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1 迷い猫④
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しかし週が明けても九条は学校に来なかった。生徒に訊いてみても、事情を知っている者はいない。俺が気にすることじゃないのにと思いつつ、やきもきして担任に尋ねてみると、風邪を拗らせて休んでいると言った。
「九条くん、今週はまだ一度も登校してないんですよ。高校生にもなって風邪が長引くなんて、よっぽどですよ」
「はぁ。体、弱いんですかね」
「それに、進路希望の調査票、あれ今週まででしょう? 彼、まだ提出してなくて。私が取りに行ければいいんですけど、忙しくてなかなか……」
そういえば、この人は野球部の顧問だった。放課後は部活の指導で忙しいのだ。
「よければ、僕が代わりに行ってきましょうか」
思いもよらない台詞が口を衝いていた。担任教師はぽかんとしているが、結構その気のようである。
「いいんですか? 七海先生もお忙しいでしょうに」
「いいえ、暇ですから。ついでに他のプリント類も纏めて届けちゃいますね。僕も今日の授業でプリント配ったので」
俺ってばとんだお人好しだ。こんなことしても給料出ないし、昇進にだって関係ないのに。完全なる時間外労働。ほぼボランティアだ。
だけど、それでも気になるのだから仕方ない。あの時、俺を頼ってくれた時に、もっと優しく接してやればよかった、などというちょっとした後悔の念を抱いているせいだ。ありもしない責任を勝手に感じてしまっている。
教えてもらった住所へ赴くと、写真で見て想像していたより十倍は立派な屋敷が建っていた。高い塀に、洋風の門。呼び鈴を鳴らすと門扉がひとりでに開く。門から玄関までのアプローチも長い。前庭を抜け、玄関チャイムを鳴らす前に扉が開いた。出迎えてくれたのはシンプルなメイド服を着た家政婦である。
「悠月さんの学校の先生でいらっしゃいますね」
「あ、ええ。今週ずっとお休みされているので、様子が気になって。渡したいものもあるので」
玄関ホールも広い。ここだけで生活できそうなくらい。
「悠月さんはまだ気分の優れないご様子です。風邪がうつるといけませんので、お渡しするものがあるのでしたら私がお預かりします」
「あ、えと……」
装飾のない白いエプロンに無地の黒いシャツという恰好が実によく似合う、無表情で感情の感じられない家政婦だ。
「会えませんか。その、直接話したいことが」
「旦那様に仰せ付かっていますので」
「そこを何とか」
俺がゴネていると、不意に二階から声が降ってきた。先生、と声変わりしてまもない若い声が言う。元気そうだった。
「悠月さん、起きてらしたのですか」
「はい。三田村さん、先生にお茶をお出しして。せっかく来てくださったんだから」
「……しかし旦那様が」
「一杯だけですよ。そうしたらすぐに帰りますよね、先生」
どうもこの家はおかしい。九条の様子がおかしい。俺に敬語を使うなんて。
広い応接間に通され、重厚感のあるソファに座るよう促された。九条も向かい合わせに腰掛ける。服装はパジャマで、上に一枚羽織っている。
「その茶封筒、おれにですよね。わざわざありがとうございます」
九条はにこりと笑ってそれを受け取った。なんだかもう全てが気持ち悪い。居心地が悪い。一刻も早く帰りたい。
「……あ、そうだ。進路希望の紙、金曜までなんだけど、書いたか?」
「書きましたが、明日は学校へ行くので自分で持っていきます」
そうか、と言って黙ってしまう。先週の金曜の話とか、どうしてああなってあの後どうしたのかとか、薬飲ましてやれなくてごめんだとか、そもそもなんで急に敬語なのかとか、本当はもっと色々話したいことがあったのに、何も話せなかった。そういう空気じゃなかった。家政婦の淹れた濃い紅茶を一杯だけ飲み、俺は白亜の邸宅を後にした。
*
家庭訪問の翌日、九条は通常通り学校へ来た。担任の教師には、心配と面倒をかけてすみませんでしたと謝られた。ちなみに文理選択は理系の予定、進路は大学進学で、できれば国公立に行きたいそうだ。
放課後、九条が国語科教員室にやってきた。七海先生はいらっしゃいますか、と俺を指名する。何事かと思い席を立つ。質問があるけどここじゃ何だから、と隣の空き教室へ連れていかれた。
「あの……九条くん?」
九条はドアの鍵を締めると、短い溜め息を吐いた。
「先生、おれ、その名前で呼ばれんの嫌いなんだ」
二人きりになった途端、いつもの生意気な調子に戻る。
「おれは九条悠月じゃない。成瀬悠月だ。わかったか、先生?」
「まぁ、何だっていいけどよ。成瀬ってのがお袋さんの旧姓なのか。お前、親父が嫌い?」
「別に。肩書だけは立派な父上だけど……」
ふっと遠い目をする。俺を見ているはずなのに、俺の中に何か別のものを見ているような目だ。
「そういや、お前ン家めちゃくちゃでかかったな。リアルなメイドさん見たのって人生で初めてだ」
「先生、なんで昨日うちに来たの」
「進路調査票回収したかっただけ」
「ほんとにそれだけ? だって、担任でもないのにさ。おれのこと、少しでも気になってたんじゃないの」
にやりと口角を上げ、窓辺に腰掛ける。窓は開いている。ここは二階だが、頭から落っこちたら事だ。危ないぞと諫めても九条は――いや、成瀬はやめない。
「おれのこと、気になってたんだろ。担任の山内先生がそう言ってたぜ。七海先生が自分から言い出したことだって。理由つけて見舞いに来てくれたんだろ」
決めつけるような口ぶりに、否定するのも面倒になる。
「ああそうだよ。一週間も風邪だなんてそりゃ気になるだろ。あの時のお前大分変だったし、そういえば薬も飲ませてあげなかったなぁとか思ったらやっぱり――」
自分から言い出したくせに、成瀬は頬を赤らめて俯く。初な反応にこちらも困る。
「先生……やっぱりチョロいな」
嬉しいのか恥ずかしいのか、よくわからない表情で成瀬は呟く。
「なぁ、そのチョロいってのいい加減やめろよ。せめて優しいって言え」
「優しい……?」
成瀬は本気でわからないというように首を傾げる。
「優しいのか? あんた」
「優しいだろ。お前みたいなクソ生意気なガキを気にかけてさ。まぁ教師だし当たり前なんだけど」
「優しい……ってんなら、」
成瀬はいいことを思いついたとでも言うように、いたずらっぽく目を細める。
「今夜も泊めてくれよ、先生」
「はぁ? 嫌だぜ、面倒くさい」
「なんでだよ、優しくねぇな。先週は泊めてくれたのに」
「あれは不可抗力だろ。仕方なくだ。あのまま放り出して死なれる方が厄介だったからだ。大体、無断外泊なんかしたら親御さんに叱られるぞ」
「じゃあ無断にしないから。ちゃんと家に連絡するから。それならいいだろ?」
縋り付くような目で言う。こいつは一体何をそんなに必死になっているんだと疑問だったが、親の許可が下りるならまぁいいかとも思い、結局のところ俺は首を縦に振った。
なぜだかこいつの頼みは断れない。そういう呪いにでも掛かっているみたいだった。
「九条くん、今週はまだ一度も登校してないんですよ。高校生にもなって風邪が長引くなんて、よっぽどですよ」
「はぁ。体、弱いんですかね」
「それに、進路希望の調査票、あれ今週まででしょう? 彼、まだ提出してなくて。私が取りに行ければいいんですけど、忙しくてなかなか……」
そういえば、この人は野球部の顧問だった。放課後は部活の指導で忙しいのだ。
「よければ、僕が代わりに行ってきましょうか」
思いもよらない台詞が口を衝いていた。担任教師はぽかんとしているが、結構その気のようである。
「いいんですか? 七海先生もお忙しいでしょうに」
「いいえ、暇ですから。ついでに他のプリント類も纏めて届けちゃいますね。僕も今日の授業でプリント配ったので」
俺ってばとんだお人好しだ。こんなことしても給料出ないし、昇進にだって関係ないのに。完全なる時間外労働。ほぼボランティアだ。
だけど、それでも気になるのだから仕方ない。あの時、俺を頼ってくれた時に、もっと優しく接してやればよかった、などというちょっとした後悔の念を抱いているせいだ。ありもしない責任を勝手に感じてしまっている。
教えてもらった住所へ赴くと、写真で見て想像していたより十倍は立派な屋敷が建っていた。高い塀に、洋風の門。呼び鈴を鳴らすと門扉がひとりでに開く。門から玄関までのアプローチも長い。前庭を抜け、玄関チャイムを鳴らす前に扉が開いた。出迎えてくれたのはシンプルなメイド服を着た家政婦である。
「悠月さんの学校の先生でいらっしゃいますね」
「あ、ええ。今週ずっとお休みされているので、様子が気になって。渡したいものもあるので」
玄関ホールも広い。ここだけで生活できそうなくらい。
「悠月さんはまだ気分の優れないご様子です。風邪がうつるといけませんので、お渡しするものがあるのでしたら私がお預かりします」
「あ、えと……」
装飾のない白いエプロンに無地の黒いシャツという恰好が実によく似合う、無表情で感情の感じられない家政婦だ。
「会えませんか。その、直接話したいことが」
「旦那様に仰せ付かっていますので」
「そこを何とか」
俺がゴネていると、不意に二階から声が降ってきた。先生、と声変わりしてまもない若い声が言う。元気そうだった。
「悠月さん、起きてらしたのですか」
「はい。三田村さん、先生にお茶をお出しして。せっかく来てくださったんだから」
「……しかし旦那様が」
「一杯だけですよ。そうしたらすぐに帰りますよね、先生」
どうもこの家はおかしい。九条の様子がおかしい。俺に敬語を使うなんて。
広い応接間に通され、重厚感のあるソファに座るよう促された。九条も向かい合わせに腰掛ける。服装はパジャマで、上に一枚羽織っている。
「その茶封筒、おれにですよね。わざわざありがとうございます」
九条はにこりと笑ってそれを受け取った。なんだかもう全てが気持ち悪い。居心地が悪い。一刻も早く帰りたい。
「……あ、そうだ。進路希望の紙、金曜までなんだけど、書いたか?」
「書きましたが、明日は学校へ行くので自分で持っていきます」
そうか、と言って黙ってしまう。先週の金曜の話とか、どうしてああなってあの後どうしたのかとか、薬飲ましてやれなくてごめんだとか、そもそもなんで急に敬語なのかとか、本当はもっと色々話したいことがあったのに、何も話せなかった。そういう空気じゃなかった。家政婦の淹れた濃い紅茶を一杯だけ飲み、俺は白亜の邸宅を後にした。
*
家庭訪問の翌日、九条は通常通り学校へ来た。担任の教師には、心配と面倒をかけてすみませんでしたと謝られた。ちなみに文理選択は理系の予定、進路は大学進学で、できれば国公立に行きたいそうだ。
放課後、九条が国語科教員室にやってきた。七海先生はいらっしゃいますか、と俺を指名する。何事かと思い席を立つ。質問があるけどここじゃ何だから、と隣の空き教室へ連れていかれた。
「あの……九条くん?」
九条はドアの鍵を締めると、短い溜め息を吐いた。
「先生、おれ、その名前で呼ばれんの嫌いなんだ」
二人きりになった途端、いつもの生意気な調子に戻る。
「おれは九条悠月じゃない。成瀬悠月だ。わかったか、先生?」
「まぁ、何だっていいけどよ。成瀬ってのがお袋さんの旧姓なのか。お前、親父が嫌い?」
「別に。肩書だけは立派な父上だけど……」
ふっと遠い目をする。俺を見ているはずなのに、俺の中に何か別のものを見ているような目だ。
「そういや、お前ン家めちゃくちゃでかかったな。リアルなメイドさん見たのって人生で初めてだ」
「先生、なんで昨日うちに来たの」
「進路調査票回収したかっただけ」
「ほんとにそれだけ? だって、担任でもないのにさ。おれのこと、少しでも気になってたんじゃないの」
にやりと口角を上げ、窓辺に腰掛ける。窓は開いている。ここは二階だが、頭から落っこちたら事だ。危ないぞと諫めても九条は――いや、成瀬はやめない。
「おれのこと、気になってたんだろ。担任の山内先生がそう言ってたぜ。七海先生が自分から言い出したことだって。理由つけて見舞いに来てくれたんだろ」
決めつけるような口ぶりに、否定するのも面倒になる。
「ああそうだよ。一週間も風邪だなんてそりゃ気になるだろ。あの時のお前大分変だったし、そういえば薬も飲ませてあげなかったなぁとか思ったらやっぱり――」
自分から言い出したくせに、成瀬は頬を赤らめて俯く。初な反応にこちらも困る。
「先生……やっぱりチョロいな」
嬉しいのか恥ずかしいのか、よくわからない表情で成瀬は呟く。
「なぁ、そのチョロいってのいい加減やめろよ。せめて優しいって言え」
「優しい……?」
成瀬は本気でわからないというように首を傾げる。
「優しいのか? あんた」
「優しいだろ。お前みたいなクソ生意気なガキを気にかけてさ。まぁ教師だし当たり前なんだけど」
「優しい……ってんなら、」
成瀬はいいことを思いついたとでも言うように、いたずらっぽく目を細める。
「今夜も泊めてくれよ、先生」
「はぁ? 嫌だぜ、面倒くさい」
「なんでだよ、優しくねぇな。先週は泊めてくれたのに」
「あれは不可抗力だろ。仕方なくだ。あのまま放り出して死なれる方が厄介だったからだ。大体、無断外泊なんかしたら親御さんに叱られるぞ」
「じゃあ無断にしないから。ちゃんと家に連絡するから。それならいいだろ?」
縋り付くような目で言う。こいつは一体何をそんなに必死になっているんだと疑問だったが、親の許可が下りるならまぁいいかとも思い、結局のところ俺は首を縦に振った。
なぜだかこいつの頼みは断れない。そういう呪いにでも掛かっているみたいだった。
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