元の鞘に収まれない!

小貝川リン子

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18 啓蟄②

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 それからしばらく、俺は桐葉に会わなかった。会いに行かなかったし、向こうも会いに来なかった。赤石は平日も休日も変わらず一人で飲みに来て、桐葉を連れてこようとはしなかった。
 季節はいつのまにか秋に入っていた。地元じゃ稲刈りも終わって、田んぼに藁が積んであることだろう。都会のコンクリートジャングルでは、そんな風景は滅多にお目にかかれない。大多数の人間は、色付き始めた銀杏並木を見て秋の訪れを知るのである。最近夜は冷え込むからねぇ、なんて知った風なことを言って、昨年のコートを引っ張り出すのだ。
 
 空が透明に澄み切った秋晴れの日だった。お昼過ぎ頃、バイトにはまだまだ早い時間だが、俺は池袋の駅に降り立った。四年間は使ったであろうスマホの挙動がいよいよおかしくなってきたので、買い替えるためである。
 
 しかし、改札を出たところで一か月半ぶりに桐葉と出会ってしまった。正確には出会ったのではなく、後ろ姿をちらりと見ただけだ。顔ははっきり見えなかったが、たぶん桐葉だ。たまたま同じ電車に乗っていたらしかった。
 今日は休日なのに何をしているのだろうと不思議に思い、こっそりと後を追った。声をかけてもよかったのだが、できなかった。何しろ喧嘩してから一か月以上も会っていないのだ。気軽に声などかけられない。そもそも何を話せばいいのだろう。「久しぶり、こないだは殴ってごめんね」とでも言えばいいのか?
 
 改札を出ても駅から出ず、JRの改札へと向かう。ますます怪しく思い、尾行を続けた。乗り込んだのは山手線外回り。人混みに紛れているから見つかる心配は少ないが、逆に見失ってしまいそうだった。
 桐葉の服装は、スーツではないから仕事ではないのだろうが、シャツにジャケットという堅めの恰好だった。パーカーにブルゾンを羽織っただけの俺と比べ、かなりちゃんとしていると思った。これから誰かに会うのではないかと予感させた。
 
 上野で降り、改札前で人と会う。相手は中年の男性だ。髪が薄いとか太りすぎだとか不潔な印象はなく、至って紳士然とした、身なりの良い男だった。二人は初対面ではなさそうだった。かと言って、物凄く親しい間柄でもないようだった。片手で足りる回数程度しか会っていないような雰囲気だった。桐葉は大人しく男の隣を歩いていた。
 駅を出てすぐ、二人は高級焼肉店に入った。確か芸能人も通っているとかいう、お高いことで有名な店だ。悔しいが、俺は牛角の食べ放題以外で焼肉を食ったことがない。この中年男性、大変な金持ちらしい。俺はやきもきしながらも店内までは追いかけられず、隠れて出口を見張っていた。
 
 たっぷり二時間は待った。スマホの調子が悪いので暇潰しにゲームもできず、立ったままうつらうつらしていた。途中、せっかくの休日にどうしてこそこそとストーカーみたいな真似をしなきゃいけないのだろうと虚しくなったが、ここまで来て引き返すわけにもいかなかった。
 
 昼食を終え、公園内を散歩する。遊歩道には木々が生い茂っていたが紅葉はまだ盛りでなく、緑の中にぽつぽつと赤や黄色が差しているだけだった。淡い木漏れ日が桐葉を優しく包む。他愛ない光景が神々しいくらいに美しくて、ちょっぴり泣けた。
 二人は美術館にも動物園にも寄らずにカフェで休憩した後、また歩き始めた。時は黄昏、おぼろげな陽射しが世界を橙色に滲ませていた。宵の明星と細い三日月が西の空に並んで輝いていた。
 
 公園を横切って一歩外へ踏み出せば、そこは東京でも有数のホテル街である。先ほどまでの明媚な景色から一転、せせこましくて汚らしいいかにもな都会の街がある。
 所狭しと建ち並ぶビル、下品なほど派手に光るネオン、コスプレ衣装や軽食メニューを宣伝するピンクの看板。キャッチなどはいないので閑静だが、心は全く落ち着かない。気が急いてしまう。思わず足も速くなる。
 
 二人は人目を忍ぶように狭い路地へ入っていく。奥にホテルがあり、俺が追い付いた時、ちょうど桐葉と男が連れ立って入店するところだった。それを見た瞬間「後悔」の二文字が頭に浮かび、居ても立っても居られなくなって、なりふり構わず飛び出した。後悔だけは残すなよ、という店長の言葉を反芻していた。
 
「おい! 桐葉悠絃!」
 
 桐葉はぱっとこちらを振り返る。何をしているんだと言いたげな顔だ。俺は急いで駆け寄り、桐葉の腕をがっちり掴んだ。
 
「こいつは俺のもんだ。手ぇ出さないでくれ」
 
 一緒にいた男を睨みつけ、啖呵を切る。男は唖然として立ち尽くしている。
 
「どういうつもりだ。いきなり出てきやがって」
 桐葉は顔をしかめ、俺の手を振り解く。俺も声を荒げる。
 
「何だっていいだろ! お前は俺のもんなんだから、ほいほい他の男に股開いてんじゃねぇよ!」
「おれはお前のもんになった覚えはねぇ。めちゃくちゃ言うな」
「めちゃくちゃなもんか。俺は、俺はお前のことが――」
 
 ざわめく街が息を呑む。
 
「好きなんだよ!」
 
 勢いのままに発した声が、ビルの谷間に反響する。刹那、時が止まった。桐葉は奇跡か何かを目の当たりにしたかのように目を見開く。喉仏がゆっくりと上下する。顔色がみるみるうちに変わっていく。鮮やかに紅をさしていた。
 
「……い、意味、わかんねぇ。なんだって急に、そんな話になるんだ」
「急じゃねぇ! たぶん、ずっと前から好きだったんだ。気づくのが遅かっただけだ!」
 
 もう一度、好きだと繰り返した。桐葉はうつむき、震える手で洋服の裾を握りしめる。見るからに狼狽えていた。
 
「ちょっと待ってくれ」
 水を差したのは、いまだ目の前に佇む中年男性である。なんでまだいるんだよ、と文句を付けたいが我慢する。
 
「特定の相手はいないって聞いたから、割り切りで会っていただけだ。君こそ、これからって時に出てきて邪魔をするな」
「何がこれからだ。こいつはずうっと昔から俺だけのものだ。こいつに目を付けたのも、手を出したのも、キスだって、俺が一番初めに全部奪ってやったんだ」
 
 俺が捲し立てると、男は鼻であしらった。

「馬鹿馬鹿しい。そんなに大事なら、この雌犬に首輪とリードを付けておくんだな。もっとも、こいつはどんな男にもほいほい股を開くアバズレだ。今さら操を立てようったって――」
 
 汚い言葉で桐葉を侮辱された。そう思うと同時に、カッと頭に血が上る。気づけば腕を振り抜いていた。
 
 拳頭に鋭い痛みが走る。指の骨が軋んで音を立てた。はっとして身を引き、一歩後退る。桐葉が頬を押さえて崩れ落ちた。
 
「なっ……おま、何して……」
 
 桐葉は咄嗟に、俺と男の間に割って入ったのだった。男の代わりに俺の拳を受けたのだ。桐葉は地面に膝をついたまま、男の方へ向き直る。
 
「悪いな、こんな迷惑かけちまって……ほんと、悪かったよ」
 不明瞭な声で途切れ途切れに話す。上着のポケットからお札を取り出し、男に手渡した。
「もらった分は返すからよ。一日付き合ってもらって今さら勝手なことを言うようで悪いが、今日はもう帰ってくれねぇか」
 
 男は受け取った札を忌々しげに握り潰す。一寸桐葉と見つめ合った後、舌打ちをして去っていった。俺は黙って男の後ろ姿を見ていた。おそらく駅まで戻るのだろう。
 
「……ッは、痛ぇ」
 
 不意に桐葉の呻き声が聞こえ、俺は現実に引き戻される。すぐさましゃがみ込んで桐葉の背中をさすった。
 
「おい! おい、大丈夫かよ」
「てめえ、本気で殴ったな。はは、ぁ、痛ぇ」
「馬鹿なことすんなよ。俺はお前を傷付けたかったわけじゃねぇのに」
「うるせぇ。初対面のオッサン殴るよか、よっぽどマシだろうが」
 
 桐葉は強気に笑ってみせる。患部は赤黒く腫れ、血が滲んでいた。胸が痛んだ。
 
「痛むか?」
「あぁ? 痛ぇっつってんだろ」
「そ、そうだよな。ごめんな」
「ずいぶんしおらしいじゃねぇか。こないだは散々いたぶったくせに」
「今それを言うなよ……」
「無駄口叩いてねぇで、冷やすもん持ってこいよ。近くにコンビニあったろ? 氷でも買ってこい」
 
 指図されるままにコンビニで氷を買い、桐葉のハンカチに包んで頬を冷やした。桐葉は疲れたようで、微動だにせず座り込んでいる。
 
「……休みてぇ」
 ぼそりと呟く。
「マンションまで送ろうか」
「ばァか。休憩所なら真ん前にあんだろが」
 
 桐葉の指の先には「休憩2900円」などと書かれた看板が架かっている。忘れかけていたが、ここはホテルの入口だった。俺は顔を引き攣らせた。
 
「えぇ……ここ、入るの?」
「不満か? ちょうどいいじゃねぇか。お前とは来たことなかったからな。もしかして初めてか?」
「さすがに初めてじゃねぇけど。だってあいつと泊まろうとしてたホテルだろ? 嫌だぜ、そんなの」
「泊まらねぇよ。休憩だ」
「同じことだろ」
 
 あの男と泊まろうとしていたという点は腹立たしいが、このホテルに罪はない。加えて、ホテルに入ってしまえばそのまま仲直りセックスに持ち込めるんじゃないか、という下心が多分にあった。
 俺は苦い表情を作りながらも桐葉に肩を貸し、まんまとラブホテルへ足を踏み入れたのである。別にいやらしいことをしようってんじゃない。桐葉が休憩したいって言うから、仕方なくだ。不可抗力だ。
 
 値段のわりに小綺麗なホテルだった。タッチパネルで部屋を選ぶ。男同士で入れるものなのか疑問に思ったが、特に問題ないようだった。ウェルカムドリンクというのかわからないが、エントランスで飲み物を一杯もらった。室内もとりあえず小綺麗で、真っ白なベッドシーツが目に眩しかった。
 
 中央に堂々と鎮座するクイーンサイズのベッドに腰掛けてテレビをつけると、十八禁動画が全面に映し出された。画面が無駄に大きいせいで、スマホやパソコンで見るのとは全く違った迫力がある。女優がバックで突かれ、大音量で喘いでいる。豊満な乳がぶるんぶるん揺れている。時々端っこに映る男優の尻が邪魔だ。
 
 この程度のことで動揺する年齢ではない。俺たちは、もはや青臭い中学生ではないのだ。動画で見るよりもっと恥ずかしいことをたくさん経験済みだ。しかし桐葉とアダルトビデオを視聴するのは初めてで、俺は気まずい気持ちになった。一方の桐葉は特に思うことがないようで、淀みなくバスルームへと向かう。
 
「風呂入んの?」
「ああ。覗くなよ」
「覗かねぇよ!」
 
 本当は、顔の怪我は平気なのかと問いたかったのだ。水が沁みるのではないかと。言いそびれてしまった。俺たちっていつもこうだ。一番大切なことが言えず仕舞いだ。
 
 それはそれとして。他にやることもない俺は、独り虚しくアダルト動画を眺めている。エロいと言えばエロい。いくら男と寝ていても、結局おっぱいは好きなのだ。しかし何かが物足りない。息子は若干の反応を示しているものの、積極的に抜きたいという気が起こらない。チャンネルを変えてみてもそれは変わらなかった。
 
 顔か? それとも髪? 黒髪ショートできつめの美人でないと抜けない体になったのだろうか。それから声も違う。桐葉の喘ぎ声はもう少し低くて苦しそうで、もっと切羽詰まったような声だ。あの声でしか抜けなくなったのか? ボーイッシュな女優が出演している動画を見つけたのでとりあえず視聴してみるが、俺の欲しいものとは程遠かった。
 
「この子にちんこが生えてりゃなぁ」
 多少は桐葉に近づくのに。
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