そして家族になる

小貝川リン子

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第四章 すれ違う心

失踪①

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 その日は、いつもと変わらない一日だった。
 
 千紘は普通に学校へ行き、俺も普通に働いて、いつもと変わらない時間に帰宅した。千紘はいなかったが、テーブルに手紙が置いてあった。以前、放課後どこかへ出かける時は手紙でも書いていけと言ったことがあったから、そのつもりで気軽に封を切った。
 
 それは、別れの手紙だった。今までたくさん迷惑をかけたことについての謝罪、世話になったことへの感謝、そして、家を出るが捜さないでほしいという趣旨のことが、下手な文字で書き綴られていた。
 
 普段は気付かないだけで、絶望はいつだってすぐそばに佇んでいて、虎視眈々と機会を窺っている。そのことを俺は理解した。
 
 すぐに捜しに行った。まだ家の近くにいるかもしれない。アパートの周辺、近所の公園、よく利用するコンビニ、スーパーマーケット、自動販売機。思い当たる場所を片っ端から捜し回ったが、見つからなかった。
 
「千紘!」
 
 光と影の境界線が曖昧になった、暮れなずむ街に呼びかける。
 
「出てこい! どこかで見てるんだろ!」
 
 返事はない。道行く人が奇異の目で俺を見る。
 
「怒らないから出てこい! どうせいつものいたずらなんだろ!」
 
 そうであってくれと願った。質の悪い悪戯だが、今なら許してあげられる。けれど、千紘は帰ってこなかった。
 
 翌日、仕事を休んで千紘を捜した。今通っている高校、前通っていた学校、それぞれの最寄り駅、駅前の商店街、ゲームセンター、喫茶店。けれど、どこにも見つからない。
 
 翌々日も仕事を休んだ。以前一緒に買い物をしたデパートや、映画館。よく食事に行っていたレストラン、ラーメン屋。ドーナツショップや、アイスクリームショップ。けれども、やっぱり見つからない。
 
 次の日も、その次の日も、次の次の次の日も、俺は街を走り回って千紘を捜した。しかし、どれだけ捜しても見つからなかった。どれだけ呼んでも、叫んでも、声が返ってくることはなかった。
 
 多少の小遣いは持っているはずだから、電車やバスを使ってどこか遠いところまで行ってしまったのだろうか。そうだとしたら、もはや俺に千紘を捜し出す手立てはない。
 
 *
 
 数日ぶりに仕事に行った。情けないがこんな状態でも腹は減り、食堂でうどんを啜っていると、驚いた顔をした美山先輩が隣に座った。
 
「颯希くん、どーしちゃったの? 酷い顔だよ」
 
 自覚はなかった。このところ、まともに鏡を見ていない。
 
「それに、お弁当じゃないなんて。先週休んでたみたいだけど、まだ具合悪いなら無理しないで休みなよ?」
「……無理しますよ」
「何それ~? 無理しない方がいいって。千紘くんも心配するよ?」
 
 思いがけない名前が飛び出し、俺は箸を取り落とした。
 
「ちょ、どーしちゃったのよ、ホント。そんなに具合悪い?」
 
 床に落ちた箸を拾い上げてくれた美山先輩の顔が、ぼんやりと滲む。途端に、先輩は慌てたような声を出した。
 
「ちょちょちょっ、ホントにどーしちゃったのよ!? 何がそんなに悲しいの? どこか痛いの? 苦しいの? ど、どーしよ。医務室行く?」
「……いえ。大丈夫です」
 
 俺は目尻を拭ったが、先輩は全く納得していない。
 
「嘘言わないで。どう見ても大丈夫じゃない。急にこんなの、おかしいって。本当は、仕事なんかしてる場合じゃないんでしょ。何があったの」
「……」
 
 震える声で、千紘がいなくなった旨を伝えた。先輩は愕然とした様子で、静かに腰を下ろした。
 
「……ど、どういう意味?」
「……家出です。よくあるでしょ」
「よくないよ!」
 
 先輩はテーブルを叩いた。一瞬、食堂が静まり返る。
 
「よくあるけど、全然よくない! 喧嘩したの? いくら喧嘩したって、あの子はキミを置いてどこかへ行くような子じゃないよ。キミが一番よく分かってるでしょ? あの子は、キミのことが一番大切なんだよ。早く捜してあげなくちゃ――」
「捜しましたよ!」
 
 俺が大声を上げると、再び食堂は静まり返る。
 
「昨日も一昨日もその前も、ずっとずっと捜してるんです! 足が棒になるまで捜して、それでも、見つからないんです!」
 
 ここで声を荒げたって、千紘が帰ってくるわけじゃないのに。分かっているけど、耐えられなかった。一人で抱え込むには、あまりにも辛すぎた。
 
「俺が悪いんです。俺が、あいつとちゃんと向き合わなかったから……。自分のことばっかりで、あいつの気持ちを考えてやれなかった。理解してやれなかった。正しく愛してやれなかった。俺のせいなんです。全部、俺が……!」
 
 言葉と共に涙が零れ落ちる寸前、強烈なビンタを食らわされた。手首のスナップを利かせた、目の覚めるような一撃だった。
 
「そんな泣き言聞きたくない! 今やるべきはそんなことじゃないでしょ!? お願いだからしっかりして! 颯希くんが見つけてあげなきゃ、あの子はずっと一人ぼっちなんだよ!?」
 
 食堂は静まり返るどころか、俺達を取り巻いてざわめいていた。今さっきよりも、俺の目には色々な景色が映った。「なになに?」「喧嘩?」「痴話喧嘩?」「何やってるの?」と、色々な会話が聞こえた。
 
 本当に、何をやっていたのだろう、俺は。
 
「……でも、どうやって捜せば……」
「警察に捜索願は?」
「あっ……」
 
 すっかり忘れていた。警察の存在自体、頭からすっぽり抜け落ちていた。
 
「行きそうな場所は全部当たったの? 友達の家とかは?」
「とも、だち……?」
 
 千紘の友達なんて全然知らない。学校の出来事はよく話してくれるが、具体的な友達の名前を聞いたことはない。
 
「一人くらい心当たりないの? 家知らなくても、電話番号は知ってるよね? 連絡網とかあるでしょ?」
 
 ある。電話機のそばに貼ってある。どうして気付かなかったんだろう。
 
「じゃあ帰ったらすぐ電話して。警察は今から行こう」
「先輩も?」
「アタシも行くよ。今の颯希くん、頼りなくて心配だもん。それにね、アタシだって、千紘くんのことは大切に思ってるんだよ」
 
 *
 
 美山先輩の提案で、人探しの貼り紙を作成した。駅の掲示板に貼らせてもらった。使った写真は去年のもので、今の千紘よりも幾分幼く見える。
 
 こんなものを貼ったところでどれだけの効果があるのか分からないが、もしも千紘がこれを見たら、俺や美山先輩が心配して捜していると知って、帰ってきてくれるかもしれない。一縷の望みに賭けるしかなかった。
 
「もう一枚、西口にも貼ってきます」
「……ねぇ、」
 
 モノクロ印刷の千紘の顔をじっと見ていた美山先輩は、重苦しく口を開いた。
 
「……千紘くんがいなくなったの、アタシのせいかもしれない」
 
 先輩がいきなりそんなことを言い出した理由が、俺には分からなかった。
 
「そんなわけないと思いますけど」
「ううん。思い当たることがあるんだ。先月、会社の飲み会でさ、颯希くん酔い潰れちゃったでしょ。あの時、アタシが家まで送り届けたんだけど、その時に……」
 
 先輩は俯き、唇を噛みしめた。
 
「……ごめん。アタシ、ずるい女だ。あんなこと、あの子に……」
「……なんだかよく分かりません。その時、千紘と何かあったんですか」
 
 先輩は拳を握りしめて、俺に背を向けた。いつだって自信満々の先輩の背中が、いやに小さく見えた。
 
「……アタシ……アタシね、颯希くんが好きだったんだ」
 
 まさに青天の霹靂。思いもよらない告白の上、今この状況で言うのかという衝撃も相まって、せっかく作ったポスターをぐしゃっと折り曲げてしまった。
 
「ごめん。今言うことじゃないって分かってるんだけど……」
「あ……で、でもあの、俺は……」
 
 動揺のあまり、まともに喋れもしない。情けない。そんな俺を笑いもせず、先輩は淡々と続けた。
 
「アタシね、キミには好きって言えなかったけど、代わりに、千紘くんに言っちゃったんだ。颯希くんを好きになってもいいかって。……あの時、アタシは自分が傷付けられたって思ったけど、それよりももっと深く、アタシはあの子を傷付けたんだ」
 
 先輩の細い肩が小さく震えている。俺は、折れ曲がったポスターを元通りに広げた。
 
「……もう一枚、西口にも貼ってきます」
「うん……」
「終わったら、カフェで休憩しましょう」
 
 美山先輩は振り向いてはくれなかったが、少しだけ微笑んだように見えた。
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