螺旋階段

小貝川リン子

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9 新しい日常①

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 年度末は仕事も忙しく、馴染みのスナックへ顔を出したのは四月も後半になってからだった。俺の顔を見るなり、ママの喜代子は目を真ん丸く見開いた。
 
「誰かと思えばあんた、啓一じゃないか」
「久しぶり。とりあえずビールね」
「ぱったり来なくなったから、てっきりおっ死んだとばかり思ってたよ」
「酷いな。そう簡単に死ぬわけねぇだろ。色々忙しくて来られなかっただけ。あとこれ、こないだのお礼」
 
 早朝から並んで買った手土産を渡す。
 
「何だい、これは。仰々しい袋だね」
「知らねぇの? 巷で人気なんだって」
「あんたがこんなもん持ってくるなんて、どういう風の吹き回しだい」
 
 喜代子は訝るような目付きをする。
 
「もしや何か後ろめたいことでも」
「違うから! 単純にその……感謝の気持ち的な? こないだ、巾着袋くれただろ。あれのおかげで……ってわけでもねぇんだけど、猫が戻ってきたんだ。だからそのお礼」
「猫、戻ってきたのかい。そりゃあよかった」
「そ。だからもらってよ」
「はぁ、まぁ、くれるってんならもらっとくよ」
 
 喜代子はカウンターの棚に紙袋を収めた。
 
「猫が戻ってきたから機嫌がいいってわけかい」
「そう見える?」
「見える見える。超健康体って感じだね。隈も消えてるし、肌の色艶もいい。調子のいいやつだよ」
「最近はよく眠れてるからな。ラベンダーの香り袋のおかげ」
「調子のいいこと言って。猫が戻ってきて安心したからだろう」
「それはそうだけどさ」
 
 喜代子に感謝しているのは本当だ。あの晩のあの悪夢があったおかげで悠月が戻ってきたのだと、俺は何となくそう思っている。あの夢がなかったら、俺はいまだに躊躇していたかもしれない。
 
「今度は死ぬまで大切にするよ」
「猫の話かい」
「ああ。もう外飼いはやめる。家の外に出しちゃいけないんだもんな。そんで、首輪もつけなきゃな。名前と住所書いといて、いつ迷子になっても大丈夫なようにしとかねぇと」
「いい心がけだね」
「だろ? 俺も散々懲りたんだよ」
 
 一杯だけ飲んで切り上げ、アパートへ帰った。カーテンの隙間から、わずかに灯りが漏れ出ている。
 
「ただいま」
「おかえり、先生」
 
 悠月は既に風呂を済ませたようで、自前のパジャマに着替えていた。
 
 家に帰って独りじゃない、という事実が心を癒やす。独りじゃないとわかっているから、帰るのが恐ろしくない。ただいまと言えばおかえりと返ってくる。声が虚空に吸い込まれていかない。それだけで満たされる。
 
「飲みに行ってくるって言うからさぞ遅くなるんだろうと思ってたら、案外早かったな」
「猫が待ってっからな」
「? ここペット禁止だろ」
「飯は?」
「まだ」
 
 昨日作ったカレーの残りを温める。解凍した白米にカレーをかける。部屋中がカレー臭くなるが、それもまた良い。らっきょうは残っていただろうかと冷蔵庫を漁る。
 
「ずっと思ってたけど、なんでらっきょうなんだ? 普通福神漬けだろ」
「らっきょうだって旨いだろ」
「それに肉が入ってねぇ」
「肉の代わりにシーチキンが入ってっから。味に深みがあるだろが」
「カレーには普通豚肉だろ」
 
 などとくだらない会話をして食事を終える。ちなみに俺がらっきょうを添えたシーチキンカレーを毎回作ってしまうのは、母の作るカレーがそうだったからだ。
 
 風呂を上がると、悠月が布団に寝転がってゲームのコントローラーをピコピコやっている。隣に座ると、シャンプーに混ざってカレーの香りが立ち昇る。
 
「何やってんの」
「マイクラ。先生もやる?」
「別のがいいな。対戦できるやつ」
 
 ソフトを入れ替えて二人で遊んだ。夜更け頃、悠月がそろそろ眠たそうに目を瞬かせるが、俺はまだまだ寝かせないぞとキスを落とす。
 
「ん……今からぁ? 明日、起きらんなくなっちゃう」
「明日? なんかあったっけ」
「映画いくって言ってた」
「そんなん明後日でいいよ」
「せんせが行きたいって、ん……言ったんじゃん」
 
 悠月は文句を言いながらも口を開いて俺を受け入れる。テレビを消し、電灯を消して体を重ねるうち、夜は静かに更けていった。
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