先生×生徒

小貝川リン子

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3 雨

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 すっかり秋めいてきたある日。冷たい時雨の降る晩だった。荷物を取りに一旦実家へ帰ったのがよくなかった。細心の注意を払ってガレージから忍び込んだのに、二階へ上がるカーブ階段の手前であっさり見つかってしまう。

「凪! あんた今までどこほっつき歩いてたの!」

 母と顔を合わせるのは一週間ぶりだった。家の中だというのに派手なアクセサリーをじゃらじゃらぶら下げて、すっかり成金の人妻である。

「凪! 聞いてるの!?」
「うるせぇ、叫ぶな。俺に構うな」
「母親に向かってなんて口利くのよ!」

 母の他には誰も出てこない。仕事か遊びか知らないが、留守にしているのだろう。

「その金切り声をやめろっつってんだ。俺が帰ってきたこと、あいつらには絶対言うんじゃねぇぞ」
「汚い言葉遣いはやめなさい! あいつらじゃなくて、お父さんとお兄ちゃんでしょ!?」

 母の声が頭に響く。神経に障る。腹立ち紛れに、そばにあった花瓶を思い切り叩き落とした。装飾の多い陶器の花瓶は凄まじい音を立てて粉々に砕け散る。挿してあった紫の花は散り散りになり、水が零れて床を濡らした。その上、殴った拳が痺れて痛い。

「おい、何を騒いでる」

 玄関から声がする。最悪のタイミングで兄が帰ってきたのだった。兄に見つかっては一巻の終わりだ。俺はリビングの掃き出し窓から外へ飛び出した。

「凪! 待ちなさい!」

 だが、母は大人しく俺を逃がしてくれないらしい。

「凪が帰ってるのか?」
「そうなのよ! 今窓から逃げたわ。捕まえて!」

 死んでも兄に捕まるわけにはいかない。背中に怒号を浴びながら俺は敷地内を走り抜け、駅を目指して一目散に駆けた。目抜き通りの雑踏に紛れてしまえばこっちのものだ。見つかりっこない。人波を掻き分け、やっとのことで電車に飛び乗った。

 電車内には兄の姿はなく、声もしない。無事に撒いたようだった。ほっとしたのも束の間、乗客の視線に気が付く。窓ガラスに映った自分の姿を見ると、その視線の理由がわかる。

 全く酷い恰好だった。雨の中を傘も差さずに突っ走ってきたせいで、頭のてっぺんから足の先までずぶ濡れだ。グレーのパーカーは黒く変色しているし、ジーンズがべったりと肌に張り付いて気持ち悪い。スニーカーの中に雨水が溜まり、靴下までぐっしょりだ。毛先からぽたぽたと雫が滴っていた。

 俺の向かうべきところは決まっていた。そのために電車に乗ったのである。二駅先で降り、濡れ鼠のまま猥雑な歓楽街へと足を踏み入れる。カラオケ、ゲームセンター、ネットカフェ、無料案内所の看板がやたらと目に付く雑多な街だ。

 電光掲示板はホストクラブの広告を映し、どこからともなくバニラ求人の音楽が流れてくる。ギラギラと点滅するピンクのネオンがうるさい。
 夜が深まるごとに、街は一層明るく栄えてゆく。喧騒は絶えることなく巨大な渦のように立ち込めて、雨音で掻き消すことなど不可能だ。

 怪しげな勧誘をする若い男も、ギャル風のメイクをした若い女も、歳の差がえぐい男女カップルも、前歯のない老人も、家出してきた少年少女も、優しいこの街は全員まとめて包み込んでくれる。もちろん、この俺でさえも。
 
 *

「何してんの、お前」

 頭上から准一の間抜けた声が降ってきて、俺は顔を上げた。
 ここは准一のボロアパートである。俺は部屋の前でうずくまって、家主の帰りを待っていたのだった。たっぷり三時間は待っただろうか。

「遅ぇんだよ。どこ行ってやがった」
「今日は遅くなるから来んなって言っといただろ」
「は……?」

 そういえばそうだったかもしれない。放課後に会った時、確かにそんな会話をした覚えがある。飲みに行くとか何とか言っていて、俺もそれを了承したはずなのに、今の今まで綺麗さっぱり忘れていた。考えることを放棄し、ただ夢中でこの場所を目指して、健気に三時間も待っていたのだ。なんたる失態だろう。

「……なら、帰るぜ。邪魔したな」
「はぁあ!? おいおいおい、馬鹿言うんじゃないよ。わざわざここまで来たくせに。ってか、どこにも帰れねぇからうち来たんだろーが」
「……終電はまだあるし、漫喫だっていいし」
「せっかく来たんだから遠慮しないで泊まってきゃいいだろ」

 准一の言葉を尻目に立ち上がった途端、くらりと目眩がしてよろめく。脳に血液が行き渡らない。暗い穴の底へ吸い込まれていくような感覚だった。足に力が入らず、立っているのかどうかも定かでない。

「っ、お前、体熱いぞ。熱でもあるんじゃねぇか」

 准一が俺を抱きとめて言う。焦ったような声だった。

「ねつ?」
「そうだよ! 自分でわかんねぇ?」

 わからない。

「あーもー、いいから中入るぞ」

 准一に支えられながら玄関をくぐる。大きな手が冷たくて心地よかった。

 まず濡れた服を剥がされる。「なんでこんな薄着なの」と問われて、コートを取りに実家へ戻ったのに結局回収できなかったことを思い出した。
 パジャマに着替えさせられ、ドライヤーで髪を乾かしてもらう。節電を言い訳にこれまで使われてこなかったエアコンがフル稼働で、室内は適度に暖かかった。

 俺を布団に寝かせた後、准一は秒でシャワーを浴びて布団に潜り込んできた。添い寝状態だ。羽毛布団は俺がたっぷり使っているから、准一の肩や背中ははみ出しているだろう。

「准一ぃ」
「はいはい、そんな声で呼ばないで。迷子の仔猫かよ」
「エアコン、あちぃから消せ」
「えっ、オレは全然暑くねぇけど」

 熱上がったかな、と呟いて俺の額に手を当てる。

「手、きもちいからずっと置いとけ」

 目を閉じてその体温だけを感じる。准一がかすかに笑った気がした。頬を撫で、髪を梳かれる。胸の奥が無性に切なくなってくる。

「泣いてるの」

 遠くで准一の声がした。

「泣いてねぇ」
「でもさ」
「雨粒だろ」
「それはさっき拭いたじゃん」
「じゃあ汗だ」
「なんだそれ」

 なだめるように頭を撫でられる。

「寒くない?」

 暑くもないし寒くもない。気持ちいいとも悪いとも言える変な感じ。何もかもが判然としない。意識の所在さえあやふやだった。
 朦朧とする意識の中ではっきりわかったことと言えば、准一の声と体温と、子供を寝かしつける時に胸をトントン叩く行為はかなり効果があるという事実だけである。
 
 *

 窓の外が白み始めた頃、唐突に目が覚めた。額には湿ったタオルが載せられ、隣には准一が眠っている。だらしなく口を開けて、涎を垂らしている。ごく自然な雰囲気で握られていた手を離すと、准一のまぶたが重そうに持ち上がった。

「おはよ。早ぇな」

 大きなあくびを一つ。

「体調はどう」
「大分いい」
「ほんとかよ」

 体温を測ってみると、昨日よりは下がったがまだ微熱があった。

「こりゃあ、今日いっぱいは安静にしといた方がいいな。薬……いや、その前に飯か? お前、何か食いたいもんでもある?」

 誰かに甲斐甲斐しく世話を焼かれるなんて何年ぶりだろう。慣れないことをされてくすぐったい気持ちになる。

「聞いてる? 飯用意するって言ってんだけど」
「……いらない。これ以上迷惑かけるつもりはねぇ」
「なーんでそう強がるかなぁ。別に迷惑とか思ってねぇよ。子供は子供らしく、素直に看病されときゃいいじゃん」
「子供扱いするな」
「実際子供だろ。大人ならな、こういう時はうまく他人に頼るもんだぜ」

 そう言って笑い、准一は立ち上がる。

「いいから寝てな。食えそうなもん買ってくるから」

 ささっと身支度を整えて家を出ていった。准一がいないだけで、部屋が倍くらい広くなったように感じる。

 俺は少し驚いていた。昨日からずっと、准一がまるでまともな大人みたいな面して俺に接してくるからだ。風邪なんか関係なく抱かれると思っていたし、そもそも発熱に気づいたことも意外だった。一夜明けて回復したからお礼に一発ヤラせろと迫ってくるかと身構えていたのに、そんな素振りもない。

 一体どういうつもりだ。昼も夜もなく生徒に手を出す淫行教師のくせに、隙あらば中出ししたがるクズ野郎のくせに、どうしてこんなにも……優しいのだろう。悔しいし認めたくないけど、今日のあいつは奇妙なほど優しい。優しくて泣きたくなる。こんな風に思うなんて、体が弱っているせいで心まで軟弱になってしまったのだろうか。

 ただいまと声がして目を覚ました。そのつもりはなかったのに、いつのまにか微睡んでいた。布団が暖かいせいだ。おかえりと言うと、まだ寝てろと制される。准一は狭い台所でガチャガチャやっている。

 しばらくして、准一がお盆を持って戻ってきた。枕元に座る。俺を起き上がらせ、コップ一杯の水を飲ませる。

「さて、何から食う?」
「……プリンがねぇじゃねぇか」
「だから食いたいもんあるかって訊いたんじゃん! 代わりにほら、みかんゼリーで我慢しなさい」

 俺が無茶苦茶なことを言っても、准一は呆れたように笑うだけだ。ご丁寧にゼリーの蓋を開けてくれ、スプーンと一緒に寄越す。

「……食わしてくれねぇの」

 どこまで許してくれるのか興味があって、わざと甘えるようなことを言った。准一はぽかんと口を開け、数度瞬きをした。かと思うと、タコのように唇を尖らせてぷっと噴き出す。

「お前、何それ、お前、それ、ツンデレ? ツンデレなの? え? 今のってもしかして、貴重なデレ? ツンデレなの? ねぇねぇねぇ」

 おどけた態度で茶化してくる。むっとして、准一の手からゼリーをふんだくろうとしたのに、素早くかわされてしまう。思わず舌打ちをした。

「怒んなよぉ。ほれ、あーん」

 一口すくって口元に差し出される。半透明のゼラチンと艶のある果肉がスプーンの上で踊る。准一は愉快そうににやにやしている。自分で言い出した手前断ることもできず、諦めて口を開き、ぱくりと頬張った。

 弾けるような甘みの冷たいゼリーがつるりと滑り込み、乾いた喉を潤す。こんなにおいしいゼリーはいまだかつて食べたことがない。帝国ホテルの朝食バイキングに出てくるものよりもおいしいのではないかと思った。

 少しでもお腹に物を入れると、逆に空腹を覚え始める。昨日は夕飯を食べ損ねたから、腹が減っていて当然なのだ。続けて桃の缶詰と真っ赤な林檎を分け合って食べた。うさぎにしてくれと頼んだら、その場で器用に剥いてくれた。准一に借りを作りたくないとか情けない姿を見せたくないとか、そういうことを考えるのはすっかり忘れていた。

 食後に薬を飲み、再度布団に横になる。准一は炬燵に当たって本を読む。眼鏡を掛けているのが新鮮だった。俺の視線に気づいたのか准一もこちらを見る。

「眠れねぇの」
「違う」
「じゃあさっさと寝ろ。風邪なんて薬飲んで寝てりゃあ治るんだから」

 そしてまた、本へ視線を戻す。

「理由を訊かねぇのか」
「理由って?」
「俺がここへ来た理由」
「訊いたところで、答えてくれるのかよ」

 たぶん言わない。

「だろ? 先生もさ、お前との付き合い長いからさ、その辺のことは心得てますよ。まぁどうせ、家族と何かあったんだろ」
「違ぇ」
「ほらもー、わざわざ否定するとこが怪しいんだよ」

 准一はおもむろに煙草を咥え、火をつけた。吸った煙を溜め息と一緒に吐き出す。

「でも別に、根掘り葉掘り訊き出そうなんて思っちゃいねぇよ。人間誰だって、秘密の一つや二つあるもんだ……」
「アンタにもあるのか?」
「オレェ? オレは秘密なんてねぇよ。全部オープンだからね」

 へらへら笑って誤魔化された。
 薄曇りの空みたいに室内が白く煙る。俺が咳をすると、准一は黙ってベランダに立った。


 
 後日、准一から合鍵を手渡された。今回のようなことがまたあったら困るからと言っていた。

「うち来たくなったらいつでも来いよ。病人の世話って大変だからさ。なるべくならもうやりたくねぇんだよ」

 合鍵には無駄に大きなキーホルダーが付いていて、カバンの中で邪魔になった。
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