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第五章 繋がる心
露天風呂付温泉旅館①
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千紘のために頑張って働き、家事も完璧にこなす、俺の充実した日々が戻ってきた。毎日が慌ただしく、騒々しく、幸せだった。何の変哲もない日常こそが最も尊い、ということに改めて気付かされた。
お盆を迎えるに当たり、俺は休暇を取った。去年と同様、里帰りをするためだ。まずは墓参りをし、姉の嫁ぎ先にお邪魔した。千紘にとっても親戚に当たる家だが、あちらの家族が千紘をどう思っているかは察していたので、必要最低限の用事だけ済ませてお暇した。
「颯希くん、ちょっと」
帰り際、亡き姉の夫――吾郎さんに呼び止められた。
「な~、犬撫でてぇ」
ほぼ同時に、千紘が俺の袖を引っ張る。
「そんなの、俺に訊いたってしょうがねぇだろ。飼ってる人に許可取れ」
「あ、そか」
千紘は玄関に向き直って、「犬撫でていいですか!」と言った。吾郎さんは若干たじろいで、「知らない人が触ると嫌がるんだ」と断った。
「でもオレ、猫と住んでたことあるんで! 動物ならけっこー慣れてるっス」
「でも怪我するといけないから、遠くから見るだけにしてくれるかい?」
「ちぇ……はーい」
千紘は拗ねた様子だったが、犬小屋へ駆けていった。その背中を、吾郎さんは遠い目で見守る。
「あの子、随分落ち着いたね」
「千紘ですか」
「初めて会った時は……こんな言い方はあれだけど、山の猿が人里へ下りてきたのかと思ったよ。それくらい、何もできない、分からないで、オレ達も参っちゃって。しかも、あの子の母親が人殺しだっていうもんだから、もう大パニックだよ。だから、颯希くんが引き取ってくれるって申し出てくれた時は、天の助けかと思ったんだ」
「……俺は別に、そんなつもりは」
「でも、今考えると、颯希くんに面倒事を全部押し付けちゃったような気もしてるんだ。母さん達は何も言わないけど、キミもまだ若いんだし、あんな子供を抱えてたら色々不便だろう?」
「不便……?」
「お金だってかかるし、恋愛してる暇なんかないじゃないか。結婚、考えてないわけじゃないんだろう? 今はよくても、二年後三年後、あの子のせいで良い縁を逃してしまうかもしれないし」
「……そんなこと……」
千紘はきちんと言い付けを守って、犬小屋のそばにしゃがんで犬を見ていた。白い雑種の中型犬で、大人しそうだった。千紘は撫でたいのを我慢して、腕を伸ばしたり引っ込めたりと葛藤している。
「だから、今からでも施設に入れるってのも――」
「俺は、あいつを手放すつもりはないです」
「颯希くん」
「責任感や同情心で言ってるんじゃありません。もうそういう次元じゃないんですよ」
「でも、結婚は? その歳でこぶ付きなんて」
「結婚する気はないので、問題ないです」
「そんなこと言って」
「千紘を施設にやらなくちゃいけないくらいなら、結婚なんてしませんよ」
俺は千紘を呼んだ。千紘はぱっと駆けてきて、俺の腕に纏わり付く。
「ムズカシー話、終わった?」
「ああ。挨拶しろ」
「さよーならー!」
「さ、さようなら……」
吾郎さんは玄関先に立ち尽くし、俺と千紘を見送ってくれた。
*
そのままの足で、千紘の生まれ育った町へと赴く。ひつまぶしの駅弁を食べながら、ローカル鉄道に揺られた。
列車はのどかな山裾の村々を走り、橋を渡り、いくつかのトンネルを抜ける。ガタンゴトンと響く規則的な揺れが心地よく、千紘は重たそうな瞼を必死に押し上げる。
「眠かったら寝てもいいんだぞ。着いたら起こしてやるから」
「やだ。寝たらもったいねー」
「もったいねぇことはねぇだろ。今回はゆっくりできるんだから」
「やーだ。だって、せっかくの旅行なのに」
列車はやがて、明るく開けた麓の町に入った。
路線バスには乗り換えず、一直線に河原へと向かった。橋の上から見える景色は去年と変わらない。灼熱の太陽、紺碧の空、真白に輝く入道雲。川の流れは清らかで、蝉時雨は騒がしい。
「ここに来るとさ、ミータローに近付けた気がすんだ」
「飼ってたっていう猫か」
「飼ってたとか言うなよ。ペットみてーだろ」
「ペットじゃないのか?」
「ペットじゃねーよぉ。オレのたった一人の家族だぜ? あ、猫だから一匹か。そりゃ、母ちゃんは母ちゃんだけどよ、オレの家族はミータローだけだったんだ。今は颯希がいるけどさ」
「……そうか」
去年、千紘が無性に会いたがっていた相手というのは、母親なんかではなく、その猫だったのか。俺はようやく理解した。千紘のことをどれだけ分かったつもりでいても、実は知らないことだらけだ。いつか全てを理解したい。そんな日が来るだろうか。
「かわいー猫だったんだぜ。銀色の毛がキレーでさ、お腹にぐるぐる模様があって。オレの手とか足とかに、頭すりすりしてくんだ。撫でると喉ぐるぐるさせてさ。寝てると上に乗ってきて、それがすげーあったかくてさ。颯希にも会わせたかったなぁ。ホントかわいいんだぜ」
「俺も会いたかったよ」
「天国行きゃ会えっけどよ、まだずっと先だもんなァ~」
千紘は、橋の欄干に頬杖をついて青空を見上げる。
「アレ? ンでも、今お盆だからよ、こっち帰ってきてんのかな?」
「さぁ、どうだろうな。魂は目に見えないから、感じるしかねぇな」
「感じるって、どーすんだよ」
「知らねぇよ。目でも瞑ってみろ」
千紘は素直に目を閉じる。言った手前、俺も目を閉じた。そよ風が頬を撫でる。川のせせらぎが聞こえる。草と土と水と、それからお日様の匂いがする。
千紘はゆっくりと目を開けた。
「よくわかんね」
「だろうな」
「けど、ちょっと知ってる匂いがしたぜ。ミータローの匂いかもしんねー」
上を向く千紘の瞳はどこまでも真っ直ぐで、羨ましいほど眩しく輝いていた。
「またあの駄菓子屋行くか」
「おう! 今度はアタリ付きのアイスにする!」
「その後は海だな」
「もっとでけーカニ捕まえてやらぁ!」
「カニはやめとけ」
お盆を迎えるに当たり、俺は休暇を取った。去年と同様、里帰りをするためだ。まずは墓参りをし、姉の嫁ぎ先にお邪魔した。千紘にとっても親戚に当たる家だが、あちらの家族が千紘をどう思っているかは察していたので、必要最低限の用事だけ済ませてお暇した。
「颯希くん、ちょっと」
帰り際、亡き姉の夫――吾郎さんに呼び止められた。
「な~、犬撫でてぇ」
ほぼ同時に、千紘が俺の袖を引っ張る。
「そんなの、俺に訊いたってしょうがねぇだろ。飼ってる人に許可取れ」
「あ、そか」
千紘は玄関に向き直って、「犬撫でていいですか!」と言った。吾郎さんは若干たじろいで、「知らない人が触ると嫌がるんだ」と断った。
「でもオレ、猫と住んでたことあるんで! 動物ならけっこー慣れてるっス」
「でも怪我するといけないから、遠くから見るだけにしてくれるかい?」
「ちぇ……はーい」
千紘は拗ねた様子だったが、犬小屋へ駆けていった。その背中を、吾郎さんは遠い目で見守る。
「あの子、随分落ち着いたね」
「千紘ですか」
「初めて会った時は……こんな言い方はあれだけど、山の猿が人里へ下りてきたのかと思ったよ。それくらい、何もできない、分からないで、オレ達も参っちゃって。しかも、あの子の母親が人殺しだっていうもんだから、もう大パニックだよ。だから、颯希くんが引き取ってくれるって申し出てくれた時は、天の助けかと思ったんだ」
「……俺は別に、そんなつもりは」
「でも、今考えると、颯希くんに面倒事を全部押し付けちゃったような気もしてるんだ。母さん達は何も言わないけど、キミもまだ若いんだし、あんな子供を抱えてたら色々不便だろう?」
「不便……?」
「お金だってかかるし、恋愛してる暇なんかないじゃないか。結婚、考えてないわけじゃないんだろう? 今はよくても、二年後三年後、あの子のせいで良い縁を逃してしまうかもしれないし」
「……そんなこと……」
千紘はきちんと言い付けを守って、犬小屋のそばにしゃがんで犬を見ていた。白い雑種の中型犬で、大人しそうだった。千紘は撫でたいのを我慢して、腕を伸ばしたり引っ込めたりと葛藤している。
「だから、今からでも施設に入れるってのも――」
「俺は、あいつを手放すつもりはないです」
「颯希くん」
「責任感や同情心で言ってるんじゃありません。もうそういう次元じゃないんですよ」
「でも、結婚は? その歳でこぶ付きなんて」
「結婚する気はないので、問題ないです」
「そんなこと言って」
「千紘を施設にやらなくちゃいけないくらいなら、結婚なんてしませんよ」
俺は千紘を呼んだ。千紘はぱっと駆けてきて、俺の腕に纏わり付く。
「ムズカシー話、終わった?」
「ああ。挨拶しろ」
「さよーならー!」
「さ、さようなら……」
吾郎さんは玄関先に立ち尽くし、俺と千紘を見送ってくれた。
*
そのままの足で、千紘の生まれ育った町へと赴く。ひつまぶしの駅弁を食べながら、ローカル鉄道に揺られた。
列車はのどかな山裾の村々を走り、橋を渡り、いくつかのトンネルを抜ける。ガタンゴトンと響く規則的な揺れが心地よく、千紘は重たそうな瞼を必死に押し上げる。
「眠かったら寝てもいいんだぞ。着いたら起こしてやるから」
「やだ。寝たらもったいねー」
「もったいねぇことはねぇだろ。今回はゆっくりできるんだから」
「やーだ。だって、せっかくの旅行なのに」
列車はやがて、明るく開けた麓の町に入った。
路線バスには乗り換えず、一直線に河原へと向かった。橋の上から見える景色は去年と変わらない。灼熱の太陽、紺碧の空、真白に輝く入道雲。川の流れは清らかで、蝉時雨は騒がしい。
「ここに来るとさ、ミータローに近付けた気がすんだ」
「飼ってたっていう猫か」
「飼ってたとか言うなよ。ペットみてーだろ」
「ペットじゃないのか?」
「ペットじゃねーよぉ。オレのたった一人の家族だぜ? あ、猫だから一匹か。そりゃ、母ちゃんは母ちゃんだけどよ、オレの家族はミータローだけだったんだ。今は颯希がいるけどさ」
「……そうか」
去年、千紘が無性に会いたがっていた相手というのは、母親なんかではなく、その猫だったのか。俺はようやく理解した。千紘のことをどれだけ分かったつもりでいても、実は知らないことだらけだ。いつか全てを理解したい。そんな日が来るだろうか。
「かわいー猫だったんだぜ。銀色の毛がキレーでさ、お腹にぐるぐる模様があって。オレの手とか足とかに、頭すりすりしてくんだ。撫でると喉ぐるぐるさせてさ。寝てると上に乗ってきて、それがすげーあったかくてさ。颯希にも会わせたかったなぁ。ホントかわいいんだぜ」
「俺も会いたかったよ」
「天国行きゃ会えっけどよ、まだずっと先だもんなァ~」
千紘は、橋の欄干に頬杖をついて青空を見上げる。
「アレ? ンでも、今お盆だからよ、こっち帰ってきてんのかな?」
「さぁ、どうだろうな。魂は目に見えないから、感じるしかねぇな」
「感じるって、どーすんだよ」
「知らねぇよ。目でも瞑ってみろ」
千紘は素直に目を閉じる。言った手前、俺も目を閉じた。そよ風が頬を撫でる。川のせせらぎが聞こえる。草と土と水と、それからお日様の匂いがする。
千紘はゆっくりと目を開けた。
「よくわかんね」
「だろうな」
「けど、ちょっと知ってる匂いがしたぜ。ミータローの匂いかもしんねー」
上を向く千紘の瞳はどこまでも真っ直ぐで、羨ましいほど眩しく輝いていた。
「またあの駄菓子屋行くか」
「おう! 今度はアタリ付きのアイスにする!」
「その後は海だな」
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