裏社会系BL

小貝川リン子

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第六話 悪い夢ならよかった

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 ※エロなし


 明け方近く、懐に温もりを感じて、黒木の意識は浮上した。
 昨晩一人で眠ったはずのベッドがやけに窮屈だ。薄目を開けて隣を見れば、黒い塊がもぞもぞと動いている。アザミの頭だとすぐに分かった。夜中に勝手に布団に潜り込んでくる野良猫など、アザミ以外に心当たりがない。
 薄い布団から食み出た躰が、呼吸に合わせてゆっくりと上下する。もう一枚毛布を用意してやろうと黒木が体を起こすと、アザミはむずかるように身を捩った。
 
「起きてんのかよ」
「……ねてる」
「起きてんじゃねぇか」
「いいから、このまま」
「背中寒くねぇか」
「へーき」
 
 寝起きだからだろうか。アザミはどことなく幼い言葉遣いで答える。
 
「いつ来た」
「……さっき?」
「なんで疑問形だよ」
「なんでもいいだろ。もっとこっち」
 
 アザミは布団の中に潜り込んで、黒木の胸に頭を擦り付けた。甘える猫の仕草そのままである。黒木は布団を引っ張ってアザミの肩に掛けてやり、その頭を軽く撫でた。
 
「とんだ甘ったれだな」
 
 アザミは鬱陶しいほど甘ったるい香りを纏っていた。今の今まで女と一緒にいたのだろうということが手に取るように分かった。女の家で女と寝ていたのに、明け方近くになってわざわざ黒木の元へとやってきた。その意味が分からないほど鈍感ではない。
 
「宿代、払ってやろうか」
 
 アザミが布団の中から黒木を見上げる。悪戯な指先が下腹部に添えられる。黒木はその手をそっとどかした。
 
「んなことより寝かせろよ」
「いよいよ枯れたか」
「はいはい。また今度な」
「べつに。俺も眠ぃし」
 
 アザミは再び丸くなり、ぴたりと黒木に寄り添った。
 こんなことになるのなら、合鍵なんて渡すんじゃなかった。鍵があるのは便利だけれど――ベランダから侵入されたり、玄関ドアをぶち破られる心配がないため――しかし、どうしても会いたくない日だってある。黒木にとって、今夜がまさにそれであった。
 ベッドサイドに置いた引き出しの、その三段目。暗闇の中で、黒木はじっとそれを見やった。鉛を食ったみたいに、胸の奥がずっしりと重たくなる。決行を先延ばしにし続けたツケが来たのだろうか。今もまだ、決心がつかない。
 
 
 
 一睡もできないまま朝を迎えた。アザミは呑気に眠りこけている。黒木は先に起きて朝食の準備に取り掛かった。こんなことをしてやる義理はないのに、いつの間にか習慣になってしまった。
 カタン、と寝室で音がした。キィ、と蝶番を軋ませて扉が開いた。アザミが立っていた。拳銃を手に握っていた。ベッドサイドに置いた引き出しの、その三段目に仕舞っていたものだった。
 
「あんた、俺を殺すんじゃなかったのか?」
 
 揶揄うような笑みを浮かべてアザミが言う。黒木はトマトを切る手を止めずに答えた。
 
「知ってたか」
「バレバレだったぜ。もっとうまく隠せよ」
「お前相手に隠し事はできねぇな」
「いくらだ?」
「三千万」
「へぇ。ずいぶんと安く見られたもんだ」
「同感。三千万じゃ割に合わねぇよ」
 
 アザミを殺して三千万。そんな依頼が舞い込んだ。通常ならば破格の案件であるが、ターゲットがアザミとなると話は別である。
 眠るアザミの眉間に、黒木は銃口を突き付けた。引き金に指を掛けたまま、しばらく待っていた。終ぞ引き金を引くことはできなかった。
 鈍く光る銃身。持ち慣れたはずのそれが、昨夜はずっしりと重かった。冷たい鉄の塊に体温を奪われた。重力に引かれて動けなかった。
 使われないまま引き出しの奥に仕舞われたそれを、今はアザミが握っている。鈍く光る銃口は、真っ直ぐに黒木の頭部を狙っている。
 一発の銃声が響いた。硝煙のにおいが立ち込める。アザミは微かに唇を歪め、数発の弾丸を立て続けに撃ち込んだ。玄関ドアにいくつもの穴が空いた。
 
「……逃げるぞ」
 
 言うが早いか、アザミは黒木の首根っこを掴むと、窓をぶち破って外へ飛び出した。と同時に、背後で銃声が轟いた。
 砕け散ったガラスに太陽の光が乱反射する。目も眩むような青空が足下に広がっている。落ちている、と気付いた時には、地面が間近に迫っていた。
 
「おい、早く出せ」
 
 着地した先は、ベランダの真下に停まっていたワンボックスのボンネットだった。ここに落ちると分かっていて、アザミは躊躇なく飛び降りたのだ。運転席の男を引きずり降ろして黒木を押し込み、自らは後部座席に収まった。
 
「早く」
「あ、ああ」
 
 訳も分からないまま、黒木はアクセルを踏み込んだ。後方に銃声が聞こえる。襲撃犯らしき男達が、発砲しながら追いかけてきていた。
 
「何なんだよ、あいつら」
 
 苛立ちを滲ませて黒木が言うと、アザミはしれっとした様子で答えた。
 
「あんたの客だろ。あんたがいつまでも俺を殺さねぇから痺れを切らして、てめぇらの手で始末しに来たってとこだな」
「なんであんなのに追われてる」
「客の身辺調査とかしねぇのか? そこ右な」
 
 アザミの指示で黒木はハンドルを切る。
 
「調査した上で言ってんだよ。数年前に壊滅した組織の残党だ。それなりに幅を利かせてたはずだが、一日のうちに壊滅した。お前、何か関わってんのか?」
「ああ、それな」
 
 何か使えるものはないかと車内を物色しながら、アザミは答えた。
 
「俺がやった」
「……は?」
「だから、俺がやったんだよ。一晩で皆殺しにした。まぁ、取り逃がしたやつもいたけどな。要は復讐ってわけだ。あんたみたいな胡散臭ぇのに大枚叩いて依頼してまで、俺を殺したくてしょうがないんだろうよ」
 
 替えの弾薬を見つけた、とアザミは嬉しそうな声で報告する。
 
「……お前一人で?」
「まぁな。結構やるだろ? 俺も元はそこで飼われてたんだが……まぁ、方向性の違いってやつかな。そこ、左入れよ」
「方向性って……ロックバンドじゃねぇんだから」
 
 いつの間にか開けた場所に出ていた。海沿いの廃倉庫に、黒木は車ごと突っ込んだ。
 
 
 
 客人はすぐに来た。チンピラ風情の男が十数匹。アザミは逃げも隠れもしない。勝負は立ちどころに決した。
 激しい銃撃戦になるかと思っていた。しかしアザミは敵に撃たせる隙を与えない。目にも止まらぬ速さで敵の懐に飛び込んで、鮮やかな手捌きで血飛沫を上げさせる。今朝トマトを切っていた包丁が、今は人の肉を裂いている。
 返り血を浴びて、アザミは笑っていた。凶悪な笑みが滲み出ていた。ベランダから飛び降りた時、青空の只中に見えたアザミの横顔を、黒木は思い出した。包丁を銜えた口の端が、悦びに歪んでいた。
 猿よりも俊敏で、燕よりも軽やかで、暴走機関車よりも手に負えない。まるで血肉を食い荒らす野生の獣。それよりももっと鮮烈な何か。華麗で獰猛なアザミの姿を、黒木はただ遠くから眺めることしかできなかった。
 咽せ返るような血のにおいと、硝煙のにおいが立ち込めていた。視界が赤く煙っている。夥しい血の海で、アザミは一人、最後まで立っていた。
 
「……済んだか」
 
 黒木の声に、アザミはゆっくりと振り向いた。頬をべったりと濡らす血を拭う。口の端に伝う血を舐める。
 黒木はようやく息を吐いた。意識せず呼吸を止めていた。胸ポケットから煙草を取り出す。吸い口を噛んで火をつける。オイル切れのライターは幽かに火花を散らすだけだ。数回試してようやく着火した。
 肺いっぱいに毒の煙を吸い込んで、深く長く吐き出した。青い煙が天井付近まで立ち上り、ゆらりゆらりと揺蕩っている。床一面に血溜まりが広がり、足下を汚さないように歩くのはほぼ不可能だ。
 
「……ここまでする必要が?」
 
 黒木は問うた。仕事ではないからどう殺そうがアザミの自由だが、めった刺しにしたり、細切れにしたり、臓物を引きずり出したりする必要があるだろうか。ただ殺すだけなら、もっと手っ取り早い方法がいくらでもある。
 黒木は答えを期待していなかったが、アザミは口を開いた。
 
「復讐だよ」
「……お前が?」
「俺が」
 
 復讐したがっているのは相手の方ではなかったか。「組織に拾われ育ててもらった恩を忘れ、仇で返した裏切り者め」というようなことを、彼らは口々に口走っていた。もちろん、アザミがそれらの言葉に耳を貸す素振りはなかったが。
 ペタリペタリと濡れた足音が響く。血糊の足跡が点々と続く。アザミは黒木の隣にしゃがみ込み、指を二本差し出した。
 
「珍しいな」
「あんたの口にあるやつでいい」
 
 黒木は、まだ吸い始めたばかりの煙草をアザミに渡した。アザミは、返り血のこびり付いた薄い唇に煙草を銜え、深く吸い込んだ。と同時に、激しく咽せる。ゲホッゲホッと苦しげに喘ぐ背中を、黒木は宥めるように摩った。
 
「バカ。慣れないくせに一気に吸うからだ」
「くっ、ふ、はは。あんた、優しいよな。クロさん」
「もっとちゃんと感謝しろよ」
「してるだろ、ちゃんと」
 
 アザミは、涙まじりの目を擦った。冷たく渇いた笑みを漏らす。
 
「姉貴を殺されたから、その復讐」
「……」
「……」
「そうか」
「うん」
 
 思いがけない打明け話に、黒木は気の利いた言葉一つかけられなかった。何を言ったところで、空疎で無意味なものにしかならないように感じた。アザミの吐き出す煙で、視界は青白く染まる。血の赤だけが鮮明だった。
 
「これ、やっぱいらねぇ。まじぃ」
 
 アザミは、銜えていた煙草を指で摘まむと、黒木に突き返した。口の中に戻ってきたそれは、血の味がした。ほろ苦さが舌に沁みて、煙草の味を掻き消した。
 
 
 
 あの事件によって、アザミの生き方は運命的に決定付けられてしまった。ささやかながらも幸せな生活と、その終焉。一晩にして奪われた平穏。最愛の姉の惨たらしい死に様。リビングに広がる血の海と、折り重なる屍の数々。
 物心つく頃には、母親はとっくに亡くなっていた。アザミは、不在がちの父親と、年の離れた姉との三人家族で育った。自分が母親代わりを務めるという自負のあった姉は、殊更にアザミを愛し、慈しみ、世話を焼いた。
 その晩は、珍しく父が帰宅した。それが全ての始まりであり、終わりの合図だった。裏の組織と通じていた父が、組織を裏切り、金を持ち逃げした。その報復で父は殺され、姉も巻き添えになった。
 姉の指示でクローゼットに隠れていたアザミだが、待てど暮らせど姉が戻ってこないので、ついに痺れを切らし、子供部屋を抜け出してリビングへ向かった。そして地獄を見た。
 血溜まりに沈む姉の、光の失せた瞳を見た時に、アザミの心は一度死んだ。そして、残酷な殺戮人形としての自我が芽生えた。
 朝日が昇る頃、生きている人間はアザミだけになっていた。血の海に積み重なる屍の山で、アザミだけが息をしていた。
 子供ながらに大の男を相手取って討ち果たした才能を見込まれて、アザミは組織に拾われた。殺しの技を叩き込まれ、優秀な殺し屋に育てられ、便利な道具として使われた。アザミはせっせと殺しの腕を磨き、組織の拡大に貢献し、そして全てを破壊した。
 今でも時々夢に見る。血溜まりに沈む姉の肢体。光を失くした双眸。渇いた唇に滲む血の痕。今でも脳裏に焼き付いている。
 
 
 
 明け方近く、悪夢に魘されるアザミの声に、黒木の意識は浮上した。
 襲撃に遭った部屋はこの際引き払うことにして、今夜はホテルに宿泊した。引っ越しはすぐに済ませるつもりだが、当分はホテル暮らしになるだろう。寄生先へ帰ればいいものを、アザミものこのこついてきて、ベッドの半分を占領した。
 家で使っていたものよりも大きなサイズのベッドだが、なぜか随分と窮屈だった。それもそのはずで、眠る時にはこちらに背を向けていたはずのアザミが、今は黒木にぴったりとくっついている。大きな図体を小さく丸め、低い声で唸っている。
 
「……おい。大丈夫か」
 
 黒木はアザミの頭に手をやった。軽く撫でようとしただけだったが、黒木の手が触れるや否や、反射的にアザミは飛び起き、黒木の手を掴んでねじ伏せた。
 
「落ち着け。オレだ」
「……」
 
 暗がりの中で鋭く光っていた瞳が、すっと細められる。獣じみた息遣いが静まり、アザミは黒木から手を離した。
 
「なんだ、あんたか」
 
 拍子抜けしたような、ほっとしたような声でアザミは言った。
 
「何だとは何だよ。失礼なやつだな」
「宿賃、まだ足りねぇか?」
「そんなんじゃねぇよ。お前の寝相が悪いから、起きちまっただけだ」
「そうかい。そりゃ、悪いことしたな」
 
 黒木に跨ったままの体勢で、アザミはゆっくりと顔を近付ける。ちゅう、と軽い音を立てて唇が重なった。
 
「……もうしねぇぞ」
「なんで? いいじゃん」
 
 アザミの舌が黒木の唇を撫でる。柔く滑らかな舌に思わず誘われそうになるが、黒木は固く唇を結んだまま、アザミの肩を押し返した。
 
「明日は忙しいんだ、寝かせろ。お前も寝ろ」
「んだよ、ケチ」
「そういう問題じゃねぇよ。お前も今日疲れただろ。ちゃんと休め」
「……眠くねぇし」
「目瞑ってじっとしてるだけでもいいんだ。ほら」
 
 黒木はアザミをベッドに寝かせ、慰めるように頭を撫でた。頭を撫でながら額に唇を落とすと、アザミはくすぐったそうに身動ぎした。
 
「んだよ。やっぱしたいんじゃねぇの」
「寝かし付けてやってんだよ」
「ふん。ガキ扱いすんな」
 
 そう言いながらも、アザミは大人しく身を委ねる。瞼や頬に唇が触れる度、アザミは声を潜めて笑った。
 
「ん……なぁ、口も……」
「軽いやつだけな」
「わーってるよ」
 
 寂しがる唇にそっと触れる。上唇と下唇を重ね合わせ、柔く食む。薄く開いた唇から、甘やかな吐息が微かに漏れる。
 
「ん、ふ……きもちい」
 
 アザミがうっとりと呟く。黒木は、舌を入れたくなる衝動を抑えて、性に結び付かない愛撫を続けた。
 
「なぁ……もっと」
「もっとったって」
「もっと、こっち」
 
 アザミは、黒木の腕に自身の腕を絡ませて、甘えるように引き寄せた。結果的に、黒木はその腕の中にアザミを閉じ込める恰好となる。
 
「とんだ甘ったれだな」
「あんたのせいだろ。責任取れ」
「しょうがねぇやつ」
「好きなくせに」
「んなわけあるか」
 
 乞われるままに、黒木はアザミを抱き寄せた。いつしか部屋には静寂が満ち、粛々と夜が明けていく。
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