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第四章 瓦解
第四章①
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言葉を交わし、体を重ねて、心はどこまで近付けるのだろう。果たして、どれだけ言葉を尽くしても、どれほどの時間を共にしても、心の距離はちっとも埋まらないのかもしれない。薫は己の浅はかさを痛感した。
先々週は動物園に行った。真純だけでなく、肇もパンダを見るのは初めてだと言っていた。「白黒ってだけでちやほやされてるただの熊だな」と笑っていた。ふれあいコーナーではウサギの餌やり体験ができた。初めは少し怖がっていた真純だが、最終的には「かぁいかったね」と喜んでいた。
隣接の公園でスワンボートに乗った。肇が漕ぐと、白鳥は波を立ててすいすい進んだ。真純もパパの真似をしたがったが、足が届かないので手でペダルを回した。そうなると舵取りは薫の役目になり、三人の連携で湖を一周した。湖上を吹き渡る風が心地よかった。
先月はデパートに出かけた。真純に新しい服と靴、絵本やおもちゃも買い足した。無料のボールプールで二時間近く遊び、最上階のレストランで夕飯を食べた。「てめー、どうじょ」と真純がお子様ランチのフライドポテトをくれた時には面食らったが、どうやら肇が薫を呼ぶ時にてめぇだとかお前だとか乱暴な言葉を使うので、覚えてしまったらしい。
「ちょっ、変な言葉覚えさせないでよ」
「知らねぇな。真純が勝手に覚えたんだ」
「真純くん、僕のことはお兄さんって呼んでね。薫おにーさんだよ」
「とまともあげう。てめー」
肇はもう堪え切れないとばかりに腹を抱えて大爆笑した。真純はきょとんとしながらも、肇につられてにこにこ笑った。どう転んでも親子であることを感じさせる二人のそっくりな笑顔が、今もまだ薫の脳裏にはっきりと焼き付いている。
それなのに。
今日は水族館に行く予定だった。真純は喜んでくれるかな、肇も楽しんでくれるといいな、と一人浮き立っていた薫だが、約束の時間を過ぎても一向に肇が現れない。それどころか、電話をかけても繋がらない。もしや事件や事故に巻き込まれたのだろうか、と薫は大急ぎでアパートに駆け付けた。
そこで目にした光景は、薫の想像の遥か斜め上を行くものだった。ありえない。悪夢みたいな光景だった。いっそ嘘だといってほしい。夢なら早く醒めてくれ。
約束をすっぽかし、真純のこともほったらかして、肇は男に抱かれていた。泊まりの時に薫が使っている布団を敷いて、おぞましく汚い男に抱かれていた。自ら男にしがみつき、足を絡め、甘い声で喘いでいた。
「何、して……」
それだけを薫はようやく絞り出した。一瞬にして喉が砂漠のように渇き、一言も声が出なかった。
呆然と玄関に立ち尽くす薫を、肇は確かに見た。確かに、目が合ったのだ。それから、肇は微かに唇を歪めると、男の穢らわしい唇に吸い付いた。
薫はもう見ていられなくなって、思わず目を伏せた。けれど、見えないことは見えることよりずっと恐ろしい。唾液を混ぜ合ういやらしい音や、肇のあえかな息遣い、男の気色悪い鼻息なんかが、否が応でも耳に入ってくる。
「なんだよ、肇ちゃん。見られてコーフンするタイプ? ヘンタイだなぁ」
「っせぇな、てめぇは黙ってちんぽおっ勃てときゃいいんだよ」
「でもほら、あの子来てナカ締まったじゃん? 好きなんでしょ」
「てめぇこそ、でかくしてんじゃねぇよ」
睦言のようにも受け取れるやり取り。薫はとうとう我慢ならなくなり、意を決して目を開いた。
やはり、夢などではないのだ。目の前の光景は、全て現実。残酷なほどに明白な事実だけが、薫の眼前に突き付けられていた。
「……そいつ、俺のなんだけど」
静かに、けれどよく通る声で、薫は言った。男は口元を下品にニヤつかせ、薫のことを見もせずに、発情期の猿のように腰を振る。
「誰のモンとかねぇだろう? こいつとヤリたきゃ、金さえ払えばいいんだからよ。けど順番は守れよなぁ。どんな教育されてんだよ、今時のガキは」
「順番を守るのはお前の方だ。今日は水族館に行く約束をしてたんだよ」
「水族館だとさ!」
男はしゃがれた声で笑う。
「ガキぃ、そういうお子ちゃまのデートがしたいなら、こいつは全然向いてねぇよ。ヤる以外に楽しみのねぇビッチなんだからよ。ガキと魚見るより、ちんぽしゃぶってる方が好きだろ? なぁ、肇ちゃん」
「……ああ、そうかもなァ」
肇はうっとりとして微笑む。薫は拳を握りしめた。
「俺ァ、所詮穴としての価値しかねぇ男だからよ。使えるモン切り売りして稼ぐしかねぇからな」
「何言ってんの。肇ちゃんは顔も体も一級品だよ」
「それも含めて穴としての価値だっつってんだよ」
「……っ!」
次の瞬間、薫は肇を殴り付けていた。男は驚いたように目を丸くする。肇は依然として余裕たっぷりといった表情で、腫れた頬を押さえている。
「ってェな。商売道具に傷付けんじゃねぇよ」
「……僕はっ――」
何を言いたいのか分からなくなり、薫は固く握りしめた拳をぶるぶる震わせた。爪が食い込み血が滲む。肇は呆れたように溜め息を吐き、しっしっと男を追い払う仕草をした。
「金はいいから、お前もう帰れ」
「そりゃねぇぜ、肇ちゃんよぉ」
「しょうがねぇだろ。ガキなんだよ、こいつ」
「ガキ相手でも容赦しねぇよ、オレは」
「やけに食い下がんじゃねぇか。口で抜いてやったんだからいいだろ」
「あんなんじゃ全然足りねぇよ。今日は中出しするつもりで――」
薫は、財布に入っていたありったけの紙幣を男に叩き付けた。男はまたもや唖然として目を捲る。
「二度と肇に近付くな。分かったらそれ持って出てけ」
「……」
男は数度逡巡した後、散らばった紙幣を一枚残らず拾い集めた。
「言い訳はある?」
「……」
肇は薫と目を合わせようともせず、まるで他人事みたいに気怠げにしている。
「水族館行く約束だったよね。僕ずっと待ってたんだけど」
「……」
「生活できるだけのお金は、僕がちゃんと渡してるよね? なんでまたウリやってるの。他の男とはもうしないって約束だったじゃん」
「……っせぇよ」
「何がだよ」
「てめぇのそういうところがムカつくっつーんだよ。そうやって偉そうに踏ん反り返って、ご高説垂れてりゃ満足か? 俺をなんだと思ってやがる」
「え、偉そうって……」
「いちいちごちゃごちゃ細けぇことにうるせぇんだよ。てめぇこそ結局……」
薫が拳を握りしめると、肇は薄笑いを浮かべた。
「けど、さっきのパンチはなかなかよかったぜ。褒めてやるよ」
「何言って……」
「もっと暴れてみせろ。本当は何がしたいんだ? 俺を殺したいのか?」
「っ……」
薫は肇を張り倒し、組み敷いた。そんな状態にも関わらず、肇は挑発的に薫を見つめ、煽るような物言いをする。
「ほら、てめぇのモンだぜ? 好きにすりゃいいだろ」
「違う、僕は……」
「つまらねぇ男は嫌いだな。さっきのジジイの方がなんぼかマシだ」
「……っ」
薫はもう自分の心さえ分からなかった。怒りと悲しみ、無念、屈辱、口惜しさ。それらに支配されて、まともな思考もままならない。押さえ付けた肇の手首に爪を立てる。
「だったら、お望み通りくれてやるよ。このクソビッチ」
薫が吐き捨てると、肇は満足げに口の端を歪めた。
先々週は動物園に行った。真純だけでなく、肇もパンダを見るのは初めてだと言っていた。「白黒ってだけでちやほやされてるただの熊だな」と笑っていた。ふれあいコーナーではウサギの餌やり体験ができた。初めは少し怖がっていた真純だが、最終的には「かぁいかったね」と喜んでいた。
隣接の公園でスワンボートに乗った。肇が漕ぐと、白鳥は波を立ててすいすい進んだ。真純もパパの真似をしたがったが、足が届かないので手でペダルを回した。そうなると舵取りは薫の役目になり、三人の連携で湖を一周した。湖上を吹き渡る風が心地よかった。
先月はデパートに出かけた。真純に新しい服と靴、絵本やおもちゃも買い足した。無料のボールプールで二時間近く遊び、最上階のレストランで夕飯を食べた。「てめー、どうじょ」と真純がお子様ランチのフライドポテトをくれた時には面食らったが、どうやら肇が薫を呼ぶ時にてめぇだとかお前だとか乱暴な言葉を使うので、覚えてしまったらしい。
「ちょっ、変な言葉覚えさせないでよ」
「知らねぇな。真純が勝手に覚えたんだ」
「真純くん、僕のことはお兄さんって呼んでね。薫おにーさんだよ」
「とまともあげう。てめー」
肇はもう堪え切れないとばかりに腹を抱えて大爆笑した。真純はきょとんとしながらも、肇につられてにこにこ笑った。どう転んでも親子であることを感じさせる二人のそっくりな笑顔が、今もまだ薫の脳裏にはっきりと焼き付いている。
それなのに。
今日は水族館に行く予定だった。真純は喜んでくれるかな、肇も楽しんでくれるといいな、と一人浮き立っていた薫だが、約束の時間を過ぎても一向に肇が現れない。それどころか、電話をかけても繋がらない。もしや事件や事故に巻き込まれたのだろうか、と薫は大急ぎでアパートに駆け付けた。
そこで目にした光景は、薫の想像の遥か斜め上を行くものだった。ありえない。悪夢みたいな光景だった。いっそ嘘だといってほしい。夢なら早く醒めてくれ。
約束をすっぽかし、真純のこともほったらかして、肇は男に抱かれていた。泊まりの時に薫が使っている布団を敷いて、おぞましく汚い男に抱かれていた。自ら男にしがみつき、足を絡め、甘い声で喘いでいた。
「何、して……」
それだけを薫はようやく絞り出した。一瞬にして喉が砂漠のように渇き、一言も声が出なかった。
呆然と玄関に立ち尽くす薫を、肇は確かに見た。確かに、目が合ったのだ。それから、肇は微かに唇を歪めると、男の穢らわしい唇に吸い付いた。
薫はもう見ていられなくなって、思わず目を伏せた。けれど、見えないことは見えることよりずっと恐ろしい。唾液を混ぜ合ういやらしい音や、肇のあえかな息遣い、男の気色悪い鼻息なんかが、否が応でも耳に入ってくる。
「なんだよ、肇ちゃん。見られてコーフンするタイプ? ヘンタイだなぁ」
「っせぇな、てめぇは黙ってちんぽおっ勃てときゃいいんだよ」
「でもほら、あの子来てナカ締まったじゃん? 好きなんでしょ」
「てめぇこそ、でかくしてんじゃねぇよ」
睦言のようにも受け取れるやり取り。薫はとうとう我慢ならなくなり、意を決して目を開いた。
やはり、夢などではないのだ。目の前の光景は、全て現実。残酷なほどに明白な事実だけが、薫の眼前に突き付けられていた。
「……そいつ、俺のなんだけど」
静かに、けれどよく通る声で、薫は言った。男は口元を下品にニヤつかせ、薫のことを見もせずに、発情期の猿のように腰を振る。
「誰のモンとかねぇだろう? こいつとヤリたきゃ、金さえ払えばいいんだからよ。けど順番は守れよなぁ。どんな教育されてんだよ、今時のガキは」
「順番を守るのはお前の方だ。今日は水族館に行く約束をしてたんだよ」
「水族館だとさ!」
男はしゃがれた声で笑う。
「ガキぃ、そういうお子ちゃまのデートがしたいなら、こいつは全然向いてねぇよ。ヤる以外に楽しみのねぇビッチなんだからよ。ガキと魚見るより、ちんぽしゃぶってる方が好きだろ? なぁ、肇ちゃん」
「……ああ、そうかもなァ」
肇はうっとりとして微笑む。薫は拳を握りしめた。
「俺ァ、所詮穴としての価値しかねぇ男だからよ。使えるモン切り売りして稼ぐしかねぇからな」
「何言ってんの。肇ちゃんは顔も体も一級品だよ」
「それも含めて穴としての価値だっつってんだよ」
「……っ!」
次の瞬間、薫は肇を殴り付けていた。男は驚いたように目を丸くする。肇は依然として余裕たっぷりといった表情で、腫れた頬を押さえている。
「ってェな。商売道具に傷付けんじゃねぇよ」
「……僕はっ――」
何を言いたいのか分からなくなり、薫は固く握りしめた拳をぶるぶる震わせた。爪が食い込み血が滲む。肇は呆れたように溜め息を吐き、しっしっと男を追い払う仕草をした。
「金はいいから、お前もう帰れ」
「そりゃねぇぜ、肇ちゃんよぉ」
「しょうがねぇだろ。ガキなんだよ、こいつ」
「ガキ相手でも容赦しねぇよ、オレは」
「やけに食い下がんじゃねぇか。口で抜いてやったんだからいいだろ」
「あんなんじゃ全然足りねぇよ。今日は中出しするつもりで――」
薫は、財布に入っていたありったけの紙幣を男に叩き付けた。男はまたもや唖然として目を捲る。
「二度と肇に近付くな。分かったらそれ持って出てけ」
「……」
男は数度逡巡した後、散らばった紙幣を一枚残らず拾い集めた。
「言い訳はある?」
「……」
肇は薫と目を合わせようともせず、まるで他人事みたいに気怠げにしている。
「水族館行く約束だったよね。僕ずっと待ってたんだけど」
「……」
「生活できるだけのお金は、僕がちゃんと渡してるよね? なんでまたウリやってるの。他の男とはもうしないって約束だったじゃん」
「……っせぇよ」
「何がだよ」
「てめぇのそういうところがムカつくっつーんだよ。そうやって偉そうに踏ん反り返って、ご高説垂れてりゃ満足か? 俺をなんだと思ってやがる」
「え、偉そうって……」
「いちいちごちゃごちゃ細けぇことにうるせぇんだよ。てめぇこそ結局……」
薫が拳を握りしめると、肇は薄笑いを浮かべた。
「けど、さっきのパンチはなかなかよかったぜ。褒めてやるよ」
「何言って……」
「もっと暴れてみせろ。本当は何がしたいんだ? 俺を殺したいのか?」
「っ……」
薫は肇を張り倒し、組み敷いた。そんな状態にも関わらず、肇は挑発的に薫を見つめ、煽るような物言いをする。
「ほら、てめぇのモンだぜ? 好きにすりゃいいだろ」
「違う、僕は……」
「つまらねぇ男は嫌いだな。さっきのジジイの方がなんぼかマシだ」
「……っ」
薫はもう自分の心さえ分からなかった。怒りと悲しみ、無念、屈辱、口惜しさ。それらに支配されて、まともな思考もままならない。押さえ付けた肇の手首に爪を立てる。
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