螺旋階段

小貝川リン子

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7 記憶②

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「啓一? どうしたんだい、ぼんやりして」
 
 スナックで飲むのは毎週末の恒例になっていた。多い時には土曜も飲みに来る。家にいたってしょうがないし、同じ寒いのでも一人と二人とでは感じ方が違う。
 
「あ、あぁ、いや、少し……」
 
 出されたビールを一口飲む。味はしないし、喉越しの良さというのもわからない。
 
「大分疲れてるみたいだね」
「はは、そう見える? いやぁ、仕事がね、忙しくって」
「寝れてないのかい? 目の下、隈ができてるよ」
「隈? マジでぇ?」
 
 隈は知らなかったが、最近眠れていないというのは事実だ。寝付きが悪くていけない。
 
 眠ろうとして布団に入って電気を消してまぶたを閉じると、色々な考えが頭の中を巡って溺れそうになる。色々な考え――仕事のこと、お金のこと、母のこと、そして成瀬のこと。息ができなくなって目を開ける。するともちろん眠れない。寝ようとして目を瞑る。やっぱり眠れなくて目を開ける。その繰り返しだ。
 
「寝れてないなら、試しにこれ、使ってみるかい?」
 
 そう言って、喜代子は掌サイズの巾着袋を取り出した。白地に紫の花柄で、とてもかわいらしい。
 
「……何これ」
「匂い袋だよ。ラベンダーの香りで安眠効果がどうだこうだって」
「こんな趣味あったっけ?」
「あたしが作ったんじゃなくて、ほら、年末だけ臨時で雇ってた子がいただろう? なんかこういうの作るのが趣味らしくて、何個か置いてったんだよ」
 
 本当に効くのかと訝ってみると、あたしは毎日快眠だから効果のほどは知らないよ、と喜代子は言った。
 
「でもま、信じて使ってみたらどうだい。枕元に置いとくだけでいいんだ、簡単だろ? あんた、最近誕生日だったじゃないか。あたしからの誕生日プレゼントだとでも思ってさ」
「はぁ、じゃあまぁありがたく」
 
 そういうわけで、その晩はラベンダーの香りと共に床に就いた。
 
 *
 
「……先生、先生」
 
 布団が剥ぎ取られて寒い。黒髪が視界の端を流れゆく。
 
「先生、起きてるんだろ? ねぇ、先生」
「……悠月? お前、戻ってきたのか」
「うん。ねぇ、キスして」
「でもお前……」
 
 言葉は遮られた。柔らかくて甘やかな唇。気持ちいい。キスだけで夢見心地になる。
 
「ん……せんせぇ……」
「お前……彼女は?」
「彼女?」
「バレンタインで、チョコもらってたろ。その後、何回か一緒に下校してた」
 
 だからこそ諦める決心がついたのに。よその家のお嬢さんとお付き合いをする方がうんと健全であるし、お前にとって良いことだと。しかし悠月は首を左右に振る。
 
「おれには先生だけだよ。ねぇ、おれを愛している?」
「……あいしてる」
「嬉しい。おれもだよ。先生、おっぱい触ってよ」
 
 おっぱいと呼べるほどは肉のついていない胸を撫でる。平らな胸。小さな乳首。それでも悠月は嬉しそうに背をしならせて善がる。
 
「あぁ、きもちいい……もっと、もっとして、舐めて……」
 
 乳首を口に含ませてくる。胸を押し付けながら、俺の下腹部を撫で回す。腰を揺らし、太腿に愛液を擦り付けてくる。
 
「おれのあそこ、触って……指でいじいじして……」
 
 俺は右手を悠月の下腹部に滑らせる。
 
「すごい、濡れてる」
「もっと、ぐちゅぐちゅしていいから……っ」
 
 口に含まされた乳が張る。まるで母親の乳房を吸っているような感覚。赤ん坊に逆戻りしてしまったような感覚。
 
「あっ、あん、きもちいい、も、いれてぇ……」
 
 俺は悠月の後孔を弄っていたはずだが、妙なことに気づく。何か大事なものが足りないのではないか。
 
「なんで、チンコついてないの」
「そんなの、ついてるわけないじゃん」
 
 悠月は顔を上げる。違う。悠月じゃない。傷んだ黒髪が腰まで伸びている。荒れ放題の前髪が垂れて顔を覆い隠す。その隙間から、ぎょろぎょろの目玉が覗く。俺は息を呑んだ。
 
「ぉ……おかぁ、さん……」
「啓ちゃん、愛してるわ。啓ちゃんもママを愛してるわよね」
 
 動悸と冷や汗が酷い。震えてしまって言葉が出ない。怖いのではない。だが母はもうこの世にいないはずだ。これはきっと幽霊だ。遠くで微かに波の音がする。
 
「啓ちゃん、ママねぇ、啓ちゃんの赤ちゃんがほしいの。あなたはパパの息子だもの、きっとかわいい赤ちゃんが生まれるわ。だから、ねぇ、ママにキスして」
「だ、だめ……だめだよ、赤ちゃんなんて……」
 
 顔の前で一所懸命に両手を振って逃れる。俺の手、こんなに小さかったろうか。いやに丸っこくて、指が短い。腕も細く、短くて、信じられないくらい可動域が狭い。こんな腕では母を振り払えない。
 
 いつの間にか、母は玄関に移動している。ドアは開いている。吹雪く北風と荒れ狂う海が聞こえる。裸足のまま、母は外へ出て行こうとする。俺が呼んでも振り返らない。母の影が雪に飲まれて見えなくなってから、俺の体はようやく動き始める。しかしもはや全てが遅すぎる。
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