもう、わかったから。はいはい、じゃあな」

 通話を終えると、スマホを遠くへ放り投げる。

「ったく、なんで朝っぱらから電話なんか……」

 ぶつぶつ言って、再度布団に潜り込む。

「おい、寒ぃんだから、おめーもさっさと横になれ。それか、布団から出てけ」
「……准一」
「んだよ。隙間から風が入って寒いっつってんの」

 こっちに背を向けたまま、会話なんかしたくないっていうような態度だ。俺は強引に掛布団を引っぺがした。

「ちょ、おい。話聞いてた? 先生はまだ寝たいんですけど」
「てめぇ、そんな態度で俺を誤魔化せると思うのか」

 准一の下腹にまたがって動きを封じる。お互い下着一枚しか身に着けていないため必然的に騎乗位のような恰好になってしまうが致し方ない。

「この際だから、はっきりさせようじゃねぇか」
「あー……絢瀬、もしかして怒ってる? 乳首腫れちゃってるし、声もすっごくガラガラだしな。ハスキーどころの騒ぎじゃねぇよ」

 揶揄うような物言いに、昨夜の情事を思い出す。

「こ、これはてめぇが散々……」
「はいはい、先生のせいですよ」

 そう言って腰に回されそうになった手を、俺は素早く取り押さえる。ここで絆されるわけにはいかない。指を絡めて握ってしまう。慣れないことをしたものだから、准一はわずかにたじろいだ。

「え、なに、積極的じゃない?」
「そういうつもりじゃねぇ。いいか、俺は中途半端は嫌いなんだ。質問にはきっちり答えてもらうぜ」

 いい加減、昨日の喧嘩に決着を着けなくてはいけない。不安もあるが、さっきの電話の内容を思い出すと勇気が湧いてくる。俺は大きく深呼吸をした。

「……アンタ、どうしてわざわざ、俺を迎えに来たんだ」
「別にぃ? 生徒の夜遊びを取り締まってやろうとしただけ」
「それだけでわざわざ、あんな郊外までバイク走らせてきたってのかよ」
「そんなの先生の勝手だろーが。お前、やっぱし怒ってんね?」

 捉えどころのない面をしている。俺にマウントを取られているのに、焦る素振りは全くない。俺の軽い体なんかいつでも簡単に跳ね飛ばせるという自信があるのだろう。腹の立つ野郎だ。

「じゃあどうして、俺の居所がピンポイントでわかったんだ。GPSって何のことだよ」
「……んなの、普通にスマホのGPSのことだろ。いちいち目くじら立てんなよ。くそ、長谷から何か聞いたな? あのおしゃべりめ」

 准一は忌々しげに舌打ちをした。その様子を見て、俺は内心ほくそ笑む。

 准一め、まんまと引っ掛かったな。誘拐犯がスマホの電源を切らないわけがないのだ。俺のスマホも例に漏れず電源が落とされていた。それにそもそもの話だが、俺は普段から位置情報はオフにしている。だから、スマホから俺の居場所を突き止めるなんて芸当は、ほとんど不可能なはずだ。

 事実を伝えると、准一はむすっと眉をしかめ、決まりの悪そうな顔をした。

「なぁ、ほんとは別のとこに発信機を仕込んでたんだろ。俺のカバンか、制服か? そこまでして、アンタは何がしたかったんだ? 答えてくれよ、なぁ」
「そんなこと知って何になるんだよ。どうだっていいだろ」
「どうでもよくねぇよ! だって俺、アンタのことが……」

 何かが口を衝きそうになって、はっと我に返る。俺は今、何を言おうとしたのだろう。

「絢瀬?」
「そ、その呼び方もムカつくんだよ。昨日は、下の名前で呼んでくれたくせに……」

 ああもう、俺は何を言っているんだ。火がついたように頬が熱い。真っ赤にのぼせている気がする。みっともない。

「俺、あの時アンタが来てくれて、ほんとに……う、嬉しかったんだ」

 舌がもつれ、紡ぐ言葉はたどたどしい。やはりみっともない。

「アンタが俺を、ただの一生徒としてしか見てないってんなら、別にそれでも構わねぇけど、でも、どうしても期待しちまうんだ。だって、アンタが俺のために割いてくれた時間は、どう言い訳したって全部、紛れもなく本物だろ」

 指を絡めて繋いだ手をきつく握る。

「俺は……俺はアンタの本心が知りたいんだ」

 准一の全てを知りたい。その目に映る俺という色を知りたい。

 俺は緊張で息切れするくらい本気でぶつかっているのに、准一はいまだに難しい顔をしたまま俺の目を見ようとしない。胸を炙るような焦燥感ばかりが募る。こうなったら、後は野となれ山となれ、だ。後のことなんて知るか。

 俺はもう思い切って、准一の唇に自身のそれを重ねた。自分から唇を奪ったくせに、至近距離で准一の顔を見られずに目を瞑ってしまう。初めてでもないくせに、ただ唇を押し当てただけの拙いキスになってしまう。

 俺のぎこちないキスを受け入れたのも束の間、准一は弾かれたように俺の体を跳ね返した。あっという間に形勢が逆転して俺は布団に沈んだが、腕ずくで組み伏せるような乱暴な真似はされない。無言のまま、ひたすらに抱きしめられる。

 腰を抱き寄せられ、足が絡みついてくる。上を向こうとすると後頭部を押さえられ、准一の厚い胸に顔を埋める形になる。早鐘を打つような鼓動が直に伝わってきて、俺の胸まで震えた。

「……お前、お前さ、どうして平気でそういうこと言っちゃうわけ。放してやれなくなるからやめろって昨日も言ったよな。なんでそういうこと言うの。やめろよ。勘違いしそうになる。こんなの、間違ってるのに」
「准一、俺は――」
「なぁ、いいのかよ、お前。一生このままでもいいのかよ。一生オレに縛られたままでもいいってのかよ。違うだろ。お前にはもっと、別の人生があるんだよ。もっと広い世界を知るべきなんだよ、お前は」

 喉の奥から絞り出すような苦しい声だった。何がそんなに辛い。後ろめたさを感じる必要なんか微塵もないのに。

 そう思いつつ、俺だって本当はわかっている。准一は俺よりずっと大人だし、社会的な責任の重さも違うから、難しいことばかり考えざるを得ないのだ。准一は、こちらがびっくりするくらい普通の、俺が出会った中でおそらく一番まともな大人で、だからその葛藤も苦悩も当然のものなのだ。そう、わかっている。

 だけどそういった小難しいもの――例えば体裁、性別、歳の差、立場上の隔たり――なんて、今目の前にいる俺の気持ちよりも優先すべきものなのだろうか。今の俺の気持ちよりも、不確定な未来が優先されてしまっていいのだろうか。

「……勘違いじゃねぇって言ったら、どうする」

 俺は呟くように言った。准一の表情は見えない。

「勘違いなんかじゃねぇ。俺、一生このままでもいいよ。一生、アンタに縛られたままでもいいんだ」
「生意気抜かしてんじゃねぇよ。ガキのくせに」
「アンタこそ、ガキにここまで言わしといてなんでわかんねぇんだよ。三十路のオッサンのくせに」
「オッサンは余計だしまだ三十路じゃねぇから」
「俺がアンタに、放してほしいなんて頼んだことがあるか? もっと別の広い世界を知りたいなんて、一度でも頼んだことがあったかよ」

 准一は俺のことをちっとも理解していない。俺は今まで、准一から逃げようと思えばいつだって逃げられたし、関係を切ろうと思えばいつだってそうできたんだ。なのにそうしなかった。そこに全ての答えがあるはずなのに、どうして頑なに認めようとしないんだ。

「アンタは俺の意思を無視して、こうした方がお前のためだとか、人ってのはこうあるべきだとか、手前勝手な正論を押し付けてくるけど、そういうのを偽善だって言うんだ」

 俺を抱く腕が強張るが、准一は沈黙したままだ。准一の背中に腕を回して抱きつき、俺は続けて訴える。

「俺は確かにまだ高校生だけど、アンタが思うほどガキじゃねぇし、浅はかなわけでもねぇ。もっとよく俺を見てくれ。俺の心を見てくれよ。……俺、アンタのことが、ちゃんと好きなんだ」

 たった今、ようやく気づいた。言葉にしてしまえばあっさりと腑に落ちる。こんなにも簡単な一言でよかったのだ。なぜ今まで足踏みしていたのだろう。感情に名前がついた安堵感と、伝えたいことを伝えられた爽快感とで胸がすく。

「ちゃんと好きなんだ。勘違いなんかじゃねぇ。セックスしすぎて情が移ったわけでもねぇ。一生アンタのものになってもいいって思えるような、そういう“好き”だ」

 顔が見えないおかげで、驚くほど流暢に言葉が出た。抱き込まれていてよかったと思った。もしも面と向かっていたら何度も言葉に詰まっていただろうし、火照った頬をどうにかして隠そうと画策しなくてはならなかっただろう。

「なぁ、アンタも言ってくれよ。俺、アンタの本物の言葉がほしいんだ。逃げないで、真っ直ぐ俺だけ見て、ちゃんと――」

 最後まで言わせてもらえなかった。いきなり唇を塞がれた。声を出すどころか息もできない。

「ん……む……」

 唇を押し当てるだけのぎこちないキスではない。深く潜って口内の隅々まで探ろうとするキスだ。薄く目を開けて准一の様子を窺うと、同様に薄目でこちらを窺っていた准一と目が合う。柔らかな感触が唇から耳へと移ったかと思うと、囁き声が耳たぶをくすぐった。

「オレも好き」

 微弱な電気を流されたように体が痺れ、うっかり妙な声が漏れてしまう。熱に浮かされたような感覚で心許なく、縋るように准一に抱きつく。

「好きだよ。本当はずっと好きだった」
「おれも……」
「ダメな大人でごめんな」

 いいんだ。謝らないでくれ。俺を一生放さないで。もっと好きだと言って。もっとキスして。抱きしめて。名前を呼んでくれ。
 蕩けるような口づけを何度も何度も、飽きるくらい何度も交わした。息継ぎの度に紡がれる愛の言葉に、心の底から救われた。
 
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