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6 葬式③
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月曜日。成瀬は通常通り学校へ来た。不機嫌だとか怒っているとかいう雰囲気はなかったが、俺から話しかける勇気は出なかった。授業中、わざわざ指名して問題を解かせるのすらなんだか憚られ、結局一言も言葉を交わさなかった。
それから、成瀬と顔を合わせるのは古典の授業がある日だけになった。週に三時間程度だ。授業中しか会わないし、必要最小限のことしか喋らない。放課後も、成瀬は俺の元へは決してやってこない。家に帰っても独り。がらんとした部屋で週末を無為に過ごす。
期末試験を終え、学生は冬休みに入った。今日はちょうどクリスマスイブだ。街はにわかに活気づき、人々は浮足立つ。華やかなイルミネーションが夜を彩り、幸せそうなはしゃぎ声がこだまする。
母親に幼児が駆け寄り、サンタさん来るかなぁと心配そうに話している。男の子が父親に、お菓子の詰まったクリスマスブーツをねだっている。ビジネススーツのサラリーマンが、ホールケーキの大きな箱を片手に速足で歩く。若いカップルが、どこのケーキを買って帰ろうかと相談している。それらを横目に、俺はマフラーをきつく締め直す。
行きつけのスナックにて安酒を呷った。場末のスナックだが、普段よりも少し栄えている。俺みたいな寂しい独り者が集まっているせいだ。臨時で女性スタッフが増えている。カラオケの音量がうるさい。
「啓一、最近毎週末来てるじゃないか。一体どうしたんだい」
ママの喜代子が俺の顔色を見て言う。
「別に……何でもねぇよ」
「そうかい。何でもないならいいけどね。今日も日付越えるまで居座るのかい? 猫はどうしたのさ」
「猫……?」
「猫だよ。あんなにかわいがってたのに、最近とんと話さないじゃないか。まさか、もう飽きちまったのかい」
猫か。意識的に思い出さないようにしていたけど、改めて言われるとやっぱり思い出してしまう。艶やかな毛並みが美しい黒猫だった。長い睫毛に縁取られた瑠璃色の瞳は夜空のようで、一つ一つの星の瞬きの中に確かに俺が映っていた。
「猫なぁ、逃げちまったんだ」
「逃げた?」
「俺のせいだ。俺が捨てたも同然だ」
鼻の奥がつんと痛くなり、慌てて酒で飲み下した。
「そう……まぁ、でも元は野良だったんだろう? きっとどこかで元気にやってるさ」
「そうだといいけど……でも、あれは俺の猫だったんだ。大切にするって決めてたのに」
「そんなに心配なら、ビラでも撒いて探してみるかい? ユズくんだっけ? オスの黒猫で首輪は……写真がありゃあいいんだけど」
「待て。なんで名前知ってんの」
「あんたが言ったんじゃないか。ユズ……いやうちの猫がぁ……って、よく言ってたろう」
「ふ、何それ。俺の真似か?」
下手な物真似に思わず笑みが零れた。すると喜代子もほっと溜め息を吐く。
「ようやく笑ったね。ったく、ずうっと思い詰めた顔してるもんだから、柄にもなく心配しちまったじゃないか」
「そんな顔してた?」
「してたねぇ。じめじめと辛気臭い面で飲んでちゃあ、どんな酒だってまずくなるよ」
奢りだから、とウイスキーをロックで出してくれた。ありがたいけどソーダ割りにしてほしいと頼むと、喜代子は渋い顔で炭酸水を注ぎ足した。
「あんた、今年でいくつになったんだい。いつまでもソーダ割りしか飲めないなんて、若い女の子じゃないんだから」
「こんなもん、年齢関係ねぇだろ。飲めねぇもんは飲めねぇの。いつまでも若い女の子でいいもん」
結局日付が変わるまでだらだらと居座り、自分が最後の客になったところで店を出た。
外は底冷えする寒さだ。ダウンジャケットのファスナーを喉元まで閉め、その上からマフラーをぐるぐる巻きにする。指がかじかみ、手袋を持ってこなかったことを後悔した。仕方なくポケットに両手を突っ込んで歩いた。アパートまではほんの数分の距離なのに、わざわざ商店街の方まで遠回りをした。
さしものクリスマスイブといえども、午前一時を回ってしまえば街はひっそりと静かだ。この時間に活動しているのはサンタクロースくらいのものだろう。いや、そういえば性の六時間の真っ只中だから、世の夫婦や恋人達もちょうど今活動している最中かもしれない。
いずれにしても、イブの夜に暇を持て余して独りで街を徘徊しているのは、世界広しといえども俺だけではないだろうか。ポケットに仕舞った手指も足の爪先も痺れるくらいに冷えているけど、早く帰りたいとは思わない。
クリスマスなんだからケーキくらい買おうか。コンビニならぎりぎり売れ残っているかもしれない。ホールでなくていいから、三角形にカットされたショートケーキでいいから、何でもいいから、何かしらが欲しい。
コンビニの前まで行って、通り過ぎた。買ったところでどうせあの寒い部屋で独りで食うのだし、だったら別にいらない。何もいらない。飲み足りなかったわけではないのに、なぜか酔いが浅い。もっと前後不覚になるくらい飲んでおけばよかった。冷静にブレーキを掛けた過去の自分が憎い。
幻覚でもいいから、悠月、今こそお前にいてほしいのに。お前は今どこで何をしてるんだろう。きちんと自分の家に帰って、温かいチキンと大きなホールケーキを食べ、暖かいベッドで眠っているのだろうか。待っているのはサンタからのプレゼントか。
空を見上げると、キンキンに冷え切った空気の中で星が綺麗に見える。オリオン座とカシオペヤしかわからない。でもやっぱり、夏の夜空と冬の夜空では雰囲気が違う。天の川がはっきりと見える方が華やかだ。
などと、全くもってくだらない話をぐるぐると考えているうち、アパートに辿り着いた。しかしこのままでは眠れそうになく、ストロング系の缶チューハイを開けた。が、半分も飲まないうちに急激に眠気に襲われ、そのまま炬燵で朝を迎えた。今年もサンタは来なかった。
それから、成瀬と顔を合わせるのは古典の授業がある日だけになった。週に三時間程度だ。授業中しか会わないし、必要最小限のことしか喋らない。放課後も、成瀬は俺の元へは決してやってこない。家に帰っても独り。がらんとした部屋で週末を無為に過ごす。
期末試験を終え、学生は冬休みに入った。今日はちょうどクリスマスイブだ。街はにわかに活気づき、人々は浮足立つ。華やかなイルミネーションが夜を彩り、幸せそうなはしゃぎ声がこだまする。
母親に幼児が駆け寄り、サンタさん来るかなぁと心配そうに話している。男の子が父親に、お菓子の詰まったクリスマスブーツをねだっている。ビジネススーツのサラリーマンが、ホールケーキの大きな箱を片手に速足で歩く。若いカップルが、どこのケーキを買って帰ろうかと相談している。それらを横目に、俺はマフラーをきつく締め直す。
行きつけのスナックにて安酒を呷った。場末のスナックだが、普段よりも少し栄えている。俺みたいな寂しい独り者が集まっているせいだ。臨時で女性スタッフが増えている。カラオケの音量がうるさい。
「啓一、最近毎週末来てるじゃないか。一体どうしたんだい」
ママの喜代子が俺の顔色を見て言う。
「別に……何でもねぇよ」
「そうかい。何でもないならいいけどね。今日も日付越えるまで居座るのかい? 猫はどうしたのさ」
「猫……?」
「猫だよ。あんなにかわいがってたのに、最近とんと話さないじゃないか。まさか、もう飽きちまったのかい」
猫か。意識的に思い出さないようにしていたけど、改めて言われるとやっぱり思い出してしまう。艶やかな毛並みが美しい黒猫だった。長い睫毛に縁取られた瑠璃色の瞳は夜空のようで、一つ一つの星の瞬きの中に確かに俺が映っていた。
「猫なぁ、逃げちまったんだ」
「逃げた?」
「俺のせいだ。俺が捨てたも同然だ」
鼻の奥がつんと痛くなり、慌てて酒で飲み下した。
「そう……まぁ、でも元は野良だったんだろう? きっとどこかで元気にやってるさ」
「そうだといいけど……でも、あれは俺の猫だったんだ。大切にするって決めてたのに」
「そんなに心配なら、ビラでも撒いて探してみるかい? ユズくんだっけ? オスの黒猫で首輪は……写真がありゃあいいんだけど」
「待て。なんで名前知ってんの」
「あんたが言ったんじゃないか。ユズ……いやうちの猫がぁ……って、よく言ってたろう」
「ふ、何それ。俺の真似か?」
下手な物真似に思わず笑みが零れた。すると喜代子もほっと溜め息を吐く。
「ようやく笑ったね。ったく、ずうっと思い詰めた顔してるもんだから、柄にもなく心配しちまったじゃないか」
「そんな顔してた?」
「してたねぇ。じめじめと辛気臭い面で飲んでちゃあ、どんな酒だってまずくなるよ」
奢りだから、とウイスキーをロックで出してくれた。ありがたいけどソーダ割りにしてほしいと頼むと、喜代子は渋い顔で炭酸水を注ぎ足した。
「あんた、今年でいくつになったんだい。いつまでもソーダ割りしか飲めないなんて、若い女の子じゃないんだから」
「こんなもん、年齢関係ねぇだろ。飲めねぇもんは飲めねぇの。いつまでも若い女の子でいいもん」
結局日付が変わるまでだらだらと居座り、自分が最後の客になったところで店を出た。
外は底冷えする寒さだ。ダウンジャケットのファスナーを喉元まで閉め、その上からマフラーをぐるぐる巻きにする。指がかじかみ、手袋を持ってこなかったことを後悔した。仕方なくポケットに両手を突っ込んで歩いた。アパートまではほんの数分の距離なのに、わざわざ商店街の方まで遠回りをした。
さしものクリスマスイブといえども、午前一時を回ってしまえば街はひっそりと静かだ。この時間に活動しているのはサンタクロースくらいのものだろう。いや、そういえば性の六時間の真っ只中だから、世の夫婦や恋人達もちょうど今活動している最中かもしれない。
いずれにしても、イブの夜に暇を持て余して独りで街を徘徊しているのは、世界広しといえども俺だけではないだろうか。ポケットに仕舞った手指も足の爪先も痺れるくらいに冷えているけど、早く帰りたいとは思わない。
クリスマスなんだからケーキくらい買おうか。コンビニならぎりぎり売れ残っているかもしれない。ホールでなくていいから、三角形にカットされたショートケーキでいいから、何でもいいから、何かしらが欲しい。
コンビニの前まで行って、通り過ぎた。買ったところでどうせあの寒い部屋で独りで食うのだし、だったら別にいらない。何もいらない。飲み足りなかったわけではないのに、なぜか酔いが浅い。もっと前後不覚になるくらい飲んでおけばよかった。冷静にブレーキを掛けた過去の自分が憎い。
幻覚でもいいから、悠月、今こそお前にいてほしいのに。お前は今どこで何をしてるんだろう。きちんと自分の家に帰って、温かいチキンと大きなホールケーキを食べ、暖かいベッドで眠っているのだろうか。待っているのはサンタからのプレゼントか。
空を見上げると、キンキンに冷え切った空気の中で星が綺麗に見える。オリオン座とカシオペヤしかわからない。でもやっぱり、夏の夜空と冬の夜空では雰囲気が違う。天の川がはっきりと見える方が華やかだ。
などと、全くもってくだらない話をぐるぐると考えているうち、アパートに辿り着いた。しかしこのままでは眠れそうになく、ストロング系の缶チューハイを開けた。が、半分も飲まないうちに急激に眠気に襲われ、そのまま炬燵で朝を迎えた。今年もサンタは来なかった。
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