幼馴染を追いかけて

小貝川リン子

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第二章 邂逅

3 競馬場②

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 週末、馨は朝九時から馬券の販売場へ赴いた。注目のレースもなかったし買うつもりはなかったのだが、あんまり暇だったので千円札を数枚突っ込んでしまった。

 レース後わずかな配当金を受け取り、昼は一人であんぱんを食べ、夕方まで待ってもまだ遼真はやってこない。そろそろ施設が閉店する時刻になり、いよいよ痺れを切らした馨が立ち上がった、その時である。

「馨ちゃん! ごめん、遅うなった」

 遼真がようやく顔を見せた。上等の背広を着ているがネクタイは外され、全力で走ってきたらしく激しく息を切らしている。木枯らしの吹く季節だというのに、額にはうっすらと汗が滲む。

「おまんが来る言うたき来たのに、どういてこがぁに遅いがや。今日のレースはもう全部終わってもうたで」
「いや、別に、競馬がしたいわけじゃないから……それより馨ちゃん、来てくれて嬉しいよ」
「……ふん。おまんに会いに来たがやない。わしゃ競馬が好きやき」
「うん、趣味があるのはいいことだよ」

 柔和に笑う遼真から馨は目を逸らした。苛立ったように腕を組み、足を踏み鳴らす。

「ほいで、おまんは何しにここへ来たが」
「まぁ、何ってことはないんだけど」

 くるる、と子犬の鳴くような音が遼真の腹で鳴った。大きな音ではなかったのに、それをはっきりと馨は聞いた。遼真は照れたように顔を綻ばせて頭を掻く。つられて馨も少し笑う。

「はは、お昼抜いたからお腹空いちゃった。この辺あんまり来たことないんだけど、食べ物屋さんはあるのかな。いいお店知ってるかい? 案内してくれたら嬉しいな」
「しゃ……しゃあないのう。教えちゃってもえいぜよ」
「本当かい。ありがとう馨ちゃん。お礼に何でも奢っちゃるよ」
「ほんに?」
「うん。いっぱい待たせてしまったみたいだし、お詫びも含めてね」
「はっ、おまんがそがぁに頼むならしゃあない。しゃあないきのう」

 陽はすっかり落ちて黄昏時。徒歩一分の場所に、たくさんの居酒屋が軒を連ねる路地がある。有名な昼飲みスポットだが、夜になるとより一層活気付く。繁華街のギラギラしたネオンとは違い、下町情緒溢れる昭和レトロな雰囲気の通りである。裸電球や赤提灯が並び、横町全体が温かな橙色に包まれている。

 馨の手引きで、二人はとある店に落ち着いた。店内はかなり混雑していたが、席に座ることができた。通りに面したテラス席――と呼べるほど洒落てはいない。所謂屋台のような造りで、テントの天幕のような生地でできた庇が突き出ている。風除けの透明ビニールが気休め程度に張られていて、その内側に狭苦しく座席が詰め込まれている。

 遼真と馨は一番端の席に隣り合って座った。向かいには別の客がおり、隣のテーブルもぎっしり埋まっている。混雑のせいで、見知らぬ人と肩や肘や背中がぶつかる。

「馨ちゃんは、よくこういう店に来るのかい」
「店で飲むがは高うつくきあんまし来ん。今日はおまんが奢る言うたきに」
「僕もあんまり来たことないや。色んなメニューがあるんだね。何がおいしいんだろう」
「最初はビールに決まっちゅう!」
「じゃあ生中二つと……」
「あとは煮込みがえいのう」
「牛すじともつ煮があるけど」
「両方じゃ」
「サラダとかどうする?」
「いらんいらん。代わりに砂肝とホルモンでも頼みや」
「……馨ちゃん、結構渋い趣味になったんだね」

 乾杯はせず、馨は一杯目のビールを一気に飲み干した。一気飲みはよくないと遼真が窘めるが知ったことではない。二杯目、三杯目、と次々注文した。いい時間で二軒目にはしごして、そこでも煮込みやら何やらをつまみに何杯か飲んだ。土佐鶴が飲みたかったが置いていなかった。

「……りょーまぁ」
「な……どういたが、馨ちゃん。眠い?」
「眠うはないけんど……」

 馨はすっかり酔っ払い、行儀悪くテーブルにぐたりと伏せている。頬は上気し、眦はとろんと垂れている。遼真もそこそこのペースで飲んでいたが、こちらはあまり顔色が変わっていない。

「おまんの方が眠いがやろう。わしが話しちょってもあくびばっかぁしよって」
「ああ、ごめんね。今朝早かったから、ついね。馨ちゃんの話がつまらないわけじゃないよ」
「ふん、そがぁなこと言いゆうがやない。せっかくの休みにどういてわざわざこがな肥溜めみたぁなとこに来たがじゃ。おまん、どうせ博打なんぞ打たんがやろ。馬券の買い方も知らんがやろう。こがなとこへ来て何が楽しいが」

 馨は熱燗の徳利を振る。空になっていたので、追加でもう一杯注文した。

「馨ちゃん、もうその辺にしときなよ」
「別にえいろう。おまんの金やき、わしゃあ知らん」
「そういう意味で言ったんじゃなくて」
「にゃありょーまぁ、答えぇや。今日はどういてここに来たがじゃ」

 単にアルコールに酔っているせいかもわからないが、馨は挑発的な仕草で遼真に迫った。狭い店内であるから、体がぴったり触れ合う。

「わかっちゅうくせに。馨ちゃんに会うために来たがよ」
「わしゃ行かん言うたけんど」
「でも来たろう」
「アホほど遅刻しくさったくせに」
「でも待っててくれたじゃないか」
「別におまんを待っちょったわけやないき」
「うん。でも嬉しいんだ。僕、今でも馨ちゃんのことが大好きだから。またこうして会えてすごく――」

 馨の手から徳利が滑り落ち、床に落ちてガチャンと割れた。幸い中身は空だったが、粉々になった破片が飛び散った。

「か、馨ちゃん! 大丈夫? 怪我してないかい」
「帰る!」
「は、え? そんな急に」

 馨が席を立つのと店員が箒と塵取を持ってやってくるのはほとんど同時だった。遼真は多めに代金を支払い、急いで馨の後を追う。

「馨ちゃん、待ってくれよ」
「やかましい。帰る言うたら帰るがじゃ」
「どうしたんだい、急に。何か気に入らないことでも」
「なんちゃやないき、構いなや」
「ほいでも馨ちゃん、僕はまだ――」

 馨はにわかに立ち止まり、小さなくしゃみをした。色褪せたジーンズにゴムの伸び切ったトレーナーという恰好では、夜の冷え込みに太刀打ちできなかったらしい。馨は続けてもう一回くしゃみをした。遼真は脇に抱えていたコートを広げて馨の肩に掛ける。

「な、なにしゆうが。いらん、こがなもん」
「でも風邪引いたら事だよ。後で返してくれればいいからさ」
「後で?」
「来週もまた来るから。その時まで好きに使っていいよ。ほいじゃあね」

 遼真は馨に背を向けて、駅の方面へと歩いていく。馨は貸してもらったコートの襟をぎゅっと掴み、抱きしめるようにして前を締めた。

「……来週は、ここやのうて府中に行くき」

 馨が言うと、遼真は足を止めて振り返る。

「やき、ここにゃあ来ん」
「そっか」
「遅刻しなや」
「善処するよ」
「ん」
「ほな、来週ね」

 そうして別れた。遼真のコートは馨には大きすぎた。袖も裾も余ってだぶつく。しかし暖かい。居酒屋で染み付いた食べ物のにおいと、馨が吸った煙草のにおいと、それらに隠れて懐かしい匂いが仄かに香った。
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